作品研究1
『70年代カルチャー第二期ウルトラを総括せよ!』
ウルトラシリーズの中の『帰ってきたウルトラマン』(71年・『新マン』と略する場合あり)『ウルトラマンA』(72年)『ウルトラマンタロウ』(73年)『ウルトラマンレオ』(74年)の4作品は第二期ウルトラシリーズといわれる。内容的、テクニック的に完熟した70年代以降の日本の映画、ドラマ作品は作品として古い感じが希薄に感じる。この第二期ウルトラシリーズは、放送時期が70年代であり、70年代の時代の空気をタイムカプセルのように封じ込めたような、独特の魅力に満ちている。ここでは、第二期ウルトラシリーズを70年代カルチャーという側面から検証し、そのうえで総括的な第二期ウルトラシリーズの分析をしてみたい。
第1期ウルトラのドラマ編(ドラマ編の本数自体、シリーズの半数ぐらいの本数だが)は、文明批判のテーマの作品が多く、この分明批判というのも、文明を作ったのは人間であるから人間批判として解釈されることもある。これに対し第2期ウルトラのドラマ編は、個人の人生観を問いただすという人生哲学的なものがテーマになっているものが多い(初期ウルトラにもあるにはあるが)。こう言った傾向により、第二期ウルトラにおける人間批判は、一般市民や個人の心にあるダークな面を批判するものが多い。個人や市民に向けた人間批判は、分明批判より直接的に人間を批判し人間の醜さを暴いている分、第2期ウルトラのドラマの方向性は初期ウルトラよりも容赦ない人間批判とはいえないか。
その第2期ウルトラの「容赦ない」人間批判のドラマの一例が『帰ってきたウルトラマン』の33話『怪獣使いと少年』である。友好的な宇宙人を一般の市民が「侵略者」と偏見視して虐殺するまでを克明に描いた本作は、今までただの被害者だった人間が、醜い加害者になる過程をまざまざと見せつける。これととおなじ民族問題をあつかったとされる『ウルトラセブン』の『ノンマルトの使者』は、ラストにナレーションで、ノンマルトが地球原住民かどうかは謎だ、と明言していることから、人間がかつて本当に加害者だったのかどうかはボカしてある。なので、まだ制作者側が、人間を加害者として描くことに対して遠慮があるのが分かる。しかし『怪獣使いと少年』は、人間が醜い加害者になるところをボカしておらず、実に生々しく画にして見せてしまった分、より容赦ない人間批判だった。
また『新マン』の『怪獣使いと少年』の場合、批判されているのが一般の市民であるが故に、友好的な宇宙人を虐殺する市民に怒りを感じつつも、いつ自分があの群集の一人になるのかと震えが来る。やはり人間批判は、分明へ向けたものより、一般市民や個人へ向けたもののほうがより辛辣であり、容赦ないものであることを、この作品は物語ってくれる。
ちなみに、第二期ウルトラでは『怪獣使いと少年』のほかにも、友好的な宇宙人を地球人が迫害するという作品が何本かある。ウルトラマンレオの『帰ってきたひげ船長』やウルトラマンAの最終回『明日のエースは君だ』がそれにあたる。こういう『怪獣使いと少年』と同様のテーマの作品が複数存在するという点が第二期ウルトラの評価できる点だろう(ただし、ウルトラマンAの最終回の場合は、実は友好的な宇宙人ではなかったというオチがつくが)。
こういった個人レベルでの人間批判や、人生観を問いただすテーマは、ビジュアル的に説明することが難しい。よって、どうしても登場人物の会話のやり取りのなかでセリフとして説明しなくてはならない。従って第2期ウルトラは登場人物の会話のシーンが多くなった。それが子供には難解なのでは?という投書も製作当時に寄せられたという(辰巳出版『僕らのウルトラマンA』の橋本洋二PDのインタビューより)。こういったテーマに挑んだ第二期ウルトラが、視聴率的に『仮面ライダー』(71年)に負けたのは、あの頃の子供は単純明解な活劇が見たいというのがニーズで、第二期ウルトラの内容は難解だったからだとおもわれる。
この時期のウルトラのスタッフは、安保闘争をインスパイアしてウルトラを作っていたと言う。熱血ドラマの要素を全面に出した『レオ』で第二期ウルトラがおわるのは、現実社会のシラケムードに、この時期のウルトラの反骨精神=熱血が負けてしまった…あたかも安保闘争の敗北をウルトラシリーズで再現してしまったようで皮肉でもあり、また、ある種の哀愁を感じてしまう。
筆者は「マルクス主義」自体にはいくつか疑問を感じるが、安保には問題があるし、マルクス主義もアナーキズムの一種であるので、そういう意味では安保闘士の運動は評価していいだろう。
実存主義の哲学者キルケゴールは『現代の批判』という著書において1846年ごろのデンマークを、フランス革命時代と対比しながら批判した(キルケゴールについての詳細は後述)。
キルケゴールは、フランス革命の時代は情熱的であっが現代(1846年当時)は情熱のない反省的な時代であると批判し、反省的なところからは何ものをも生まれてこないと述べている。
「革命時代はまちがった行きかたをするといえるものなら、現代は悪質な行きかたをするといえよう。(白水社イデー選書『現代の批判』p.192」
キルケゴールは身体に障害をもち、病弱であったが、それでも情熱を否定していない。情熱、熱血というものを「体育会系」の思想だと思っている人が近年の日本人におおいが、実は情熱、熱血は実存哲学に通じるものなのである。
また、心理学者エーリッヒ・フロムがナチズムについて分析した名著『自由からの逃走』によると、ナチスが台頭した時代のドイツは、労働者階級やカトリック的ブルジョアジーたちが、ナチスに対し絶えず敵意をもっていたにもかかわらず、ナチスに対しなんの抵抗もなく屈服したという。彼らがナチに簡単に屈服したことは、ナチスが政権を握る原因を作ったという。この本では、そういう人たちがなぜ屈服したかという理由について、以下のようにある。
「ナチ政権にたいするこのような簡単な服従は、心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる。(232ページ)」
奇しくも、こういう当時のドイツの状況は「あきらめる」ことをカッコイイとする昨今の日本(厳密にいえばマスコミの言論人の価値観)とどこかしらシンクロする。
また、第二期ウルトラは、実は熱血した主人公が直接テーマを訴える作品より、熱血した主人公の行動を傍観者的な捉えながら、テーマを視聴者にそれとなく分からせるというものが多い。主人公がトラブルを起こし、それを周囲の人物が注意して主人公が成長するといった展開が第二期ウルトラに多いが、この場合は、作品のテーマを象徴するのは、熱血主人公の言動ではなく、主人公を注意する周囲の人間の言動の方である。よってこういう展開のドラマは、熱血した人物が主人公でも、その熱血主人公自身が作品のテーマを訴えていない作品なのである。このように第二期ウルトラは、主人公が熱血していても、その主人公が直にテーマを訴える作品は意外と少ない。
『レオ』のダン隊長も、怪獣を倒す方法をゲンに指南する際や、ゲンのとった行動が事件の被害を拡大するような行為だった場合には、殴ったり蹴ったりと過激(笑)だ。しかしゲンにそれ以外のことについて注意する場合は暴力はふるわない。むしろゲンを落ちついた口調で諭したりする場合が多い。またゲンのプライベート面には一切介入しない。その具体例が16話『くらやみ殺法!闘魂の一撃』や22話『レオ兄弟対怪獣兄弟』である。
16話では、津山に星人を倒す技を教わってくるように、という指示をダンに受けていたにも関わらす、ゲンはダンの指示を無視して津山に会わなかった。それが原因でゲンは隊員の一人を死なせてしまうという失態をしてしまう。津山に会わなかった理由は、ゲンの恋人の百子が、空手家の津山に手伝いに行くことにゲンが嫉妬していたからなのだが、この場合もダンは、百子さんとゲンの間のことについて薄々感付いている様子であるものの、直接は口に出さず、あくまでゲンのプライベート面には介入しなかった。
また、22話では、ゲンが弟のアストラを見殺しにしてしまった過去に気を揉んでいることにもダンは「お前と弟の間に何があったのか俺はしらない」といい、やはりプライベート面には介入しなかった。
『レオ』や『新マン』では、主人公が常に正しい行動しかしていないというわけではなく、上記のように主人公が感情的になって過ちをおかしていたり、過ちとまではいかないにしろ、やや問題のある行動を過去にとってしまっているという設定があったりする点が、それまでの子ども向け番組の主人公とは違う部分だろう。
もちろん、主人公はこれらのことを後に反省したり、後悔していたりするのであり、そういう展開を通じてヒーローの精神的な成長をえがいているが、同時に主人公が自らのあやまった行動を反省するという展開によって、間接的に視聴者にメッセージをおくるという手法がおおくとられた。こういう展開は、主人公が直接テーマを視聴者に訴えたりする作品よりも、おしつけがましくない気がするのだかどうだろうか。こういう手法は、主人公を絶対的な「正義の味方」としてえがかないという手法だといえ、当時としては野心的だったとおもわれる。
社会の秩序を守るのが正義かもしれないが、秩序というものは程度の問題で、あまり厳しいと不自由な管理社会になって生きる喜びが失われてしまう。個人の自由を守るのが正義とも言われるが、これも程度の問題で、あまり自由すぎると他人の自由を侵害してしまい(自由の履き違え、というもの)、無秩序になって社会はスラム街のようになって荒廃してしまう。
なので、不自由な管理社会も、荒廃した無秩序な社会も、どちらも否定し、どちらにも片寄らないバランスを保った社会をつくることが重視されるはずである。
なぜか90年代の国内マスコミではオミットされて語られるが、日本国憲法にも12条や13条で「公共の福祉に反しない限り最大限の国民の権利」をみとめている。これは「他者の自由を侵害しない範囲で個人の自由をみとめる」ことと同義であろう。敗戦後GHQによってつくられたこの日本国憲法にも、こういう「他者の自由を侵害しない」という内容の条文がちゃんと存在することは重要である。
「正義」「秩序」という言葉は、過去にナチスドイツ等が侵略戦争を正当化するために用いられたことがあったという。では、「自由」ということばはどうか。実は ヒトラーの著書『わが闘争』を読むと「自由」という言葉は頻出するのだ。筆者の印象では正義という言葉より頻出しているように思える。しかも自身の闘争の目的となる重要な部分にしっかり自由という言葉が使われている。
『わが闘争(角川文庫版)』下巻の『第十三章 戦後のドイツ同盟政策』の『無能な原因』では、
「ただわが国の崩壊の原因を除去し、同時にその崩壊から不当に利益をえたものを絶滅することだけが、国外に対する自由のための闘争の前提を作り出すことができるのだ。(298ページ)」
*他にも数カ所がりますが、詳しくはこちら『ニーチェと少年犯罪についての一考察』にまとめました(『ナチズムと正義』の項)。
このように、自由ということばはヒトラーも使っていたのだ。脚本家の市川森一氏が仮面ライダーの企画時に「正義のために戦うなんていうのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義って奴は判らない。どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです」といい、それを受けて「仮面ライダーは人類の自由のために戦う」というオープニングナレーションを考えたのは有名な話である(風塵社『仮面ライダー名人列伝』より)。しかし、このように、ナチスも自由という言葉を使っていたということになると市川氏のこの意見は根底から覆ったことになる。ようするに、ヒトラーから仮面ライダーを遠ざけようとして「人類の自由のため」としたが、結果的にそれがかえってヒトラーにちかづけてしまったということになる。
また自由という言葉は、近年のアメリカの軍事作戦名にも多用されている。アフガン侵攻の『不朽の自由』作戦、イラク侵攻の作戦名『イラクの自由作戦』などである。
つまり「秩序」「正義」「自由」は単語であり、その単語そのものが危険というより、その単語がどういう考えに裏打ちされるかで、危険かどうかを判断するべきだろう(これはソシュールの言語学に通じるだろう)。
では「愛」という言葉はどうだろうか。この言葉も絶対に安全ではない。オウム真理教は白い愛の戦士」という信者たちを合宿させ、武闘訓練をさせていたというのは有名である。最近テロが起こるとすぐに「善悪より愛だ!」と国内の言論人は一斉に声高に叫ぶが、こういう無差別テロを目的とした組織に「愛」という言葉がつかわれたとなると、愛という言葉も絶対ではない。
この「白い愛の戦士」というのは、やはり『宇宙戦艦ヤマト』の映画版2作目のタイトルからきているとおもう。オウム教団のビルにつけられた空気清浄機の名前「コスモクリーナー」は『ヤマト』に登場した放射能除去装置の名前である。このように、オウムは『ヤマト』の影響を強くうけている。
『ヤマト』では、ことさらに「愛」という言葉がドラマで強調されていた。なので、オウムはテロリストに「愛の戦士」と名付けたのだろう。
そうなると「ヤマトはニセの愛を教えたのではないか?」というような声が世間でいわれてもいいはずなのだが、そういう声はおこらない。そして、なぜか先の市川森一氏の発言が一人歩きして「正義」という言葉ばかり疑われ「愛」という言葉はいまだに絶対的な価値のある言葉とされている。「愛」という言葉への懐疑という視点のドラマやオピニオンも、あっていいとおもうのだが。
実はヒトラーも『わが闘争』において、自身の闘争の目的に関わる重要な部分に「愛」という言葉をつかってる。早速抜粋しよう。
例)第二章『国家』『国民的誇りの喚起』(下巻 78ページ)
「国家主義と社会主義の感情との親密な結婚は、まだ若いうちに心に植えつけられねばならない。そうすれば他日、共通の愛と誇りによっておたがいに結ばれ、鍛えられ、永久に揺るぎなき、無敵な国家市民からなる民族ができるであろう。」
(註,ナチス党"Nazis"の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」)
*他にも数カ所あります。こちら『ニーチェと少年犯罪についての一考察』にまとめました(『ナチズムと正義』の項)
つまり自分の民族のためのみの「愛」というのは、人種差別に通じてしまうということだろう。
そもそも、ヤマトでことさらに「愛」という言葉が強調されたのは、『ヤマト』の前に同じプロデューサーが手掛けた『海のトリトン』の最終回で「正義はない」というセリフを主人公がいうことを受けついだもののようである。思えば『ヤマト』以外の70年代のアニメや変身ヒーロー番組は「正義」「愛」「自由」「勇気」「友情」などなど価値に関するあらゆる言葉をつかっていて、『ヤマト』のように一つの価値の言葉(「愛」)にこだわっていなかった。これが自分としてはよかったとおもえるのだが。
『善悪の彼岸へ』(宮内勝典/著、講談社)という本によると、酒鬼薔薇が逮捕後の精神鑑定で「全てのものに優劣はない。善悪もない」という言葉を語ったという(256ページ)。この「善悪もない」という彼の思想は、逮捕されたときに彼がかたった「どうして人を殺してはいけないのですか」という有名な発言を裏打ちしているものではないかとおもわれる。
巷では、少年犯罪はテレビの暴力シーンの悪影響であるという意見もあるようだが、こういう事実からいって、むしろ善悪の概念の否定というニーチェ的な思想こそが、少年犯罪の元凶のようにおもえる。「正義の否定」「善悪の概念の否定」「悪の肯定」といった意見は、もとを辿れば哲学者ニーチェの思想に通じるものだ(『ツァラトゥストラはかく語りき』『善悪の彼岸』など)。
