『第2期ウルトラにおけるアンチテーゼ編考』
ウルトラシリーズにおいて、一般的には《怪獣や宇宙人は悪》という不文律が存在するかにいわれることがおおい。しかし『ウルトラマンタロウ』は、過 去のウルトラシリーズにくらべ、怪獣を殺さない回が非常に多く、37話『怪獣よ故郷に帰れ!』や49話『歌え!怪獣ビックマッチ』では、大人しい怪獣をい かに保護するか、というZATの苦悩をメインのドラマにしている。
『タロウ』では、他のウルトラマンが殺してしまうような怪獣でも、タロウは殺さずに宇宙に返すことが多かった。こういう『タロウ』の方向性は、それ自体が《怪獣は悪》というそれまでのウルトラの王道的な図式をくつがえしており、『タロウ』自体が異色のシリーズといえる。
『タロウ』49話には、「大人しい怪獣は人間と平和共存する権利がある」というZAT隊員のセリフもある。こういった展開は「人間以外の生物に対しては何をしてもよい」という人間中心主義を否定しており評価できる。
前述のようにウルトラシリーズに《怪獣や宇宙人は悪》という不文律が存在するかのようにいわれるのは、切通理作によるウルトラシリーズ研究本『怪獣 使いと少年』の影響があるのではないかと思われる。『怪獣使いと少年』がでて以来、この本におけるウルトラシリーズに対する解釈の影響をうけ、あたかもウ ルトラシリーズには「宇宙人はすべて悪」という不文律が存在し、そのうえでウルトラマンと侵略宇宙人との戦いを、人種差別になぞるように曲解する作品解釈 が一部のファンや業界関係者に定着した感がある。
しかし、こういう解釈というのは、実はウルトラマン自身が宇宙人であるという設定をわすれているうえで出来上がった解釈という気がしてならない。昭 和のウルトラマンというのは、主人公のウルトラマン自身が宇宙人である。なので、ウルトラマンと侵略宇宙人との戦いは、あくまで宇宙人同士の戦いなので あって、それを「宇宙人を差別している」と解釈するのは見当違いだといえないか。
つまり主人公であるウルトラマンが宇宙人という設定だからウルトラシリーズにおいて、実は「宇宙人はすべて人類の敵」という図式は当初から存在しないのである。
もし「宇宙人は悪」というのが子ども番組の不文律として存在する図式なのなら、ウルトラマンシリーズの主役は宇宙人のウルトラマンなのだから、ウルトラマンシリーズ自体が異色の子ども番組ということになるだろう。
ウルトラマンシリーズの場合、敵の侵略宇宙人は、身体能力や科学力が、圧倒的に地球人より優れているという設定である。彼らにとって地球人は弱者で
あり、侵略宇宙人による地球侵略は、弱者への迫害だということができる。そして、そういう弱者の地球人を救うために侵略宇宙人と戦うウルトラマンの戦いは
「弱きをたすけ強きをくじく」というべき行為なのである。だからこそ、視聴者はウルトラマンを英雄として認めてエールをおくるのである。
よって「侵略宇宙人が異端だから人類の敵としてえがかれている」のではない。実際、友好的な宇宙人をウルトラマンがたすけるという話もおおくつくられてい
るのである。『怪獣使いと少年』も、じつはウルトラマン(ないし変身前の郷秀樹)が宇宙人を差別するシーンはない。この話のウルトラマンは、あくまで差別
されている宇宙人を庇う側にまわっているため『怪獣使いと少年』自体が「友好的な宇宙人をウルトラマンがたすける話」なのである。
ウルトラマンの戦う相手が侵略宇宙人なのは、前述のように侵略宇宙人は能力、科学力が地球人よりすぐれていて地球人の手におえないため、おなじ宇宙 人であるウルトラマンでなくては太刀打ちできないからである。つまり敵が宇宙人であるがゆえに、パワーバランスをとるためにウルトラマンがたたかわなくて はならなくなるのである。
『帰ってきたウルトラマン』の『怪獣使いと少年』は、人種差別を批判した、人権派のテーマの作品と筆者は解釈している。事実、かつて朝日ソノラマの
『ファンタスティックコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン2』では、この話について「人間のエゴを徹底的にあばいた作品」と評して
いる。実際、主に少年をイジメるのは不良のグループであり、この回での少年や宇宙人を迫害する人間は、必ずしも善良な市民として描かれているわけではなかった。
しかし、前述の切通氏の研究本『怪獣使いと少年』が出てから、この話をニーチェ主義的なイデオロギー批判作品として解釈する見方がかなり浸透した感がある
(ここでいうイデオロギー批判というのは、ニーチェ主義的なイデオロギー批判なので、資本主義や個人主義といったブルジョアイデオロギーに該当するものが
除外されたうえで語られるイデオロギーである。)。
この切通氏の『怪獣使いと少年』への作品解釈にもみられるが、国内マスコミに登場する文化人は「人種差別は善悪という概念によっておこる」というよ
うなことをいう場合がおおい。しかし60年代アメリカで、黒人解放運動(公民権運動)をおこなった代表的な運動家であるキング牧師は、人種差別主義を「巨
悪」と演説でかたって批判している。
『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)によるとキング牧師は人種差別主義、極度の物質主義、軍国主義を「巨悪の三つ子」と呼んでい
た(177ページ)。切通氏の研究本『怪獣使いと少年』の影響をうけ、「人種差別は善と悪という概念によって起こる」などと思っている人もいるようだが、
実際に人種差別への抵抗をしていたキング牧師は人種差別を悪だといっている。
話はかわって、ウルトラシリーズには上記のようなウルトラマンの戦いを人種差別になぞる解釈とは別文脈で、ウルトラマンの戦いの意義を問い直した作品が何本か存在する。
『ウルトラマンティガ』が放映された直後、『ティガ』のそういった作品が一部出版物で注目をあびたが、実は第二期ウルトラシリーズには、『ティガ』に先駆けて、そういう話が何本も存在したのはあまり知られていない。
『ウルトラマンA』の26話『全滅!ウルトラ五兄弟』27話『奇蹟!ウルトラの父』(脚本,田口成光)の全後編は、そんな、ヒーローの戦いの意味を問い直し、《ヒーロー=正義》という図式にゆすぶりをかけるアンチテーゼ編の中の一つであった。
ある町に突如現われたヒッポリト星人は地球人にウルトラマンAの引き渡しと、降伏を要求、拒否すればこの町を破壊すると脅迫する。要求を拒否したTAC
とAは星人と交戦するが星人には歯がたたず、結果、町は星人に破壊されてしまう。町の住人たちは町が破壊されたのは、TACとウルトラマンAのせいだ、と
してTACとAを非難する。地球の平和を守ってきたウルトラマンAとTACが一つの町にとって平和を脅かす脅威になってしまう。自分たちが助かりたいから
とAの引き渡しを望み出す町の住人たちのエゴ、TACの掲げる地球を侵略から守るという大義名文によって一つの町の平和が壊されるという皮肉…この『A』
26,27話は『ザンボット3』を先取りしたともいえる展開で(最近では『メガレンジャー』の最終回でも見られた展開)、ウルトラマンとTACの戦いの意
味を問い直し、彼らの戦いの意義にゆす振りをかけるアンチテーゼ編である。この話はウルトラ兄弟の勢ぞろいや、人気キャラ、ウルトラの父の初登場もあり、
派手なバトル(=派手な特撮)と重いドラマが同時に楽しめる快作だった。
ヒッポリト星人は、自分を「宇宙で一番強い生き物」とよんで、その力を誇示するためにウルトラ兄弟と地球を狙う。こういう星人の強さへの執着は、哲
学者ニーチェのいう「権力意志」に通じるだろう。ニーチェの「権力意志」はヒトラーに影響をあたえ、ナチズムのもとになったといわれる。ヒッポリト星人の
侵略の動機は、一見単純にみえて、こういった哲学的な意味合いをみいだせるのである。
蛇足だが『男の狂暴性はどこからきたか』(三田出版会)という本では、人間が戦争をする原因を自然科学的な方向から分析しており、その原因を「トップの座を占めるのはつねに価値あることだという理屈ぬきの感情(自尊心)」であるとしている(259ページ)。
また、『ウルトラマンレオ』の50話『レオの命よ!キングの奇蹟!』(脚本,石堂淑朗)と、この回の事実上の後編にあたり、最終回でもある51話『さようならレオ!太陽への出発』(脚本,田口成光)もこの類の話では白盾であろう。
宇宙怪獣(円盤生物)に地球が襲われるのはレオが地球にいるからで、レオが居ないほうが地球は平和なのではないか、と言い出す人間が現われる。それを聞
いてレオは苦悩し、ついには変身能力を捨てて人々の前から姿を消す…。この話も、平和を守るためのヒーローの戦いが、その戦いそのものこそ平和と相反す
る、と指摘し、ヒーローの存在意義にゆす振りをかけるアンチテーゼ編だ。
