作品研究1『70年代カルチャー第二期ウルトラを総括せよ!』補足
ニーチェと少年犯罪についての一考察
※文中一部敬称略



目次(13は欠番)
1,
はじめに
2,「神は死んだ」「善悪もない」
3,ニーチェ主義とナチズム
4,ナチズムと正義
5,『反ニーチェ』を読む
6,ニーチェはやくにたたない
7,ニーチェと自然
8,仏教とニーチェ
9,80年代以降の日本とは?
10,リバタリアニズムとニーチェ
11,未開人も戦争をしていた
12,ニーチェとアナーキズム
14,佐世保の小6女児事件について
15.公と個の論争の検証
16,さいごに

はじめに

「『真理といえるものはない、何をしても許される』こう私は自分に言いきかせた。」
(『ツァラトゥストラはかく語りき』第四部「影」より)。

 オウム真理教の地下鉄サリン事件以降、雑誌のコラムやエッセイなどで、「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」が盛んに言われるようになった。『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)あたりが、そういうオピニオンの代表的なもだろうか。

近年は少年犯罪が増加し、日本国内の治安も過去最悪ともいわれるが、その原因はこういう「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」が盛んにマスコミで叫ばれるようになったためではないか。

『自由からの逃走』(東京創元社)はエーリッヒ・フロムというドイツの社会心理学者が書いた本である。一般的にはナチスがドイツに台頭してきた理由を分析した本としてしられているが、この本はそれ以外にも、とくに近代におけるマスメディアの影響についてにも触れている。

『自由からの逃走』でフロムは、人間は他者の影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むこともあると延べている。この例としてフロ ムは新聞の影響をあげている。一般の新聞読者に、ある政治問題にについてたずねると、その人はその新聞に書いている意見を、自分の思考の結果と思い込んで 語るのだという(211ページ)。このように、マスメディアが人々にあたえる「刷り込み効果」はおおきいのである。

「神は死んだ」「善悪もない」

「正義の否定」「善悪の概念の否定」「悪の肯定」といった思想は、もとを辿れば哲学者ニーチェの思想に通じるものだ(『ツァラトゥストラはかく語りき(こう言った)』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』など)。ニーチェの哲学は道徳的な価値観を罵倒、冷笑するニヒリズムやシニシズムの思想として代表的なものである。こういうニーチェ的な思想を、流行としてマスコミなどで社会に蔓延させることは直接犯罪の誘発に結びつくのではないだろうか。

『善悪の彼岸へ』(宮内勝典/著、講談社)という本によると、酒鬼薔薇が逮捕後の精神鑑定で「全ての ものに優劣はない。善悪もない」という言葉を語ったという(256ページ)。有名な酒鬼薔薇の手記には、「神は死んだ」というニーチェの引用もあったそう である(このフレーズは『ツァラトゥストラはかく語りき』でくり返されるもの)。「全てのものに優劣はない。善悪もない」という彼の発言はニーチェの本の 影響にまちがいないだろう。「善悪もない」といっている以上、彼の犯罪はニーチェの思想、つまり背徳主義による犯罪だったといえるのである。

 酒鬼薔薇は、「バモイドオキ神」なる神を考えてあがめていたが、これもニーチェの影響だろう。ニーチェは「すべての神は人間の作品であり、妄想で ある」といったのだが、酒鬼薔薇は、このニーチェの言葉にしたがって「バモイドオキ神」なる「作品」を創造したのではないだろうか?

 スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』という映画は、「善悪の概念の否定」ないし「悪の肯定」をテーマにした作品といわれる。『映画秘宝』vol.24(洋泉社)の『時計じかけのオレ ンジ』のレビュー(町山智浩)によると、キューブリック監督はニーチェの強い影響下にあり、ニーチェの思想が『時計じかけのオレンジ』には反映されており、この作品の影響によってアメリカで72年にアーサー・ブレマーという22才の青年が、大統領候補をねらった銃撃 事件をおこしている。この青年の日記には「『時計じかけのオレンジ』をみて人が殺したくなった」とかかれていたそうだ。この事件も酒鬼薔薇の事件同様、 ニーチェの影響による事件だったと言えるだろう。

 実はニーチェの思想が犯罪の動機になるということは、犯罪心理学の分野で以前からいわれていたことであったのだ。犯罪心理学者がさまざまな犯罪をわかりやすく解説した本『犯罪ハンドブック』(新書館)には、ずばり『ニーチェ』という項目がある(151ページ)。
 これはたった1ページという、じつに短い項目だが、ニーチェの思想がいままでいくつかの犯罪を誘発した、ということがかかれてある。
この項では、ニーチェの哲学は青年を心酔させ、熱狂させる危険かつ魅力的な、麻薬的な作用がある、と言及しています。そのうえで、

「彼(ニーチェ)の影響は大はナチズム(特に遺稿『権力への意志』)から、小は確信犯罪、生の無意味さの極限、ニヒリズムによる実存的殺人にまでおよんでいる。」(151ページ下段)

 とある。そしてこの本では、1924年にシカゴでおこった殺人事件をその一例にあげている(ニーチェのいう「超人」にあこがれた青年が起こした)この本ではこの一例しか紹介していないのが大変残念。筆者としては、もっと多くの例を紹介してほしかったが…。

 また、この項では「法に縛られるのは奴隷に過ぎない。エリートは『善悪の彼岸』、超法規的存在である。」という一節もある。これはニーチェの「善悪の概念の否定」という思想が犯罪者に「超法規的な特権(つまり犯罪の肯定化)」をあたえてしまうことを意味している。

 ニーチェの思想が犯罪の動機になる、というのは、ある程度、犯罪心理学の世界でも言われていることである、ということを、このことで分かっていただきたいとおもう。

 ちなみに、この『犯罪ハンドブック』の『ニーチェ』の項は、東京工業大学の教授の影山任佐(かげやま じんすけ)氏によって書かれている。

*追記【重要】「個人の自由の行き過ぎ」が犯罪の原因になる(20.5/4)

実在した連続殺人鬼を描いた 映画『テッド・バンディ』の監督 ジョー・バリンジャーの 現代ビジネスのインタビューの記事 『連続殺人鬼に「アメリカの白人男性」が多い理由  話題作『テッド・バンディ』監督が語る』(2019.12,20) によると、 アメリカ人は、個人の自由が社会よりも優先されるべきだと信じている人が多いため、 個人の自由に抑制が効かなくなり、社会的意識よりも優先されて殺人が増える、 というコメントをしています。

以下、記事本文からの抜粋です。

「バリンジャー監督:基本的にアメリカ人は、個人の自由が社会よりも優先されるべきだと信じているんです。そういった社会では個人の自由に抑制が効かなくなり、社会的意識よりも優先され、自由を暴力や犯罪のために利用しようとする輩がでてくるんですよ。テッド・バンディがよい例です。」

(該当箇所は下記のアドレスから読めます)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69316?page=4

このことは、長年、私が本文章で訴えていたことですね(詳細は後述)。やっと、アメリカの著名人から「個人の自由の行き過ぎ」という殺人事件の動機の分析が出ました。そして、それが、日本の大手マスコミの記事になったことも重要です。

日本で90年代から、少年犯罪が増えた理由もこれでしょう。90年代あたりから、日本の大手マスコミがニューアカデミズムのブーム、つまりフランス現代思想(構造主義)を持ち出して「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」を唱え極端な個人主義を推奨するブームを起こしました(この90年代の日本に起こったニューアカデミズムのブームについての詳細は後述します)。このニューアカデミズムのブームはニーチェの思想がベースになっているものであり、前述のオウム真理教の地下鉄サリン事件以降、雑誌のコラムやエッセイなどで「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」が盛んに言われるようになったのも、このニューアカデミズムのブームが下地にあるものです。オウム事件以降、このニューアカデミズムのブームを下地にした「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」を根拠にした極端な個人主義を、ますます大手マスコミが盛んに唱えてエスカレートしていった傾向があり、そういった極端な個人主義が、一般大衆の、子どもでも知っている常識というところまで浸透したことが、若年層まで衝動的な殺人事件を起こすようになった原因としか思えません。

また、近年日本で起こっている、大人による、理由の不可解な通り魔的な殺人事件の原因も、 この極端な個人主義の浸透によるものと思います。


話を『時計仕掛けのオレンジ』に戻すと、前述の『時計仕掛けのオレンジ』の影響で大統領候補を狙撃したアーサー・ブレマーの日記は『暗殺者の日記(「An Assassins Diary」)』という題で出版された。日本語訳はでていないようだ。映画秘宝vol,24によると、これには「『時計仕掛けのオレンジ』をみて人を殺し たくなった」とかかれてあったという。『時計仕掛けのオレンジ』はキューブリック監督がニーチェに傾倒していたため、ニーチェ的な善悪の概念の否定や悪の 肯定というものをテーマにしていた。

 アーサー・ブレマーの目的は、政治的な主張などではなく、「有名になること」だったとされる。
(つまり「正義」のためではない)
 しかも銃撃の時間を、全国ニュースに間に合うように行っていたそうで、かなりな自己顕示欲が伺える。狙撃された大統領候補は幸いにも命を取り留めましたが、下半身不随となった。

「有名になりたい」という願望はだれにでもあるものだろう。普通の人はそういう願望を叶えるために、社会で成功者になろうとするのだが、ブレマーはそれを諦めて、大統領候補の暗殺という「不正だが最も速く簡単な方法」で有名になろうとしたのだ。

 なぜ、ブレマーは「不正だが最も速く簡単な方法」を選択できたのか? これはやはり日記にあった「『時計仕掛けのオレンジ』をみて人を殺したく なった」という一節がカギなのではないだろうか。「悪の肯定」というニーチェ的な思想を『時計仕掛けのオレンジ』によって植え付けられたとき、ブレマーは 何のためらいもなく「不正だが最も速く簡単な方法」を選択できたのではないかとおもう。

 アーサー・ブレマーの日記をヒントにした映画として、『タクシードライバー』が有名だ。しかし、この『タクシードライバー』は、あまりブレマーの日記に忠実なものではなく、『タクシードライバー』の主人公の犯行動機はブレマーとはまるで違う。

 このことから『タクシードライバー』は、ブレマーの日記の表面的な部分を若干参考にしているに過ぎず、事実上は『タクシードライバー』はブレマーの日記が原作の作品とまではいえないものだとおもう。
『タクシードライバー』の主人公の犯行の動機は、ブレマーのような虚栄心によるものではなく、主人公が、社会の歪みや荒廃について、常に問題意識をもっていたためでした(かなり独善的ではあったが。それがラストの逆転劇の伏線になっている)。

 ブレマーの日記をヒントにした作品として、筆者が『タクシードライバー』より注目したいのは、プログレロックのアーティスト、ピーター・ガブリエルの『ファミリー・スナップショット(Family Snapshot)』という曲だ。この曲はブレマーの日記をもとに書かれたもので、ブレマーがニクソン大統領の暗殺を狙った際の心理を、歌詞に歌いこんだものだ。この曲の歌詞のほうが、ブレマーの日記の内容に、より忠実なもののようだ。
(註,ブレマーは当初暗殺の標的をニクソン大統領にきめていたが、警備が厳重なので、あきらめて大統領候補のジョージ・ウォレスに変更した)

この曲の歌詞には、次のような部分がある。

"I don't really hate you/-I don't care what you do/We were made for each other
-Me and you/I want to be somebody/-You were like that too/If you don't get given/you learn to take/And I will take you."