有名な酒鬼薔薇の手記には、「神は死んだ」というニーチェの引用もあったそうで、酒鬼薔薇はなにかの切っ掛けで、子供の頃からニーチェの本を読んでいたようだ。「全てのものに優劣はない。善悪もない」という彼の発言はニーチェの本の影響によるものだろう。
ニーチェの本を子供の頃に読んでしまうと、子供はニーチェの思想を表面的に解釈して犯罪を犯す人間になってしまう。酒鬼薔薇の犯した事件は、そういうことを証明していると思われる。
ニーチェ的な「善悪の概念の否定」思想によって生じた犯罪は海外では以前にもあったのだ。スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』という映画は、キューブリック監督がニーチェに傾倒していたころから「善悪の概念の否定」ないし「悪の肯定」をテーマにした作品だ。この作品の影響によって、アメリカで72年にアーサー・ブレマーという22才の青年が、大統領候補をねらった銃撃事件をおこしている。この青年の日記には「『時計じかけのオレンジ』をみて人が殺したくなった」とかかれていたそうだ。そうなると、酒鬼薔薇の事件は、けっして過去に前例がない事件ではなく、この72年のアメリカの事件に次いだニーチェ的思想による事件だったと言えるだろう。
実は、『時計じかけのオレンジ』はアンソニー・バージェスという作家の書いた原作の小説があり、原作の小説では結末がことなる。
映画版は、本来の小説の結末にあたる21章ががカットされて映画化されたものなのである。この21章では、主人公の少年は犯罪を時間の浪費と考えて改心するのである。現在(2008年現在)日本のハヤカワ文庫から出版されている『時計じかけのオレンジ』の原作小説は映画版にあわせて、この21章を削除して出ているものである。
バージェスとしては、『時計じかけオレンジ』は本来は犯罪者の人権擁護をテーマとして書いた作品だったようだ。それが、映画で最後の21章をカットしてしまったため、映画だけみると、あたかも「犯罪を賛美している映画」のように見えてしまう。
現在絶版だが、1980年に早川書房からでた『アンソニー・バージェス全集(2)』の『時計じかけオレンジ』は、この本来の結末である21章の日本語訳が掲載された唯一のものである。この『アンソニー・バージェス全集(2)』の「訳者あとがき」には、原作者のバージェスが、映画版の結末に不満があったこともかかれてある。また、ポール・ダンカン/著『スタンリー・キューブリック全作品』(タッシェン・ジャパン)の136ページにも、原作者バージェスが映画のラストが原作とことなることに対して不満を抱き、作品のテーマが「罪を犯そうとする衝動の賛美へとすりかえられている」と批判したことが書かれている。
ついでに、映画版の『時計じかけのオレンジ』は、封切後この映画の影響による犯罪がイギリス国内で多発し、のちに監督のキューブリック自身がイギリスで上映禁止をしていたのである。スタンリー・キューブリックの評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)には、以下のようにある。
「一九七四年、『時計じかけのオレンジ』のせいで起きる現実の暴力を憂慮したキューブリックは、イギリスにおける配給を、自主規制の形で止めた。キューブリックは、『時計じかけのオレンジ』がイギリスのいかなるところで上映されてもそれを違法とし、配給をとめるようにワーナーに頼んだ。(331ページ)」
ここにかかれているようなことは、90年代の日本のマスコミでは、ほぼ全く紹介されなかったことだ。90年代の国内マスコミは『時計じかけのオレンジ』を「犯罪を賞賛する作品」として解釈し、そのうえでこの作品に絶対的な名作としての高い評価をあたえていたのである。
オウム真理教の地下鉄サリン事件以降、雑誌のコラムやエッセイなどで、「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」が盛んに言われるようになった。こういう意見は少年犯罪の増加の原因や日本国内の治安の悪化の原因になるのではないか。ニーチェ的な思想というものを、マスコミで社会に蔓延させることこそ直接犯罪に結びつく危険な行為だと言えないか。法務省の犯罪白書の少年による凶悪犯罪合計のグラフによると、あきらかに90年代後半から、凶悪犯罪が増加しているのがわかる。
実は日本では60年代にも文化人たちの間でニーチェブームがあり、桜井哲夫/著の『TV 魔法のメディア』(ちくま新書)によると、筒井康隆の短編『火星のツァラトゥストラ』(『ベトナム観光公社』に収録)は、60年代のニーチェ・ブームを皮肉った作品なのだという(23ページ)。法務省の犯罪白書の凶悪犯罪合計のグラフによると60年代も少年による犯罪が多かったようだ。60年代も文化人たちがマスコミでニーチェ主義的なことをよくしゃべったのではないだろうか。
犯罪心理学者がさまざまな犯罪を解説した『犯罪ハンドブック』(新書館)という本には、ずばり『ニーチェ』という項目がある(151ページ)。この項目では、ニーチェの思想の影響で、いままでいくつもの犯罪が発生しており、ニーチェの思想は危険な面をもつと言及している。このようにニーチェの思想が犯罪の原因になる、ということは、犯罪心理学(犯罪精神医学)の分野でも言われていることのようである。
2004年6月に佐世保で映画『バトルロワイヤル2』の影響をうけて小6女児が同級生をカッターで殺害したという事件があった(いわゆる佐世保事件)。『週刊現代』04,6/26号で、加害少女が自分のホームページに掲載していた自作の小説『BATTLE ROYALE ―囁き―』では、小説の中盤に「正義」を「なんてあまっちょろい考え」といって主人公が罵倒している部分がある。この事件も、「正義」を否定する考え方が犯罪の原因になりうることを物語っている。
*この問題については、ウルトラシリーズの評論の範疇を超えてしまうので、こちら『ニーチェと少年犯罪についての一考察』により詳しく書きました。よろしかったら一読ください。
ハーバード大学名誉教授の倫理学者ジョン・ロールズの「正義論」を研究した『現代思想の冒険者たち23 ロールズ──正義の原理』(川本隆史/著・講談社)という本がある。
この本によるとロールズは「良心の自由(←ここでは信仰の自由のことを表す)、思想の自由、政治的自由、言論や集会の自由といったものを、平等に人々に分配する」ことを「正義」なのだとした。これはロールズのいう「正義の二原理」の一原理目である。
これはこの本の裏表紙のカバーにかかれているし、本のなかにももちろん書いてある(290ページなど)。この「正義の原理」は1971年にアメリカで刊行されたロールズの主著『正義論』において提唱されている。つまりロールズは「正義は『信仰の自由』『思想の自由』を平等に人々に分配するものである」としているのだ。
この正義論はアメリカで70年代初頭に発表され、学者たちの間で社会現象となったらしい。ロールズの『正義論』が刊行される前のアメリカは、知識人たちの間で正義否定論がブームになっている90年代の日本国内のような状況だったらしい。その状況が『正義論』が出てから変化し、以来正義を肯定することがアメリカではタブーではなくなったようだ(『ロールズ 「正義論」とその批判者たち』(勁草書房)の247ページには、その社会現象についての記述がある)。すると今の日本の状況は『正義論』出現以前のアメリカと同じ状況であるといえ、アメリカより日本は30年近くも遅れていることになる。
ロールズの『正義論』における正義が、思想の自由や信仰の自由を認めており、これがアメリカの学者たちの間で「ロールズ・インダストリー」なる現象を起こしたという事実がある以上、ロールズの『正義論』発表以降は、「正義」という言葉は思想の画一化を必ずしも意味しなくなったといえるのである。ロールズはヨーロッパでも評価が高いようで、哲学の入門書としてベストセラーになった『ソフィーの世界』(NHK出版)でも、ロールズを紹介している箇所(普及版下巻・159ページ)がある(『ソフィーの世界』の著者はノルウェー人)。
「『正義』は価値観の絶対化だ」という正義否定論をとなえる言論人が、現在非常に多い。が、今の日本の多くの言論人は、この『正義の原理』を知らないで正義否定論を世に広めてしまい、結局は少年犯罪の遠因を作ってしまったのではないだろうか。このロールズの「正義論」は、いまから30年前に発表されたものなのに、このことを今の日本のマスコミがほぼまったく紹介しないのは不思議である。
価値観多様化の現代とはいっても、他者の自由を侵害しないための価値観は、ある程度の統一をとらなければ社会の平和が保てないのではないだろうか。ロールズは、こういったことを「重なりあう合意」という言葉で表した。この「重なりあう合意」というのが「正義」なのである。この「重なりあう合意」というものがないままに、自由にふるまう人間は、他者の自由を侵害してしまうことになるだろう。
『ロールズ 正義論とその批判者たち』の65ページでは、前述の『正義の原理』の一原理目について、以下のような解説をしている。
「自由の制約は自由のためにのみ許容するというもので、『自由の優先性』を確立する。(中略)自由への配慮のみが、自由を制限することを許される。」
ロールズは「正義」を「社会のなかで最も公正とされること」であるとした。ロールズの正義論は、『信仰の自由』『思想の自由』を認めている以上、ちゃんと人間一人一人の価値観の違いや、異なる宗教同士の寛容などを考慮したものであり、決して価値観の絶対化や押し付けではない。ましてや個人の個性の画一化を促すものでもなく、個人の個性を尊重するのが正義なのである。
世の中の全ての思想、宗教、哲学を罵倒しながら全否定して強引に社会を「一元化」するのがニーチェ主義。それに対して思想、宗教、哲学を肯定しつつ(むろん、それらを否定するというスタンスも尊重することにはなるが)、それぞれの主張が衝突しないように調整することで「多即一元化」をはかるのがロールズの正義論(1原理目)だと言えるだろう。
(「多即一元論」は、価値の多様性を許容しつつ、そこに一つの調和を読み取る世界観)
ロールズの正義論における悪とは、こういう調和を故意に崩す行為をさす。よって「二元論」における「悪」とは別のものだといえるだろう。
仮にパレスチナの問題をニーチェ主義で解決しようとすれば、パレスチナ人やイスラエル人たちから強引に信仰をすてるように強制することになり、そうなれば、そこでまた戦争がおこってしまうだろう。なので、ニーチェ主義は今の時代にはふさわしくないというのが筆者の見解なのだが、やはり日本のメディアトップの人間にはニーチェ主義者がおおいようだ。
また、自分たちの考え方とは違う他者の正義、倫理というものが、価値観の相違といった高次なものではなく、単にエゴイズムを正当化するための口実に過ぎない場合もあるのではないだろうか。こういうケースがあることを認識しないと、政界の「永田町の倫理」とやらも、価値観の相違として容認しなくてはいけないことになってしまう。
川上和久著『情報操作のトリック その歴史と方法』(講談社現代新書)88ページによると、第二大戦中アメリカの宣伝分析研究所では効果的な情報操作の研究がおこなわれたそうだ。この研究所は、政治宣伝の「七つの原則」というものを見い出したそうで、これは有名なものなのだそうだ。
この「7つの原則」の2つめには、「権力の利益や目的の正当化のための『華麗な言葉による普遍化』」というものがある。これはつまり、権力側が正当性のない武力行使を行う際でも、それを言葉で正当化して誤魔化してしまうということである。
こういうマニュアルが存在するということになると、アメリカが2003年のイラク侵攻のような、自衛とはいえない武力行使を行う際でも「自由」だの「正義」だの「平和のため」ときれいごとを並べるのは、この7つの原則の2原則目にそって、市民を欺くためにかなり意図的におこなっているということになる。
『情報操作のトリック その歴史と方法』(講談社現代新書)88ページにアメリカ政府が市民を扇動する方法を研究した「政治宣伝7つの法則」というものがある。これの1つめの法則は「ネーム・コーリング」というもの。これは権力側の攻撃対象になる国や人物に恐怖や嫌悪感を感じさせるレッテルを貼るということだ。
そうなると、ブッシュがイラクや北朝鮮を「悪の枢軸」とよんだのは、この「ネーム・コーリング」だということになるだろう。1983年にもレーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と呼んだのだが、これも「ネーム・コーリング」だったのだろう。
こういうマニュアルがアメリカ政府には存在するのだ。となると、仮に市民の側に「善悪という言葉を使うのをやめよう」という考えがひろまり、善悪という言葉を別の言葉で代用する「言葉の言い換え」が定着しても、権力側はその言葉をつかって、また「ネーム・コーリング」や自己正当化をはかるのは間違いない。永久にイタチごっこを続けることになるのだ。そうなると、善悪という言葉を否定することにあまり意味はなくなってしまう。むしろ善悪という言葉の否定が、善悪の概念の否定にまでエスカレートし、「無制限の自由」を標榜するような世論がおこり、社会が荒廃するというリスクが生じてしまうとおもう。
実際、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『華氏911』は、911以降のアメリカの中東への武力侵攻は「ブッシュ家やサウジ王室の石油利権のためである」という分析にもとづいた作品であり、この作品がカンヌ映画祭で最高賞パルムドールをとって、上映後スタンディング・オベーションが25分間続いたのは有名である。
また、911以降のアメリカの戦争は、軍需産業と株主のブッシュ家をもうけさせるためのものであることも『華氏911』で指摘されている。軍需産業と軍隊および政府が形成する連合体を軍産複合体とよぶ。本山美彦/著『民営化する戦争』(ナカニシヤ出版)によると、ベトナム戦争やそれ以降のアメリカの戦争は米企業が莫大な利益をえるためのものだという。この本によると34代大統領ドワイト・D・アイゼンハウワーは大統領辞任の3日前の1961年1月17日の夕方、全米のラジオとテレビの演説でアメリカの軍産複合体の存在が公に語ったという(49〜51ページ)。
レーニンの『帝国主義(帝国主義論)』によると、戦争は「市場、資源、資本の輸出先、さらに植民地の獲得のため」に行うものとして理解すべきものだという分析がおこなわれている。
そうなると、よく変身ヒーローものの悪役の目的が主に地球侵略という「領土拡張、資源獲得」であるというのは、このレーニンの『帝国主義論』の戦争の原因の分析に通じるといえなくもない。
第二期ウルトラでは『新マン』4クール目に登場する侵略宇宙人たちの侵略目的は「領土拡張、資源獲得」であった。実は『ウルトラセブン』に登場する宇宙人も、半数以上が「領土拡張、資源獲得」を目的とした宇宙人であった。
イラク侵攻によってフセイン政権が崩壊した直後のイラクは治安が悪化。まさに無秩序の自由の状態になた。これについてアメリカのラムズウェルド(ラムズフェルド)国防長官は、「これも市民に自由がもたらされた事の1つの側面だ」「自由な人間には、犯罪や悪いことをする自由があるのだ」という実にニーチェ主義的な「悪の肯定」論を記者会見でかたった。この言葉は、イラク侵攻をしたアメリカ政府の本音なのではなかろうか??(ちなみにラムズウェルドは本音を語ることでアメリカ国民から絶大な支持を得ている米高官である)。
アメリカでは、自由至上主義といわれるリバタリアニズムという考え方がある。これは「個人が自由なら他者はどうでもいい」として弱者救済を否定し福祉政策、社会保障を無視する「過激な自由主義」。『倫理とは何か』(産業図書)によると、リバタリアニズムこそがアメリカでは「守るべき伝統」であり保守思想ということになるそうだ(179ページ)。日本の知識人には、こういう過激な自由主義こそが進歩的な思想だとおもっている人も多いようだが、アメリカではこういう思想が保守思想となる。