『ウルトラマンティガ』における、この類の話としては3話『悪魔の予言』(脚本,小中千昭)がある。が、キリエル人が劇中でティガの存在意義を否定 するようなことをいっても、ティガ自身はそれで悩むことはなく、またラストではイルマ隊長がティガを認めるセリフをいうことでウルトラマン賛美のドラマに 終わっている。これに比べると、『レオ』の方はウルトラマン自身がウルトラマンの存在意義を否定してしまうのだから、もっとシビアなドラマであるといえる (『ティガ』の場合、キリエル人の言い分にも『レオ』と比べてイマイチ説得力が無いような…ティガより先に地球に居たからキリエル人の方に地球を守る権利 がある、というのがキリエル人の言い分だが、なぜ早いもの勝ちでなきゃいかんの?という疑問が残る)。
しかも『ウルトラマンレオ』の場合この話が最終回となっている点がすごい。『セブン』の最終回が、いわゆる浪速節的な別離のドラマに終始しているのに対して、『レオ』の方は異色の最終回であり、また、哲学的な深みをも感じさせるのだ。ウルトラセブンの最終回はダンが戦えないのに何故かカプセル怪獣を使わない(劇中で存在がないかのように全く語られない)のもおかしい。カプセル怪獣の設定を忘れて作られた話のようである。
(この『レオ』の最終回を、単にゲンとトオルの別離の話だとおもっている人は、おそらく最終回のゲンのセリフ「この地球にレオがいなければ…そのほ
うがいいのかもしれない」とか「(百子とカオルの遺影を眺め)もうこれ以上愛する人たちを犠牲にしてはいけないのだ」などの重要なセリフを見落としてい
る。)
『ティガ』の『うたかたの…』(脚本,川崎郷太)において、人間は善良な生き物ではないのに、ウルトラマンはなぜ人間の味方をするのか?という問題提起
が行われ、ウルトラシリーズが抱えていた根本的な矛盾点に初めて肉迫したといわれマニアの間で話題になったが、この問題提起も実は『ティガ』以前、それも
第2期ウルトラにおいて存在するのである…。
『ウルトラマンタロウ』の46話『白い兎は悪い奴!』(脚本,石堂淑朗)がそれである。ある日宇宙から飛来した宇宙人ピッコロは、地球人が罪もない兎を
殺したのを目撃した。ピッコロは地球人は悪い生き物だとして地球人を滅ぼそうと巨大化して大暴れ。タロウはピッコロと戦うが、ピッコロはタロウに対し、地
球人は悪い生き物なのになぜ地球人を守るのか、と詰問する。タロウは「地球人の中には悪い人もいればいい人もいる。多くの地球人は美しい心を持っている。
悪人は美しい心の人を引き立たせる為にいる」と答える…。
ウルトラマンはなぜ人間の味方をするのかという問いに対し、『ティガ』の場合はウルトラマンは人間が好きだから、というのが答えであり、これが一
部のマニアから感情論だとして批判された(このティガの場合においての「人間がすき」というのは、人類愛ではなく、他の生物より人間だけ依怙贔屓するこ
と、あるいは特定の好きな人だけを依怙贔屓することを意味する)。
『タロウ』の場合「地球人の中にはいい人もいるから地球人を守る」という答えであり、感情論ではないという点においては、『ティガ』の場合よりは説得力が
あるのではないかと個人的に思う。また、この『白い兎は悪い奴!』はウルトラマンの戦う意義だけでなく、人類の存在異義を問い直した作品でもあった。
またこの回は、殺された兎の飼い主の少年が兎が殺された事で、ピッコロ同様人間を恨み、この少年が、ピッコロが町を破壊することを喜び、タロウよ
りピッコロの方を応援してしまうという描写もあり『ウルトラマンダイナ』の異色作『怪獣ゲーム』(脚本,吉田伸)をも、先取りしていた回だった。この回は
他に、先日(98年4月)他界した怪優・大泉晃氏がゲストなのも見所。さらなる見所は、矢島信男特撮監督のウルトラシリーズ初参加の回でもあり、矢島氏お
得意のローアングル大破壊特撮もたっぷり堪能できる点(『ティガ』と『ダイナ』の怪獣はあんまりビルを壊しませんなあ…『初代マン』、『セブン』の怪獣も
あまりビルを壊してないんだけどね、ホントは)。
この回の監督は筧正典氏。氏も山際永三氏と並んで、この時期のウルトラの本編の映像面のイメージメーカーと言えるだろう。
筧正典氏は、日本映画監督協会専務理事、日本著作権協議会副理事長でもあり、1964年にサンパウロ映画祭外国語部門金賞を受賞、平成元年には勲 四等瑞宝章を受賞している。氏はウルトラ参加以前は、東宝の『社長シリーズ』『サラリーマンシリーズ』などの劇場映画の作品を多く監督。近年惜しくも他界 された。
『タロウ』の作品世界は民話的、
寓話的な作品世界であり、これは円谷プロ側のプロデューサーとして第2期ウルトラの制作に参加した熊谷健氏が民話の研究家だったことに起因している。この
『タロウ』のピッコロの回は、戦うことの意義を問いただすという重いテーマを、『タロウ』の作品世界らしい切り口で描き、寓話的な余韻を残す好編だった。
ピッコロのデザインがピノキオに似せてあるのは、悪い人間たちに何度も騙されて利用されそうになるピノキオと、悪い人間たちを憎むピッコロとをダブらせて
いるのだろう。前述のTBSプロデューサーの橋本氏は『コメットさん(旧)』も担当していたが、この作品もファンタジーでありながら、時折シビアーな人間
風刺をおこなう寓話的な作品がみられた。その橋本氏が参加していることから、ある意味『タロウ』は『コメットさん(旧)』の流れを汲んでいる作品であると
もいえる(実際『タロウ』のメイン監督だった山際永三氏は『コメットさん(旧)』のメイン監督でもあった)。
さて、ここで国語の勉強。寓話とは、いかなる物語のことを指す言葉だろうか。「動物の間の出来事などにたとえをとって、処世的な教訓を読み手、聞き手に
伝えることを目的とした話」というのが答え(三省堂・新明解国語辞典より)。また、処世という言葉の意味も「世間の人とうまくつきあいながら、生活してゆ
くこと。」(出典、前同)なので、“人間関係への教訓が込められたおとぎ話し”というのが寓話である。その意味では、前述の熊谷氏の意向で民話的=おとぎ
話し的なカラーをもち、さらに橋本氏の意向で人間風刺=“人間関係への教訓”がほぼ毎回のエピソードに与えられた『タロウ』は、まさにシリーズそのものが
寓話だったといえる。
また、『タロウ』は寓話的な作品世界であるとともに、メカ、怪獣のデザインはサイケ、BGMは現代音楽的な不協和音が多用されたりと、今見返すと実に70年代テイストあふれる作品でもある。
第2期ウルトラの第1話で筆者が最も気に入っているのは『ウルトラマンレオ』の第1話『セブンが死ぬ時!東京は沈没する』(脚本,田口成光)だ。 この回は、映像面では監督の真船禎氏の演出がすばらしいが、脚本面でも、アンチテーゼ的な問題提起を行っている点に注目したい。地球でセブン=モロボシダ ンと出会った宇宙人レオ=おおとりゲンは地球を守るために戦う決心を固め、ダンが隊長を務めるMACに入隊する。そしてパトロール中、海中に隠れていた凶 悪怪獣を宇宙人としての超能力で見つける。その怪獣はレオの故郷を滅ぼした仇だった。しかしレーダーには反応しなかったので、他の隊員には取り合ってもら えない。怪獣は東京を襲おうと狙っているようだった。ゲンは東京を救うため、ダンに凶悪怪獣を攻撃するように頼むが、却下されてしまう。ダンはゲンにい う。人間の社会では人間のやり方に従わなくてはいけない。人間のやり方ではレーダーには反応しなければ怪獣は存在しないこととなる。自分たちは確かに宇宙 人だが、人間としてこの地球に暮らしていることを忘れてはいけないと…。
怪獣を倒すため、即ち人間社会の平和を守るために使ったゲンの超能力が、かえって人間の社会のやり方=人間社会の秩序を乱してしまうというのは皮 肉である。『ティガ』の『拝啓ウルトラマン様』も、ウルトラマンの超能力が社会の秩序を乱す、というこれと同様の問題提起を行っているのが興味深い。もっ とも『レオ』の場合は変身前に超能力を使う事なのに対し、『ティガ』の場合は変身後の超能力についての問題提起ではあるが。また、『レオ』の場合は、東京 を救うためというのは建て前で、内心は故郷を滅ぼした凶悪怪獣に対する復讐心しかないというゲンの心理を、この皮肉な状況にリンクさせている点が巧い。 『レオ』のビデオソフトには、巻末にウルトラシリーズに関わったスタッフのインタビューが収録されているが、その中で飯島敏宏氏(『初代マン』のメイン監 督)の物があり、飯島氏は『レオ』の第1話を見たことがあるそうで、その感想を「話が重たいな…子供には複雑で分からなかったんじゃないかな、と思いまし たね。」と語っている。
またも話がそれるが、筆者が以前から気になっていることがある。『ウルトラセブン』の第7話『宇宙囚人303』(脚本,金城哲夫)においてダンがキュラソ星人を葬った時の「(前略)宇宙でも、この地球でも、正義は一つなのだ!」というダンの台詞である。