(上記の歌詞の訳)
「あなた(ニクソン大統領)が憎いんじゃない/あなたが何しようが、かまわない/俺とあなた、ちょっとした/運の巡り合わせ/俺は大物になりたいんだ/あなたもそうだったんだろう/あなたが与えてくれないなら/奪ってしまうしかない/だからあなたを奪ってやる」

この歌詞はブレマーの心理を理解する上で歌詞全体の中でも、非常に重要なポイントである。
この歌詞をみれば、ブレマーの動機が政治的な主張などではなく、虚栄心をみたすためだったことがわかる(つまり「正義」のためではない)。

前述の『時計じかけのオレンジ』という映画も、おもに日本では90年代から現在まで、その作品のなかで言わんとしているテーマが誤解されていたとおもえる。もっとも、誤解をあたえやすい描き方をしているという点では、この映画自体にも問題はあるだろう。

というのも、この『時計じかけのオレンジ』は同名の小説が原作だが、原作者アンソニー・バージェスは、映画版の出来に満足していなかったからである。

実は『時計じかけのオレンジ』の原作の小説には、なぜかアメリカ版で一時期削除されていた21章が存在する。この21章は最終章なので、ラストシー ンが削除されたままアメリカでは出版されているということになる。そして、映画版はラストシーンが削除されたアメリカ版をもとに製作された映画であり、そ れに原作者バージェスはかなり疑問をもったそうだ。

この最後の章では主人公の若いアレックスは成長し、暴力を時間の浪費だったと反省するようになり、結婚して子供をもうけ、作曲家になろうと考えるようになる。ところが映画では暴力はまたまたくり返されるような暗い印象になっている。

この話は、最近判明した新事実でもなんでもない。ただ単に90年代以降のマスコミに登場する文化人たちが、このことをわすれているか知らないだけな のである。たしかに、今日本ででているハヤカワ文庫から発売されている『時計じかけのオレンジ』の原作小説には、映画同様に最終章がカットされているが、 この単行本のあとがきにも21章が削除されていることがふれられている。
1980年に日本ででた『アントニイ・バージェス選集版(2巻)時計じかけのオレンジ』(早川書房)は、この21章の日本語訳が収録されている唯一のもの である(現在は絶版)。そして映画の出来にバージェスが満足していなかったことも、この『アントニイ・バージェス選集(2巻)時計じかけのオレンジ』の訳 者あとがきにかかれてあるのである。以下、『アントニイ・バージェス選集』版の『時計じかけのオレンジ』訳者あとがきの該当箇所も抜粋する。

「(前略)早川書房編集部で一九七四年のPlayBoy誌上にバージェスのインタビュー記事が出ているのを発見。訳者もそれを見せてもらったが、そ の中にはもちろんバージェスの著作中でのベストセラー『時計じかけのオレンジ』のことに触れた部分があった。それによるとバージェスはキューブリック監督 によって映画化された『時計じかけのオレンジ』には数々の不満があるというのだ。特に結末の部分がいけないという。キューブリック監督は原作の最後の章を 読んでいないんじゃないか、とあった。なぜかというと、最後の章では主人公の若いアレックスは成長し、暴力を時間の浪費だったと反省するようになり、結婚 して子供をもうけ、作曲家になろうと考えるようになる。ところが映画では暴力はまたくり返されるような暗い印象になっている。これは作者の意図ではないと いうのである。その理由としてバージェスは、自分はカトリック教徒として育てられたからだという。カトリックでは人間について楽観的な考えを持つように訓 練される、というのは人間は生まれつき悪の状態にあるものだというふうに教えられるからだ。つまりわれわれ人間はもうそれ以下に落ちることは無く、上へと 昇るだけなのだ、というのである。(前掲書P259〜P260)」

あと、日本語訳されてはいないが、『時計じかけのオレンジ ペンギン・ミューズ・コレクション 原書で楽しむ英米文学シリーズ (単行本) 』(ICGミューズ出版)にも、この最終章はいっている。この本の巻頭の「イントロダクション(ロン・カーターによる)」やp182のあとがきにも、主人公が最終章で改心することについてふれられている。

原作者バージェスの意図としては、この『時計じかけのオレンジ』は、犯罪者を改心させるにしても、洗脳まがいの強引なやり方でやるのは犯罪者の人権 を侵害している、というテーマの作品として書いたものだったようなのだ。上記の『ペンギン・ミューズ・コレクション』の巻頭の「イントロダクション」に も、そのような解釈ななされている。が、それが「犯罪を称揚している内容」として誤解されることが多いというのが実情のようである。

ポール・ダンカン/著『スタンリー・キューブリック全作品』(タッシェン・ジャパン)の136ページにも、原作者バージェスが映画のラストが原作と ことなることに対して不満を抱き、作品のテーマが「罪を犯そうとする衝動の賛美へとすりかえられている」と批判したことが書かれている。『時計じかけオレ ンジ』は本来は犯罪者の人権擁護をテーマとして書いた作品だったようだが、映画で最後の21章をカットしてしまったため、映画だけみると、あたかも「犯罪 を賛美している映画」のように見えてしまう。

映画版の監督のキューブリックは、この映画の上映をイギリス本国では禁止するように申しでて(映画版はイギリス映画だが、なぜかアメリカ版の小説を もとにしたらしく、最終章がカットされた状態で作品になってしまった。)、キューブリック本人の希望により、亡くなるまでイギリスでは公開されなかったそ うである。スタンリー・キューブリックの評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)には、以下のようにある。
「一九七四年、『時計じかけのオレンジ』のせいで起きる現実の暴力を憂慮したキューブリックは、イギリスにおける配給を、自主規制の形で止めた。キューブ リックは、『時計じかけのオレンジ』がイギリスのいかなるところで上映されてもそれを違法とし、配給をとめるようにワーナーに頼んだ。(331ページ)」

こういうことも、日本の多くの市民はしらないだろう。キューブリック本人がこの映画の上映を亡くなるまで禁止しつづけたということからいっても、キューブリック自身が、この映画のメッセージの描き方に「紛らわしい部分がある」ことを、おおむね認めたといっていいだろう。
前述の『映画秘宝』の『時計じかけのオレンジ』の町山智浩によるレビューは、この作品を「殺人を称揚する映画」としてもてはやしている国内マスコミによるレビューの典型的なものである。
(『時計じかけのオレンジ』が上映禁止になっていた間のイギリスが、ナチスと同等かナチスを凌ぐ独裁国家、全体主義国家になったとも思えないのだが、この点も重要である。)

*補足(下記 2020/1/2 加筆)

バリンジャー監督のインタビューの中に出てくる、「アメリカの高い犯罪率は銃規制問題が一番の原因だと思います。銃の所持を認める合衆国憲法修正第2条は“個人の自由”だと信じている人が多いから。」という言葉は、何を意味するというかということも述べておきます。 アメリカの合衆国憲法の修正第2条は、「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。」というものなのですが、これを「アメリカ国民一人ひとりが、銃を所持する権利である」と解釈するのが、アメリカの保守の立場で、この解釈に則って、アメリカの保守派は銃規制に反対します。この合衆国憲法の修正第2条を、州兵の設立のみを意味しているとの解釈で国民一人ひとりが銃を所持することに反対し、銃を規制するべきと主張するのがリベラル派ということになります。 合衆国憲法の修正第2条を「国民一人ひとりが、銃を所持する権利」と解釈するのは、銃のような危険なものでも、個人の自由(直接的には自衛する自由)のためには規制するべきではないというリバタリアニズムに通じる極端な個人主義のスタンスを示すものである故、先のバリンジャー監督の、合衆国憲法修正第2条を“個人の自由”とする解釈への批判は、この法解釈に、リバタリアニズム的な極端な個人主義が根底にあることを指摘する発言といえます。

ニーチェ主義とナチズム

 また、先に挙げた『犯罪ハンドブック』の引用箇所にもあるように、ニーチェの思想はナチスに影響を与えた。
このことは、実は学者たちの間でも意見の相違があるようだ。しかしヒトラーはムッソリーニに『ニーチェ全集』をプレゼントしたことや、ニーチェの妹がナチ スに加担したこと、またニーチェの思想も反ユダヤ的で反民主主義であることなどから、一般的には、ニーチェの思想はナチスに影響を与えたとする説が有力の ようだ。

 また、フランスの右翼はニーチェの影響をうけているという。もともとニーチェの文章は少々難解で曖昧な書き方をしている箇所がおおいので、右翼、左翼の両方が、自分達の都合のいいように解釈しているようだ。

 しかし、筆者が読む限り、ニーチェの思想はどう読んでも王政主義的であり民主主義とは程遠いものであって、一体左翼の人たちはニーチェの本をどうやって自分達に都合のいいように解釈したのか不思議ですねえ…右翼がニーチェを支持するのは理解できるが。

 また『存在と時間』といった著書で知られる哲学者ハイデッガーはニーチェの影響を受けておりニーチェを研究した『ニーチェ』や『森の道』といった 著書を書いている。しかし、ハイデッガーは実はナチス党員だったという事実があり、これもナチスとニーチェの関わりを表す出来事であるといえる。

 人間が本来持っている欲望のことをニーチェは「生」といい、これをニーチェは「貴族的評価価値」として理想としていた。ニーチェは既成の「善悪」 というものを否定したうえで、「肉体や意志の強さ(能力の優秀さもふくむ)」を理想とする「貴族的評価価値(貴族道徳)」というものが本来的な価値の評価 の基準である、という。この「貴族的評価価値」とは、つきつめると「力への意志」になるという。この「力」とは絶対的な権力、あるいは粗野な暴力と似たよ うなもので、現在の社会では「悪」とされているような野蛮なものである。
 そして、現在の社会で善とされている「弱者への同情や救済」や「人間は平等」とする価値観を否定する。

「神の同情にせよ、人間の同情にせよ、同情は恥しらずだ。」
(『ツァラトゥストラ〜』第四部『最も醜い人間』)

「…不当なのは、そもそも不平等な権利にあるのではない。「平等」な権利を要求することそのことのうちにあるのだ。」
(『アンチクリスト(反キリスト)』『五七』より)