このリバタリアニズムは、『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』によると、アメリカの西部開拓時代の農民の思想なのである(319ページ等)。リバタリアニズムは、後述するアメリカのキリスト教原理主義のカルヴァン主義から派生した思想であり、アメリカの伝統的な価値観である。
そして、これに対抗するのが、個人の自由を重視しながらも福祉も重視するリベラリズム(自由主義)である。ロールズの正義論の第二原理目は大雑把に要約すると「最も不遇な人々の暮らしの改善をはかる」で、弱者救済処置である福祉について定義したものだ。つまりロールズの思想的スタンスは、このリベラリズムに属するので左翼の思想である。リベラリズムは左翼でありリバタリアニズムが右翼となる。
イラクが無秩序状態になった際「自由な人間には悪いことをする自由がある」といったアメリカのラムズフェルド国防長官は、このリバタリニズム系の政治家なのだそうだ(2003年2月28日放送の『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)での宮台真司氏の発言より)。アメリカの保守系の政党は共和党で、ブッシュ大統領もラムズフェルドも共和党であり、共和党は「弱者救済を否定する」というアメリカの伝統を堅持するスタンスの政党である。ブッシュ政権では軍事問題はラムズフェルドに一任されており、イラク侵攻を提案したのもラムズフェルドだといわれる。
栗林輝夫の『ブッシュの「神」と「神の国」アメリカ』(日本キリスト教団出版局)という本の10ページによると「ブッシュは自身のキリスト教を、内面の豊かさや敬虔を大切にするウェスレー神学の枠から、いっそう黙示録的で戦闘的なカルヴァン神学へと転じた。イエス・キリストの人格的応答から、神の特別な「予定」、神の主権に獲得されたアメリカの「選び」の信仰へと大きく変えた」とある。
この記述はブッシュ本人もカルヴァン主義者だったということがわかるものである(ウェスレーは18世紀の英国国教会のキリスト教司祭で、プロテスタントのメソジスト派を起こした神学者)。さらにはブッシュ政権の支持層である福音派のクリスチャンも、この本によるとカルヴァン主義者だそうだ。この本の16ページの「福音派」というコラムによると福音派は「歴史的にはその多くがカルヴァン主義に起源をもつ。」という。
日本のマスコミは、ブッシュ政権は独善的な「正義」の象徴であるとし、「正義」を否定したうえで「自由のために弱者を犠牲にする」という価値観を賛美することもある。こういう弱者救済を否定する価値観は世間一般的には「不正義」だからである。そして、こういう価値観こそブッシュ政権からもっとも遠い価値観だとと妄信しているきらいがある。しかし皮肉にも、上記のように、そのような価値観こそが、実は現在アメリカを動かしているブッシュ政権の思想に近い思想なのである。
市川森一氏は、シナリオ集『夢回路 市川森一ファンタスティックドラマ集』(柿の葉会)のインタビューにおいて「〜弱い者をいじめちゃいけないとか、そういうことをウルトラマンに教えられる子供はロクなもんにならないとおもうんですよ。(536ページ)」というコメントをしているが、この発言は弱者救済の否定を意味し、ロールズの正義論の第二原理の否定に該当し、リベラリズムの否定であり、市川氏の思想的なスタンスは保守主義(右翼)だということになるだろう。
ウルトラマンなどの、ヒーローの正義というものを考える上で興味深いのは、寺山修司(劇作家・詩人)による著書『書をすてよ、町へ出よう』(角川文庫)の『月光仮面』という項(p,29)である。
この項では、月光仮面の「正義」について寺山氏が考察をおこなっている。そのなかで、月光仮面は「与えられた正義」、つまり社会の既製の正義のためばかり働いているので、国内の事件はともかく、ベトナム戦争のような国際的な事件においては出動できない、と言及されている。
国際的な事件では、対立する国同士が、お互いに正義を主張しあっているので、こういう事件に月光仮面が参加するには、今までのように、「与えられた正義」のために働くのではなく、月光仮面は正義の選択をせまられると寺山氏はいう。そして月光仮面は「正義の選択」に必要な「正義観」を養わなくてはならず、それには「自らの正義」をつくり出さなければならないという。
その上で、寺山氏は連合赤軍の人民裁判や処刑などにふれ、
「正義はいまのところ、自らの国家を生成しようとする革命家たち(の正義)をのぞけば、きわめて保守的なものであり(中略)革命家を犯罪者に変えてしまう魔術師である(p,36)」と述べている。
『ウルトラマンタロウ』で脚本家デビューした阿井文瓶氏(現・渉介)は、ウルトラシリーズの脚本執筆にあたってウルトラマンに反体制テロリストのイメージをダブらせていたという。
この阿井氏の「ウルトラマン=反体制運動家」というイメージは、革命家の「正義」以外の「正義」は体制的で保守的なもの、という先の寺山氏の意見の影響をうけているものだろう。
つまり、安保闘士の闘争をだぶらせた第二期ウルトラのウルトラマンの正義とは、革命家の正義に近いものであり、よって反体制的で革新的な正義だったといえるのである。阿井氏は、ウルトラマンを反体制テロリストと同質のものと位置付けることで、ウルトラマンが体制側の味方というイメージに陥ってしまうことを回避したかったのだろう(もっとも、赤軍のメンバーは、今となってはハイジャック事件について、目的はともかく手段において「不正義だった」と謝罪している)。
第2期ウルトラといえば、やはり『新マン』の初期作品や『レオ』などに、当時流行の梶原スポ根ドラマの影響があるのは有名である。70年代梶原スポ根の代表作『あしたのジョー』は、70年代の学生運動家の必読書だったそうだ。
当時の読者は、梶原スポコンの主人公とライバルの戦いを、「反体制」対「体制」の図式で捉えて読んでいたいたという。寺山修司が音羽町の講談社で力石の葬式を挙げたことも有名。日航機ハイジャック事件で赤軍派が出した声明文にも、「我々はあしたのジョーである」という一節があったという。このように、梶原スポ根に代表される70年代の根性ドラマは、上昇指向ための根性ではなく、あくまで反体制的な反骨精神による根性なのである。
かといって、この時期のウルトラは単なる梶原スポ根ドラマの模倣に終始してはいなかった。というのも、第2期ウルトラのプロデューサーの橋本氏は、精神主義を「いやらしい」と否定している人物で、そのためこの時期のウルトラは精神主義を否定したうえで努力を描くという、異色の根性ものとして製作されたからだ。つまり努力しても、それだけでは目的はとげられない、というシビアーなドラマである。第二期ウルトラおよび橋本氏のプロデュース作品は、梶原スポ根の模倣に終始せず、梶原スポ根を一度解体し、より説得力のある形で再構成した作品なのである。
しかし、第二期ウルトラにも、文明批判テーマの作品はいくつか存在する。それは公害問題、自然破壊への批判テーマの作品である。というのも、第二期ウルトラの製作年度は70年代であり、この時代は、高度経済成長の代償である公害が社会問題化したからだ。
第二期ウルトラのエコテーマ作品として意外に触れられないのが、『ウルトラマンタロウ』の14話『タロウの首がすっ飛んだ』だ。この作品は「宅地造成は国家の要請に基づいているんだ」というゲストの地主の台詞があることから恐らく田中角栄の「日本列島改造論」を暗に批判した作品だろう。『タロウ』の放映された1973年は政府の政策で宅地造成や新幹線の敷設などが盛んに行われた時代だった。
地蔵が自然の守神で、エンマーゴに自然の破壊の象徴という意味をさりげなく持たせている。こういうことも大人になって見返して始めてわかることで、やはり以前『パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版)で庵野秀明氏が言われたとおり、『タロウ』の本当の面白さが分かるのは、大人になってからなのかな?と思ってしまう。
ほかには、『新マン』のテロチルス前後編(16,17話)も、実は環境問題に触れた作品だ。巷では『新マン』のなかでも、あまり話題にならないが、ドロドロしたメロドラマと二本柱で、公害問題にまで触れている欲ばったドラマ構成に舌を巻いてしまう。テロチルスの口から吐く糸状の物質は、テロチルスにとっては自らの巣を作る原料だが、それが東京のスモッグと化合すると、赤い猛毒ガスになるのだ。元々火山の噴火口に巣を作っていたテロチルスが東京に巣を作ろうとするのだが、テロチルスがなぜ東京に巣を作ろうとしたのかという理由は、東京の気温が年々上昇して、東京の環境が火山の噴火口に近付いているからだという設定で、これも、暗に東京の人工増加や過密化を風刺している。
他に第二期ウルトラで公害や環境問題にふれたものは、『新マン』では12話『怪獣シュガロンの復讐』(自然開発)、22話『この怪獣は俺が殺る』(ゴミ問題)、『ウルトラ特効大作戦』(スモッグ)がある。『A』では15話『黒い蟹の呪い』(海洋汚染)、23話『逆転!ゾフィ只今参上!』(環境破壊全般)、36話『この超獣10,000ホーン?』(騒音)、37話『友情の星よ永遠に』(騒音)、47話『山椒魚の呪い』(農薬による水質汚染)『タロウ』では『怪獣ひとり旅』(温泉のボーリング工事)21話『東京ニュータウン沈没』(宅地開発)などが挙げられる。『レオ』でも25話『かぶと虫は宇宙の侵略者!』(公害)や最終回『さようならレオ!太陽への出発』(宅地開発、ゴミ問題など)がある。
また、公害問題ではないが、文明批判のテーマを内包させていると思われる作品もついでに紹介しよう。あまり触れられないが『新マン』の42話『富士に立つ怪獣』が文明批判のテーマを内包させていると思われる作品だ。この話は、電波や光を自由に操れるストラ星人に操られた怪獣パラゴンを倒すために血気にはやる岸田隊員が、人間の科学力を過信し、パラゴンにMATの超兵器で攻撃を仕掛けるも、ストラ星人は電波を自由に操れるためレーダーが役に立たず、怪獣に向けたミサイルが地上の市民へ向けて飛んで行き大混乱になるというストーリーだ。この回はMATの科学力を過信して岸田がかえって市民を危険にさらすという展開を通し、科学万能を否定していると思われる。この回は終盤の作品でありながらシリーズ初期を思わせる岸田と郷の対立が描かれているのも注目。
電波や光を操れるストラ星人に守られるパラゴンにMATの超兵器による攻撃が通用しないのでは?という予測を立てる郷。岸田は郷に「俺達の科学を信じないのか?!」と問いつめるが、これに対する郷の「いえ、科学的な心配をしているんです」という切り返し方が面白い。
『レオ』では24話『美しい乙女座の少女』も文明批判的なテーマの作品だ。ロボットに支配された惑星サーリン星から亡命したサーリン星人ドドルとアンドロイド・カロリン。カロリンは亡命した彼等を連れ戻しに来たロボット・ガメロットに襲われる。レオは変身してガメロットと戦うが苦戦。レオを密かに愛していたカロリンは、体当たりしてガメロットの心臓部を破壊、致命的なダメージを与えレオを救う。この話はロボットと人間の恋愛とロボットに支配された惑星というモチーフを同時に描いた欲張った構成で、ある意味、『セブン』の43話『第四惑星の悪夢』と『キカイダー01』(73年)の後半(ロボットが感情を持つ)を同時にやったような秀作である。この話があまり話題にならないのは、脚本が正体不明の人(奥津啓二郎)なので、つい意識の外へ追いやってしまう感があるからか。
第二期ウルトラシリーズのプロデューサー橋本洋二氏は作品を作るにあたって、毎回の脚本にテーマを作品に設けることを条件としていたという。私個人は、テーマのない作品も、テーマのある作品も、それぞれに良さがあると思う。しかし現実問題、テーマがない作品は、どちらかといえば、世間一般的には底の浅い作品として低く評価されることが多いのもまた事実である。
橋本洋二氏は、『テレビヒーローの創造』(樋口尚文/著。筑摩書房)によると、学生時代に破防法闘争に実際に参加していたという、反体制的な人物であった(148ページ)。TBSの社員になったあとには60年安保にも取材で立ち会っている(148ページ)。そういう橋本氏が直にプロデュースしているという点でも、第二期ウルトラというのは反体制的な作品であったといえるだろう。
特撮映画というものは、特撮技術が日進月歩なので、時間が立つと見劣りするものになりがちだ。なので特撮映画でも、なにかしらドラマ性、テーマ性を盛り込んで文芸映画としても成立するようにしたほうが、あとあと長持ちしやすく、制作後に長い時間が経過しても評価を得られる作品になりやすいだろう。なので、ウルトラシリーズも、主に第二期ウルトラにおいでテーマ性、ドラマ性が強化されたのは評価できる。
映像作品のテーマとは、要は作り手の人生観や倫理観を情報として視聴者に送り、知識として視聴者に知ってもらう、ということだと思う。そしてその知識として知った人生観や倫理観を、自分自身の価値観にするのは、視聴者自身の判断だろう。
また、テーマに関わる台詞というのは、抽象的な台詞なら、ある程度、色々に解釈する事も可能である。なので、こういった抽象的な言葉によってテーマを訴えることは、ある意味一種の問題提起のようなテーマ展開ともとれる。
現在、日本のマスコミに登場する言論人は、多元主義(=価値相対化)の重要性を訴えている。そして、こういった映像作品等にテーマを設けて制作者が自分の意見を公に発表することを、他者の価値観を全否定していると解釈して、「多元主義の否定」だと批判する言論人もいるようだ。実は、このような理由から、市川森一は橋本氏のテーマ主義を批判したのである。
しかし、自分の考えを発表することを否定したら、「言論の自由」を侵害することになり、かえって多元主義を否定してしまうことになるだろう。色々な人が色々な媒体で、様々な意見を発表し合っている、という社会こそ「価値観相対化」の本来の姿ではないか。従って映像作品等で制作者が意見を発表することは価値観の相対化の一環であり、テーマのあるドラマこそ多元主義の社会に順応しているのではないかとさえ思えるのだが。
価値相対主義の現代では、人は林立する価値観のなかから自分の志向性に合ったものを選択すればいい。価値観の選択肢を用意するという意味でも、ドラマ、映画にテーマを入れるということは現在でも意味があるとおもわれる。
また、映画やドラマのなかにおける意見の主張は、その人への強制力はもっていない。観客(視聴者)が、その映像作品で訴えているテーマに納得しなくても、それによって制作者から何か懲罰を受けるなどということはないからだ。なので、ドラマや映画でテーマを訴えるということは、他者への価値観の押しつけには該当しないだろう。
ウルトラシリーズには、橋本氏が参加する前から、子どもへ教訓的なメッセージをおくった作品があるにはあった。『ウルトラQ』のカネゴンの回(『カネゴンの繭』)がその代表的な作品だろう。このカネゴンの回は「金に執着するとカネゴンになっちゃうぞ」という教訓をテーマとしている。このカネゴンの回は『ウルトラQ』を代表する作品である。なので、作品のなかに教訓的なメッセージをこめることはウルトラの基本路線から外れたものではない。
世界中で読まれているイソップ童話(イソップ寓話)にしても、すべての話に教訓があるのである。日本昔話しにも教訓がある。「テーマ性のある物語を子どもに見せるのはイケナイ」ということになったら、一体どれだけの、世界の名作童話を発禁にしなくてはいけないのだろうか?