国内のマスコミに露出する一部の知識人、言論人たちの影響により、日本国内では「正義」という言葉を多元主義の否定とみなし否定する人も多い。し かし倫理学者ロールズの哲学などを知ると、本来は多元主義を認めることこそ「正義」なのだが。フランス構造主義の代表的な学者のジャック・デリダも、著書 『法の力』によれば「脱構築は正義である」と宣言しており、法哲学のうえでは多元主義を認める立場こそ正義であるということになるが、なぜが近年の日本国 内のマスコミでは「正義」という言葉を多元主義を否定する意味の言葉として象徴的につかわれることがおおく不思議である。
だが、ここでは、あえてディベート的に考えてみよう。「正義」を多元主義の否定とみなすという近年の日本マスコミのような観点からみれば、このダンのセリフはもっと批判されてしかるべきセリフである。
「〜宇宙でも、この地球でも、正義は一つなのだ!」というセリフはこのエピソードのテーマ(教訓)であることは明白だが、そういう観点からみれば、このダンのセリフは多元主義の否定ととれるセリフであり、独善的なセリフだということがいえないか。
それに比べると前述の『レオ』の第1話のダンの台詞は、異文化への配慮を台詞にしたもので、この『セブン』の第7話の台詞よりも多元主義的な台詞であるといえる。
「ベトナム戦争は、アメリカが他の民族の文化へ干渉し、アメリカが多元主義を否定した為に起こった惨劇だった」と90年代の国内マスコミではいわれ
ることが多かった。実際はベトナムの天然資源をめあてに進出を計画しているアメリカ企業や軍産複合体の利益追求のためという見方が、アメリカ本国では一般
的なようで、これへの反発からドラッグ文化、ヒッピー文化などのカウンターカルチャーは共産主義の革命運動になった。
ベトナム戦争は違うにせよ、そういう異文化の衝突というのは歴史上においてあるにはある。前述の『レオ』の第1話のダンの台詞はこういった問題をクリヤーしているので筆者には納得できる。(同一人物がまるで正反対の事をいっているのがスゴイけど…ダンも成長したのか)。
他の民族にとって非合理に見える思想が、その民族にとっての文化で、それに他の民族は干渉できない、というテーマは、『レオ』では他に19話『よみがえる半魚人』(脚本,田口成光)でも描かれている。ただし前述の1話と違い、宇宙人の超能力に対する問題提起ではないが。
60年安保の闘士で、反体制資質の異彩作家、佐々木守氏が作家になる前からの親友だったというTBSプロデューサー橋本洋二氏が第2期ウルトラの
中心スタッフだっただけに、第2期ウルトラに集まった脚本家は橋本氏および佐々木氏と思想的に共鳴していたようである。橋本氏が過去の自身の担当作品につ
いて商業誌のインタビューで語る際、時折話に出るのが60年安保における全学連の敗北である。橋本氏のシナリオ審査は厳しかったが、その審査で橋本氏がこ
だわったのは、シナリオにテーマを持たせる事だった。橋本氏がテーマにこだわった理由は、全学連を組織した人間たちにはっきりしたテーマが無かった、とい
う安保闘争の反省があったという。
本来子供向けのウルトラシリーズを、いい歳して見ていたりすると、批判されることもある(汗)。しかし、
ミヒャエル・エンデや宮沢謙治の作品は童話でありながら、大人でも読者がいるが、こういうように、大人が児童文学を楽しむという感覚で、ウルトラシリーズ
を楽しむというスタンスはどうだろうか。が、自分が思うのは、作品に大事なのは、その作品が大人っぽいかどうかではなく、作家性を有しているかどうかだ、
ということだと思う。作家性の有無とは(厳密な定義はないが)その作家の個性が作品に存在しているかどうかという事である。
例を挙げると、初代『ウルトラマン』のガヴァドンの回や『ウルトラQ』のカネゴンの回が、チャイルディッシュな作品なのにウルトラシリーズを代表する傑作として話題にのぼる。
『ウルトラセブン』の場合も、そもそもが子供番組ではあるが、その中でも『セブン』のボーグ星人やブラコ星人の回は比較的大人っぽい雰囲気の作品で
ある。なのに、これらの作品が傑作として話題にのぼる事はない。それはガヴァドンやカネゴンの回には作家性があり、ボーグ星人やブラコ星人の回は、作家性
がないからである(ボーグ星人やブラコ星人の回は、ただ敵宇宙人と人間との戦いの駆け引きを描いただけの作品である)。また、ディズニーのアニメ映画が
チャイルディッシュなのに、大人でも楽しめると言われるのも、ディズニーの作品には作家性があるからなのではなだろうか。宮沢賢治やエンデの童話が、童話
でありながら大人の心を引きつけるのも、作品のもつ作家性によるものと思う。
橋本洋二氏の制作方針のように、作品にテーマをもうける事は、作品に作家性を持たせる一つの方法である。いわば橋本氏は、ジャンク・カルチャーとして括
られてしまいがちな子供向けのテレビドラマを、作家の「主体」や「内面」を表現する手段として捉え、モダン化、近代化を促し、より高次なものへ引き上げた
制作者の一人だったといえる。もっとも、これは一つの方法であって、作家性を持たせる為には必ずテーマをもうけなくてはいけないというわけではないとも思
うが(カネゴンの回はともかく、ガヴァドンの回に何かテーマらしきものがあるかといえば疑問である)。しかし、テーマをもうけることは、作品に作家性を持
たせる方法の中で一番手っ取り早く、合理的であると筆者は思う。
ウルトラシリーズは『ウルトラQ』から始まるが、『ウルトラQ』はもともと『ミステリーゾーン』(『トワイライトゾーン』)を意識し、これの日本
版を狙った作品であることは誰が見ても明らかである(石坂浩二によるOPナレーションは『ミステリーゾーン』のそれと類似している)。そしてこの『ミステ
リーゾーン』自体がファンタジーとホラーとSFの3種のストーリーが混在し、どちらかといえば『ミステリーゾーン』の場合、ファンタジーとホラーが主流で
すらあった。
『ウルトラQ』はこの影響を受け、中川晴之介監督作品に代表されるファンタジーや、『くも男爵』『悪魔っ子』といったホラーのエピソードが混在し、これは
そのまま次回作の初代『ウルトラマン』に引き継がれる。前述のガヴァドン編に代表される実相寺作品はファンタジーだし、ヒドラやウーの話は怪獣の出現理由
がほとんど幽霊と同じなのでSFとは言い難い)。そしてここで挙げたSFとは言い難いエピソードに、ウルトラシリーズの中で代表的な作品がいくつもあるの
である。『セブン』はある程度SFに題材を絞っているが(そうは言ってもシャドウマンの話のように厳密にはSFとはいえない話も少なくない…死者の霊を侵
略者が電波で操るってSF?オカルト?)。
また、『ウルトラQ』、『初代マン』には飯島敏宏作品を中心にSFであってもドタバタ調のギャグの作品も多い。中川作品や実相寺作品はファンタジーであ
る上ギャグの作品であったりもする。ウルトラシリーズは何といっても『ウルトラQ』が原点だし、『初代ウルトラマン』はシリーズ最高視聴率の記録を保持し
ている。これらのことからウルトラがシリアスSFでなければならない理由は無いどころか、むしろファンタジーやギャグはウルトラの原点とすらいえなくもな
いのだ(蛇足だが『ウルトラQ』には『燃えろ栄光』(脚本,飯島敏宏)のようなスポコン的な話も、すでに存在しているのが興味深い)。このように通常のウ
ルトラシリーズはファンタジー、ホラー、SFの3種類の作品が混在するが、『ウルトラマンタロウ』は題材をファンタジーに絞ったウルトラだといえるだろ
う。
初代『ウルトラマン』の2話『侵略者を撃て!』は、冒頭でイデ隊員が画面の視聴者にむかって「〜なぜこうなったのか、君だけに話してあげよう。友達 には内緒だぜ」と話しかけるシーンがある。これは二人称が「あなた」ではなく「君」であることから、明らかに子供の視聴者に向けたシーンである。このシー ンは初代『ウルトラマン』の対象年令が子供であることを明確にものがたっている。『ウルトラセブン』にも子供のゲストが出る回は多々あり、名作といわれる 41話『ノンマルトの使者』も子供がゲストの話である。このように、ウルトラシリーズは、初代『ウルトラマン』から、あくまで子供番組として作られていた のである。
『ウルトラマンレオ』は、ダンとゲンが宇宙人と地球人の立場の違いに苦しむというドラマが幾度と無く描かれていることにも注目したい。前述の第1
話がそうだし、第3話『涙よさよなら…』(脚本,田口成光)においても描かれている。凶悪なツルク星人が町で大暴れ。星人とMACが交戦中、ダンは宇宙人
なのでMACが負けることが分かってしまう。ダンはMACを退却させるが、すると市民から「MACは卑怯者だ」と批判される。宇宙人としてMACが星人に
かなわないと知りながら、MACの隊長(地球人)としてはMACを戦わせなくてはいけない事にダンは苦悩する。このダンの苦悩のドラマは、星人に撃墜され
たMACの戦闘機で脱出に失敗(!)した隊員が墜落寸前にコクピットの中で悲鳴をあげているという壮絶なシーンで頂点に達する。