これらの価値観を「弱者の怨み(ルサンチマン)から生じたもの」として批判し、「僧職的評価価値(奴隷道徳)」といい否定するのだ。これらの思想はエリート主義に通じるものであり、ナチスがエリート主義の社会だったのはニーチェの思想の影響とされている。

「善悪」を否定すると、世の中には「強弱」しかのこらないことになる。有名な某大学助教授はニーチェの影響をうけていて講議で「生は全く無意味だ。 世の中に善悪はない、強弱だけである。意味に生きるな、強度に生きろ。」と教えていたそうだ。つまり善悪という価値観がなくなったら世の中には個人の能力 差による強弱だけになってしまうのだ。

 善悪を否定すれば人間は自由になる、とおもうかも知れない。だが、善悪を否定しても個人の能力差は存在してしまう以上、実際は、強いものにとって のみ自由な世界ができあがるだけで、強いものが弱いものを支配するという事実上のファシズムになってしまうのだ。強弱と善悪との間に生じるジレンマが、社 会を複雑にしているとおもうのだが、善悪を社会からとりさったら「強いものが勝つだけ」という恐ろしく単純な社会ができあがる。ナチスはそれを証明したと いえないだろうか。

 また『ツァラトゥストラはこう言った』を読むと、ニーチェはさんざん「善悪」「正義」という概念を否定しているにもかかわらず、自身の理想とする「貴族的評価価値」のことを「正義」と呼んでいる部分がわずかにある。
(ニーチェの著書は、こういう矛盾しているような部分がたくさんあるのも有名。なにせ脳梅毒だったという噂ですからね…)

ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』で「人間の本性は悪だ」と言い切っている。俗にヒトラーはナチズムを「正義」だと主張したと言われが、ヒ トラーがニーチェに影響されているとなると、ヒトラーが「正義」と言ったのは、清廉潔癖な人間にあこがれたからというよりは、市民を扇動するための建て前 として「正義」という言葉を使っていた可能性がある。かりに本気で正義という言葉をつかっていたとしても、それはあくまで「貴族的評価価値」における「正 義」であって、現在の社会においては「悪」とされている野蛮な行為を指すものである。本来悪とされている行為を「善」とよんで肯定したのだから、ナチズム とは事実上の悪の肯定だったといえるだろう。

 V.E.フランクル著『夜と霧』(みすず書房版の旧訳版)の巻頭の解説によると、ナチスは強制収容所の内部で行われていることをドイツ市民には公表しなかったそうだ。また、ドイツ人の凶悪犯罪者たちを強制収容所の職員に起用していたことも書かれている(P,17など)。

「世の中に清廉潔癖さを求めるとナチスになってしまう」というような意見を、マスコミ等で耳にすることもある。しかし、これらのことから考えると、ナチスが強制収容所で暴虐行為をおこなったのは、「清廉潔癖さを求めた」からではないようにおもえる。

 ナチスには、強制収容所でのユダヤ人の虐殺や虐待は「犯罪的な行為である」という自覚があったとおもわれる。でなければ、凶悪犯罪者たちを強制収容所の職員にしたり、虐殺や虐待をドイツ市民に秘密にしたりはしなかったのではないだろうか。
 このことは、やはりナチスが、「悪の肯定」というニーチェの思想の影響をうけていたことを物語っているようにおもえるのだが。犯罪者が権力をもち、ユダ ヤ人や障害者を奴隷にするという強制収容所の世界は、まさにニーチェが理想とした世界そのものであるだろう。ヒトラーは、収容所のなかにニーチェ主義の実 践による理想社会をつくったのではないだろうか。

ニーチェ著『道徳の系譜』には、犯罪者を罰さないように推奨している箇所がある。この部分と、ヒトラーが凶悪犯罪者を強制収容所の職員に起用したこととに共通点をみいだせなくもないだろう。

「犯罪者を罰せずにおく--この最も高貴な奢侈(しゃし)を恣(ほしいまま)にしうるほどの権力意識をもった社会というものもかんがえられなくはないであろう。(『道徳の系譜』(岩波文庫)83ページ)」

 またニーチェは善悪を否定しておきながら「強いものが善、弱いものが悪」というようなこともいっている。
例)「善とは何か――人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。悪とは何か――弱さから生ずるすべてのもの。(『偶像の黄昏 アンチクリスト(反キリスト)』(白水社)162ページ)」
 一般的には、善とは弱者を救うものであり、悪とは権力をふるい弱者を痛めつける強いものとされる。だが、これを逆転させて「弱者救済が悪」「権力が善」とするのがニーチェの思想なのである。

 この、弱者救済をを否定し権力を肯定する考え方は、前述の貴族的評価価値と同じものである。善悪と強弱を同一のものとしてしまうこの考え方は、「善とは、その時代に権力をもったものの言い分にすぎない」というニュアンスもふくんでおり、事実上の善悪の否定でもある。

 ニーチェは「善」「悪」という価値観は相対的なものだと述べている。
「つぎのように言う者は、自分自身を発見したものといえる。--『これはわたしの善だ。これはわたしの悪だ』と。(『ツァラトゥストラはこういった』の第三部『重力の間』より)」

 こういった考え方は価値相対主義といわれる。たしかに、善悪という概念は個人によってことなる場合 があり、これを認識することは大事であろう。しかし、価値相対主義は、犯罪の正当化の口実に利用されてしまう危険もある。つまり犯罪をおこなった人間が 「これは私にとっては善なのです」と言い張って自身の罪を認めないということも起こりうるのである。なので、価値相対主義は主張するにも慎重さが必要だろ う。

 ヒトラーはニーチェ主義者であった以上、ヒトラーが語った「正義」というのは、こういった価値相対主義の乱用による自己正当化の一種だったともいえる。

ナチズムと正義

 日本では、ある著名な言論人(脚本家の市川森一氏)が「正義という言葉はヒトラーがつかった言葉だ かた自由という言葉がいい」という発言をして以来「正義=ヒトラー」というイメージが定着している。しかし、ヒトラーが書いた『わが闘争』を読むと、実は 自身の闘争の目的を「自由のため」とよんでいる箇所がおおい。私見では「正義」よりもむしろ多用している感さえある。

『わが闘争(角川文庫版)』上巻(『1 民族主義的世界観』)の『第八章 わが政治活動のはじめ』の『唯一の信条、すなわち民族と祖国』という項では、以下のような記述がある。

「われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、民族の子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、またわが民族が万物の創造主から依託された使命を達成するまえ、生育することができることを目的としている。(278ページ)」

さらに下巻(『2 国家社会主義運動』)の『第一章 世界観と党』の『世界観対世界観』には、

「(前略)われわれは攻撃の形をとって新しい世界観をうちたて、(中略)いつかわが民族が自由の殿堂にふたたびのぼりうるための階段をきずくのだ(16ページ)」

また、下巻の『第十三章 戦後のドイツ同盟政策』の『無能な原因』では、

「ただわが国の崩壊の原因を除去し、同時にその崩壊から不当に利益をえたものを絶滅することだけが、国外に対する自由のための闘争の前提を作り出すことができるのだ。(298ページ)」

 このように、自由ということばはヒトラーも使っていたのだ。この『わが闘争』という本はナチズム運動のバイブルとして、あとのナチスドイツに多大な影響を与えたものである。私見だが『わが闘争』において「自由」は「正義」という言葉より頻出しているようである。

 筆者は念のため、昭和36年に黎明書房からでた『完訳わが闘争』を図書館で読んでみたが、筆者がこのサイトの日記等で引用した「自由」という言葉をつかっている箇所の訳は変わらなかった。現在出ている角川書店版は、この黎明書房版の採録である。

「ハロー効果」という心理学用語がある。これは、権威のある人間が何か語ると、それが例え「間違っていること」だったとしても一般の人は「その発言が正しい」と思いこんでしまう効果の事である。「ハロー効果」は『大辞林 第二版』(三省堂)によると「人や事物のある一つの特徴について良い(ないしは悪い)印象を受けると、その人・事物の他のすべての特徴も実際以上に高く(ないしは低く)評価する現象。後光効果。光背効果。」とある。

著名な言論人が「ヒトラーは正義という言葉をかたったから自由という言葉を使おう」と言ったおかげで多くの日本人は「ヒトラーは自由という言葉を使わなかった」と信じ込んでしまった感がある。これはあきらかにハロー効果によるものだろう。

そうなると、知識人、言論人のいうことを一般人が信じやすいというのは心理学的に証明されていることになる。マスコミでの知識人、言論人の発言は大衆を扇動する強い影響力を社会の中でもっているといえ、彼らは現代の日本社会の影の「独裁者」ではないだろうか。

明治学院大学教授の川上和久氏の著書『情報操作のトリック その歴史と方法』(講談社)45ページによると、権力者が民衆を支配する方法にはいくつ かのパターンがあるという。それは「カリスマ的支配」「伝統的支配」「合法的支配」「暴力による支配」からなり、このうち「カリスマ的支配」とは、指導者 の能力や資質などの魅力に対し服従者が自発的に服従するような形の支配を指す。言論人、著名人の意見を民衆が妄信する現代の日本は、この「カリスマ的支 配」の状態にあるのだろう。

前述の映画『時計じかけのオレンジ』の影響によって起ったといわれる犯罪にも、このハロー効果が作用しているとはいえないか。映画『時計じかけのオ レンジ』は、原作者バージェスが指摘するように、作品だけみると犯罪を賞賛しているテーマの作品にしかみえない代物であった。それを高名な批評家たちが高 い評価を与えたことに問題があったのではないか。

高名な批評家(文化人)はみな社会的な権威なので、そういう彼等の言動にはハロー効果が作用して市民を扇動する力があるだろう。その批評家たちが、 殺人を賞賛しているテーマの映画にしかみえない映画版『時計じかけのオレンジ』に高い評価をあたえたことは、高名な批評家が殺人を賞賛したことと同じこと になる。つまり作品そのものに市民を扇動する効果があるのではなく、むしろそれをマスコミなどに登場する批評家たちが高く評価することによって、ハロー効 果が作用して市民が扇動されて犯罪が起ったのではないか。

 また2001年9月に、ニューヨークの貿易センタービルがイスラム過激派に爆破される事件がおこった。これに対する米軍のアフガニスタンへの報復軍事作戦の名称は『不朽の自由』作戦という名称である。さらには、2003年のイラク侵攻の作戦名も『イラクの自由作戦』であった。

 つまり「『正義』という言葉は危険、『自由』という言葉は安全」というような図式的な判断は無意味であろう。「秩序」「正義」「自由」は単語であり、単語というのは単なる記号にすぎない。その単語がどういう思想に裏打ちされて用いられるかで、危険かどうかを判断するべきではないか。
こういう考えは言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの言語学に通じるかもしれない。これは言語を「指示部」と「対象」にわけ、「指示部」と「対象」の 結びつきは必然ではないとするものだ。「指示部」は単語のことであり「対象」は「単語の意味」ということになる。そしてソシュールは
単 語と意味の結びつきは無関係である分析している(単語と意味の結びつきは必然ではなく恣意性に任されているという)。つまり正義とはいえない思想や行為が 正義と呼ばれる可能性はいくらでもあり得ることなのである。なので正義という言葉を否定することは意味をなさないといえるだろう。