実は現在の日本社会では、出版、放送マスコミでコメンテーターとして登場する評論家、学者、作家等といった言論人の意見の方が、映画やドラマのテーマより強い影響力をもっている。というのも、その映像作品がマスコミで言論人たちに酷評されれば、その作品自体の評価が落ちると同時にその作品でうったえているテーマも大衆は信じなくなるからだ(奇しくも第二期ウルトラもそういう憂き目にあってしまった)。
心理学によると、人々は権威や実績のある人間の発言を何でも正しいと信じ込んでしまうという傾向があるそうだ。これは心理学用語で「ハロー効果(後光効果)」という。
そうなると、影響力の強さは「言論人の意見>映画のテーマ」ということになる。
日本のマスコミ業界は、みな横のつながりがあって、同じ考えをもっていないと、業界から追い出されてしまうようである。なので横並び報道が非常におこりやすい。こういうマスコミの体質は村社会的な排他性であり、日本の風土的なものがあるようだ。こういった体質は多元主義とは程遠いではないか。
前述の市川森一氏の「ヒトラーは正義という言葉をかたったから自由という言葉がいい」という意見は誤認だった。しかし、この言葉はおおくの日本人が信じていたのではないだろうか。実際、『仮面ライダー』のプロデューサーはこの言葉を信じ、自らの著書に自分の意見として書いていたぐらいである。これらのことは、前述のハロー効果の影響力がいかに強いかということ示す代表例としての意味ももっている。
これは、日本人にとってマスコミでものを言う言論人が、いかに絶対的な権威であるかを物語っている。もし「映画やドラマにテーマを入れることは多元主義の否定になる」というのなら、まずは言論人自らがメディアで一切意見を言わないようにしなくてはいけなくなるだろう。
また、市川森一氏は、橋本氏のテーマ主義を批判しながら、子どもにアメリカ資本主義的な競争原理(個人主義)をおしつける『女王の教室』に向田邦子賞をあげるという暴挙をやってしまっている(2006年4月6日 日刊スポーツ)。
この『女王の教室』は、子どもに弱者切り捨ての競争原理をシゴキで教え込む女教師が主役のドラマで、あきらかに社会に危険なメッセージをおくってしまったドラマである。競争原理は、アメリカの保守主義の個人主義であり、このルーツはキリスト教原理主義のカルヴァン派プロテスタントから派生したアダム・スミスの経済学に源流をもつ。
カルヴァン派プロテスタントについて書かれた文献は、小室直樹『ソビエト帝国の最期 予定調和説の恐るべき真実』(光文社)の166ページ以降、また副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)の346〜347ページ、アダム・スミス『国富論 2』(岩波文庫)304ページなどがある。
キリスト教原理主義は、いうまでもなくアメリカの共和党政権、ブッシュ政権のイデオロギーである。キリスト教原理主義は、聖書の『ローマ人への手紙』の9章にある「だれがすくわれるかは、その人の行いや努力に関係なく神が予定している」(15-16節)という「予定説」であり、この予定節を根拠に「弱者を人間が救済してはいけない」という個人主義、利己主義をとなえ、社会保障を否定するものである。「予定説」は「予定調和説」といわれるときもある。
この個人主義は社会に裕福層と貧困層という階層ができてしまうため問題視され、これに対抗する形で社会保障、社会福祉を重視する社会主義、共産主義、リベラリズム(福祉国家、社会民主主義)といった左翼思想が誕生した。こういった経緯から、キリスト教原理主義は「保守主義」「右翼」として分類させる。
マルクス/エンゲルス著『共産党宣言』の有名な一節「人類の全歴史は階級闘争の歴史であった」に象徴されるように、社会の階層をなくすことこそが左翼の基本的なスタンスである。
本来の左翼は人間社会の歴史を【原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義】という順にすすむと考える。これを発展段階論という。
(発展段階論について一番わかりやすいのが、光文社新書の『マルクスだったらこう考える』(的場昭弘/著)の40ページである。おおもとの歴史的に著名な思想家の本としては、マルクスの『経済学批判』の「序説」、それに『資本主義的生産に先行する諸形態』(大月文庫)が参考になる(後者は『経済学批判要綱』の一部)。ほかに『反デユーリング論』や『資本論』(第1部第24章)などで発展段階論についてふれられている。)
そして奴隷制→封建制→資本主義の3つを右翼とするのが左翼である。なぜなら、この3つの社会は社会に階層をみとめてしまうからである。
911といわれるアメリカの同時多発テロの直後からの数年間(郵政民営化がきまるまで)の国内マスコミは、あきらかにこのキリスト教原理主義を完全に正反対に誤解していた。911以降の国内マスコミは、あきらかにキリスト教原理主義を「キリスト教の弱者救済主義をアメリカが全世界におしつけている」と誤解して大報道をおこない、ひとつの壮大なブームをつくりあげていました。それによって『女王の教室』のようなドラマが人気となったり、さまざまな社会問題が起こってしまったとおもえる。
市川氏はキリスト教信者として有名だが、この『女王の教室』に賞をあげるということからもわかるように、キリスト教原理主義につうじる発言をおこなう場合がおおい。市川氏は、自作を「テーマがないドラマ」などと評する場合がおおいが、実は作品のなかにキリスト教原理主義的なテーマをさりげなく忍ばせている場合がおおい。
橋本洋二氏の指向したドラマはテーマ主義といっても、そのなかでリベラリスムに通じる他者との協調性(集団主義)や利他主義をとなえる場合がおおかった。しかし、市川氏の書くドラマは、作品のなかにキリスト教原理主義に通じる個人主義が反映されている場合がおおい。市川氏のドラマのほうが社会を右傾化させるという点では危険なドラマといえる。
ちなみに、第二期ウルトラにおける市川脚本は、橋本氏の厳しい監修によって、そういったキリスト教原理主義的な部分が極力おさえられている。しかし、それでも断片的には残っている。
『新マン』のプルーマの回(31話『悪魔と天使の間に…』)のラストの台詞「所詮人間は人間。天使にはなれんよ」がもっとも端的であろう。これも橋本氏の監修があったからこそ、あの程度の言い方で済んでいるといえ、そういう抑止力がなければ、もっととんでもないことをいわせてた可能性がある。
この回のラストの「所詮人間は人間。天使にはなれんよ」というセリフは「人間は神のように万能にはなれない」という意味にもとれるので、ぎりぎり背徳主義とはいえない台詞となっている。だが、実際は後年に出版された市川森一シナリオ集『夢回路』(柿の葉会)の巻末の本人のインタビュー(536ページ)から判断すれば、かなり背徳主義的な意味合いのセリフだったようだ。
市場経済の発達した現代では、権力とは政治と必ずしも同一ではないのが現状である。平凡社『世界大百科事典』9巻216ページ『権力』の項によれば
「権力は、政治権力、経済権力、社会権力(マス・メディア、大学など)、宗教権力などに区別される。(216ページ)」
とあり、マスメディアも社会権力という一種の権力であると述べられている。しかもそれが一流のマスコミとなると、経済権力としての性質も合せもっているだろう。そうなると一流マスメディアに好意的に取り上げられて有名になった有名人も、経済権力であり社会権力であろう。有名人が現代の権力者であるということについて触れている本『有名人と権力』(勁草書房)という本があるほどで、著名人は現代の権力者だといえる。
話しはもどって、解釈の幅のあるテーマを語った台詞の、一つの例としては『新マン』最終回『ウルトラ5つの誓い』の「他人の力を頼りにしない」という言葉を挙げたい。
これは結構抽象的な台詞であり、いかようにも解釈が可能な面をもっている。この台詞を自分は「自己責任の範疇のことでは、他人に助けを求めるな」という意味に解釈し、「他人を助けるな」とは言っていないので、決して助け合いを否定した台詞ではない、と解釈した。が、市川森一氏はこの台詞を「助け合いの否定」として悪いように解釈し「人間ひとりでは生きていけないじゃない」と批判したのだ(これは言葉尻をつかまえた揚げ足とりだろう)。
確かに他人と助け合って生きてゆくことは人間には大事だが、助け合うことの意味を取り違えると、依存心の強い人間ができあがってしまい、こういう人間は返って周りの人間の迷惑になってしまう。「他人を頼りにしないこと」という言葉は、こういう過剰な依存心を否定した言葉であり、助け合うこと自体を否定した言葉ではないだろう。事実『ウルトラマンレオ』41話『悪魔の惑星から円盤生物が来た!』ではラストに「人は皆助け合って生きてゆくものです」という美山咲子のセリフがあるし、毎回第二期ウルトラでは、ウルトラマンや主人公の所属する防衛チームは「世の為人の為」に働いているのであり、こういう点からも「たすけあい」は否定していない。
第二期ウルトラは、隊員同士の対立といったドラマでチームワークの大切さを訴えることも多かった。主人公がやや自己中心的になってしまい、他の隊員と対立するという展開である。これは第二期ウルトラが市川氏のいうような他者との協力を否定しているドラマではない証拠といえるドラマである。
筆者は「他人の力をたよりにしない」というウルトラ5つの誓いの言葉は「他力本願ではだめ」というように解釈していますし、実際、製作者側の狙いもその辺だとおもえる。
社会保障が破綻する原因としてよくいわれているのは、競争に駆り立てないと、怠けて慢性的に社会保障に依存する人間(健常者)がふえてしまい、それにより経済が破綻するということです。こういう社会保障の問題点を指摘するのは大体資本主義者の保守派だが、こういう批判をかわすためには、なるだけ社会保障に依存せずに自力でできることは自力でやる、ということが重要になってくるとおもえる。
なので、「他力本願はだめ」というのは、リベラルな政治的スタンスをとる人間には重要な意味をもってくるとおもいます。こういうことは、リベラリズムの法哲学者ロールズの遺稿である『公正としての正義』(岩波書店)にもでてきます。ロールズはリベラリズムに適う社会をつくるため、福祉国家(福祉資本主義)とは別の政治的構想として「財産私有型民主制」というものを提唱しています。
この「財産私有型民主制」というのは、社会の一部に富や資本が集中しないために所得を分散させるという構想で、福祉国家のように各期の終わりに所得の少ない人に所得を分散するのではなく、各期の最初に資産と技能教育を市民に平等に分配するというものである(福祉国家とあまり大差ないもの)。
この説明のなかに、資本主義の競争に敗北したひとたちは手助けしなければならないと前提したうえで、各期のはじめに所得を平等に分配する狙いとして「適正な程度の社会的・経済的平等を足場にして自分自身のことは自分でなんとかできる立場にすべての市民をおくということ(248ページ)」という記述がでてきます。
これは、前述の「他力本願はだめ」という意味の記述と同じだといえましょう。また、「他力本願はだめ」という意味とは少し違う意味ですが、60年代アメリカのカウンターカルチャーの人間たちで「他者に依存しない」というようなポリシーをもった人たちもいました。これはヒッピー運動の行政機関といわれたディガーズというグループである。このティガーズは、家出少年少女に無料で食料配給をしていた原始共産主義者のグループである。
『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)315〜316ページによると、「ディガーズをヒッピー運動の行政機関と呼んだ人がいる。事実彼らは中核をなす組織だったが、根はラジカルな実存主義者だった。彼等は要求しない。なぜなら要求とは他者への依存だからである。要求すれば、相手は要求される対象としての合法性を増々強化してしまう。食物を要求してはいけない。食物は手に入れて配るべきものだ。」という記述がある。
ちょっとわかりにくい記述ですが、ティガーズは弱者を助ける立場にいるので、そういう立場にいる彼等が弱者に依存するようでは弱者の負担になるのでいけない、ということでしょうか。これを「ウルトラ5つの誓い」の「他人の力をたよりにしない」に当てはめると、この言葉はもともと郷秀樹が将来MATに入れと薦めた次郎君へむけられた言葉なので、万人に適用する言葉ではなく、そういう弱者を助ける立場の人間の心得としての言葉として解釈できますね。
蛇足だが「人間一人では生きられない」という市川氏のような意見は、実はアメリカのブッシュ政権の中心的人物であるラムズウェルド国防長官も言っていることなのである。ラムズウェルドは『フォーブス』という雑誌のインタビューで以下のような発言をしている。
「モーツァルトやアインシュタインやマリー・ルー・レットン(ロス五輪の女子体操金メダリスト)でない限り、人は人生の大半を一人では生きられない。何か大きなことをなし遂げようと思うなら、他人の力を借りなくてはならない。これが何よりも肝要なことだ。」(KKベストセラーズ『ラムズフェルド 百戦錬磨のリーダーシップ』98ページより)
ラムズウェルドはタカ派の政治家で、ブッシュを操る人形使いといわれるほどのブッシュ政権の中心人物である。ラムズフェルドは共和党の保守派の政治家であり、アメリカの保守主義者はキリスト教原理主義に根ざした個人主義者であるが、個人主義というのは、他者との連係を全く否定するわけではない。
自分の利益にとって必要な人間とは協力して自己の利益を追求するのが個人主義である。これは、個人主義系の思想であるシュティルナー主義の「エゴイスト同盟」にもみられる考え方である(ジョージ・ウドコック著『アナキズム1 思想編』(紀伊国屋書店)132ページ参照)。市川氏のいう「たすけあい」とは、こういう自己利益の追求のための他者との協力の意味であろう。
ちなみにシュティルナー主義とは、自分の利益になる人間とは協力して、その他の人間は殺してもかまわないという過激な個人主義であり、前述のアメリカの保守主義リバタリアニズムに含まれるとされている。マレイ(マレー)・ブクチンという学者は『現代思想』2004年5月号(54ページより)の高祖岩三郎による文章『「アナーキー」あるいはその「実践倫理」の波長域』内の記述によると、スティルナー主義をリバタリアニズムと同じだとして批判している。森村進の『リバタリアニズム読本』(勁草書房)でも、シュティルナー主義をリバタリアニズムの一種としてとりあげている(102ページ〜)。
アナーキズムの代表的な思想家であるクロポトキンもシュティルナー主義を批判している。玉川信明/著『FOR BEGINNERS シリーズ39 アナキズム』(現代書館)によると、クロポトキンは小冊子『無政府主義の倫理』でシュティルナー主義に反対して、社会性と連帯性との倫理学を提唱し「相互扶助」「正義」「自己犠牲」の三要素を道徳の根幹とした(128〜129ページ)。
また、「ウルトラ5つの誓い」は、「他人の力を頼りにしない」の他に「天気のいい日に布団をほすこと」と「土の上を裸足で走りまわって遊ぶこと」というものがある。これらは太陽の恩恵や大地の感触といったものへの敬意を促すという意味があるとおもわれ、文明が進むことで社会が「脳化」していくことへ歯止めをかけたい、という制作者側の願いが込められているのだろうか。
「他人の力を頼りにしない」ということをテーマにした作品で、他に印象的なものを一つ紹介しよう。
『タロウ』の29話〜30話の改造ベムスター前後編は、一見初代『ウルトラマン』の37話『小さな英雄』のリメイクのように見えるが、この『初代マン』の37話のドラマが、科特隊の存在意義への問いかけに終始していたのに対して、この『タロウ』の改造ベムスター編は、ZATの存在意義への問いかけに加え、さらに「他力本願の否定」を訴えるテーマがドラマに加わり、『初代マン』の37話よりドラマのグレードが上がっている。
さらに、『初代マン』の37話が殺風景な岩山でストーリーが展開するのに対し、この『タロウ』の改造ベムスター編は石油コンビナートが舞台となっているので特撮が派手なのも飽きさせない。“他人を頼りにしない”というテーマが、この作品においても重要な位置をしめている。この話における、あてにしてはいけない他人とは、タロウそのもののことである。
他人を頼りにしない、というこの手のテーマは、丁度ウルトラマンを見る幼稚園児ぐらいの子供には、実は結構キツイもので、筆者もこの手のテーマの話は幼稚園児ぐらいの年齢の時は見ていて辛かった覚えがある。幼稚園児ぐらいの子供って親に甘えたい(=他人をあてにしたい)盛りですから。でも大人になってから見返すとなんとも奥の深い物を感じてしまうテーマである。
第2期ウルトラには性格の悪い子供が多数登場することか特徴で、明るくてワンパクな子供しか登場しない第1期ウルトラと違う所である。『A』の3話『燃えろ!超獣地獄』でヤプールが「子供の心が純真だと思っているのは人間だけだ」という台詞を語るシーンがあるように、第2期ウルトラのドラマは、子供の心が純粋だとは限らない、というスタンスをとっている。改造ベムスター編のZATをボロクソに馬鹿にする性格の悪い『寺子屋塾』の子供たちの描写は、子供の心が純粋だとは限らないという第2期ウルトラのドラマの基本スタンスを端的に表わしている。
子供というものはみな純粋な精神を持っている、というのは大人の勘違いであり、古い価値観だろう。よって子供が凶悪な犯罪を犯したからといって、その子供が大人に近い精神を持っているという認識をするのは間違いである。子供が犯罪を犯すと、子供が大人に近い精神を持っているという分析を下す大人がいるが、そういう分析をすることは、犯罪をやることが「大人な人間」であるかのような錯覚を児童がひきおこし、児童が犯罪に憧れるとおもわれ問題ではないか。
『ウルトラマンタロウ』の改造ベムスター編には、デビューしたばかりの大和田獏がメインのゲストで、タロウをあてにしている子供をたしなめる塾の先生という役回りを演じている。この大和田獏演じるキャラが開いている塾『寺子屋塾』は大変ユニークな塾で、勉強は一切教えず、子供に遊ぶことやマンガを読むことを教えるという、非教育的な教育機関(?)である。
プロデューサーの橋本氏は子供番組を制作するに当たって「文部省が推薦するようなドラマは作らない」という方針を打ち出していたという。文部省の役人を始めとする教育者たちは普通マンガを読むことを勉強と相反するする行為と捉えているものである。なのにこの『寺子屋塾』は子供にマンガを読むことを薦めてしまうのだ。子供に勉強を教えない塾というこの『寺子屋塾』のアイロニックな設定はまさに橋本作品の“反文部省”という制作方針を顕著に表わした設定だ(塾という存在自体が本来“反文部省”的なものなのであるが)。