また第7話『美しい男の意地』(脚本,阿井文瓶)でも宇宙人と地球人の立場の違いに苦しむドラマが描かれる。少女が積んで、死んだ父の写真に供えた花
は、成長すると凶悪怪獣に成長する宇宙植物だった。ゲンは宇宙人としての超能力でそれを見破るが、少女の心を傷つけたくないゲンは花を処理することは出来
なかった。それを知ったダンはいう。「毒があるのは(花ではなく)我々の方かも知れん。地球の人間がただ単純に美しいと見る草花も、我々が見ればその正体
が見えてしまう…。」この台詞にはダンの宇宙人としての悲しみが描かれている。この話はこの後、感傷にひたらず花を処理しろと命ずるダンと、それを拒むゲ
ンが対立するという展開になる。少女の心を傷つけてはいけない、という価値観と、凶悪怪獣を成長する前に倒す、という価値観のどちらが正しいのか…。正義
を守る為には何をするべきかと、事件の対処方法をめぐってダンとゲンが対立するという、この第7話のような展開は(ダン降板前の)『レオ』のストーリーの
基本パターン。『レオ』では、いわば“正義とは何か”を問いただすストーリーが、シリーズの中で頻繁に行われていたといえる。このように、レオは勧善懲悪
の枠から外れた異色のヒーロードラマだったのである。
ダンの、宇宙人と地球人の立場の相違による苦悩は、39話『レオ兄弟ウルトラ兄弟勝利の時』(脚本,田口成光)にて頂点に達する。凶悪宇宙人、バ
バルウ星人によってウルトラの星は軌道が狂わされ、地球に衝突するコースを進み始める。ウルトラ兄弟の力をもってしても軌道の修正は出来なかった。MAC
の上層部は、ついにウルトラの星の爆破を決定する。当然その作戦の指揮は隊長であるダンがとらねばならない。地球人は命の恩人に弓を引くのか!とダンは反
発するが、ダン個人の意見では上層部の決定を覆えすことは出来ない。苦悩の末ダンはウルトラの星の爆破を決心してしまう。そのことをゲンに責められたダン
はこう答える「私はもはやセブンではない」と…。この話では地球人の社会のしがらみに宇宙人であるダンが負けてしまい、本来の自分である「宇宙人としての
自分」をダンが否定し、さらに自分の故郷を自ら滅ぼさなくてはならない、という極限状態に追い込まれる様が描かれる。
この話の冒頭でダンはウルトラマンキングに「自分にとって地球は第2の故郷だ」と告げる。が、その「地球人の味方」というダンにとって「正しい」と信じ
ていた価値観に、ダン自身が圧迫され始める。地球を守る為にウルトラの星を滅ぼすことが「正しい」はずがないのだから。そういう意味においてはこの回はア
ンチテーゼ編でもある。ウルトラの星の爆破を決定する地球人の非情さも『ザンボット3』的である。
これらの話を挟んで、前述の最終回を迎えるのだから、『ウルトラマンレオ』という作品は『シルバー仮面』、『アイアンキング』の流れをくむアンチ ヒーローシリーズとして結実したといえる(『シルバー仮面』、『アイアンキング』も橋本氏のプロデュース作品である)。『アイアンキング』はSF版の『隠 密剣士』を狙ったものである(企画書より)が、それに対して、『レオ』はSF版のカンフーものを狙ったものだろう。だが、『アイアンキング』が敵キャラを テロリストにしたりと(もっとも設定だけでドラマの内容には生かされなかったが…この点については、全話の脚本を担当した佐々木守氏も、あえて生かさな かったと語っている。)単なる『隠密剣士』のアレンジに終わらなかったのと同じく『レオ』も、単なるカンフーもののアレンジに終わらない骨太のドラマ性を 持っていた。『レオ』の特訓シーンの過激さは有名だが、これもヒーローの戦いの過酷さを表現しているといえ、戦いを、安易に理想化していないという点で評 価できる。反面、ヒーローの戦いの現実(虚構ではあるが)を見せつけられた幼少の視聴者は怖がってしまい、視聴率の低迷の原因となったが。
『レオ』のビデオソフトの巻末に収録されていたインタビューに、現、木下プロ会長(!)の飯島敏宏氏のものがあり、氏はレオを見ていたそうで、 『レオ』のやや弱いという設定が、ヒーローの暴力性を緩和している(大意)と評価していたが、この意見には筆者も同意したい。『仮面ライダークウガ』の終 盤のテーマもそういったテーマだそうで、クウガが進化し、強くなりすぎると、アルティメットフォームという、悪の戦士になってしまうという展開を通して、 ヒーローの暴力性を否定するという展開だという。ヒーローの強さも「程度の問題」だといえ、強すぎるヒーローの戦いは、悪しき暴力となってしまうのではな いだろうか。
第2期ウルトラでの、戦いの意味を問いただす話として、最後に、『タロウ』の中から1本紹介しよう。以外と思われるかも知れないが26話『僕にも
怪獣は退治できる!』(脚本,阿井文瓶)がそれだ。健一(レギュラーの小学生)が友達と二人で縁日に行き、その帰り、数人の中学生が一人の小学生をいじめ
ているのを目撃。始めは見て見ぬふりをしようとした二人だったが、誰かが落としていったウルトラマンタロウのお面を見るや、健一は奮起し、中学生に立ち向
かっていく。やがて健一は返り討ちあうが、健一の友達は健一を助けようとしなかった。健一の友達の父(江戸屋猫八)はこのことを知って息子を注意すると息
子は「お父さんは僕にケンカをしろというのかい!そんなこと教えていいのかい、先生にしかられるぞ!」とケンカ(戦い)自体が悪いことではないかと食い下
がる。そして健一にも「ウルトラマンタロウを気取ってあんなことするから痛いめにあうんだ。だいたい怪獣とケンカばかりしているタロウなんて大嫌いだ」と
タロウを批判する。ウルトラマンタロウのお面を見て健一が奮起し、健一がタロウを気取ってケンカをしたことから、いじめっこと健一のケンカは、怪獣とウル
トラマンタロウの戦いとリンクされているのが分かる。戦い(ケンカ)自体が悪いことだからタロウの戦いも悪いことでは?という問題提起をし、戦いの意味に
ゆす振りをかけている。
また、この話はこのあと、健一の友達の父が、神社で暴れる怪獣ムカデンダーから人々を逃がすために囮になり、負傷するという展開になる。負傷した父親に
息子は同情もせず「人の役に立ったって、自分が損するんじゃしょうがないじゃないか!」と冷たく言い放つ。このシーンも怪獣と戦って人の役に立つ、という
ウルトラマンの使命、ひいては自己犠牲的な善意に対する疑問付であるといえる。このあと話はタロウとムカデンダーの戦いを通してこの少年が改心する、とい
う展開になり、冒頭のいじめっこが再びいじめを行っているところへ少年がいじめっこに立ち向かっていくエピローグとなっている。この回は、戦いの意味を問
いただす話であると共に、いじめ批判も行っているのだが、いじめを見て見ぬふりをする側の言い分も(ヒーロー批判とダブらせながら)克明に描写しているの
で、偽善的ないじめ批判になっていない。この辺のある種のリアリズムは興味深い。
第2期ウルトラでの《ヒーロー=正義》という図式を覆えすアンチテーゼ編についていろいろ述べてきたが、つぎは第2期ウルトラの《地球人=正義》 という図式を覆えすアンチテーゼ編について、筆者が気になっている物(というか、たまたま今思いついているもの)について述べて見たいと思う。
第2期ウルトラには人間批判を行った作品が多数あり、その中には『新マン』の31話『悪魔と天使の間に』(脚本,市川森一)に代表される“親バカ もの”路線がある。家族への愛情がエゴイズムになってしまうというストーリーで、この作品以降、第2期ウルトラの一つのストーリーパターンとして定着した 感もある。『タロウ』のバードン3部作(17〜19話、脚本,田口成光)や『レオ』の44話『地獄から来た流れ星』(脚本,田口成光)などがそうだが、特 に『タロウ』のバードン3部作は出色。前述の『新マン』の31話の場合は、ラストに隊長がセリフでベタッと台詞でテーマを説明しているのに対し、『タロ ウ』のバードン編のラストは、芝居の段取り(シナリオ的にはト書き)でテーマ(怪獣のせいで失明した子供の母親がZATをいびりまくったのも愛情の裏返 し)をそれとなく分からせるという手法で描いていて、筆者は感動してしまった。人間のネガティブな家族愛とウルトラファミリーのポジティブな家族愛を対比 させているのもウルトラファミリーの設定を生かしていてよい。
『レオ』42話『悪魔の惑星から円盤生物が来た!』(脚本,阿井文瓶)では小動物への愛情のネガティブな面を引きだしている。怪我をしている小動 物を治療し、飼育している少年、秀行は動物には愛情をそそぐ反面、他人とのコミュニケーションを嫌う自閉的な性格だった。その秀行はある日、小型化した凶 悪な怪獣アブソーバを見つけ、飼育し始める。アブソーバが巨大化したら町は破壊されてしまう。秀行がアブソーバを飼っていることを知ったレオ=ゲンは秀行 を説得するが、秀行はゲンを憎悪し始める。この話は動物愛護という善意が悪の怪獣を育んでしまうというアイロニーである。またこの話のように屈折した性格 の子供がよく登場するのも第2期ウルトラの特色。第1期ウルトラに登場する子供は、元気でワンパクな良い子ばかりだが、第2期では子供の心の歪みや悪意を も描いている。『ウルトラマンA』の3話『燃えろ!超獣地獄』(脚本,田口成光)に「子供の心が純粋だと思っているのは地球人だけだ」という台詞があるの にも注目したい。