 ヒトラーは優生学に傾倒していた。優生学とは「社会ダーウィン主義」ともいわれ、ダーウィンの種の保存の考え方を社会一般にも適用し、力の強い人間や優勢な人間が勝ち残り人類が進化していくという考えである。

 この優生学に則り、ナチスは弱者救済を否定し、精神障害者や先天的な身体障害者を「安楽死」と称し て虐殺していった。優生学によれば、障害者は淘汰されるべき人間たちであり、彼らを生かすことは人類の進化のさまたげになるからだ。ナチスがこういう優生 思想に傾倒していったのも、ニーチェの思想と優生学に共通点があったためだった。ニーチェ主義と優生思想には「弱者救済を否定する」という部分が共通して いるのだ。ニーチェは『反キリスト』のなかで、こんなことを書いている。

「弱者と出来損ないは亡びるべし、――これはわれわれの人間愛の第一命題。彼らの滅亡に手を貸すことは、さらにわれわれの義務である(『偶像の黄昏 アンチクリスト(反キリスト)』(白水社)162ページ)」
 これはまさに障害者の虐殺に通じる思想といえよう。このようにニーチェは障害者を虐殺することを「愛」としたが、
実はヒトラーも『わが闘争』において、自身の闘争の目的に関わる重要な部分に「愛」という言葉をつかっている。早速抜粋しよう。

第二章『国家』『国民的誇りの喚起』(下巻 77〜78ページ)
「自分の民族をするものは、民族のために喜んで身をささげる犠牲によってのみ、それを実証するのである。(中略)バンザイの叫びも、もしもその背後に一般的な健全な民族性を維持しようとする偉大なの配慮がなければ、何も国家主義たることを証明しないし、またその権利もない。」

第二章『国家』『国民的誇りの喚起』(下巻 78ページ)
「国家主義と社会主義の感情との親密な結婚は、まだ若いうちに心に植えつけられねばならない。そうすれば他日、共通のと誇りによっておたがいに結ばれ、鍛えられ、永久に揺るぎなき、無敵な国家市民からなる民族ができるであろう。」
(註,ナチス党"Nazis"の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」)

またヒューG・ギャラファー著『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(現代書館)によると、障害者の虐殺をおこなったナチス親衛隊のヴィクトール・ブラック大佐はこの障害者の虐殺を「人類愛に満ちた行為」と呼んでいたそうである(63ページ)。

また、ナチスだけでなくオウムも「愛」という言葉をつかった。94年8月から10月にかけてオウム真理教は和歌山山中で「白い愛の戦士」という信者たちを合宿させ、武闘訓練をさせていたというのは有名である。無差別テロを目的としたこういう組織に「愛」という言葉がつかわれたとなると、愛という言葉も絶対ではない。

「正義」も「自由」も「愛」もナチス等がつかったということで、「勇気」が大事だ、という意見をもっている人もいるだろう。しかし、勇気ということ ばも、ヒトラーの『わが闘争』に何度もでてくる言葉である。それもそのはず、勇気とは、ヒトラーが影響を受けた哲学者ニーチェの、貴族道徳のなかにふくま れているからだ。以下、『わが闘争』から、勇気という言葉がつかわれている部分を抜粋する。

「自然は生物をまずこの地球上に置き、そして諸力の自由な競争を見ている。そして勇気と勤勉さで最も強いものが、自然の最愛の子供として生存の支配権を受けとるのだ。」
角川文庫版上巻『第四章 ミュンヘン』『ドイツ政策の四つの道』より(182ページ)

「(前略)この地上で滅亡、あるいは奴隷民族として他の民族の奉仕に心を煩わさねばならぬ危険から永久に解放されるような道を前進するために、わが民族とその勢力を結集する勇気を出さねばならない。」
角川文庫版下巻『第十四章 東方路線か東方政策か』『国家社会主義の歴史的使命』より(346ページ)

このうち、前者の抜粋は優生思想に通じており、後者の抜粋箇所はナチスの闘争そのものに勇気が必要とかかれている。

またヒトラーの総統大本営での発言を収録した本『ヒトラーの遺言』(原書房)では、
「われわれは、絶体絶命の勇気をもってたたかいを継続しなければならない(18ページ)」
というヒトラーの発言が掲載されている。

戦争には勇気がいるだろうから、当然ヒトラーも「勇気が必要」と言うわけである。問題はその勇気が、どういう方向にむいているかなのですが、そういうことを考え無しに勇気!勇気!と連呼するのは意味がないとおもえる。

「善悪二元論」を否定し、代わりに「自由が大事」だといったところで、結局は自由と抑圧(不自由)という事実上の二元論になる、ともいえるのではな いか。「善悪より愛が大事」という意見についても同様である。「愛があるか、愛がないか」の二元論にいきつくとはいえないか。これは「勇気」「友情」につ いても同様である。

『反ニーチェ』を読む

 今の日本では、特にマスコミに登場する言論人の間においてニーチェは絶対的なブランドになっている感がある。ニーチェに反論する知識人や学者などこの世に存在しない、とおもっている方もいるかもしれない。しかし、そういう学者も実はちゃんと存在するのである。

『反ニーチェ なぜわれわれはニーチェ主義者ではないのか』(法政大学出版局)という本がある。この本は、さまざまな学者たちがニーチェを批判している論文集だ。

 この本に載っているパリ第一大学助教授のアンドレ・コント=スポンヴィルの論文『野獣、詭弁家、唯美主義者-幻想に仕える芸術』は、性道徳を例にしてニーチェ的な背徳主義の問題点を鋭く指摘している。

 手淫(オナニー)や同性愛はかつて不道徳だとされていた。しかし現在ではこれらの行為は罪にはならない。しかし、この一例で道徳そのものを否定するのは間違いだ、とスポンヴィルはいう。
そして「手淫や同性愛はともかく、強姦は現在でも明らかに罪である」とスポンヴィルは指摘し、「この一言で背徳主義は反古にできる」と背徳主義を否定する。
(「反古」とは「クズ」「がらくた」の意。「ほご」と読む)

 そして、スポンヴィルは、背徳主義をかかげる人たちに、「道徳を否定するなら、何の名において『強姦は罪だ』という認識を持つのか?」という問題 を提起する。この問いに対し「倫理の名において」と答えたとしても、それは単なる言葉の言い換えにすぎない、とスポンヴィルはいうのだ。

 正義否定論を唱える言論人は「正義より自由がいい」という意見をよくいう。でも、この「正義より自由」という意見もスポンヴィルがいうような「単なる言葉の言い換え」にすぎず、あまり意味のないことのように筆者は思える。

道徳的な価値観を批判、罵倒するのがニーチェ主義だが、ニーチェ主義というのは、このように「他の価値観の批判」という要素を本来持っている。『反 ニーチェ』でおこなわれているニーチェ主義批判というのは、道徳批判であるニーチェ主義を、逆に批判するという「逆批判」とでもいうべきものである。

『ダカーポ』523号(2003年10月/1号)には、千葉大学文学部教授の永井均のコメントがある。これによると、ニーチェの思想は、20世紀後 半にフランスの学者たちの間で見直しがはじまり、ニーチェの影響をうけた「フランス流行思想(フランス現代思想)」は今ではうち止めになっているという (54ページ)。この『反ニーチェ〜』という本は1991年の本だが(邦訳判は95年)、どうやらそういったフランス流行思想が見直されたいて時期にでた 本らしい。

 誤解のないように念をおすが、筆者は強姦以外の性道徳というのは、あまり本気で気にしても仕方がないものとおもう。強姦以外の性道徳は、それこそ文化の一種であり、抽象的な理念にすぎず、時代や地域によって著しく変わる場合がおおいとおもえるからだ。

『犯罪ハンドブック』(新書館)には『被害者なき犯罪』という項目がある(172ページ)。この項には、売春というのは、客は好んで売春行為を選択しているのであり、被害者とはいえず、よって「被害者なき犯罪」だとある。
 被害者がいないのに、売春がなぜ犯罪として扱われるのか? 売春によって「公序良俗とか女性の尊厳」といった抽象的な理念や理想が損なわれるという理由で、売春が犯罪として扱われるのだ。こういう犯罪をこの項では「被害者なき犯罪」とよんでいる。

 筆者が近年のマスコミのオピニオンで問題だとおもったのは、「正義、道徳は全て抽象的な理念にすぎない」などといって、あきらかに被害者が存在す る犯罪まで肯定してしまう意見が多かったことだ。筆者は、被害者のいる犯罪を禁止する場合の「道徳」は、抽象的な理念ではないと思える。

 もう一つ、自分のスタンスが誤解されないように記すが、筆者は背徳主義を否定しているものの、だからといって、いたずらレベルの悪事(悪ガキがやる程度のもの)まで厳しく罰しろ、という極端なことをいっているのではない。
 なぜなら筆者は、こういう小さないたずらまで厳しく否定してしまうと、かえって反動で大きな犯罪をする人がでてくるとおもうからである(小さないたずらでも、全くおとがめなしというのもマズイかもしれないが)。
しかし、ニーチェはこういう考えすら、こんなふうに否定するのだ。

「いかにもあなたがたは言う。『ちっぽけな意地悪を楽しむことによって、多くの大きな悪行をしないですむ』と。しかし、そんな節約をしてもしかたがない。」
『ツァラトゥストラはこう言った(かく語りき)』第二部『同情者たち』より

 ここに、筆者がニーチェの本を読んでいて納得がいかなかった理由がある。

 また、今の言論人は、ニーチェがいう「善悪の否定」の思想が、平和のために必要だ、と力説する。が、ニーチェは実は平和など望んでおらず戦争を肯 定している。なので、ニーチェの思想を持ち出して平和を訴える言論人たちには、なんとも言えない欺瞞性(うさんくささ)を感じるのだ。
ニーチェは自身が理想とする「貴族的評価価値(貴族道徳)」の基準を「肉体や意志の強さ」であるとし、そのために戦争をも肯定しているからだ。一例としてニーチェはこんなことをいっている。

「あなたがたの思想のために、あなたがたの戦いを戦わなければならない!」
「わたしがあなたがたにすすめるのは、勤労ではない。戦いだ。平和ではない。勝利だ。」
『ツァラトゥストラはこう言った』第一部『戦争と戦士』より

ようするに、ニーチェは戦争をも肯定しているからこそ、徹底的に道徳を否定するのだ。それなのに、背徳主義をかかげながら平和を唱える言論人がおおいのには疑問をかんじるのだが…。