話は戻るが、第二期ウルトラでは隊員同士の対立といったドラマでチームワークの大切さを訴えた作品もあり、これらは「人間は一人では生きていけない」というメッセージを感じる作品だろう。『新マン』の初期作品や『A』の初期作品、また『レオ』でも何本か存在するが、ここでは代表例として『タロウ』のテンペラー星人前後編(33,34話)を挙げたい。
この話は、後編で、ウルトラ兄弟たちの忠告を聞かずに独走した光太郎が、それによって星人の罠にはまり改心する、というストーリーを通してチームワークの大切さを描いた。
この話の評価できる点は、安易にチームワークの大切さを訴えていない点である。「チームワークは、優れた人間への周囲のひがみなのなのでは?」という問題提起を光太郎に行わせており、これにより一時的にチームワークの意義に揺すぶりをかけていて(当然後に否定されるのだが)、安易にチームワークの大切さを訴えていないのがいい。
この回の前編では、兄弟が総出で戦いに出向いたら、返って戦線拡大してしまうということに苦悩する兄たちのドラマが描かれている。これは、ウルトラマン達の戦いが、逆に平和を脅かす事もあるというアイロニーが含まれていていて唸らされる(同時にタロウを鍛えるという意味付けもあるのだが)。
アメリカの変身ヒーロー作品『パワーレンジャー』シリーズでも、メンバーの一人がスタンドプレーをしようとして上官から制止されるという、日本の第二期ウルトラとおなじような作品がある。
『パワーレンジャー』シリーズの一つ『パワーレンジャー・ライトスピードレスキュー』の2話『鉄壁のチームワーク』がそれであった。パワーレンジャーは5人組のヒーローだが、この回は、そのメンバーの一人がスタンドプレーをしようとすると、上官から「力をあわせろ!」と何度も注意されるという展開がある。最後は「チームワークが大切なんだ」というパワーレンジャーのリーダーのセリフで終わる。アメリカで制作、放映されたこの番組にこういう話があるとなると、「スタンドプレーはだめ」という価値観は欧米でも日本でも同じということになる。
2007年6月1日のサンケイスポーツの6面によると、キリンカップサッカー2007で日本チームが勝ったことについて、試合に勝ったにもかかわらず、オシム監督は「個人プレーが多い」という理由で試合内容には満足しなかったとある。
「最大の不満は個人プレーの多さ。「最初はいい試合だったが、途中から個人プレーに走る選手が出てきた。チームのためでなく、自分のためにボールを使う。画面にアップで映りたいとか、そういうプレーはチームのためにならない」と(オシムは)言い切った。(上記のサンスポの記事より抜粋)」
このオシムのコメントにもわかるように、チームワーク、チームプレーを重視するという考え方は日本人固有のものではない。オシム監督はボスニア(旧ユーゴスラビア)出身だが、そういうオシム監督でも個人プレーには批判的で、チームワークを重視している。試合に勝っても「個人プレーがおおい」という理由で不満を述べるのはおどろきである。このように、反個人主義的な価値観は、なにも日本固有のものではありません。むしろ個人主義こそ欧米特有の特殊な価値観ということである。
サッカーコーチの湯浅健二の書いた本『サッカー監督という仕事』(新潮文庫)によると、海外には選手個人の能力は高くても、組織プレーがないがしろになっているために、その個人の実力が発揮されないというチームもあるそうで、フランスワールドカップでのナイジェリアがそれにあたるそうである。
「典型的な例は、フランスワールドカップでのナイジェリアだ。彼らは本当に上手いし、身体能力も抜群だ。技術だけならば世界のトップレベルである。なのに、その高い個人能力が、全体的なチーム力となって集約されない。彼らは、パスを受けたら、ほとんどといっていいくらいボールをこねくり回し、単独勝負のチャンスを狙う。そして、ボールの動きがそこで停滞してしまう。(110ページ)」
そして、湯浅氏によればルーマニアのチームにもこの傾向がみられるそうです(111ページ)。
サッカーで世界最強といわれるのはブラジルのチームですが、湯浅氏はブラジルのチームを「個人能力と組織プレーとがうまくバランスしているチーム」と評します。
「逆に、高い個人能力と組織プレーが、うまくバランスしているチームもある。その代表がブラジルだ。(111ページ)」
そのブラジルも、かつては個人プレーだけが強調されすぎて、ボールが停滞してしまっていたこともあったそうです(113ページ)。しかし、それが時代とともにヨーロッパのサッカーの組織プレーのノウハウがブラジルサッカーにも生かされるようになって、ブラジルは強いチームになりえたと湯浅氏はいいます。
「世界的な、国際化・情報化の進展によって、ブラジル(南米)とヨーロッパのサッカー交流が盛んになった頃から変化しはじめた。ブラジルの個人的な戦術能力を重視したサッカーに、組織プレーが加味されるようになったのである。(113ページ)」
そして湯浅氏は、そういうチームを指揮するサッカーの監督にとって「組織プレーと個人プレーの優れたバランス」は「永遠のテーマ」という(115ページ)。
日本代表をワールドカップで史上初のグループリーグ突破(グループ1位の成績で突破)に導いた元日本代表監督のフィリップ・トルシエは、この組織と個のバランスをどう考えていたか。そのことが実に明確にわかるのは、2007年5月にでたトルシエ本人の著書『オシムジャパンよ! 日本サッカーへの提言』(アスキー新書)である。
この本によれば、トルシエは「サッカーは組織が60%、選手の力が30%、そして運などその他の要素が10%というのが私の考え(39ページ)」と語っている。そして以下のようにつづける。
「組織の力なしにはチームはありえない。選手もまず組織のために貢献するべきであり、与えられた役割を果たすべきだと私は考えている。彼らが個の力を発揮するのは、それから先のことだ。(39ページ)」
トルシエによるとヨーロッパ流の組織サッカーの考え方とは「サッカーとはコレクティブなものであり、選手は個人の力を組織のために献身的に使うべき(75ページ)」という組織プレー重視のスタンスだという。トルシエは、2007年4月月までのオシムジャパンとかつて自分のつくった日本代表チームの比較をおこない「私のつくったチームは、オシムのチーム以上に組織的だった。(中略)オートマディズムを得るまで膨大な時間をかけて反復練習をおこなった。それができたのも、中田(英寿)を除き選手たち全員が国内のクラブに所属していたからだ。何度も彼らを合宿に集めて、集中的なトレーニングをおこなった。そうして得られた組織の力は個の力を上回った。(153ページ)」と述べている。
トルシエは、方法論的にはオシムと同じで組織戦術を重視しており、日本代表をワールドカップで初めてグループリーグ突破(グループ1位の成績で突破)させた日本代表監督でもある。サッカーの日本代表を強くしたのはトルシエ式の組織サッカーだということになるだろう。
2008年4月8日の日刊スポーツの8面の記事によると、トルコのサッカーチーム、フェネルバチェの監督をしていたジーコは、欧州チャンピオンズリーグで準々決勝第2戦でのチェルシーとの対戦を前にして「サッカーはチームスポーツ。成功は特定の個人によってもたらされるものではない。じっくり戦術を練った上でチームが一丸となり、初めて実現できる」と発言をしたという。
ジーコはワールドカップ2006で日本代表監督だったが、この際は個人プレーを重視しているといわれていた。しかし、その後に考えなおしたのか、2008年にフェネルバチェの監督のときはチームプレーを重視する方向へ転向したようだ。
また、チームワークがテーマの作品では、やはり『新マン』の2話『タッコング大逆襲』が有名だ。ウルトラマンが体に乗り移った郷は、並外れた能力を手に入れる。だが、そのことに慢心した郷は命令無視をして同僚の隊員を負傷させてしまう。郷はウルトラマンに変身しようとするがウルトラマンに変身を拒絶される。このストーリーは、人間に非がある場合はウルトラマンは人間に味方しない、というストーリーであり、先に挙げた『怪獣使いと少年』のクライマックスで郷が怪獣ムルチに襲われる市民を救うことを拒絶してしまう展開の前哨戦といえる展開だ。『新マン』はこういった作品を通して、「ウルトラマンがいつも人間の味方である」というウルトラシリーズの不文律を覆した野心作だった。
『レオ』の最終クール「恐怖の円盤生物シリーズ!」は、レオの協力者を無くし、孤独なヒーローの戦いを描くというコンセプトだそうである。そうなると、この円盤生物シリーズは、シリーズのコンセプトのそのものに、「他人の力を頼りにしない」というテーマが盛り込まれているといえなくもない。円盤生物シリーズは、それまでのレギュラーを残殺するという開幕からしてハードである。
『新マン』『レオ』ではレギュラーがシリーズ半ばで死亡したりするという展開がある。ウルトラシリーズの作品世界では、毎週怪獣が出現して街を破壊たりしているのだから、いつもかなりの人が死んでいるはずである。それなのに、主人公の回りのレギュラーの登場人物だけ怪獣に襲われても死ななかったら、御都合主義的と言えなくもない。その分、『新マン』『レオ』でのレギュラーの死亡による降板は、こういった都合主義を回避しているとも解釈でき、評価できる。
操演によってのみ表現されたり、飛行形態に変型可能な円盤生物の魅力とも相まって、「恐怖の円盤生物シリーズ!」は第二期ウルトラの有終の美を飾ったともいえる作品群だ。
『レオ』はストーリーの暗さや残酷描写の多さといったハードな作風が子供に受け入れられず視聴率が低迷しており(事実、子供のころ恐くて見られなかった)この円盤生物シリーズは、そういったテコ入れ策の一環だったのは事実だ。しかしレオの場合、こういう残酷描写やストーリーの暗さは円盤生物シリーズにおいても一貫している点が評価できる。
ただし円盤生物編は、特訓していたころに比べハードバイオレンスの要素が希薄になってやや大人しめになった(といっても、前述のように他のウルトラよりはやっぱり過激)ことと、ダンがいなくなったこといで、ゲンの宇宙人としての苦悩が描かれなくなってしまったのがやや残念である。
円盤生物シリーズに移行する段階で、それまでレオのコーチを勤めていたダン隊長が降板している。なので円盤生物シリーズでは、それまでダンの元で、怪獣撃退方法や事件への対処において色々な指南を受けてきたゲンが、成長を遂げて晴れて一本立ちするといったシリーズとなった。『レオ』はもともと弱い未熟なヒーローであるレオが成長する、というシリーズとしてスタートしたため、こういったテコ入れを逆手に取って、レオの成長ぶりを描き切ったといえるだろう。
また、レオの円盤生物シリーズの場合、テコ入れすることで、また新しい挑戦をしようという姿勢があるのが好感がもてる。特に防衛隊を全滅させるというのは、防衛隊のメカは、重要な収入源(オモチャを売って版権収入を得る)なのに、それを出さなくしてしまうというのも、商業主義に背を向けた異色のテコいれである。
また、第二期ウルトラのドラマで特徴的なのは、ミスを犯した登場人物の責任を問うドラマである。こういうドラマは、初期ウルトラにも初代『ウルトラマン』の36話『撃つな!アラシ』といった作品があるにはあるが、第二期ウルトラの責任を描いたドラマは、責任を追求される様が、より克明に、辛辣に描かれているものが多い。
責任のドラマ、というのは、実は子供のころに見るより、大人になってから見るほうが身につまされるドラマだ。なぜなら基本的に子供は問題を起こした際に責任は子供自身が負わず、周囲の大人が責任を負うからだ。このことから、責任による個人の葛藤のドラマは、子供の生活圏外のドラマであるが故に大人のドラマと言えるものだろう。ある意味大人である制作者側自身の抱えている問題を、子供番組に投影したのだろうと思われる。
こういった作品の代表的なものは、『新マン』の47話『狙われた女』あたりだろうか。丘隊員がミスを連発するも、丘隊員には悪気はないので、責めていいのかどうか分からず他の隊員が苦悩する、という話で、こういう仕事におけるミスの責任をテーマにした作品は、社会人になると身につまされる…。4クール目では珍しくMATの隊員同士のドラマを描いた作品で、初期に近い雰囲気もある。
他にも、『A』の30話『君にも見えるウルトラの星』も、責任をテーマとした作品の代表だろう。この話は、単に責任感の大切さを訴えたものではない。同じ状況に追い込まれていたら誰でも同じミスを犯したかもしれない状況なのに、ミスを犯した人が全ての責任を負わされるという、責任というもののもつ理不尽さについても描いている秀作だ。
また、第二期ウルトラでは、主人公が、単なるミスではなく、確信犯のトラブルをおこしてしまうという作品も多い。こういった展開は、いわばヒーローのヒロイズムに揺すぶりをかけた作品であるといえ、「ヒーローとて聖人君子ではない」という、ヒーローの本音の部分をえがく第二期ウルトラのスタンスが端的に現れている。
そういった作品の代表例は、先に挙げた『新マン』の2話であるが、ほかにも、『レオ』における「おーい、そいつを捕まえてくれー」という名台詞(?)に象徴される、数本の作品にもみられる。
『レオ』の11話『泥まみれ男ひとり』は、そんな作品の1本だ。通り魔的に、人間を撲殺するケットル星人を追跡中、ゲンは「おーい、そいつを捕まえてくれー」と通りかかったボクサー、マイティ松本に協力を要請するが、星人にボクサーがかなうはずもなく、松本は惨殺される。ゲンはダンに「自分の蒔いた種は自分でかりとれ!」と叱咤され、松本の遺族である少年をはげましながら、ケットル星人を倒す技を自身の手であみ出すのだ。
ヒーローが一般市民を戦いに巻き込んで重症ないし死なせてしまうという展開は、他の特撮ものでは『鉄人タイガーセブン』(73年)における、主人公が子供をバイクでひいてしまう作品(23話『悪魔の唸り コールタール原人』)が有名。しかしこの作品とて、バイクでひいてしまうのは偶発的な事故でしかないが、『レオ』のこの回は、より確信犯的に一般市民を戦いに巻き込んでおり、ある意味もう一歩踏み込んだドラマだと言えるだろう。またこの、ゲンがボクサーに協力を要請して死なせてしまうという展開は、先に触れた「他人の力を頼りにしない」ということを言わんとしている展開でもある。
(ゲンはL77星人であり、当然地球で生活している期間よりL77星での生活のほうが長い。そのため緊急時に気が動転して、「地球人がケットル星人より身体能力が圧倒的に劣る」ことをわすれてしまい、このように地球人の一般市民に手助けを頼むような失態をしたと解釈することができる。)
『スーパーマンII/冒険篇 』(1981・米)では、一般市民が侵略宇宙人を「やっちまえ!」と倒そうとするという展開がある。『レオ』の13話(バイブ星人の回)でゲンが「おーい、そいつをつかまえてくれ〜!」と叫ぶと、周囲の土木作業員が集まってきて「やっちまえ!」と宇宙人を倒そうとするという展開があるが、実は洋画『スーパーマンII』にも同様の展開がある。
レオのバイブ星人の回の場合は、殺人犯の濡れ衣を着せられたゲンが警官に捕まるということが話の中心にあるため、冤罪事件をテーマとした社会派の作品としても観れるだろう。警官1人の目視によってゲンは現行犯逮捕となるが、警官1人の判断で逮捕になって社会的信用を失う、というのは現行犯逮捕という制度の危うさを表している。実際、誤認逮捕で特に多いものが、現行犯逮捕によるものだそうである。
*参考「誤認逮捕の実態と誤認逮捕をされた場合の4つの対処方法|厳選 刑事事件弁護士ナビ」
https://keiji-pro.com/columns/54/
(このページ内の「誤認逮捕が起きてしまう原因」の「現行犯逮捕・緊急逮捕の簡易性」を参照)
この場合、ゲンのポケットからナイフがひとりでに出た瞬間を警官が見ていたら逮捕にはならなかったので、現行犯逮捕による誤認逮捕と言える。バイブ星人が現行犯逮捕の脆弱性を利用してゲンを陥れたといったところではないだろうか。
また、『レオ』では、ゲンがダンの命令を無視し、単独行動をしてしまうという『怪獣の恩返し』という作品もある。この回は、レオの故郷の星を滅ぼしたマグマ星人が再登場。マグマ星人は宇宙一の美女怪獣ローランを嫁にしようと、地球にいるローランを追って地球に来た。ダンはローランを無事に宇宙に逃がしてやるようにゲンに指示するが、故郷を滅ぼしたマグマ星人を倒したいゲンは、逆にローランにマグマ星人をおびき出すおとりになって欲しいと頼む。ローランにおびき出されたマグマ星人はレオと対決して倒される。この話ではローランを守るように指示したダンの言い分をゲンが無視して、自分の復讐のためにわざわざローランを危険にさらすという、確信犯的な命令無視をしているのが興味深い。一応ローラン本人(人間じゃないけど)の同意もある上でだが、命令無視してまで仇のマグマ星人を倒したかったという、ゲンの無茶ぶりは精々しい(?)。このように、第二期ウルトラでも、たまに個人プレー的な行動が肯定されたこともある。他には『新マン』の『怪獣時限爆弾』などである。しかし、これらの場合も、個人プレーがすべてというわけではなく、ケース・バイ・ケースで個人プレーをみとめているにすぎない。
スタンドプレーをやってトラブルを起こすという第二期ウルトラの主人公の原形とも言えるのが、初代『ウルトラマン』におけるホシノ君ではないだろうか。ホシノ君は『初代マン』の最初の方の話では、ちょうど第二期ウルトラの主人公のようなトラブルメーカーで、彼の成長ドラマなども描かれていた。
ホシノ君は、スパイダーショットを盗んだり、ビートルに隠れて乗り込み、自分で怪獣をやっつけようと勝手な行動をとってしまい科学特捜隊を翻弄させまくる。ホシノ君は17話『無限へのパスポート』において、科学特捜隊の正式メンバーになる。が、そのあと25話を最後に突然登場しなくなった(これは、もっと指摘されていい問題点である)。また、初代『ウルトラマン』は、ホシノ君が降板したあとは、アラシ隊員がトラブルメーカーになる場合もあった(36話『撃つな!アラシ』など)。
普通のヒーローもののドラマなら、こういうトラブルメーカーは脇役であり、主人公のヒーローはトラブルメーカーをフォローする側になるだろう。『初代マン』もこの定石にのっとっていたわけだが、第二期ウルトラは、主人公自身をトラブルメーカーに設定することで、この定石を逆転させた。そういう意味で当時としては野心的であったとおもわれる。
少々話は前後してしまうが、この文の冒頭で、初期ウルトラのドラマ編は文明を批判した人間批判テーマが多く見られると述べた(決して初期ウルトラも、文明批判テーマばかりを扱っている訳ではなかったが)。しかし、こういう文明を批判した人間批判テーマの作品ばかりを子供にみせることは、子供の心に科学文明、引いては人間そのものへの過剰な嫌悪感を植え付けてしまうのではないだろうか?