また『レオ』の25話『かぶと虫は宇宙の侵略者』(脚本,若槻文三)では、病弱な自分の体と、環境汚染が進む地球とをダブらせノイローゼーに陥る少 年も登場する。この回は、そのノイローゼーの少年が見る夢を話の軸にしながら、明確に連続するストーリーの無い、公害や核実験など環境汚染に関するさまざ まななイメージが割り込むという迷路のように難解な不条理劇。この回も子供の心の歪みを描いた第2期らしいエピソードといえ、同時に70年代らしく公害批 判も行っている。
70年代…といえば、第2期ウルトラの制作中の70年代は働きすぎの日本人を皮肉ったエコノミック・アニマルという言葉が流行った(そうだ)が (笑)、エコノミック・アニマルをテーマにした人間風刺の作品も第2期ウルトラにいくつか存在する。『新マン』の48話『地球頂きます!』(脚本,小山内 美江子)がその一つだが、これは比較的有名なのであえて素通りし(笑)、ここで取り上げるのは『タロウ』25話『燃えろ!ウルトラ六兄弟』(脚本,田口成 光)だ。怪獣ムルロアの吐いた黒煙によって地球は太陽の光が遮られ、暗闇に閉ざされる。怪獣は光を嫌い、光のある所が襲われる為、ZATは電灯を灯さない よう市民に指示を出す。都市の機能は完全に麻痺してしまった。しかし、その中にはこんな非常事態にも関わらず、お金儲けに夢中の人間達の姿があった。怪獣 の襲撃の影響で水道の止まった町の住人に水を売りつける業者。ZATの指示を無視して電灯を灯して操業を始める工場。工場の作業員曰く「アニマルだよ!ア ニマルになって働かなくちゃ日本は駄目になっちゃうんだ!」。この後この作業員は、怪獣の吐く溶解液で殺されるのだった…。この話はこのドラマと平行して ウルトラの国の初公開やウルトラ六兄弟の大集合も行われ、人間ドラマとビジュアル的な見せ場が同時に楽しめる。
24〜25話に登場した怪獣ムルロアは、核爆弾(トロン爆弾)の宇宙実験によって突然変異を起こしたという設定である(25話の上野隊員のセリフによる)。この設定からムルロアは初代ゴジラのような、核実験による人間の業の権化としての意味づけを持っている。
初代ゴジラが核実験の権化であるが故に徹底した悪役ぶりをみせるのと同じく、このムルロアも核実験の権化であるが故に人間にとって脅威をもたらす 悪役として描かれる。平成のゴジラシリーズの『ゴジラVSデストロイア』に登場する敵怪獣デストロイアも、科学的な実験の失敗によって出現した悪魔型の怪 獣という設定であり、ムルロアと共通するものがある(くしくも、本編の美術が『タロウ』同様に鈴木儀雄であり、『ゴジラVSデストロイア』のGフォースの セットは『タロウ』のZAT基地を彷佛とさせるものだった。)
しかも、ムルロアというネーミングや、劇中で核爆弾の宇宙実験を行った国がヨーロッパの某国といわれていたりすることから、この設定は暗にフランスの核実験を皮肉ったものであるようだ。
長崎新聞ホームページ『ナガサキ・ピース・サイト』の2001年11月6日の記事『 2001長崎の論点・アフガン攻撃の陰で進行する核危機 』によれば核武装は軍需産業の利益追求によっておこるという。この記事によると、土山秀夫元長崎大学長は、ブッシュ政権は2001年1月の発足以降、核軍拡する動きをみせている背景には「大統領と核兵器の開発、製造を行う軍需産業との強い結び付きがある」ためと指摘する。
核武装の背景には軍需産業の利益追求があるということになれば、「核実験によって誕生した」という怪獣ムルロアの設定は、水道の止まった町の住人に 水を売りつける業者や、ZATの指示を無視して電灯を灯して操業を始める工場というシチュエーションと「金儲けに夢中の人間たち」という部分で関連をもつ といえる。このように『タロウ』のムルロアの回は資本主義批判というべき、かなり今日的なテーマをあつかった作品だったといえるだろう。
ちなみにムルロアは、もともと凶暴な生物を核実験によって人間が呼び寄せてしまったというニュアンスでえがかれ、制作者側の意図としてはムルロアが 地球を破壊するシーン自体で核軍拡の批判をおこなっているのだろう。『タロウ』ではエンマーゴも同様に「凶暴な怪獣を人間が宅地開発で目覚めさせてしまっ た」という設定であった。また東映の『高速戦隊ターボレンジャー』に登場する暴魔百族という怪人たちも「もともと凶暴な怪人の眠りを人間が公害でさまして しまった」という同様な設定である。
DVD『ウルトラマンタロウ』6巻のライナーによると、ムルロア星は火星と木星の間の小惑星群のなかの惑星という設定であり、地球に近い小惑星であ る(ムルロア星の距離をしめす劇中のナレーションも、この設定にに準じたものである)。なのでムルロアは地球に復讐に来たのではなく『新マン』のテロチル スや初代ゴジラと同様に、新たな住処をもとめて、たまたま近くの惑星の地球にきたというのが本来の解釈ではないだろうか。
ムルロアは、復讐のために地球にきたのならば日本にこないで、トロン爆弾の実験をおこなったヨーロッパの某国にいったほうがいいということになる。 復讐のために地球に来たとされるギエロン星獣は、超兵器R1号を撃ったのが日本のウルトラ警備隊の基地っだったので、日本に来たと考えられる。しかしムル ロアの場合は、なぜ自分の星が破壊されたのかムルロア自身がよくわからないので、新たな住処をもとめて地球に来ただけなので、トロン爆弾の実験とは無関係 な日本の工場地帯にあらわれたとかんがえられる。
ムルロアの設定は、初代ゴジラやテロチルスやエンマーゴと同様、もともと凶暴な怪獣ムルロアを、地球人がみずから地球に来襲するきっかけをつくってしまったというストーリーによって、人間批判をおこなうという意図の設定とおもわれる。
初代ウルトラマン4話の巨大ラゴンは、もともと大人しい性質だった海底原人ラゴンが、原子爆弾の放射能で変異して巨大化して凶暴化したという設定なのに、初代マンに普通に倒されており、同情的なセリフなどはない。この点がなぜか指摘されることがないのは不思議である。
初代ウルトラマンではネロンガも、発電所の地下ケーブルから電気を吸収したことで巨大化して、そのために地上に出てきたという設定なので、本来は
地下ケーブルを勝手につくった人間の責任が問われるところだが、劇中で人間側の責任は全く追求されず、ネロンガへ同情的なセリフもないまま普通にネロンガ
はウルトラマンに倒されている。
『ウルトラセブン』のギエロン星獣の話は、核軍拡を批判した作品として有名だが、核軍拡の原因がニーチェ的なイデオロギー批判に近いものとして説明 されている。しかし、核軍拡の原因を軍産複合体による利益追求によるものとしてみるのが、本来の左翼のロジックによる核軍拡への批判である。『セブン』の ギエロン星獣の回において、こういう視点が欠落しているのは問題ではないか。
アメリカの核軍拡についてふれた本である産軍複合体研究会/著の『アメリカの核軍拡と産軍複合体』(新日本出版社)は、おもにレーガン政権下におけ る80年代のアメリカの核軍拡と軍産複合体の関係について書かれた本である。この本の冒頭にはエンゲルス(マルクスとともに『共産党宣言』を書いた人)が 『反デューリング論』において戦艦の建造を例にだして行った「軍需産業はそれ自身の発展の結果により自滅する」という軍需産業への批判が引用されている (『まえがき』より)。
また、この本では第二次世界大戦に対して「太平洋戦争は、日本と米欧との中国、東南アジア争奪戦であり、欧州戦争は、ドイツの反ソ戦争であるととも に、ドイツと米英仏間の欧州、近東、アフリカの争奪戦であった(93ページ)」という分析をおこなっている。この第二次世界大戦の分析は、レーニンが『帝 国主義』で言及した戦争の原因の分析、すなわち戦争とは「市場、資源、資本の輸出先、さらに植民地の獲得のため」に行うという分析に則っているために本来 の左翼のロジックによる戦争の分析である。
レーニンの『帝国主義』の岩波文庫版の16ページによると、第一次世界大戦は「どちらの側からみても帝国主義戦争(すなわち、侵略的、略奪的、強盗 的な戦争)であり、世界の分けどりのための、植民地や金融資本の「勢力範囲」等々の分割と再分割とのための戦争であった。」とある。
そして「ある戦争の真の社会的性格がどのようなものであるかということの証明は(中略)すべての交戦列強および全世界の経済生活の基礎にかんする資 料の総体をとりださなければならない(16ページ)」とし、レーニンは「戦争の社会的性格は経済でわかる」とする。戦争の原因は経済であるという分析こそ が、本来の左翼のスタンスなのである。