しかし、いたずらレベルの悪事は許すといっても、いじめはやっぱり問題であろう。いじめのように1人の人間に長期継続的にいやがらせを続けるのは、 いやがらせ自体はいたずらレベルのものでも、長期、継続的にやられることによって、いじめられた方は大きな犯罪の被害を受けたのと同じくらいの精神的なダ メージを受けるとおもうからである(これは自殺者が出てることかわもわかる)。こう考えると、いじめというのは、法の目をかいくぐった完全犯罪なのかもし れない。

ニーチェはやくにたたない

 ニーチェの思想(おもに背徳主義)について、この文章では、いままで批判してきた。しかし、ニーチェの思想を肯定的に研究している本のなかに、唯一筆者が読んでいて共感した本というものもある。

 それは、『これがニーチェだ』(講談社現代新書)という本だ。この本は前述の永井均(千葉大学教授)によって書かれた本である。この本で永井氏は、いままでニーチェについて書かれた多くの本に不満がある、という。
 いままでのニーチェについて書かれた本のおおくはニーチェの思想を社会に役にたつものとして分析しているが、この点が不満だと永井氏はいう。永井氏はこういう分析が「ニーチェの真価を骨抜きしている」とさえいうだ(!)。

 永井氏によると、ニーチェの思想というものは、いわゆる「この世的な価値」の無いものであり、どんな意味でも役にたたない。だからこそニーチェはすばらしい、と永井氏はいう。

 この永井氏によるニーチェの評価は、筆者にとっても、それなりに納得できるものである。筆者はニーチェの思想とは、思想上の一つの実験のようなものであて、現実の社会にとってはあまり意味がないもののようにおもえる。

 そして永井氏は、こういった、どんな悪事でも肯定することを意味するニーチェの思想について、「これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない(174ページ)」という。

 この意見自体は筆者にも納得のいくものだ。ですが、ニーチェの文章は、やたらに読者に命令するような調子で書かれているものが多いです(「〜であ るべきだ!」「〜でなければならない!」とか)。そうなると、ニーチェ自身は自らの思想を「社会に役立つもの」として書いたように筆者にはおもえるが…。 ニーチェの文章はテクストに魅力があり、詩文のような美しさがある、と表されるが、筆者からすれば、この命令調の文体の押し付けがましさに閉口してしま い、あまり美しいとはおもえなかったのだが…。

 ともかく、ニーチェの思想をドラマや映画のテーマにして視聴者に訴えるということは、意味がないどころか危険なのでやめたほうがいいと筆者はおもう。

 哲学について研究している人の中に は、キリスト教信者でもニーチェ主義者である人がいる。ニーチェは『反キリスト』という本を書いたぐらいにキリスト教を批判しているのだが、キリスト教信 者が同時にニーチェ主義者でもあるという、こういう矛盾した状況がなぜうまれるのだろうか? 

 実は『反キリスト』のなかでニーチェは、「キリスト教」は否定しているもののキリスト自体は否定し てはいないのである。『反キリスト』でニーチェは、現在広まっているキリスト教は、本来キリストが説いた教えそのものではなく、キリストの死後、パウロや ルターといったキリスト教徒たちが誤解したものだったと分析し、その誤解されたキリスト教を批判しているのだ。

 ニーチェは、キリスト本人が説いた教えは貴族道徳的なものだったと推測し、それを弟子たちが誤解 し、キリスト教を奴隷道徳的な教えに変えてしまったという。キリスト教信者でありながらニーチェを好む人は、ニーチェが否定するキリスト教は、誤解された キリスト教のことであり、本来のキリスト教ではないと考えて納得しているのだろう。

 またニーチェは、誤訳した新約聖書をもとにキリスト教批判をおこなったのだ。当時ドイツではルター訳の新約聖書がでまわっていたらしく、このルター訳では有名な「山上の垂訓」が誤訳されていて、ニーチェが批判したのは主にこの「山上の垂訓」の部分であった。

 なので、ルター訳の新約聖書が誤訳されていなかったら、ニーチェはキリスト教批判を行わなかったと いう可能性もある。キリスト教信者でニーチェ主義でもある人は、「ルター訳の新約聖書に誤訳がなければ、ニーチェはキリスト教を認めていただろう」と考え ている可能性もある。

 ただ、ニーチェが誤訳した新約聖書をもとにキリスト教批判をおこない、ルサンチマン論を作り上げたという事実から、ルサンチマン論自体を否定する専門家もいるようだ。

 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』やそれの映画『ネバーエンディングストーリー』はニーチェ批判をやっている作品のようである。これらの物 語の舞台のファンタージェンは、現実社会の人間たちの夢と希望によって作られている世界なのだが、人間が虚言(うそ)をつくことでファンタージェンに「虚 無」がはびこるとなっている。

『はてしない物語』では、ファンタージェンの生き物が「虚無」に呑み込まれると、人間の世界で「虚偽(いつわり)」となり、人間たちを不安にさせた り絶望させたりもする。この虚無は、ニヒリズム(虚無主義)を比喩したものだろう。ニヒリズムは普通には、人生が無意味になり何ごとにも絶望したような状 況をさす。ニヒリズムは否定主義ともいわれ、道徳の否定もニヒリズムである。

 映画『ネバーエンディングストーリー』では、人間が絶望すると「無」が生じ、ファンタージェンを破壊するという展開になっている。グモルクという 黒い狼のような獣がファンタージェンに住み着いているのだが(グモルクは原作にも登場)、このグモルクは、ファンタージェンが「無」によって破壊されるこ との手助けをしており、ファンタージェンを破壊し人間から希望をうばった上で権力を振るい人間を支配するという野望をもっている。このグモルクの設定はお そらくニーチェの『権力への意志』を比喩しているのではないかとおもわれる。

 ニーチェの『権力への意志』は、ナチズムにもっとも強い影響を与えたと言われるものだ。ニーチェは哲学や宗教は無意味であり、権力への意志こそ 「人間の生きていく原理であり、人間を真に自由にしてくれる」ものであるという。そして、この権力への意志は「普通の人間が持っているのではなくて、『超 人』が一身に具現化しているもの」としていた。

 ニーチェは「人間の可能性を極限まで実現した人間「超人」が、既成の価値観(哲学や宗教など)を破壊し、神に代わって人類の支配者となる」という『超人の思想』を主張した。

 ナチスのヒトラーは、自らがニーチェの言う「超人」だとして、この思想を体現しようとし、人類史上最大のファシストとなったのだった(ヒトラーの起こした惨劇は、ニーチェの思想を「世の中の役にたてよう」としておこったと言える)。

『はてしない物語』は後半でも、ニーチェ批判ととれる描写がいくつかみうけられる。夢の国ファンタージェンの住人は、王女月の子(幼ごころの君)に よって命を与えられている。主人公の少年バスチアンは、物語の中盤で、女魔術師サイーデにそそのかされて、月の子にとってかわってファンタージェンの支配 者になってしまう。
 月の子とはファンタージェンにおける神のような存在の少女だが、彼女にとってかわって人間であるバスチアンがファンタージェンを支配するようになるのである。
 バスチアンは、ごう慢な権力者「帝王」になって何の制限も条件もない「真の自由」をえるのだ(岩波書店版479〜480ページ)。これは、人間が神にとってかわるというニーチェの超人思想の比喩ではないかとおもわれる。

 この月の子は、ファンタージェンの住人ならば、善人なるものにも悪なるものにも命を与える存在としてえがかれている。これは一見ニーチェの「悪の 肯定」という思想に通じるように思う人もいるかもしれない。が、この善にも悪にも命を与えるという権限は、月の子以外は持ってはならないとされている (378ページ)。この権限を人間であるバスチアンがもってしまうことから、バスチアンはファンタージェンの「帝王」になってしまうのだ。このときのバス チアンは、人間を超えようとして独裁者になるという点でヒトラーに通じるだろう。

ニーチェの悪の肯定は同時に善の否定を意味する。
例)「善人たち---かれらはつねに「終わりのはじまり」であった。」
(『ツァラトゥストラはこういった』の第三部『古い石の板と新しい石の板』での一節より)

なので善も悪も肯定するというこの『はてしない物語』の月の子の設定はニーチェの「悪の肯定」とは異なるものだといえる。月の子は、人智学における「ルシファー」の比喩だといわれている。

人智学(Anthroposophie)とは哲学者ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)が創設した総合的な精神科学。教育、神秘学、農業、医学、芸術、経済、社会運動などのドイツの文化にその影響を与えている。

「ルシファー」は人智学の用語で、あらゆる陶酔、欲求の統治者のことだという。ルシファーは、基本的には悪と捉えられているものだそうだが、芸術的営為を行わせる正の面の作用と、退廃的な悪しき文化をもたらす負の作用があるとされている。

 また、『はてしない物語』では、バスチアンが、アウリンという何でも望みがかなうメダルを手にしたとき、「ぼくがしたいことはなんでもしていいっ ていうことなんだろうね」とバスチアンがいうと、「ちがいます」とグラオーグラマーン(バスチアンにつかえる巨大なライオン)に否定される場面がある (317ページ)。
 これは「真理はないのだから、なにをしてもいい」とするニーチェの思想とは正反対のシーンといえる。

 自分の欲求が抑圧されて不満を感じることをフラストレーションという。子どものときある程度フラストレーションを経験すると、子どもはフラスト レーションに耐え感情を適切に処理することを学ぶそうだ。このことをローゼンツヴァイクという心理学者がフラストレーション耐性(frustration tolerance)と呼んだそうである。

 子どもの頃フラストレーションを体験しないで育った人は大人になってもフラストレーションの対処の仕方がわからず不適応な行動に走りやすいらし い。しかし、逆に子どもの時フラストレーションを多く体験しすぎると、子どもはフラストレーションを対処できずに不適応に陥ってしまうという。

 そうなると、子供のころに、ニーチェ主義的な「何をやっても自由だ」ということばかりを教えることは、子供がフラストレーション耐性のない大人に育ってしまう可能性がある。

 そういえば、『ハリーポッター』の敵であるヴォルデモートも「世の中に善悪はなく、力の強弱があるだけ」というニーチェ的な思想をもつ悪役だ。

『ハリーポッター』はイギリスの作品、『はてしない物語』はドイツの作品であるが、こういったヨーロッパの国々では、ニーチェの思想に批判的な作家はいるようだ。

ベトナム反戦運動と同時期にアメリカでおこった黒人解放運動である公民権運動で活躍したキング牧師も演説で二ーチェの思想に批判的な発言をしたことがある。
「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざないは、実際はすべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛へ の招きでもある。この愛はしばしば誤解され間違って解釈された概念であり、二ーチェのような人々によって惰弱で臆病なものとして簡単に排除されてきたもの だが、しかし人類が存続していくために絶対不可欠なものとなっている。(『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)180ページ)。」