2003年6月に山形県で青年が母親をバットで殺害するという事件がおこった。初公判の冒頭陳述によると、この事件の犯人の青年は、『エヴァンゲリオン』の「進化の最終結論は滅亡」との言葉に共感し、また「人間は環境を破壊する横暴な生物」との思いから殺人に興味を持ったという。青年は「人間を減らさなければならない」などと供述していたという(12月1日 共同通信)。
文明批判テーマのなかでも、こういう「人間は環境を破壊する横暴な生物」という自然保護テーマの作品は、一時期平成ウルトラシリーズで量産されたもので、サブカル関係の評論家たちがもてはやすものだ。なかでも『ウルトラマンガイヤ』は、とくにこのテーマが強調された。筆者は常々、こういうテーマの作品ばかりを垂れ流すと、「自然さえ守れば人間はいらない」という考えをもった犯罪者が現実にでてくるのではないか、と危惧していたが、こんなに早く現実におこるとはおもわなかった。
自然保護のテーマが近年やけにもてはやされるのは、人間同士の社会道徳とかそういうものは意味が無いというような認識からくるもののようにおもえる。ようするに自然保護以外のことなど、なにも言えない、言ってはいけないということなのだろう。宮崎駿作品が基本的に自然保護しかテーマにしないのも、こういう背景があるようだ。
近年、日本では個人による犯罪の多発によって、治安が悪化しているといわれる。こういう個人の犯罪に歯止めをかけるには、今まで以上に個人のあり方が問われるだろう。そういう意味でも、個人のあり方を問い直す第二期ウルトラの人生哲学的なテーマの作品の良さを、今一度見直してみてはいかがだろうか。
(奇しくも、『ウルトラマンレオ』の初期には、昨今の猟奇事件を思わせる、人間を通り魔的に惨殺する星人が多数登場した。特に3〜4話のツルク星人は高いインパクトを誇る)
先に述べたように第二期ウルトラのウルトラマン達の戦いは安保闘争をインスパイアしたという。この時期のウルトラマン達は怪獣に苦戦を強いられながらも勝ち続けたが、国内の安保闘争は「国家」というとてつもない怪獣と戦い、結果的に負け戦となった。
しかし、世界中に起こったマルクス主義者たちによる社会主義運動は、全くの無駄とも言い切れなかった。哲学の入門書としてベストセラーになった『ソフィーの世界』(NHK出版)では、以下のような記述がある。
「マルクス主義は大きな変革をもたらした。マルクスをかかげて社会正義のために闘った社会主義は、(中略)なにからなにまでマルクスどおりではなかったとしても、人間らしい社会を闘いとることに成功した。これは疑いようがない。いずれにしても、ヨーロッパではこんにちぼくたちは、マルクスの時代の人々よりも公正な、まとまりのある社会に生きている。これは少なからずマルクスや社会主義運動のおかげなんだ(普及版・下巻157ページ)」
近年、社会正義を求める運動などが全て挫折、変質したとの性急な決めつけによって「世の中そんなもんだ」というようなニヒリズムが好評を博しているようである。が、この『ソフィーの世界』で書かれているように、多かれ少なかれ現在のヨーロッパはマルクス主義の運動の影響下にあり、そういう意味ではマルクス主義者たちの運動は決して無駄ではなかったと言えるだろう。
事実、資本主義と社会主義の中間の思想であるリベラリズム(福祉国家)は、スウェーデンとデンマークにおいては一応の成功をみている(日本版ニューズウィーク2006年1月25日号参照)。これらの国はまったく問題を抱えていないことはないが、国家が破綻するほどの問題も抱えていない。過去に2度の不況を経験しながらも、高福祉というスタンスを変えずに不況から立ち直った。
マルクス主義の前身ともいえるアナーキズムはマルクス主義とはちがい、プロレタリアート独裁をやらない共産主義である。アナーキズムの思想家たちはプロレタリアート独裁という方法で社会を変革するマルクス主義は危険だと批判した。アナーキストたちのいうように、マルクス主義が独裁国家へ変質したのは、プロレタリアート独裁という革命をおこなうプロセスの失敗であり、弱者救済の思想そのものではないことが解かる。
日本では、永らくアナーキズムがニーチェのニヒリズムと混同されている傾向がある。本来のアナーキズムは中央集権を否定して地方分権したうえで私有物を共有化することであり、共産主義思想の再初期のものである。中央集権的な政府がなくなることを「無政府」と呼んでいるにすぎない。その証拠にニーチェは『反キリスト』でアナーキズムを批判している。
「キリスト者とアナーキスト、これはともにデカダンであり、両者ともにものごとを解体し、汚毒し、萎縮させ、血を絞るよりほかに能がなく、両者ともにいっさいの立っているもの、生に未来を約束するもの、そうした処のいっさいに対して不倶戴天の敵意を抱く本能なのである。(『反キリスト』の『五八』より抜粋。『偶像の黄昏 アンチクリスト』(白水社)258ページ)」
アナーキズムをニーチェのニヒリズムと混同することは誤解である。アナーキズムについてふれた代表的な著書であるジョージ・ウドコック著の『アナキズム1 思想編』(紀伊国屋書店)では、ニヒリズムとアナーキズムを同一視することは誤解だとし、以下のようにいう。
「ニヒリストは、(中略)何らの道徳原理も、何らの自然法も信じない。ところがアナキストは、権威の破壊の後までも生き残り、なお友愛という自由自然なきずなで社会を結合することのできる力強い道徳的な衝動というものを信じている。(9ページ)」
社会主義は失敗したが、だからといって、社会主義的なもの、すなわち社会主義から派生したものまで全否定することは大変危険である。健康保険などの社会保障制度を否定することになるからだ。マイケル・ムーアが製作した映画『シッコ』では、国営の医療保険がないアメリカで、市民が毎年1.8万人が治療をうけられずに死んでいくという現状が紹介されている。
アメリカでは、すべての国民が保険にはいれるように健康保険の国営化をするよう市民がのぞんでも、そういう市民の主張は保険会社から金でやとわれた政治家につぶされるという。その政治家は「国営化したら共産主義になるぞ。アカの手先になるより死んだほうがマシだろ」といって健康保険の国営化をのぞむ市民の主張を否定するという(参考、雑誌『映画秘宝』2007年9月号9ページ)。社会主義は失敗したからといって「社会主義的なもの」まで否定したら、この「アカより死んだほうがマシだろ」という政治家の言い分と同じになってしまう。
日本国憲法には、25条で国民がだれでも社会保障がうけられるという「生存権」について明記されている。この生存権というのは戦時中に政府から弾圧されていた国内の社会主義者の学者、森戸辰男らのアイデアがGHQに採用されたものである。よって25条は社会主義の思想から派生したものなのであり、日本国憲法自体は社会主義の憲法ではないが、この25条は「社会主義的」なものである。なので社会主義は失敗したといって「社会主義的なもの」まで全面的に否定したら、年金や健康保険や生活保護は全否定し、日本国憲法から25条を削除しなくてはならないということになる。
日本国憲法は国民すべてに生存権をみとめているために、実はもともと福祉国家に該当するものなのである。この件は『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の201〜202ページ、244ページを参照。
デリダは「脱構築は正義なのだ」という宣言を『法の力』(法政大学出版局)でおこなっている(35ページ)。この宣言はデリダが前述のロールズ同様、多元主義をみとめることこそ正義だというスタンスをとっていたことを物語る。
デリダは『法の力』で「世に脱構築と呼ばれているものは、一部の人々が広めて得をするような混乱した見方からすれば、(中略)正義にかなうものと正義にかなわないものとの対立を前にして、ニヒリズム同様の棄権をすることに相当するということになるが、そんなことはまったくない。」といっている(46ページ)。
要するにデリダは、脱構築とは「正義にかなうものと、かなわないもの」との対立を前にして、ニヒリズム同様の棄権をすることではないという。この「一部の人々が広めて得をするような混乱した見方」というのは90年代以降のニューアカデミズムのブームにおける国内マスコミの脱構築への理解が、それに該当するだろう。そして、『法の力』の195ページでデリダはナチスのおこなった大量虐殺を「最大の悪」と呼んでおり、これはポストモダン哲学においても正義と悪という概念は存在しうるということを物語る。
マーティン・A・ヘリー、ブルース・シュレイン共著『アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命』(第三書館)は、アメリカのカウンターカルチャーについて触れている本ある。
この本は、当然カウンターカルチャーの運動家たちがさまざまなベトナム戦争反対運動をおこしたことが詳しくかかれているのですが、342ページには以下のような記述があります。
「多くの活動家たちが、ヴェトナム戦争とは、決してアメリカ外交政策の失敗や勇み足の結果などではなく、それは多くの国で見られるあの帝国主義的介入のいちばんあたらしいかたちなのだ、という思いをいだきはじめていた。」
この文からもわかるように、当時のアメリカ国内のカウンターカルチャーの当事者たちは、ヴェトナム戦争を軍需産業を発展させるための侵略戦争だととらえていたようだ。
この本では、ヒッピーたちによって組織された伝道者集団「サイケデリックレンジャーズ」というグループについてふれられています。この「サイケデリックレンジャーズ」はジョン・スター・クックという人物を中心とした6人の構成員からなり、選ばれた人物にLSDを投与して、人間の心理的構造変革をもたらす実験をおこなっていたという(この時期、ドラッグ文化の本場であるアメリカでは、マリファナやLSDは向精神薬として考えられていた。詳細は後述。)。そして以下のような記述がある。
「クックと、彼に率いられたサイケデリック・レンジャーズはこう信じていた。彼らは、みずからを、ひそかに暗黒の力との前面戦争、この地球という惑星の運命を決する戦いに従事している宇宙における正義の騎士とまでに夢想していたのだ。(171ページ)」
サイケデリックレンジャーズのメンバーが夢想していた上記のことは、なにやらモロに変身ヒーローものにありそうな設定みたいではありませんか(笑)。そうなると、実は変身ヒーローものというのは、それ自体がヒッピー文化、ベトナム反戦運動、ひいてはドラッグカルチャーに通じる前衛的なものなのかもしれない(!)のです。くしくもこの事実は、前述の阿井文瓶の「ウルトラマンは反体制テロリストだ」という発言と合致するのはおどろくべき事実である。
この本によれば、そういうヒッピーたちを弾圧したCIAは「マニ教的悪魔信仰で、じぶんたちの行動を正当化していた(171ページ)」のだそうです。CIAが悪魔信仰者だったという根拠は、この本でははっきり示されていませんが、大変興味深い記述です。
また赤軍派の田宮高麿は『わが思想の革命』で、以下のように書いています。
「革命を自己のもっとも切実な要求とする人だけが最後までたたかっていくことができる。だからといって「自分のために」云々と主張するのは絶対に誤っている。(52-53ページ)」
「やっぱり「人民のために」という思想が絶対必要だ。この思想があってこそ死をも覚悟していくことができる。「人民のために」、これだ。(50ページ)」
こういう田宮氏の発言からもわかるように、「世界の平和をまもる」「人類を守る」という利他的な目的で行動していた70年代当時のヒーローは、それ自体も「反体制テロリスト」的だったといえるのだ。
元赤軍のよど号グループによる「かりの会」という団体がある。「かりの会」は、北朝鮮の拉致問題によど号事件のメンバーがかかわっていたという報道に反論し、無実を訴えている団体として有名だ。その「かりの会」の小冊子『欧州留学生拉致問題についての見解』(かりの会ブックレットNo.5)では著者の赤軍メンバーが「元来、革命家、社会運動家は、世のため人のために自分を捧げることを決意した人であり、自己犠牲はありえても、自分の目的のために他人を犠牲にすることは絶対にあってはならない。(14ページ)」といい、70年代初期のハイジャック闘争を「胸痛い教訓(14ページ)」だったと書いている。
このように、元よど号グループのメンバーは、ハイジャック事件で一時的に乗客を人質にしたことを反省しており、それゆえに拉致問題について無実をうったえている。
上記のように「元来、革命家、社会運動家は、世のため人のために自分を捧げることを決意した人」なのだ。かつての昭和の変身ヒーローはみな「世のため人のために自分を捧げることを決意した人」であり、それゆえ「革命家、社会運動家」的であったといえる。
日本国内では、90年代に「公と個」の論争のブームがマスコミでおこったた。この際、世のため人のために何かをするという行為は「公共」の概念に該当するからナショナリズム(愛国心)に通じるという認識が、国内に定着した。しかし、公共という言葉は多義的であり、国際主義としての公共という概念もありうる(こういう場合の公共は英語の「パブリック」の訳語に該当する)。国際主義としての公共はナショナリズム(愛国心)とはむしろ対立的な概念である。
東大教授の山脇直司(哲学博士)の著書『公共哲学とは何か』(ちくま新書)では「21世紀の公共哲学は、地球的公共世界の屋台骨となる『グローバルな公共善=財』をつねに意識しなくてはならない」という著者の宣言がある(164ページ)。そして哲学者カントもコスモポリタニズム(世界市民主義)にもとづいた「世界市民的公共性」という概念を唱えていたことが紹介されている(90ページ)。
コスモポリタニズムとは「民族や国家を超越して、世界を一つの共同体とし、すべての人間が平等な立場でこれに所属するものであるという思想(大辞泉)」であり、ナショナリズムとは対立的な概念だ。このことは、山脇氏が『公共哲学とは何か』において、ドイツの哲学者フィヒテの提唱したナショナリズムに根ざした公共の概念と、カントのコスモポリタニズムの公共と対比的に論じていることからもわかる(73ページ〜)。
また国連開発計画では「地球的公共財」のコンセプトを呈示しており、この地球的公共財は「すべての人々に便益を与えるという方向がはっきりしているもの」と定義される。具体的には「人権や福祉、平和のほか、地球環境」である(165ページ)。
山脇氏はこの本で、教育基本法についてもふれており「旧教育基本法には公共という言葉はないものの公共という概念そのものは否定していない」という論旨の主張をしている(197ページより)。
90年代の「公と個」の論争のときは、なぜかあまり顧みられなかったが、現行の日本国憲法にも、12条と13条で公共という言葉がつかわれており、日本国憲法は本来は個人主義の憲法ではないといえる。日本国憲法とほぼ同時期にできた「世界人権宣言」にも29条などに公共という言葉がある。日本国憲法や世界人権宣言の公共とは前述のコスモポリタニズムによる「世界市民的公共」だろう。さらには「子どもの権利条約」にも第14条などに公共という言葉がつかわれている(これらの事実も、なぜか90年代以降の日本のマスコミではオミットされることがおおい)。
また、稲垣久和(理学博士)も『宗教と公共哲学』(東大出版会)で山脇氏と同様の「世界市民的公共」という概念を提唱している(238ページ)。
昭和の変身ヒーローは、みな「地球をまもる」ということを目的としているが、この「地球をまもる」という変身ヒーローのポリシーは前述の「世界市民的公共」に該当するがゆえにコスモポリタニズムに根ざした公共であり、ゆえにナショナリズム(愛国心)とは異なるポリシーといえよう。
こういう「世界市民的公共性」とは「人類愛」という言葉でもいいあらさわれる。第二期ウルトラでは『新マン』の44話『星空に愛を込めて』でルミ子が「宇宙にすんでいる人たち全部がお友達になれる日がくる」という台詞をいうが、これはジョン・レノンの『イマジン』の詞「人はみな兄弟なのさ」に通じる「人類愛」にみちた名台詞ではないか。第二期ウルトラの根底には、こういう「宇宙的人類愛」があり、これはまさにジョン・レノンの『イマジン』に通じるものという意味でロックなドラマだったといえるだろう(ちなみに『イマジン』はアメリカで戦争がおきるたびに放送禁止になるという)。
『アメリカVSジョン・レノン』という記録映画にあわせて出版された『ジョンとヨーコの愛こそはすべて』(プロデュース・センター出版局)という本の77ページには、ジョン・レノンが暗殺された直後の、オノ・ヨーコの声明が紹介されている。
この声明のなかで、ジョン・レノンのもとにファンからたくさん花がおくられたことに対してオノ・ヨーコは「ジョンは人類を愛し、人類のために祈っていましたから」とジョンの個人的なチャリチィ団体スピリット・ファウンデーションへの寄付をジョン・レノンのファンたちによびかけた(77ページ)。
この声明からしてもわかるとおり、ジョン・レノンは「人類を愛し、人類のために祈って」いたのであり、ビートルズなどの60年代から70年代初頭のロックやフォークに歌われている「愛」というのは、人類愛のこととおもわれる。また、この本によるとソロ活動時代のジョン・レノンはチャリティーでしかコンサートをやらなかったという(83ページ)。
『ウルトラマンレオ』では、ゲンが50話で「ぼくは人間がすきだ」という人類愛をかたるが、これも「人類を愛していた」というジョン・レノンのスタンスに通じるといえなくもないだろう。
『ジョンとヨーコの愛こそはすべて』によるとジョン・レノンの支持者だったトロントのラビ(ユダヤ教における神主や住職みたいな役職の人)であるエイブラハム・ファインバーグによると、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻がお互いに感じている愛は「すべての人類への愛へつながっている」のだそうだ(15ページ)。
前述の日本国憲法25条の「生存権」とは、すべての人間はうまれながらにして生きる権利をもっているという権利であり、人類愛に通じるものである。なので、人類愛を否定することは、本来は憲法25条の否定に通じ、改憲論に通じることですらある重大な問題なのである。
ビートルズの歌など60年代のアメリカのロックやフォークなどで「愛こそすべて」というフレーズがたまにある。このフレーズのルーツは、聖書にあるとおもわれる。
というのも、聖書には何箇所か「愛こそすべて」に近い言葉がかかれているからだ。新約の『コロサイ信徒への手紙 1』の3章14節には「愛は、すべてを完成させるきづなです。」という言葉があります(日本聖書協会『新共同訳 聖書』1994年版より)。これが「愛こそすべて」のルーツになったとおもえる言葉である。
そして『コリント信徒への手紙』13章の4節から7節にも、「愛こそすべて」にちかい言葉がある。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(日本聖書協会『新共同訳 聖書』1994年版より)」
この「愛」は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」という言葉も「愛こそすべて」に通じる。ここで「愛」は「不義を喜ばない」としている点は重要だろう。