そして「資本主義の発展が高度になればなるほど、原料の欠乏がより強く感じられれば感じられるほど、また世界における競争と原料資源にたいする追求
が先鋭化すればするほど、植民地獲得のための闘争はますます死にものぐるいとなる。(136ページ)」とあり、植民地の獲得(すなわち侵略)は資源のため
という分析をしている。
記録映画『華氏911』では911以降のアメリカのブッシュ政権による戦争を「石油資源のため」と分析しているが、これはレーニンの『帝国主義』における戦争の分析にそったものなので左翼的な戦争の分析ということになる。
ニーチェのように戦争の原因を「利他的、禁欲的なイデオロギーによるもの」として分析する、いわゆる「ニーチェ的イデオロギー批判」は、本来の左翼 の戦争の分析ではないが、90年代の国内マスコミでは、このニーチェ的イデオロギー批判による戦争の分析が一般常識になった。これは90年代にニューアカ デミズムのブームの時期やオウム事件の際に、マスコミで文化人がニーチェのイデオロギー批判を引用、援用して意見をいうことが多かったからだろう。
実はかつて日本では60年代も文化人たちの間でニーチェブームがおこっていた。桜井哲夫/著の『TV 魔法のメディア』(ちくま新書)によると、筒
井康隆の短編『火星のツァラトゥストラ』(『ベトナム観光公社』に収録)は、60年代のニーチェ・ブームを皮肉ったものだという(23ページ)。60年代
のニーチェブームというのは、あまり当時のアニメや特撮ものなどの子ども番組のなかでは反映されていなかったようにみえるが、当時も90年代のように文化
人たちがニーチェ的イデオロギー批判をくりかえした可能性はある。
初期ウルトラには、上記の『セブン』のギエロン星獣の話に代表されるような、ニーチェ的イデオロギー批判に曲解できそうな話がいくつか存在するが、それらの作品は、実はそういうニーチェブームを反映した作品だったのかもしれない。
レーニンの『帝国主義論』における戦争の分析にならって、変身ヒーロー番組の悪役のおおくに帝国主義な侵略国家がだぶさせられたといる。変身ヒーロー番組の悪役に○×帝国というネーミングがおおいことが、それを象徴しているだろう。
佐々木守が書いた変身ヒーロー作品でも、悪役に帝国主義な侵略国家をダブらせた例がある。『新マン』と同時期の橋本洋二プロデューサー作品である『シル
バー仮面ジャイアント』に登場したサザン星人はその代表的な例だ。サザン星人は破壊した都市に旗をたてていくが、それをみた登場人物たちは「地球上で戦争
をしている国と国みたい」という台詞をいう。『エース』と同時期の橋本作品の『アイアンキング』に登場したタイタニアンも「地球を植民地にする」という台
詞を頻繁にいうため、サザン星人同様に帝国主義的な侵略国をダブらせているとおもわれる。
『それゆけ!ズッコケ3人組』などで知られる童話作家、那須正幹の書いた『ねんどの神さま』(ポプラ社)は内容がほとんど初代『ゴジラ』を彷彿とさ せる童話である。主人公が少年時代に「戦争への憎しみ」をこめてつくった粘土の人形が、巨大怪獣になって街を破壊して暴れるというものである。主人公は、 そのとき軍需産業の社長になっており、自分がかつて作った怪獣と皮肉な対面をする。
『ねんどの神さま』のラストは「反語」という表現技法で描かれる。作者の意図は、もちろん兵器を製造することへの批判なのだが、ラストに怪獣は主人 公の説得でもとの粘土人形にもどり、そのあとに兵器の製造を肯定するような主人公のモノローグがついて終わっている。「反語」とは、本当に表したいことと は反対のことを、皮肉を目的としてあえて述べるという表現である。
『タロウ』のムルロアの回におけるムルロアの倒し方も、「反語」としての表現といえるだろう。トロン爆弾によって誕生したムルロアを、ZATは「狭い範囲で水爆の3倍の威力」の特殊な爆弾をつかって倒す。
この『タロウ』のムルロアの倒し方は、『ねんどの神さま』のラスト同様の反語的な表現であり、爆弾によって誕生したムルロアを倒すのに、結局爆弾を 使用してしまうというアイロニーによって、兵器の製造を批判したという見方が妥当ではなかろうか(このラストについては、別の見方として「狭い範囲でしか 効かない爆弾」というのを使ってムルロアを倒すことで大量破壊兵器を否定したという見方もできる。)。
ムルロアが、最後に粉々になる場面は、それまでバックにかかっていた主題歌が一瞬途絶えて、音楽がかからない状態でスローモーションでムルロアが爆 発して粉々になるところを淡々と見せるのだが、この演出(音楽の使い方)によって、「ムルロアの退治のために爆弾を使用した」ことへの否定的なニュアンス が、かもしだされているようにおもえる。
前述の『ねんどの神さま』はメッセージ性のつよい童話だが、ある意味第二期ウルトラ自体が、こういう「メッセージ性の高い童話」を目指したとおもえる(とくにタロウ)。
(蛇足だが、『ウルトラマンA』29話で、アングラモンがウルトラマンAに倒されるという展開も、一種の反語の表現と解釈できなくもない。アングラ モンが倒される場面は、アングラモンが火だるまになるという残酷なものである(火だるまになる瞬間、音楽がなりやむ)。この残酷な倒しかたで、「アングラ モンを倒して決着をつける」という事件の解決方法への否定を反語的に表現していると解釈できる。)
『夢回路』(柿の葉会)のインタビューなどによると市川森一は「メッセージ性のある物語は子どもにとってよくない」という。しかし、国内、海外の世
界中の名作童話にもメッセージ性のある物語はおおく存在する。そういうことになったら、そういう世界中の名作童話を発禁扱いにしなくてはいけないというこ
とになるだろう。もちろん、『ねんどの神さま』だって発禁扱いとなる。
『イソップ寓話』も全部の話に教訓がある。そういう観点からいっても、やはり市川森一の「テーマ主義批判」は筋が通らないのではないか。
ちなみに、岩波文庫『イソップ寓話集』(中務哲郎/訳)の巻末の解説によると、宗教改革者のルターは民衆教化の手段としてイソップ寓話を高く評価して、いくつかの寓話を自らドイツ語に訳していたという(364ページ)。
ルター派のプロテスタントというのは、予定説を否定するプロテスタントであり、予定説を唱えるキリスト教原理主義のカルヴァン派(資本主義に通じる)と対
極にある、リベラリズムに通じるプロテスタントである。そのルターが寓話による民衆教化を考えていたのだ。この、ルターがイソップ寓話に注目していたとい
う話は、あるいみテーマ主義の原点といえるだろう。
デンマークは、福祉国家として一応の成功をおさめている国の代表的な国である。このデンマークの雇用政策についてふれた『論座』(朝日新聞社) 2008年5月号『コペンハーゲン・コンセンサス』286ページによると、デンマークは歴史的にはルター派の教徒が多いそうで、コミュニティーのことを考 え、何事も控えめに徹し、現代における社会民主主義(=福祉国家)的な政策を支えるデンマーク人の態度を育んでいるのはルター派教徒がおおいためだとい う。このように、ルター派はリベラルな福祉国家と深い関係がある。
市川森一は『夢回路』(柿の葉会)のインタビューで、普通の人間にとっては「弱い者をいじめちゃいけない(弱い者をいたわる)」という価値観を知るよりも「社会に存在する謎」について知ることが大事だと語り、それゆえにテーマ主義を否定する(536ページ)。
しかし、まず最初に人間は、自分の生命の安全が確保できなくては「社会のなぞについて考える」こともできないではないではないか。
「弱い者をいたわる」というのは、自分が不遇にも弱者になってしまったとき、そういう弱者の人間の生命(安全や健康)を社会が保障するべき、という価値観であって、日本国憲法25条の生存権に直結する価値観である。
貧困で飢え死にしてしまったら、そもそも「社会のなぞ」について考えることもできないのだから、まずは「弱い者をいたわる」ことこそが優先されてしかるべきだろう(市川森一は「死んだあとで、あの世で考えろ」とでも言いたいのだろうか)。
ちなみに、ルター派プロテスタントは、信仰によってのみ救われるという「義認説(信仰義認説)」という聖書解釈を信じている。信仰義認説とは「神を
本当に信仰している人は、魂がアガペー(神の愛)で満たされるため、善行を行うことが自分にとって喜びになり、自然に善行を行ってしまう」という考え方で
ある。これを「キリスト者の自由」という。これらのことはルターの主著『キリスト者の自由』で言及されていることである。
(岩波文庫の石原謙/訳の『新訳 キリスト者の自由・聖書への序言』に収録の『キリスト者の自由について』第二十七節のP44〜45など参照。)