上記のように、キング牧師のいう「愛」とは「すべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛」であって、これは人類愛のことだろう。古代中国の思想 家、墨子の「兼愛」という思想も「自他・親疎の区別なく、人々を全く同じように愛すること(三省堂 大辞林より)であり、古代中国にも人類愛と同じ価値観 があったとなると、人類愛は決して西洋独特の価値観ではないといえる。

キング牧師といえば「私には夢がある」という言葉が有名だが、この言葉がでた1963年8月のリンカーン記念堂における演説では、結構「正義」ということばが頻繁につかわれています。
「私には夢がある。今、不正義と抑圧の炎熱に焼かれているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。(103ページ)」

この演説に限らず、キング牧師は演説で正義ということばをかなり多くつかっています。
「愛はキリスト教信仰の要の一つである。だがそこには正義というもう一つの側面がある。そして、その正義とは現実的利害関係において実現される愛のことだ。正義とは愛に対立するもの正す愛のことだ。(中略)愛の傍らには常に正義がある。」(24ページ)

「正義が一時的には打ち負かされたとしても、結局正義は勝ち誇った悪に優るのである。」(125ページ)

キング牧師のいう「闘い」とは、いわゆる絶対非暴力主義的なデモ運動などを意味しますが、そうはいっても、暴力で体制側に抵抗する当時の若者へは同情の念をいだいてもいました。
「社会変革は非暴力的活動を通して最も意味深いものになるという確信を抱きつつも、彼ら(火炎瓶やライフルをつかってベトナム反戦運動を行っていた若者)への同情の念を正直に吐露した。」(162ページ)

また、キング牧師は人種差別主義、極度の物質主義、軍国主義を「巨悪の三つ子」と呼んでいました(177ページ)。よく「人種差別は善と悪という概念によって起こる」などという人がいますが、実際に人種差別への抵抗をしていたキング牧師は人種差別を悪だといっている。

ビートルズの歌など60年代のアメリカのロックやフォークなどで「愛こそすべて」というフレーズがたまにあります。このフレーズのルーツは、聖書にあるのではないか。というのも、聖書には何箇所か「愛こそすべて」に近い言葉がかかれている箇所があるからである。

まず、新約の『コロサイ信徒への手紙 1』の3章14節には「愛は、すべてを完成させるきづなです。」という言葉があります(日本聖書協会『新共同 訳 聖書』1994年版より)。これが「愛こそすべて」かなり近い言葉で「愛こそすべて」のルーツになったとおもえる箇所である。

また、『コリント信徒への手紙』13章の4節から7節にかけて、「愛こそすべて」にちかい言葉がかかれている。これも間接的にルーツになったとおもえる箇所である。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真 実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(日本聖書協会『新共同訳 聖書』1994年版より)」

この部分も「愛」は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」としているので「愛こそすべて」に通じる部分といえる。ここで重要なのは「愛」は「不義を喜ばない」としている点だろう。

前述のようにキング牧師の演説で「愛の傍らには常に正義がある」という言葉があるが、この言葉は、聖書の「愛は不義を喜ばない」という箇所が直接な いし間接的に影響した結果でてきた言葉ではないかとおもえる。つまり「愛は不義を喜ばない」ので「愛は正義をもたらすもの」であり、だから「愛の傍らには 常に正義がある」ということだといえます。

そうなると「愛こそすべて」というのは「愛は正義をもたらし、また正義以外の様々な有益なものも世の中にもたらす」ものであり、だから「愛こそすべて」だ、という意味に解釈ができるとおもえる。
90年代の国内マスコミにおいて「愛こそすべて」というフレーズは、しばしば「愛があれば正義はいらない」という意味に解釈されていた。しかし、上記のよ うにキング牧師が「愛は正義をもたらす」というような意味のことを語っていたとなると「愛こそすべて」は正義を否定している言葉ではないと解釈できるので はないか。

ニーチェと自然

「善悪」を否定すると、社会はより自由になる、と思っている人もいるかも知れない。しかし実際は「善悪」が無くなっても個人の能力差は歴然と存在す るため、「強弱」だけの世の中になるのだ。つまり「強いものが勝つ」というだけの単純な事実上のファシズムの社会になってしまうのである。某助教授はニー チェの影響をうけていて講議で「生は全く無意味だ。世の中に善悪はない、強弱だけである!」と教えてたという。
 この某助教授は、酒鬼薔薇事件のときになぜかまっ先に研究にのりだたが、これはやはりニーチェ主義と事件の関係を世間に気付かせないためだったのだろうか。「透明な存在」という記述にばかり世間の目をむけさせてニーチェ主義と事件の関連をあざむいたのか…?

 また、『自由からの逃走』(東京創元社)によると、ヒトラーは自身がかかげる理想について「(前略)人々を全宇宙を形成するかの秩序の中の一遍の 塵にさせる」と定義していたそうだ(255ページ)。つまりヒトラーのいう「秩序」とは自然の摂理といった宇宙の秩序のことを意味するのだ。

 前述のようにヒトラーはニーチェと優生学に傾倒しており、弱肉強食や自然淘汰といった自然界の法則を人間社会に置き換えたのがナチスの社会だっ た。これは、人間がつくったものにすぎない道徳など否定し「宇宙の秩序」に従うという名目によるものだったようだ(英語ではこういう宇宙の秩序のことを cosmos(コスモス)という)。「人間のつくった道徳やイデオロギーなどあてにならない。なので自然の摂理にしたがうべき」という意見も、近年日本の 言論人たちの間でよく言われることである。

ヒトラーの著書『わが闘争』にも、こういったイデオロギー批判は書かれている。該当する部分を抜粋しよう。
「この遊星はすでに幾百万年も、エーテルの中を人間なしで動いていたのであり、もし、人間は自分の高等な存在を、二、三の正気でないイデオローグたちの観 念にではなく、自然の鉄則の認識と、断固としたその適用に負っていることを忘れる場合には、わが遊星はいつかふたたび、そのような状態にもどっていくだろ う。(375ページ)」
角川文庫版上巻 十一章『民族と人種』『人間と観念』より

蛇足だが、90年代以降の日本には、論理的な思考を放棄し、直感を絶対視するブームもあり、現在(2004年)定着している。人間の直感的な判断は右脳がおこなっていることから、直感をきたえる「右脳開発法」が書かれた本が話題になった。
しかし
『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』には、ヒトラーが直感を頼りに判断する人間だったと書かれてある。

「ヒトラーは複雑な男だった。洞察力で判断するタイプの指揮者で、直感に従って決断をくだしたという点でリンカーン、ルーズベルト、そしてロナルド・レーガンと同様である。(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』40ページ)」

ヒトラーが直感による判断をしていたとなると、直感も相対的なものだといえるだろう。こういうヒトラーの直感への妄信は、前述のイデオロギー批判の延長だといえるだろう(直感が「自然」で、理論は「人間がつくったもの」というような)

あと、蛇足であるが、ヒトラーは大変な自然崇拝者であった。それを裏付ける言葉を『わが闘争』から探してみよう。

角川文庫版上巻 十一章『民族と人種』『人種交配の結果』から
「自然に反対する人間の行動は自分自身の破滅に行き着かなければならない(373ページ)」

角川文庫版上巻 十一章『民族と人種』『人間と観念』から
「人間はどんな事柄についても自然を制服したことなどなく、せいぜい、自然の永遠のなぞをおおい隠している途方もない、巨大なヴェールのあの端、あるいはこの端をつかみ、持ち上げているにすぎない。(373ページ)」

角川文庫版下巻 四章『ミュンヘン』『ドイツ政策四つの道』から
「自然は生殖を自由にさせておきながら、しかし存続維持は極度に困難な試練にゆだね、ありあまる個体の中から最良のものを、生きていくに値するものとして選びだす(179ページ)」
「数の減少は人の強化となり、したがって結局は種の強化になる(178ページ)」

 ナチスはユダヤ人を虐殺したが、これもニーチェの影響であった。ニーチェの思想は、事実上のユダヤ人批判でもあるからだ。

「道徳(善悪)とは、弱者のねたみから生まれたものであるから意味がない」というのが、ニーチェの道徳批判だ。これはルサンチマン論といわれる。
 古代ローマは紀元前1世紀にパレスチナを制服し、ユダヤ人を奴隷にしていた。この時代、奴隷としてこき使われるユダヤ人がローマ人をねたんだ。そしてユ ダヤ人のねたみから「弱者を救済する」「他者に迷惑をかけない」ということを「善」とする価値観がうまれ、それがキリスト教になった。ユダヤ人はキリスト 教をローマに広めた。このキリスト教の価値観が奴隷道徳であり、今の一般的な道徳の概念の元になっている。これがニーチェが分析した道徳の起源でである。

 ニーチェは、奴隷道徳をひろめて「人類を病気にした」としてユダヤ人を批判し、それがヒトラーに影響を与え、ユダヤ人の虐殺へと繋がったのだ。ヒトラーの『わが闘争』には、以下のように明らかにニーチェのルサンチマン論の影響を受けた部分がみられる。

「非常に自由な古代社会において、キリスト教の出現とともに、最初の精神的テロが現れたことを知っ て、今日、心を痛めるかもしれない。しかしそれ以来、世界がこの圧制に侵害され、支配されており、圧制はただ圧制によってのみ、そしてテロはテロによって のみ破ることができるという事実は、異論をとなえることができないのである。」
角川文庫版下巻『第五章 世界観と組織』『世界観は不寛容たるべし』より(111ページ)

 ニーチェは、著書のなかで反ユダヤ的思想を延々と延べながら、一部わずかに国内の反ユダヤ運動を批判している部分がある。この部分は文脈上あきらかにチグハグなのだが、これは対外的な建て前であろう(ユダヤ人読者から抗議がきた場合、誤魔化せるように)。

 ニーチェのルサンチマン論の真偽はともかく、善悪を取り去った社会が強弱だけの社会になるということから考えると、道徳とは「弱者にいかに生きる権利をあたるか」ということから発祥したのだろう。
 現在、弱者ではない人が、未来に弱者に転じないという保証はなにもない。未来のことは誰にも分からないからだ。現在弱者ではない人でも「自分が弱者に転 落したとき、社会が弱者に対しなんの保証もしなかったら」と考えると、不安になる人がほとんどであろう。そうなったときのためにも、弱者を救済する「道 徳」というものが社会に必要なのではなかろうか。

 ナチス出現直前のドイツは、不安定な政局と経済の崩壊から、自由と秩序を兼ね備えた民主的な社会など成り立ちえない、という諦めが市民たちに生 じ、民主的なワイマール憲法を人々が支持しなくなっていた。そのスキをついてニーチェの影響をうけた反民主主義的な思想をもつナチスが台頭してきたのだ。近年の日本の言論人は、アメリカのイラク侵攻について触れる際、ニーチェ的な民主主義の否定論を声高にさけぶ。しかし、不況なうえ、さらに民主主義の否定論がはびこるというこの状況は、どことなくナチス出現直前のドイツと共通点を見出せなくもない。