ビートルズなどの60年代から70年代初頭の海外のロックは、おもにベトナム反戦運動と同時期のものである。この時期にアメリカでは黒人解放運動である公民権運動も盛んになった。この公民権運動で活躍したキング牧師は演説で「私には夢がある」という言葉を語ったことは有名だが「愛の傍らには常に正義がある」ともかたっていたのだ。
「愛はキリスト教信仰の要の一つである。だがそこには正義というもう一つの側面がある。そして、その正義とは現実的利害関係において実現される愛のことだ。正義とは愛に対立するもの正す愛のことだ。(中略)愛の傍らには常に正義がある。」(『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)24ページ)
この言葉は、聖書の「愛は不義を喜ばない」という箇所が直接ないし間接的に影響した結果でてきた言葉ではないかとおもえる。つまり「愛は不義を喜ばない」ので「愛は正義をもたらすもの」であり、だから「愛の傍らには常に正義がある」ということだといえる。
そうなると「愛こそすべて」というのは「愛は正義をもたらし、また正義以外の様々な有益なものも世の中にもたらす」ものであり、だから「愛こそすべて」だ、という意味に解釈ができるとおもえる。
ちなみにキング牧師のいう「愛」とは、いうまでもなく人類愛のことである。
キング牧師は「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識」や「すべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛」という「人類愛」の概念を「二ーチェのような人々によって惰弱で臆病なものとして簡単に排除されてきたものだが、人類が存続していくために絶対不可欠」とまでいっているのだ(前掲書180ページ)。また、この発言からキング牧師もニーチェについて批判的だったことがわかる。
蛇足だが、キング牧師のいう「闘い」とは、絶対非暴力主義的なデモ運動を意味するのは有名だが、一方で暴力で体制側に抵抗する当時の若者へ同情の念をいだいていた。
「社会変革は非暴力的活動を通して最も意味深いものになるという確信を抱きつつも、彼ら(火炎瓶やライフルをつかってベトナム反戦運動を行っていた若者)への同情の念を正直に吐露した。」(前掲書162ページ)
また話はジョン・レノンにもどるが、記録映画『アメリカVSジョン・レノン』には、ベトナム反戦運動当時に活躍したブラック・パンサーという黒人解放組織とジョン・レノンが親交があったことが紹介されている。この映画によると、ブラック・パンサーは当初、攻撃からの自衛としての暴力のみをみとめるという声明をだしており、この声明をジョン・レノンは一応みとめていた。ジョン・レノンは暴力による革命は否定していたが自衛としての暴力は事実上みとめていたのであった(この発言は、雑誌『Cut』(ロッキング・オン)2007年12月号p29に採録)。つまりジョン・レノンの「平和運動」というのは絶対非暴力主義の運動でもなかったということがいえる。
記録映画『アメリカVSジョン・レノン』によればジョン・レノンは歌のような芸術作品にこめたテーマによって社会変革ができるという可能性をしんじていた。そして、近年では『シッコ』『華氏911』のマイケル・ムーアも同様の試みをしている。とくにマイケル・ムーアの映画はカンヌで高い評価を得ていることは重要である(『シッコ』では12分間のスタンディング・オベーションが起こっている)そういう意味では橋本洋二の「テーマ主義」というのはジョン・レノンに近いといえる。
ベトナム反戦運動が盛んな時代から、企業の行う不正を告発する消費者運動をおこなっている米国のリベラル派の運動家、ラルフ・ネイダー(ネーダー)は、越智道雄『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)によると「週百時間働き、独身で一切の愉楽を犠牲にした行者的生活」をする「超人的な公共意識」の持つ主だという(190ページ)。ネイダーは「自分には私生活はない。公的生活だけだ」といいきるのだという(274ページ)。こういうネイダーの公共意識というのも、ナショナリズムとは異なる人類愛にのっとった公共意識といえる。前述のマイケル・ムーアは、実はネイダーの事務所ではたらいていた時期もあった。この件については『アホでマヌケなアメリカ白人』(柏書房)の280〜307にくわしい(ネイダーをネーダーと表記)。
ラルフ・ネイダーほど極端ではなくとも、第二期ウルトラの主人公たちも、基本的に「世の為人の為」に活動をしている人たちである。
『新マン』のグドンとツインテールが登場する6話『決戦!怪獣対マット』では、アキが重傷をおって瀕死の状態になったとき、郷秀樹は最初こそ「アキのそばにいたい」といってMATの任務を放棄する態度をとる。しかし、それを上野隊員やアキ本人から批判されて反省し、市民の生活を守るためにMATの作戦に参加する。
この辺の展開は、郷秀樹が「市民を守る」という公的なことを「アキを看病する」という私的なことより優先したといえる展開である。そして話のラストでは、アキは奇跡的に回復し、郷の私的な部分も公的な部分も両立される。
『新マン』の1話では、ラストなどで郷秀樹と新マンとの会話で「人類の自由のためにがんばろう」という決心を両者がかためている。この台詞は番組の最初からウルトラマンと郷秀樹の行動原理が「人類のため」であることが作品のなかで明示されているといえる。
(それなのに、なぜ切通理作は3クールまでの新マンは「アキを守るために戦っていた」とか、変な解釈を加えるのかわからない。現にアキが登場しない回とかアキが事件に絡まない話が多いのに、なんでこういう解釈がまかり通るのだろうか。)
こういう新マンという作品の反個人主義的なドラマのスタンスは『星空に愛をこめて』のルミ子の台詞「宇宙に住んでいる人たち全部が、みんな友達になれるときがくる」という台詞において「宇宙的人類愛」にまで昇華して結実するといえよう。
『アシッド・ドリームズ』によれば、ヒッピーたちのモットーは「全宇宙的な人類愛」だったそうである(177ページ)。「宇宙に住んでいる人たち全部が、みんな友達になれるときがくる」という台詞は、この「全宇宙的人類愛」に通じるといえよう。
ヒッピーは政治運動に参加しなかったのだが、だからといって別に世界がどうなってもかまわないとおもっていたわけではない。むしろ実際は逆で、『アシッド・ドリームズ』によるとドラッグを普及させることで世界をすくおうとしていたのだという(178ページに関連記述)。
『アシッド・ドリームズ』によると、60年代のアメリカの新左翼によるベトナム反戦運動というのも「いまこの瞬間にも、ベトナムではアメリカ軍によって人が殺されている」だから「アメリカ国内のわれわれがアメリカ政府を打倒しよう」というような、利他的な考え方で反戦運動をやっていたのである(178ページ、257-258ページなど)。なので「他国のことはほっとけ」という個人主義で反戦運動をおこなっていたわけではない。このへんも90年代の日本国内では相当誤解されていたようである。
前述のヒッピーたちによる伝道者集団、サイケデリック・レンジャーズによる心理的構造変革の実験を受けた人物には、のちにイッピー(国際青年党=イッピーの創立者の一人)のリーダーとなるジュリー・ルービンもいたという。この人は、越智道雄/著『アメリカ「60年代」への旅』によると「ベトナム戦争を終わらせる全国動員委員会MOBE」が67年10月におこなったペンタゴン行進というデモに参加した。
ペンタゴン行進では、MOBEのメンバーによって「世界中のあらゆる神を総動員して、十二万人のデモ隊が念力でペンタゴンを三百フィート浮上させると、このアメリカ軍事力の悪しき象徴はオレンジ色に変わり、一切の悪が払い落とされて、ベトナム戦争は終わる」という文句の入ったチラシがつくられて配布されたという(175ページ)。
市川森一は、よくベトナム戦争を「あれこそ正義の象徴だ」といって「ベトナム戦争=正義」というイメージを日本社会に定着させた。そういう市川氏のスタンスは、ウルトラセブンのメーキングをドラマ化したNHKドラマ『私が愛したウルトラセブン』の作品自体や、この作品の製作にまつわる市川氏のコメントなどを参照すればわかる。
だが、MOBEがおこなったデモのチラシに「〜アメリカ軍事力の悪しき象徴(ペンタゴン)はオレンジ色に変わり、一切の悪が払い落とされて、ベトナム戦争は終わる」という文句があるとなると、現実のベトナム戦争反対デモをやっていたカウンターカルチャーの当事者たちは、ベトナム戦争を正義として捉えておらず、悪としてとらえていたようである。
キリスト教原理主義に通じる価値観をもつ市川森一は、なぜか、2007年5月より「放送倫理検証委員会」という、テレビ番組の内容を検閲するような組織の委員になっている。
これは関西テレビ放送による「発掘!あるある大事典II」の番組捏造問題が2007年1月に発覚したために、放送業界の第三者機関、放送倫理・番組向上機構(BPO)とNHK、民放連が設立したもの。市川氏はもともと放送倫理・番組向上機構(BPO)の委員であり「放送倫理検証委員会」の参加もそれが切っ掛けである。
この新組織は、この委員によって「問題のある番組」と判断されたものに対して「警告」をだす。この「放送倫理検証委員会」は、もともと総務省による番組内容への公権力の介入をふせぐという名目によるものであるため、事実上、公権力の介入と同等の強い強制力をもっているもののようだ。
さらに、「放送倫理検証委員会」は、対象とする番組はNHK、民放とわず、あらゆる局の広範囲のジャンルのテレビ番組をチェック対象にするため、中央集権的なチェック組織といえる。
ただでさえ、市川氏は、資本主義的な競争原理を視聴者におしつけたドラマ『女王の教室』に向田邦子賞をあげるというおかしなことをやっている。個人が自由競争をおこなう資本主義の基本原理も、カルヴァン主義から派生した価値観であり、アダム・スミスの経済学が原点です。これに賞をあげるということ自体も、市川氏がキリスト教原理主義者に通じる点のひとつである。
こういう市川森一が、「放送倫理検証委員会」の委員になっているということは、大変な問題だとおもえます。キリスト教原理主義的な価値観に合致しないドラマなどに対して、検閲して圧力をかけるということがありうるということです。さしずめ、今の放送業界は、キリスト教原理主義者にジャックされた状態にあるといえます。
かつてのテレビ業界には、橋本氏のような、スタッフの暴走をくいとめるチェック機構としての「ちょっと口うるさいプロデューサー」が業界のあちこちにいたからこそ、地方分権的なチェック体制ができていたといえるとおもいます(橋本氏のチェックは、あくまで担当番組だけなので、地方分権的なチェックだといえる)。
しかし市川氏がそういう橋本氏を「危険人物」として批判し、それが業界にひろまったため、それまでテレビ界にあった地方分権的なチェック機構が崩壊し、そのために「放送倫理検証委員会」のような、中央集権的なチェック機関というものをつくらなくてはならなくなってしまったといえないでしょうか。
市川森一は、ハッピーエンドのドラマをヒステリックに否定しているが(『帰ってきたウルトラマン大全』のインタビュー参照)、これもキリスト教原理主義につうじるといえなくもないでしょう。
というのも、ハッピーエンドというのは「よい行いをした人が最後にすくわれて終わる」という結末をさすからです。
「よい行いをした人がすくわれる」というのは、キリスト教原理主義(カルヴァン主義)の「予定説」の否定に通じてしまうといえる。
前述のように「予定説」の根拠である『ローマ人への手紙』9章の15−16節には「神に救われるかどうかは、その人の行いの良し悪しは関係ない」という記述があり、「よい行いをした人がすくわれる」というハッピーエンドは、この『ローマ人への手紙』9章の15−16節の記述の否定に通じてしまいます。
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、カルヴァン派プロテスタントが近代資本主義の生誕に貢献したということを分析した本として有名である。この本によれば、カルヴァン派は『ローマ人への手紙』9章の15−16節の記述を以下のように解釈するとある。
「地上の「正義」という尺度をもって神の至高の導きを推し量ろうとすることは無意味であるとともに、神の至上性を侵すことになる。(岩波文庫、大塚久雄訳、152ページ)」
「われわれが知りうるのは、人間の一部が救われ、残余のものは永遠に滅亡の状態に止まるということだけだ。人間の功績あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な決意を人間の干渉によって動かしうると見なすことで、あり得べからざる思想なのだ。(同じく152ページ)」
このように、カルヴァン派のキリスト教の解釈とは、人間が救済されるかどうかは神によってあらかじめ予定されているという「予定説」であり、人間が善行をなすことは自分が救済されることにはつながらない(よって、あまり意味がない)、という教えである。この予定説が、カルヴァン主義の歴史をもつ諸国(欧米)の個人主義の一つの根幹を形成したといわれる(前掲書158ページ)
なので「よい行いをした人が最後にすくわれて終わる」というハッピーエンドのドラマというのは「予定説」の教義の否定を意味してしまうのであり、ゆえに市川氏はハッピーエンドのドラマをヒステリックに嫌うのではないだろうか。
このように、ハッピーエンドのドラマというのはキリスト教原理主義の「予定説」の否定に通じるがゆえに、実は「反資本主義」的かつ、反キリスト教原理主義的(つまりロック)な展開のドラマであるといえるのである。
(前述のように「予定説」は「予定調和説」という呼び方をする場合もある。日本の常識では「よい行いをした人がすくわれる」ということこそ「予定調和」などといわれたりすることもあるが、カルヴァン主義では、これが完全に逆になってしまう。)
変身ヒーローものでいうと、「正義は勝つ」という展開、つまりは「敵が悪巧みをして、それをヒーローが阻止しようと努力し、敵に殺されかかるも、最後はヒーローが敵を倒して終わる」という展開、いわば変身ヒーローものの基本的なストーリー展開も、やはり前述のハッピーエンドのドラマの一種である。
「正義は勝つ」という展開も「よい行いをした人間が最後にすくわれる」という展開に該当するがゆえに「予定説」の否定に通じる。
なので、やはり「正義は勝つ」という変身ヒーローものの王道の展開もキリスト教原理主義の否定に通じるといえるだろう。
さらにいえば前述の赤軍派の田宮高麿も、主著『わが思想の革命』(新泉社)で「正義は勝つのである」と書いているのである。
「正義は勝つのである。正義のためといいながら勝利をめざさないのなら、その行為は厳密に言えば正義のための闘いということはできない。勝利をめざし、勝利につながる闘い、それが正義の闘いである。もちろん勝利は自らの闘いでかちとるものである。そのような闘いは少数の先覚者からはじまる以上、はじめから勝利を具体的に展望することはむずかしいかもしれない。しかし、そんなときでも勝利を確信し、勝利のその日をみて、たたかうのが先覚者である。かれらは自己と人民大衆をあくまで信じるからこそ、勝利のその日をみていくことができるのである。そしてそこには、人民の運命にたいする高い責任感となにがなんでも人民を解放せずにはおかないという燃える使命感があるのである。(『わが思想の革命』p334)」
ちなみに、死刑廃止論の本としてはもっとも代表的な本である団藤重光/著『死刑廃止論』(有斐社)によると正当防衛は無罪だとかかれてある(216ページ)。このように死刑廃止論の観点からみても正当防衛は一応合法だそうである(とはいえ本当は殺さずに解決するに越したことはないが)。ヒーローが暴力で敵を殺すのは、処刑しているのではなく、敵が暴力を振るって殺しにかかってくるから正当防衛として殺していると考えれば説明がつく。
蛇足ながら、前述の『レオ』におけるゲンの「おーい、そいつ(星人)をつかまえてくれ!」という台詞は、星人をマックが追跡するのはあくまで逮捕するためであり、最初から星人の殺害をする目的ではないことを示す台詞として、実は重要な意味をもっているといえないか。
話はもどるが、新約聖書の『ヨハネの黙示録』にも予定説の根拠となる記述がある。『ヨハネの黙示録』の13章がそれにあたる。
この13章の1節には「十本の角と七つの頭がある獣」が登場するが、これはローマ帝国のような野蛮な権力と解釈される。そして、13章の8章では「ほふられた子羊の書」に名前が書き記されていない人間は、獣に隷属するようになる、という記述がある。
ようするに「ほふられた子羊の書」にあらかじめ名前がある人間のみ、野蛮な権力の支配から解放されるという意味であり、さらに『ヨハネの黙示録』の20章15節によると、この命の書に名前のない人間は、最後の審判のときに、火の池に投げ込まれるとされている。これが「人間がすくわれるかどうかは、神によって予定されている」という予定説の教義の根拠となる。
ここで、筆者としては注目したいのが、『ヨハネの黙示録』に予定説の根拠がかきしるされているという点です。黙示録というと、市川森一が『怪奇大作戦大全』(双葉社)でのインタビューで「自分のドラマは未来を予言する黙示録のドラマ(大意)」と語っていたことが思いだされます(232ページ。「良いドラマというのは未来を予言するものだ」といい自分のドラマを「黙示録のドラマ」と位置づける)。
市川氏が自身のドラマを黙示録と意味づけていること自体が、市川氏のドラマが予定説に通じることのうらづけとはいえないでしょうか。
つまり、市川氏は、登場人物が救われない(ハッピーエンドにならない)ドラマというものを黙示録としてかいており、これは「神に選ばれなかった人間は何をやっても救われない」という予定説の教義を視聴者に刷り込んでいるといえなくもありません。いわば、市川氏の「黙示録のドラマ」とは、それ自体がキリスト教原理主義の布教番組だといえます。
『新マン』と同時期の橋本洋二プロデュース作品である『シルバー仮面』の5話も市川森一の作品である。この話は、駄目人間が女にもふられて、侵略宇宙人と戦うも最後は死ぬという、救いのない嫌みな内容であり、まさに「神に選ばれないものは何をやってもすくわれない」という予定説の教義をそのままドラマにした感じである(第二期ウルトラには、こういう話がなくてよかった)。この作品も橋本作品だが、チェックがいきどかなかったのか、橋本作品の市川脚本回としては一番後味の悪い作品になっている。
ある意味、日本昔ばなしのように、正直じいさんが最後に得をして、意地悪じいさんが最後に損をするという展開の物語は、それ自体、「よい行いをした人がすくわれる」という展開なので予定説の否定といえ、反キリスト教原理主義的といえそうですね。
(余談ですが、ウルトラには『レオ』の民話シリーズのように日本昔ばなしを題材にした作品があるが、これ自体が「反キリスト教原理主義的」といえなくもないのである!)