つまり「義認説」は事実上「良い行いをしたものは救われる」と同じであり、「救済は行いの善し悪しに関係ない」というカルヴァン主義の「予定説」と は対極にあるといえる。「予定説」では、信仰すら否定するらしい。このことは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で紹介されている「ウェスト ミンスター信仰告白」第三章第五項(p146)に、これに相当することがかかれてあります。また、教育出版センター『世界歴史大辞典』19巻の『予定説』 の項(p354)にも「救いは神の自由な愛と恩恵によるものとされ,人間の信仰や善行によるとする考えは退けられる。」とある。
前述のように「キリスト者の自由」というのは、「自ら進んで善行を行う」ことを「自由」としているのであり、カントのいう「理性」に通じる価値観で ある。欧米でリベラル派の人たちがいう「自由」というのは、この「キリスト者の自由」の文脈で理解しないと、重大な誤解を引き起こすことになるだろう(作品研究1、『70年代カルチャー第二期ウルトラを総括せよ!』でふれたドラッグカルチャーも、この文脈で考えないと理解不能であろう)。
日本人の場合は、やはり仏教の影響だとおもわれるが、「人間とは本来は欲深いもの」であって、それを意志の力で抑えることが善行に通じるという価値 観を、多くの人たちが共有してる。そういう日本人が、「自ら進んで善行を行う」というルター主義の「キリスト者の自由」という概念を理解しないままで、 「自由」という言葉が欧米人の口から出るのを聞くと、すぐに誤解して「善行をおこなわずに、私利私欲に走る」ことを肯定していると思い込み、あげくに資本 主義を左翼だと思い込むのではないだろうか。
話はもどるが、前述の民話の研究家のプロデューサー熊谷健氏の趣向を反映して、『レオ』では民話を題材にした「日本名作民話シリーズ」という特集がある
が、このような一見ほのぼの路線のように見える作品群にも、シビアーな人間批判を行った作品が見られるのが、第2期ウルトラのスタッフのカラーを端的に現
わしていて興味深い。その最たるものが28話『帰ってきたひげ船長!』(脚本,若槻文三)である。この話は『浦島太郎』が題材の話で、冒頭、宇宙人・パラ
ダイ星人の子供が漁村の人々数人に苛められている所から始まる。宇宙人は無抵抗で友好的なのだが、漁村の人々は、人間と違う緑色の髪をもつその宇宙人を化
け物呼ばわりして、角材やクワでなぶり殺しにしようとしているのだ。
つまり、『浦島太郎』の出だしの子供の亀が苛められている場面のアレンジなのだが、もとの昔話に無いテーマ性が付け加えられて、やたら陰惨なシーン
になっている。(“バケモンだ!殺しちまえ!殺しちまえ!殺しちまえ!”とか、“星人だ!ブっ殺せー!!”とか、このときの村人のセリフもすごい・笑)や
がて原作の浦島太郎に相当する、よその町から来たヒゲ船長(岡田英次)なる人物にこの星人は助けられる。星人は船長に礼をいうが、船長は星人にいう「人間
だったら誰だって助けるさ」と。
このあと、パラダイ星人の女王は星人の子供を助けてもらったお礼として、ヒゲ船長を宇宙船に招待し食事をご馳走する。そしてこれと平行して、子供を殺さ
れかけた事に怒っていた星人の女王は「あの村の人間の心には悪魔が宿っている」として、配下のものに漁村の人間全員を皆殺しにするよう命じるのだった。配
下の星人は巨大怪獣に変身し村を破壊し始める…。
この回は『新マン』の『怪獣使いと少年』の簡略版という印象もあるが、人間の排他性がテーマになっていて、もとの昔話に無いシビアーな人間批判を 行っていた。また、潔癖症的な平和主義者であるが故にかえって破壊者になってしまう、というパラダイ星人のキャラクターも異色。同じ『浦島太郎』をヒント にした作品として、過去のウルトラには、『ウルトラQ』の『育てよ!カメ』(監督,中川晴之介)があるが、この『育てよ!カメ』の方は子供が主役のドタバ タギャグでテーマ性は皆無の幼児向け然とした作品でしか無かった。この『レオ』と『Q』の2作品を比較すると、同じ民話でもスタッフが違うと全くカラーが 違う作品に仕上がることに驚かされる。
こういうことから、熊谷氏は民話を、単なる幼児向けの離乳食ではなく、文学の一つのジャンルとして捉えていたことがわかる。ある同人誌のインタ ビューによると、熊谷氏はかねてから円谷プロの特撮技術で日本の民話を実写映像化したい、という願望があったようで、大人向けのテレビドラマとして、女性 が主役の地方民話を題材にしたアンソロジーシリーズ『黒い民話の女』という番組の企画を円谷プロに提出したこともあったという(もし実現したらなかなかカ ルトな番組に仕上がっていただろう)。『タロウ』の作品世界や『レオ』の民話シリーズはそういった熊谷氏の願望を叶えたものと言える。熊谷氏の民話の研究 は大学時代からで、その当時はかぐや姫や夕鶴のおつうさん、雪女が、氏の心の恋人だったという。また熊谷氏は日本映画にも造詣が深く、国際的な巨匠、小津 安二郎監督の大ファンでもある。大島渚、吉田喜重ら松竹ヌーベルバーグが小津安二郎作品を糾弾し、邦画ファン達の間で小津作品の評価が急激に下降した時期 も、熊谷氏は小津作品の数少ない擁護派だったという。そして熊谷氏は大学時代に実際に小津氏の作品に助監督で参加した経験もあるというのだから驚き。熊谷 氏が円谷プロに参加したのは小津作品のスタッフの紹介だとの事である。小津氏は、中流の家庭生活と、その家族の事情に関する庶民劇、即ちホームドラマを自 作の主題にすることに不動の執着をした映画監督だった。第2期ウルトラには、登場人物の家庭生活を描くホームドラマ的な描写が目立つのだが、それも、熊谷 氏の小津作品への憧憬の表われなのかもしれない。
話を戻すが、『レオ』28話『帰ってきたひげ船長!』は演出面でも工夫があり、パラダイ星人の女王というのが、壁に能面が掛かっていて、そこから 声だけがする、という描写がされていて、非常にシュールであった。このようなちょっとした所に不条理な演出を施すのも第2期ウルトラのスタッフの特徴であ る。
最近たまたま見返して気にいったので触れさせてもらうのが、『レオ』46話『戦うレオ兄弟!円盤生物の最後』(脚本,田口成光)である。トラック 運転手のジュンペイ(平泉征)は真面目な好漢だったが、深夜、弟を乗せて運転中に、ある造生地で、そこに潜んでいた怪獣に襲われ、トラックは大破。目撃者 はいなかったため、トラックの大破は運転ミスによる事故と断定される。ジュンペイとその弟は怪獣に襲われた事を訴えたが、運転ミスの責任を誤魔化すための 嘘と世間に受け取られ、ジュンペイは社会的信用を失い、弟は人間不信に陥ってしまう。この事件を知ったレオ=ゲンは兄弟に同情するが、そんなゲンさえも弟 は信用出来ず拒絶してしまう。ジュンペイはいう「俺は嘘つきと弱いものいじめだけはしちゃいけねえって信じて生きてきたんだ、その俺がこの通りさ…ざまあ ねぇや!」並みの人間より正直に生きてきたジュンペイが、ひょんな事で嘘つきとして社会から葬られるという皮肉と、世間に信用して貰えないがゆえ、世間を 信用出来無くなってしまう弟という、もう一つの皮肉。『新マン』の『怪獣少年の復讐』(脚本,田口成光)にも見られた、脚本の田口成光氏の“人間の擬心” への告発というモチーフが生きているアンチテーゼ編である。
文脈上かなり唐突だが、『ウルトラセブン』のキングジョーの前後編(脚本,金城哲夫)において以前から気になっていたのだが、ペダン星人が地球に
攻めてきたのは、地球人がペダン星に打ち込んだ観測ロケットをペダン星人が侵略と解釈したため、侵略される前に地球をたたこう、という理由だった。ペダン
星人は「このまま地球を放っておいたら自分たちの星が地球人に侵略される」と考え、それを防ぐために先手をうって地球を侵略しようとしていたようだ。
観測ロケットを打ち込まれただけで、その観測を侵略のための調査だと勝手に思い込み、地球を攻撃したペダン星人の行為は、やや被害妄想的といえなくもな
い。知的生物がいるかどうかを調べるための観測ロケットだと思うのだが、それ自体を「侵略」とみなすのは性急すぎないか? つまりペダン星人の言い分はあ
まり説得力がないように思えるので、筆者としては、これをして宇宙開発に対する批判をしているドラマと言えるのか、という疑問があるのだが。
(この点で言えば、ウルトラシリーズではないが、『シルバー仮面ジャイアント』の19話の方が、同じテーマを扱いながら、より説得力のある作品だっ たのではないだろうか。この回は、キュリー星という惑星に調査に行った有人宇宙船の乗組員が、そこでツタ状の生物に遭遇、乗組員はその生物を下等生物とみ なして射殺したが、あとにその生物が知的生物だということが判明して、その生物に復讐を受けるという作品である。人間側が、ここまでちゃんと侵略に近いこ とをやっていれば、仕返しされてもしょうがないとおもえるが…)
人間の社会では、他者を殺すことが許されるのは「他者に殺されかかっていて相手を殺さないと殺されていた」という正当防衛のみである。なので、ウ ルトラマンなどのヒーローが敵を殺すのは、正当防衛をしなくては殺されるという状況だったから、と解釈できる(と、少なくとも筆者は子供のころそういう風 に親に説明してもらった)。