ヒトラーの総統大本営での発言を載せている本『ヒトラーの遺言』(原書房)にも、ニーチェのキリスト教批判そっくりのヒトラーの発言がある。これもヒトラーがニーチェの影響を受けていたことを裏付けている。

この本では、ヒトラーはソビエトのレーニン、スターリンの独裁政治を批判し(これ自体驚きではあるが)以下のようにいう。

「やはりユダヤ人の頭脳から生まれたキリスト教、その信者たちに対して彼岸ではじめて天国を約束できるというキリスト教について、一体どう考えるべ きなのか? それは、比較にならない問題である。 私はこれに反して、すべてのことは一個の人間の短い人生のあいだに完成すべきだとする、運命の掟の下に おかれていると考える。私のよりどころは、現在の上に基礎をおいた冷静な世界観だけである。(110ページ)」

ヒトラーのこの発言はニーチェが『道徳の系譜』などで行ったキリスト教批判と同じものである。ニーチェは「人間は死後の世界で本当に幸せになれる」というキリスト教の禁欲主義を『道徳の系譜』などで罵倒している。

2003年のイラク侵攻でフセイン政権が崩壊した後、イラクの治安は悪化した。これについてラムズウェルド(ラムズフェルド)国防長官は、「これも 市民に自由がもたらされた事の1つの側面だ」「自由な人間には、犯罪や悪いことをする自由があるのだ」という実にニーチェ主義的な「悪の肯定」論をかたっ た。そうなると、アメリカの一連の他国への武力行使は、独裁国家を民主化するというのは口実でしかなく、実際はニーチェ主義的な「戦争の肯定」の思想から 行われているのかもしれない。

最初ににのべたように「善悪の概念の否定」が一般人の間に流行として定着したのは、オ ウム事件を分析した本『終わりなき日常をいきろ』でこの本の著者が善悪の否定を書いたのが、そのきっかけのようだ。この本で著者の某大学助教授が日本の侵 略戦争を正当化するために「善悪の否定」のロジックを使っていたのはあまり知られていない。

「第一次大戦以前に植民地拡張を終えた連合国側と第一次大戦以降に植民地拡張をせざるをえなかった枢軸国側という違いがあるに過ぎない(181ページ)」

「戦争が「一般」に悪であるわけでも、売春が「一般」に悪であるわけでも、宗教が「一般」に危険であるわけでもない。戦争が悪であるような条件、売春が悪であるような条件、宗教が危険であるような条件があるに過ぎない。(182ページ)」

独善を否定するために「善悪の否定」をとなえ平和をうったえる言論人はおおいが、「善悪の否定」という思考ロジックは、同時に侵略戦争も正当化できてしまうため、右翼が用いる場合もおおいのである。

最近は、歴史教科書を改ざんしようとしている某保守系団体も「善悪の否定」のロジックを用いて、かつて日本のおこなった侵略戦争の正当化をはじめてしまっている。善悪や道徳の否定は、侵略戦争の擁護や肯定にも利用できてしまうのである。

「(前略)特に近代史になるとそれがひどくなり、善玉と悪玉が常にいて、いつも日本は悪玉として描かれているのです。この善悪二元論は社会体制につ いても顕著です。社会主義は「善」で、資本主義は「悪」という、今では完全に破綻したドグマが教科書ではまかり通っているのです。」
「扶桑社以外の教科書では明治維新以降の日本は、ひたすら侵略に突き進む、本能に駆られた獣のように描かれています。しかし、わが国の行動には、当時の歴史的背景や、それなりの理由があったはずです。」
(以上、某団体のHPより抜粋)

ニーチェの思想は、いわば全ての思想、哲学、宗教を根底から否定するという思想である。が、これは裏を返せば「ニーチェの思想以外の思想、哲学、宗 教を全て否定する」ということを意味する。つまり、ニーチェ主義は、きわめて不寛容な思想だと言えてしまうのだ。ニーチェの思想がナチスのようなファシズ ムを生んだのは、こういうニーチェ主義が本来もっている不寛容さからだろう。

 ニーチェを支持する人たちは、ニーチェの思想を「これをこえる哲学はない!」というように思う人がおおいらしい。が、多くの人にそうと思わせると ころに、ニーチェの思想がファシズムを生み出す危険性があるといえないか? ニーチェ主義者たちは、「ニーチェ主義も相対的なものだ」ということを認めな いかぎりナチス的なファシズムに傾倒する危険が高いといえよう。

仏教とニーチェ

 ニーチェは仏教の影響をうけており、ニーチェ主義は東洋思想に通じるといわれる。近年戦争をしてい るアメリカをさして「西洋思想の限界だ」という日本の言論人はおおい。彼らは「東洋思想は平和に通じる」というが、そういう言論人は、オウム真理教が東洋 思想によって無差別テロをやったということを忘れているのではないだろうか。

 オウム真理教の教祖は自らをシヴァ神の化身だと名乗ったが、このシヴァ神というのは古代インドのヒ ンズー教の神であり、世界を破壊したうえで新しい世界を創造する破壊神だ。世界を破壊し、創造するというシヴァ神の思想は仏教にも受け継がれ、シヴァ神は 仏教においても信仰されている。オウム真理教という名前の直接の由来となった「aum(オウム)」は仏教の教えの一つである。「aum」のaは創造、uは 持続、mは破壊を意味し、シヴァ神の「破壊と創造」に通じる思想が垣間見れる。教団施設のシヴァ神像の裏に、サリン(テロに使用された毒ガス)の精製プラ ントがあったことも有名である。

 この「破壊と創造」という仏教の思想は「諸行無常」という言葉でいいあらわすこともあるが、これは「全ての価値観は時代によって変化する」というニーチェの価値相対主義に通じる。
「まことに、恒常不変の善と悪、そんなものは存在しない! 善と悪は、自分自身で自分自身をくり返し超克しなければならない。」
『ツァラトゥストラはこういった』第二部『自己超克』より(岩波版上巻、199ページ)

 実際オウムは、「aum」という言葉の「破壊と創造」という意味を「諸行無常」と結び付ける解釈をおこなっていた。オウム教団のホームページ『オウム真理教ネット』には、以下のように「オウム」という言葉を解説している。

「オウム真理教の『オウム』とは、サンスクリット語で宇宙の「創造・維持・還元(破壊)」をそれぞれ表す最も聖なるマントラ(真言)であり、これはわたしたちが「生まれ、老い、死ぬ」ということに通じ、すべては『無常』であるというこの宇宙の絶対的真理を意味します」
(『オウム真理教ネット』インフォメーションでのオウムの公式見解)

 前述の宮内勝典の『善悪の彼岸へ』(集英社)は、オウム事件についても触れているが、この本による と、麻原教祖が「全ては変化する。絶対に固定されるものはない。」と、教本のなかで述べていたそうである(205ページ)。「全ては変化する」とは「無 常」の意味そのものである。

 オウムのいう「絶対の真理」とは、「この世のすべては時代によってかわる」という「無常」だった。 オウムの麻原教祖はシヴァ神を名乗り、オウムという名前自体にも「破壊と創造」という意味がある。オウムの無差別テロは「破壊と創造」という東洋思想に よって行われたテロなのである。

 無差別テロで日本社会を破壊し、オウムの価値観による新しい世界を創造しようとした。つまりオウムはテロによって、既成の日本社会の価値観を「超克」しようとしたのだ。
このオウムのテロは、東洋思想の限界をみせた事件だったといえるだろう。
ナチスの行った破壊的な行為も、既成の世界の「超克」を目指していたもののようで、ニーチェの影響をうけたものだろう。

しかし、仏教に学ぶべきこともある。『AERA』(朝日新聞社)44号(03,10/27号)の特集『仏教に浸る』での梅原猛の発言によると「釈迦 は『自分が殺されたくなかったら、人を殺すな』と説いた」のだという。この釈迦の言葉は、「なぜ人をころしてはいけないのか?」という有名な酒鬼薔薇のこ とばへの実に明解なアンサーではないか。

この釈迦の言葉は、実は大方の日本人が酒鬼薔薇事件のときに、内心うすうす思っていたことではないだろうか。
筆者としては、酒鬼薔薇事件が起こった直後に言論人たちが、こういうことをきちんと言うべきだった、とおもう。事件当時の言論人は、みな口をそろえて「な ぜ人をころしてはいけないのか?という問いに答えはない」「答えをもとめてはいけない」などといってしまい、前述の釈迦のようなことはだれも言わなかっ た。

「人をころしても構わなない」という考えが世の中に広まったら、自分が他人を殺してもよくなると同時に、いつ自分が他人から殺されるか分からないと いう世の中になってしまう。そうなれば大変不安な世の中になってしまうだろう。なので、「人をころしてはいけない」という考えを世の中に広めなくてはなら なくなり、これが道徳と呼ばれるものだろう。「人をころしてはいけない」という社会のルールは、複数の人間が安全に生存するという条件から必然的に導き出 されるとおもわれる。「人をころしてはいけない」という社会のルールは、人間の防衛本能に裏打ちされており、本来はこれこそ人間の「生への欲求」から生じ たものではないか。

こういう「複数の人間が安全に生存するための条件から必然的に社会のルールが導き出される」という考え方は西洋哲学における「自然法思想」に該当す るだろう。これは人間本性の自然法という。イギリス名誉革命に参加したジョン・ロックの思想も人間本性の自然法である。人間本性の自然法思想は他にホッブ ズ(17世紀のイギリスの思想家)の思想や、H・L・Aハートが『法の概念』(みすず書房)で展開した自然法の分析等がある。

話をもどすと、仏教は西洋思想と共通する部分もある。日本の言論人たちは、アメリカが中東に武力行使をしている現代を「アメリカが『善悪二元論』と いうキリスト教的な価値観を全世界に押し付けようとしている」など分析する。そのうえで仏教や東洋思想を讃美する。しかし仏教にも善悪という概念はある。 仏教では「十善十悪」というものがあり、これは原始仏教ですでに説かれていて小乗仏教、大乗仏教にも取り入れられているという

十悪というのは、
1,殺生(殺すこと)
2,偸盗(盗むこと)
3,邪淫(邪淫すること)
4,妄語(うそをつくこと)
5,悪口(悪口を言うこと)
6,両舌(仲たがいさせることを言うこと)
7,綺語(飾った言葉、意味のない言葉、人におもねる言葉、を言うこと)
8,貪欲(むさぼること)
9,瞋恚(怒ること)
10,邪見(誤った人生観を持つこと)

これら「十悪」は世間一般的な道徳の「悪」であって、キリスト教道徳の「悪」にも共通するものであろう。とくに「殺生」「偸盗」「邪淫」「妄語」 は、キリスト教の「十戒」で禁じていることと同じである。それなのに、やたらにキリスト教を否定し仏教や東洋思想を支持する知識人たちの主旨はよくわから ない。この十悪の反対の行為が「十善」で、これは大乗戒の基本の一つなのだという。

浄土宗の根本聖典の「無量寿経」にも「五悪」というものがある。この「五悪」は「十悪」でも禁じられている「殺生」「偸盗」「邪淫」「妄語」の4つ に、新たに「飲酒」を加えた5つの戒律です(この逆が「五善」)。「殺生」「偸盗」「邪淫」「妄語」は、ちょうど「十悪」でキリスト教の十戒とだぶる部分 である。

ニーチェ主義的な言論人は、ことさらに「物事を善と悪に分けるんじゃない」などという。
しかし「万引きすること」を悪とし、「万引きしないこと」を善とした場合、「万引きすること」と「しないこと」という、この2つの行為を一つに統合することは可能だろうか? 文字の上では書けるが、実際の世界では不可能である。

つまり「善と悪を分けてはいけない」というような意見は、日常生活から乖離(かいり)した、概念としてしか存在しえない抽象的なものだとおもえるのである。

80年代以降の日本とは?