もともと、聖書には、ここで紹介したように、あたかも神が救う人間をえらんでいるように読める個人主義的な記述と、神がすべての人間を救済しようとしている(または神が善行をおこなった人間なら誰でも救おうとしている)ように読める万人救済主義的な記述とが混在しています。
聖書のこういう部分は、熱心なクリスチャンではない人間が読めば、ちぐはぐな印象を与えるものです。
市川氏の書くドラマには、建前として道徳的なテーマを訴えているようにみせかけながら、実は同時に背徳主義的な作者の主張を隠してしのばせるという、「裏テーマ」という表現技法があるそうです(シナリオ集『夢回路』(柿の葉会)の巻末インタビューより)。
この裏テーマという陰湿な表現技法自体が、聖書の内容のちぐはぐさをヒントにして発想したものにようにおもえます。
予定説というのは、とても道徳的とはいえない教えですから、一種の背徳主義でしょう。おそらく市川氏の聖書解釈とは、聖書にある万人救済説に通じる道徳的な部分は聖書の「建前」の部分であって、聖書(神)の本音の部分は背徳主義的な予定説であるというものなのかもしれません。
裏テーマという表現技法そのものが、予定説に通じるものであり、キリスト教原理主義的な表現ということがいえないでしょうか?
雑誌『ハイパーホビー』(徳間書店)でのメビウス終了の記事には「(メビウスの作品中の)ウルトラマンは無条件で慈悲をふりまく神ではない」という記述があり、この記述はあきらかに「選ばれたもののみ救済される」という予定説の「神」にウルトラマンが近付いてしまったことを意味する。昭和ウルトラではこのようなことはありえなかった。
こういう個人主義的な動機でヒーローが戦うというのは、年号が平成になったあとで製作されたウルトラマンや仮面ライダーに共通する特徴である。この時期の仮面ライダーでは『メビウス』よりも強調され、番組全体を通したテーマとなっている。
(個人主義というのも政治思想の一種であり、政治的なスタンスである。なので個人主義の作品も「政治的なメッセージの作品」ということができる。個人主義のテーマの作品も政治的なメッセージをもった映像作品ということができ、しかも前述のようにアメリカの保守主義の資本主義と直結してしまうのである。)
おもえば、『ウルトラマンティガ』のゴブニュが登場する話は、キリスト教原理主義の予定説に通じる部分があってひっかかる作品である。この話は、地球人が開発した新型エンジンを、宇宙人がつくったロボットが破壊しにくるという話ですが、この話ではなぜこのロボットが新型エンジンのことを知ったのかが謎で、ラストにそれに対する答えとして「地球人が新型エンジンを開発することは、宇宙の歴史に予定されていた」という、変な台詞が唐突についておわります。この「宇宙の歴史に予定」っていうのは一体なんなのであろうか。
万人救済を否定し「選んだものしか救わない」というウルトラマンメビウスといい、この予定説のようなティガといい、今のウルトラは、キリスト教原理主義の布教番組へと変質してしまったのである。
H.C.トリアンディス著『個人主義と集団主義 2つのレンズを通して読み解く文化』(北大路書房)には、巻頭で、自分が指摘する近年のヒーロー作品の問題点についてかんがえさせられる話題がでてきます。
この本の巻頭には、ブラジル、フランス、インド、カリフォルニア、モスクワ、ニューヨーク、日本、イギリス、ドイツ、イリノイの10箇所で起こった10種類の出来事を例にだし、これらの出来事が個人主義と集団主義のどとらかに分類されるのかを論じています。
これら10の例すべてをここに列挙するのは割愛しますが、興味深いのはモスクワとニューヨークのできごと。
「モスクワの通りでは、年長の女の人は、母親が包みこむような愛情でもってこどもに接していないと思えば、見知らぬ母親であってもしかる。」
「ニューヨークでは、女の人が通行人にボーイフレンドが暴力をふるうので助けて欲しいと頼んでも、誰も助けない。」(p1)
この、モスクワとニューヨークのできごとはモスクワが集団主義的、ニューヨークが個人主義的な出来事として、この本で説明されています(p2)。
そして、「ロシアでは、コミュニティ全体が子どもの養育に関して責任をもつのが当然であると考えられている。もし両親が適切に子どもと接していなければ、年長者がコミュニティのしきたりにしたがい責任をもつのである。『他人の仕事に口だしする』ことはまったく自然であり、期待されることでもある。(p3)」とし、「年長のロシア人は通行中の母親と自分を結びつけたのに対して、ニューヨーカーは助けを求めた女の人とは何の結びつきもないと思ったのである。(p5)」と対比的に分析している。
このように、通りすがりの見知らぬ他人でも、助けが必要とあれば助けてあげようとするロシアの市民は集団主義、反対に見知らぬ他人が助けをもとめても見てみぬふりをするアメリカ人は個人主義ということがいえるのです。
最近の変身ヒーローものによくある「好きな人しか守らない」という行動理念は、この「他人に道端で助けを求められても見捨てる」というアメリカ人に通じるのはいうまでもないでしょう。まぎれもなく、今のヒーローの行動理念は個人主義的であり、それはアメリカの伝統的な個人主義に通じるものなのです。こういう「他人は助けない」という価値観は、公共投資の否定に通じ、社会保障の否定と同義であり、これが格差社会の元凶になるのです。
前述のようにアメリカでは、こういう個人主義こそが右翼の価値観であり、こういう価値観こそがアメリカ資本主義、すなわちブルジョア・イデオロギーなのですが、今の変身ヒーロー番組のスタッフは、あたかも進歩的な価値観だと錯覚しているようである。
前述の倫理学者ジョン・ロールズは、人間の罪責感情の発達についても研究している。罪責感情は三段階の過程をへて出来上がるとロールズは分析する(川本隆史『現代思想の冒険者たち23 ロールズ──正義の原理』(講談社)99ページ)。
まず、第一段階は「親や目上のものに従わないことを罪だと考える」というもの。第二段階は「仲間との友情や相互関係を裏切り「連合体」から離反することを罪と考える」である。
そして、第三段階で「仲間意識で結ばれていない人びとがこちら側の行為で害をこうむった場合にも負い目を感じる」というものである。
「好きな人だけ救って他人は助けない」という考えは、このロールズの罪責感情の発達段階での第二段階に相当する。そうなると、こういう考え方をしている人間は、第二段階で罪責感情の発達がとまっているということになり、精神的に未発達で未熟だということになる。
集団主義は日本固有の価値観ではなく、日本以外のアジアやロシアといった地域と共有していた価値観だろう。もともと日本社会がもっていた集団主義的な価値観は縄文時代がルーツだといえる。決して『国家の品格』がいうような武士道ではない。
かつての国内の左翼系の知識人たちは、石器時代、とくに後半の縄文時代を原始共産制の時代とかんがえていた。マルクスら共産主義者たちは人間社会の歴史が原始共産制を起点にしているとし、日本では石器時代が原始共産制の時代とかんがえられた。このことは、一部歴史教科書にも掲載されることがある一般的な縄文時代の分析である(代表的なものとして須藤公博/著『まるわかり日本史 図解で分かる時代の要点』(永岡書店)がある。この本の15ページでは縄文時代を「原始共産制の社会」と紹介している)。
また複数の学者が、日本の石器時代についてふれた論文を収録している『歴史科学大系 第1巻 日本原始共産制社会と国家の形成』(歴史科学協議会)という本にも、石器時代が原始共産制の社会として分析している論文がある(この1972年に初版発行で、筆者が入手したのは1973年にでた3刷のもの)。
この本の121ページからの渡部義通による『日本原始共産社会の生産および生産力の発展』という論文がそれである(この論文は「『思想』1931年7・8・9月号所載」と表記(159ページ))。
この論文によると、70年代当時の左翼系の知識人たちの間では、日本の石器時代の社会は「すでに農耕がおこなわれたうえでの農業共産社会だった」とする説と、渡部氏のように「農耕がおこなわれていたとしても部分的なものであり、やはり石器時代は狩猟、採集が主流の社会だった」という2つの説が存在していたらしい。この論文での渡部氏の論旨は石器時代に日本でおこなわれた農耕は、部分的なものであり、まだ生産性も低いため、日本社会全体の支配的な生産部門ではなかった、というものである。
かりに渡部氏の分析があやまっており、すでに石器時代から農耕が本格的におこなわれたとしても、そのときは渡部氏が否定した「農業共産社会」説の方が信憑性があったということになるし、どちらの説が正しいにせよ、石器時代を原始共産社会とする説が左翼の基本的なスタンスであるということは、この論文で確認できることであり、これが日本国内の左翼思想を考えるうえで重要なのである。
日本社会にもともと集団主義的な価値観があるのは、縄文時代の原始共産制の名残である可能性があるだろう(武士道に集団主義的な価値観が含まれていても、それは縄文時代を起源とした集団主義的な価値観が、たまたま混在してしまっただけだと考えられます)。縄文時代が貧富の差のない原始共産制の時代だったとする説を「縄文ユートピア論(説)」ということがあるが、前述した第二期ウルトラにあるチームワークのドラマは、こういう縄文ユートピア論につうじるとはいえまいか? ちなみに、ウルトラシリーズとは縁の深い映画監督、実相寺昭雄もATG作品『曼陀羅』で縄文ユートピア論を題材にしている。
話はもどるが前述の『個人主義と集団主義 2つのレンズを通して読み解く文化』という本では「個人主義がはやると犯罪が増加するという」ことも、繰り返しかかれている。
「私(著者)にいわせると、個人主義に関連する犯罪の問題は、個人主義、集団主義をめぐる長短所の道徳的および政治的議論の中心課題である。社会的統制、特に自己抑制が低下すると、明らかに犯罪率が上昇する。1980年代では産業国諸国において極端な個人主義と競争性によって特徴づけられ、日本を除いたすべての国において犯罪率の3倍増が観察されている。」(181ページ)
このように1980年代では、日本以外の資本主義国で犯罪が増加したそうです。それはやはり資本主義は個人主義に通じるがゆえに、資本主義国では個人主義が流行し、それによって自己抑制のきかなくなった人間が犯罪に走るのでしょう。今の日本の犯罪の増加は、80年代に日本以外でおこったことが、日本で一足おそく90年代から現在にかけておこっていると考えていいのではないのではないでしょうか。
ウルトラマンレオの序盤によくでてきた通り魔宇宙人というのは、こういう自己抑制の効かなくなった極端な個人主義を象徴しているといえないでしょうか。個人主義は資本主義に通じるから、それとレオとの戦いというのは、まさに資本主義との対決を象徴しているといえないだろうか?!?
あのレオの通り魔宇宙人というのは、もともとどこか不条理で独特の味わいがあって不思議な魅力を放っていたのですが、上記のように極端な個人主義の象徴として捉えると、実は大変奥の深い意味をもつ星人をいえるのかもしれないのである(!)。
前述の映画『アメリカVSジョン・レノン』には、ジョン・レノンのコンサートにゲストで招かれた黒人開放組織「ブラックパンサー」のメンバーがコンサートの合間に演説している映像があり、その演説には「殺人も公害」「貧困も公害」という発言がでてくる。
この発言も興味深いことである。「殺人も公害だ」というのなら、『レオ』における通り魔宇宙人というのも広義の「公害批判」だといえる。
(くしくも『帰ってきたウルトラマン』と同時期の怪獣もののテレビ番組である『スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)』の4話にも、主人公の蒲生譲二が「殺人だって公害ですよ」という台詞を語るシーンがある。これは偶然の一致なんでしょうか?それとも「殺人も公害だ」というのは、当時一般的にいわれてたことなんでしょうかねえ。)
ドラッグカルチャーの考え方では、人間はそもそも反個人主義的な価値観をもっており、それが資本主義によって個人主義に縛られているので、それをドラッグで開放するということになる。
前述の60年代のアメリカのドラッグ文化についてふれた本『アシッド・ドリームズ』には
「マリファナとは、人を解放する物質だった。この薬草には人を誠実にする効能があるのだ。(254ページ)」という記述があります。
このように、60年代のアメリカのドラッグ文化(ドラッグ解禁運動)は、「性善説」主義に近いものだったといえます。
60年代のアメリカの左派の人間たちにLSDがなぜもてはやされたかというと、このLSDは「人間の心から貪欲と羨望をとりのぞいて浄化して、たがいをへだててきた障害を破壊するサイキックな溶剤(『アシッド・ドリームズ』158ページ)」として信じられていたからである。
『アシッド・ドリームズ』には「LSDでハイになれば、同胞兄弟姉妹の思いで、だれとでも笑みを交わすことができた(p176)」「LSDによって、だれもがとつぜん、愛とか人類愛といった恩寵の気分に満たされた(p247)」という記述がある。このように、60年代当時のアメリカのドラッグカルチャーの当事者たちは、LSDを「人間を人類愛に目覚めさせる薬品」として信じていたのである。
『アシッド・ドリームズ』によると、ベトナム反戦運動当時、LSDを普及させて社会変革をしょうとしていたLSD密売組織「永遠の愛兄弟団」のメンバーのティム・スカリーは、LSDについて以下のようにいっていたという。
「LSDを体験すれば、だれでも心の底からやさしくなる、心の底から正直になる、かくしだてなどしないし、なにより他人を思いやり、この地球のことを考えるようになる、じぶんたちはみなこう考えていたんだよ。(p288)」
この記述は、LSDをやると「この地球のことを考えるようになる」という部分がポイントではないでしょうか。「地球をまもれ」という昭和の変身ヒーローものの常套句は、やはりドラッグカルチャーにも通じるといえなくもないのである(!)。
60年代のアメリカでドラッグ解禁運動の中心的人物の心理学者ティモシー・リアリーは、『アメリカ「60年代」への旅』の53ページによれば、LSDに似た構造の幻覚剤サイロシビン(シロシビン)を重犯罪刑務所の32人の受刑者に服用させる実験をおこなった。その結果、再犯で戻ったのは25パーセントだったという(服用しない場合の再犯率は80パーセントである)。このように、当時、ドラッグは、犯罪を抑制するための薬品として信じられていた。
ティモシー・リアリーもドラッグを手放しで解禁することには反対した。リアリーは、LSDとマリファナは中毒性のない幻覚剤であるがゆえに解禁しようとしていたので、同時に麻薬とヘロインの危険性を訴えていた。また『アシッド・ドリームズ』によると、そういった幻覚剤をリアリーは「啓蒙ドラッグ(p90)」とよび、人間の精神的向上、知識向上、あるいは自己を啓発するための使用に限定し、専用のトレーニング・センターを設立、ライセンスをあたえられた人間にしかドラッグを与えない、ということを提案していた(162ページ)。
今の子どもは、前述のように、マスコミがキリスト教原理主義の意味を正反対にとりちがえるという誤報道によって、個人主義的な価値観をすりこまれている。よって、筆者の個人主義の批判は、それから子どもを開放するという目的でやっているのである。今の子どもが、いつのまにかキリスト教原理主義と同じ価値観をもっているので、それが不気味だといっているのである。
かつての昭和のウルトラシリーズのような、利他主義的な動機でヒーローが行動していた変身ヒーローものの番組は、個人主義的な価値観を刷り込まれた現在の子どもを解放するために、現代こそ必要だとおもっているがどうだろうか(ある意味、ドラッグの代替物になりうるといえ、実はロックな作品とはいえないか)。興味の無い人には、こういう作品は他愛ないものに見えるかもしれないが、実は大変意義のあるものではないだろうかと思う。
(了)