そういう意味では、このキングジョーの回などで、セブンが逃げようとしている円盤を撃墜したりしているのは問題があるように思える(セブンには、こういった展開がおおい)。
本来ヒーローが暴力を振るうのは、敵がふるう暴力を抑止するためであり、悪事を行った敵に暴力で罰をあたえているのではないはずである。そのためにはこういった「逃げる敵を追う」という展開は今後は控えたほうがいいだろう。
死刑廃止論の本である団藤重光/著『死刑廃止論』(有斐社)によると正当防衛は無罪だとかかれてある。
「例えば相手が切りかかって来たときに相手を殺すような場合には、これは犯罪にはならないので、これを正当防衛として権利の一種として見るのが普通であるが、もし個人に「殺す権利」といったものを認めるとすれば、こういった場合に限る。(216ページ)」
この『死刑廃止論』という本は死刑廃止論についてふれた本ではもっとも代表的な本だが、このように死刑廃止論の観点からみても正当防衛は一応合法だそうである(とはいえ本当は殺さずに解決するに越したことはないが)。
初代『ウルトラマン』では2話『侵略者を撃て』において、バルタン星人の円盤を撃墜する。この円盤には22億3000万ものバルタン星人が眠っているという設定であり、そうなるとウルトラマンは22億3000万人の無抵抗のバルタン星人を大量虐殺したことになる。
みんなが名作という作品は、スキの無いものだ、ということを言う人が筆者の知人にいるが、これはウソである。「名作と言われる作品の多くは、残酷 な誤解の下に成り立っている」というのは、映画評論家の蓮見重彦氏の言葉である。小津安二郎氏の作品が好例で、小津の作品は一時、松竹ヌーベルバーグが批 判してから、映画ファンにクソミソに叩かれ、褒める人間は白い目で見られるという時期さえあったが、小津の没後、蓮見氏が小津作品の擁護論を展開してから 批判の意見はピタリと止んだ。現在は、小津の作品は映画ファンの誰もが名作という評価を口にするようになっている。黒澤明の名作『七人の侍』も、公開当時 いろいろと批判があったという(ラストの志村喬のセリフが東洋的ニヒリズムである、という批判など)。世間には、批判の意見が少しでも聞かれれば、その映 画、ドラマは駄作だ、という事をいう人がたまにいるが、こういう人の言っていることは間違っている。
『自由からの逃走』(東京創元社)はエーリッヒ・フロムというドイツの社会心理学者が書いた本である。一般的にはナチスがドイツに台頭してきた理由を分析した本としてしられているが、この本はそれ以外にも、とくに近代におけるマスメディアの影響についてにも触れている。
エーリッヒ・フロムというドイツの社会心理学者が書いた『自由からの逃走』(東京創元社)はナチスがドイツに台頭してきた理由を分析した本だが、この本はそれ以外に、芸術作品の評価がマスメディアの影響について左右されるという興味深い記述がある。
この『自由からの逃走』によれば、人間は他者の影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むことがあるそうで、例として新聞の影響 をあげている。一般の新聞読者に、ある政治問題にについてたずねると、その人はその新聞に書いている意見を、自分の思考の結果だと思い込んで語るそうだ (211ページ)。
そして、こういった刷り込みは芸術作品に対する評価にも影響するそうである。この本では一例として、美術館に訪れた人間の美的判断を分析している。 有名な画家の絵を眺めると、普通の人はその絵を美しいという。しかし、こういう人間の判断を分析すると、本当はその絵に対してなんの特別な内的反応は感じ ておらず、その絵を美しいと考える理由は、その絵が一般に美しいものとされているからだということが分かるという(211ページ)。
このように、マスメディアなどの影響が人々にあたえる刷り込み効果はおおきい。なので、第二期ウルトラが、一時期極端に低く評価されていた理由もマスコミによる刷り込みである可能性があるのである。
また、脚本家をはじめとする映画のスタッフのインタビューでは、取材をうけるスタッフがインタビュアーに話を合わせることがおおく、場合によっては インタビュアーに話を合わせているうちに、インタビュアーの作品解釈を、映画のスタッフが「そういう意図としてつくったのかもしれない」と思い込んでしま うということもあるという。その例として、HP『NTTコムウェア』の『かしこい生き方のススメ』での、『バラエティ・ジャパン』編集長の関口裕子のイン タビューを紹介します(http://www.nttcom.co.jp/comzine/no058/wise/index.html)。
「雑誌などにコメントを書くポイントとして、私自身がそう思ったのであって、作家が本当にその通りに意図していたかどうかは分からないですよ。ただ 作家本人にそう言うと「そうそう。僕もそう思っていたんだよ」という事も結構ありますね。でも知人の映画監督に聞いてみたら、そういう質問をされるうちに 「ああ、もしかしたら自分はそういうつもりで作っていたのかもしれない」と、その気になっていく事もあると言っていたので、後付けの可能性も大です (笑)。(上記のHPの関口裕子の発言より抜粋)」
こういうこともあって、たとえば切通理作の本などで、取材されたスタッフが「作品の意図」として語っていることが、実は取材されたスタッフが切通氏 の解釈に合わせて考えを変えた結果であることもありえます。こういう観点にたって、スタッフのインタビューを読んでいくことも大事かとおもう。〈了〉
(後日追記 2021年12月19日)
アメリカでは「This area is smoke free」という文章は「ここは禁煙エリアです」という意味になる。なにも知らずに「Smoke free area」で喫煙をしてしまうと、罰金対象となってしまう恐れもあるので注意が必要である。
タバコフリー(スモークフリー)は、本来は人間がタバコから自由になる、という意味で禁煙を意味する英語で、自由にタバコが吸えるという意味ではない。アルコールフリーやシュガーフリーといった言葉も同様で、アルコールを入れない、砂糖をいれていないものという意味である。本来なら何かを抑制するようなことの意味でフリー(自由)という言葉は使われることがあり、このことも、ルターの「キリスト者の自由」のような「欲を抑える」意味で使われる自由という言葉であろう。90年代以後の日本の大手マスコミは、この誤訳レベルの間違いで、リバタリアニズムの権原(権利の平等のみを人間に認めるとする個人主義の考え方。永井均『倫理とは何か』(産業図書)P182など参照)を、リベラリズムの人権と間違えた上で、遠大な文化を作ってしまって現在に至るのかもしれない。
*引用元
HP『オリコン満足度ランキング「イングリッシュスタイル』の記事
『「smoke free」は喫煙? 禁煙? 間違いやすい「実用英語」を紹介』(2016.4.15)
https://juken.oricon.co.jp/rank_english/news/2070036/amp/
(記事/kotanglish(日本ワーキング・ホリデー協会))
*補足(信仰義認について)
一般的に、ルターが信仰義認説で、カルヴァンが予定説、というようにふりわける場合がおおく、センター試験での出題でも、そういう分け方になっていたそう
です。しかし、より厳密にいうと、当初はルターも「信仰する人間は神が予定している」という、カルヴァンの予定説に通じる考え方を信仰義認説のなかに含ま
せていました。しかし、マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によると、ルター派にとって「信仰が神によって予定されて
いる」という予定説はしだいに中心的なものではなくなっていったそうで、ルターとともに宗教改革運動をおこなったメランヒトンという人がルター派の信仰告
白の代表的なものである「アウグスブルグ信仰告白」に、予定説の教説を採り入れるのを回避したことや、ルター派の教父たちが、神の恩恵は喪失可能で悔い改
めによって新たに神の恩恵が与えられるというように、教義を変化させていったことがかかれてあります(岩波文庫、p151-152)。当初はルターは、前
述のように信仰を神の予定によるとしており、それゆえにルターは人間の意思の自由(自由意志)を否定していましたが、のちにメランヒトンがアレンジをくわ
え、最終的にはメランヒトンが意思の自由も承認した(前掲書p221)そうです。こういう経緯をへて、現在ルター派のプロテスタントというのは、おもに
「信仰によって自然と善行をおこないたくなり、そのうえで救済される」という教えを信じているということです。