 筆者が思うに、80年代以降の日本社会は、背徳主義がインテリ的な思想ということになってしまい、それによって道徳的な思想や行為が頭の悪い人間の言い分として軽蔑されるという時代になっていたようにおもえる。
90年代や80年代は、批評家や作家等といったメディアに登場する言論人がさまざまな人間たちを「被差別階層」に認定し、それにしたがって民衆が異端への迫害を続けていた時代がつづいたとおもえる。

朝日新聞社『AERA』2005年1月24日号(17ページ)の報道によると、血液型性格判断の番組の影響で、ある学校で生徒が特定の血液型の子供 をイジメたという。血液型性格判断の番組の影響で特定の血液型の人間がイジメにあうという、この実例が示すように、マスメディアの報道は特定の人間たちへ 偏見を生み、イジメを行わせるほどの影響力をもっている。

80年代にネクラという言葉がはやって内向的な人間がバッシングされた。80年代は、内向的な人は、それだけでイジメの対象になるという時代だった。

また、90年代には気が弱い人を「小心者」という呼び方で罵倒するブームもあった。これも、「ネクラ」バッシングの延長にある内向型人間へのバッシングの一種であろう。

80年代以降の言論人たちがバッシングする対象には奇妙な共通点がある。それは皆、社会のなかであまり成功していない人間や、内向的な人間といった弱者だという点である。弱者を否定するという点で、やはり根底にニーチェ主義的なものを感じる。

80年代にマル金、マルビという言葉がはやって貧乏人をバカにするということが流行ったが、これも社会で成功していない人間を否定するという行為で、弱者の否定という意味ではニーチェ主義的である。
ニーチェは『道徳の系譜』で、聖書の「山上の垂訓」の「貧しき者は幸いなり」という言葉から由来した「貧しき者は善き者である」というキリスト教の価値観を批判したが、80年代の貧乏人をバカにする流行は、このことに通じるだろう。
「貧しき者は幸いなり」という言葉は、実はルターが誤訳したものであり、本来は「霊において、自分の貧しさを知る人は幸いである」となるらしい。

また、苦労した人間は性格がひねくれて嫌なやつになり、苦労していない人間はいい人になる、ということが、80年代によくマスコミ等で言われた。そ して苦労人に同情などしなくてもいい、という考えが80年代に多くの人々に広まったのだ。これも、どことなくニーチェのルサンチマン論に通じるものがあ り、弱者=悪というニーチェ的(ナチス的)な価値の逆転だ。これによって、苦労した人間は、それを人前で告白することが恥になってしまった。

90年代に流行った『新世紀エヴァンゲリオン』という作品も、そういった流行の延長にある。『新世紀エヴァンゲリオン』は、TVシリーズだけみるかぎりでは、心に傷を負った対人恐怖症の少年が立ち直っていくというドラマなので、 そういう意味では90年代に流行したもののなかでは、珍しく弱者に同情的な内容だった。しかし、それをサブカル雑誌のライターは内向的な人間への批判だと 強引に解釈して『エヴァ』を背徳的な作品だということにしてしまった。それに庵野氏も乗ってしまって、あとの劇場版が作られたというのが実際だとおもう。
『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版)では、シンジのキャラクターを以下のように紹介している。
「『父に捨てられた』というショックから、極度に内向的で対人恐怖症的な性格に育つ。(106ページ)」
このように『〜エヴァンゲリオン』の主人公シンジは、内向的で対人恐怖症という設定であった。

一時期女性が男性を評価する際の基準として「3高」というものがもてはやされた時期があった。これは高学歴、高収入、背が高いというものだが、これ らもいわゆるエリート主義であり、そういう意味ではナチスのエリート主義に通じるものだ。こういう価値観は現在定着してしまっているが、そのうえで前述のように「恋愛至上主義」という価値観を絶対化してしまったら、社会はエリート主義の社会になってしまうだろう。

90年代に「おぼっちゃま、お嬢様ブーム」というものがあった。上流階級の家庭の子供をもてはやす流行だが、これも上流階級の人間への賛美であって、ニーチェの貴族主義に通じるといえなくもない。ナチスのファシズム社会は、ニーチェの貴族主義の影響にほかならない。

90年代、プラス思考というものが流行って、これによって、他人が弱者を見殺しにすることが正当化できるようになった。このプラス思考も、ニーチェの「事実はなく解釈だけがある」という思想に通じるものだ。

また、90年代は、内向的な人や、神経症的ないし精神病的な人間を「アブナイ人」「きもちわるい人」といって迫害することが流行した。これは現在定着した感じがある。2000年代には「コミュ障」という言葉もでてきて、内向的な人、神経症的ないし精神病的な人は引き続き迫害の対象になっている。

精神病的な人間を迫害するこういったブームは、ナチスの精神病患者の虐殺を思わせるものだ。ナチスの精神病患者の虐殺も、弱者を否定するニーチェの思想の影響によるものだ。ナチスが虐殺した精神病患者は、鬱病の患者も含まれていたのだ。

『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(現代書館)は、ナチスがおこなった「T四計画」という障害者虐殺計画について書かれた本である。この本によると、ナチスは鬱病などの精神病患者も虐殺の対象としたという。

その上で、この本には「精神分裂病者とうつ病者は社会でも有数の創造力と生産性を持つ可能性がある。(中略)彼ら(ナチスの医者)は生産的で価値ある市民の生命を奪ったのである(67〜68ページ)」とある。

今の日本は「先の見えない不況」などといわれるが、ひょっとすると今の日本の不況は、こういう生産性を持つ精神病患者が「アブナイ人」などと言われて社会からつま弾きにされて、生産的な能力を発揮できなくされていることも一因なのではないか。

ナチスの障害者虐殺は、精神病の患者が数の上ではもっとも多かったらしい。小俣和一郎著『ナチスもう一つの大罪』(人文書院)によれば、障害者虐殺 の犠牲者は「とりわけ精神病者が、数の上では最大の犠牲者であった。」とある(2ページ)。また「ナチス最初のガス室は、何と精神病院の中に設けられたの である。」とある(2ページ)。ナチスの障害者虐殺は精神病の患者を中心に行われたのである。

また80年代には内向的な人間がネクラと呼ばれて迫害された。『対人恐怖の治し方』(白揚社)によれば、内向的な性格というのは、生まれつきの性格である場合もあるという(257ページ)。

海外の本では『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』(スーザン・ケイン (著), 古草 秀子 (翻訳)・講談社)という本もでている。この本はビル・ゲイツ、ガンジー、アインシュタイン、スティーブ・ウォズニアック(コンピュータ・エンジニア。 Appleの設立者の1人)らが内向的な性格であることなどをあげ、内向的な人の長所を紹介 し、外交的な人の短所もあげている本で、アメリカではベストセラーになっている。この本によれば、アメリカ人は社交的で自己主張が激しそうなイメージが あるが、実際はその3分の1が内気でシャイな内向型だという(p6)。このように、本来は内向的な性格というのは人格の種類であり、それ自体が病気という わけで はない。

さらに『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』によれば、内向型の人というのは、脳の働きが外向型の人と違うのだそうで、無理に外交的にふるまうのは事実上無理であるという ことが、科学的なデータをもとに書かれている(148〜150、204〜208ページ)。前述の3人以外の内向型の男性の成功者や、内向型の男性のすぐれている点も多数紹介されている。

それなのに国内の大手マスコミは内向的な性格の人間に「ネクラ」という蔑称を与えることで、内向的な 性格はそれ自体が病気であるという認識を人々に植え付けた。この認識は、以後の日本社会に定着してしまった(前述のように、内向型の人は「きもちわるい 人」「コミュ障」といわれて、現在も迫害されつづけている)。

90年代以降、日本では大手マスコミにでてくる有識者が、内向型の人間を「自己愛的」などといって批 判することもふえたが、ユングは『心理学的類型』や『タイプ論』といった著書で、内向型の人間を「自己愛的」とする見解は根本的に間違っている、といって いる(『心理学的類型』(中央公論)p124、『タイプ論』(みすず書房)p403)。
さらには、ユングも『タイプ論』で「内向的な性格は遺伝的なもの」という見解をしめしている(p405)。

『対人恐怖の治し方』という本は、神経症(ノイローゼ)の研究で有名な精神科医、森田正馬(まさた け)博士の書いた本である。これによると、神経症になる人は内向型人間がおおいそうだ。しかし神経症にかかる人は、ただ内向的なだけではない。内向的なう えに「自己の内向性に反発する外向性をもつ複雑な性格者」が神経症にかかる人なのだそうだ(258ページ)。
つまり、自分の内向的な性格に嫌悪感をもち、無理に外向的に振る舞おうとする内向型人間が、神経症を発症するのである。

内向型人間を「ネクラ」などと罵倒することは、内向型人間に自分の内向的な性格を嫌悪させる原因になるだろう。つまり、マスコミで80年代におこった「ネクラ」バッシングは、内向型人間が神経症を発症する原因になった可能性もある。

 この『対人恐怖の治し方』という本は1953年に初版がでた本である(当時は『赤面恐怖の治し方』 という題だった。98年に改題)。この本にこういうことが書いてあるということは、内向的な人間は大昔から存在していたのである(なお、版元に問い合わせ たところ、初版以降内容には改訂を加えていないとのこと)。しかし、80年代にネクラバッシングが起こって以来、80年代以前には内向的な人間はいなかっ たというような誤解が「日本人の常識(当たり前のこと)」として定着してしまった感がある。

この『対人恐怖の治し方』では、内向型の性格の人の長所と短所を紹介しているが、これは90年代以降の日本の常識から考えると、かなり意外なことが書いてある。

「内向的な人は、自己反省に傾き、長所としては思慮深く、細心で、反社会的なところも少なく、人から信用されるようなたちであるが、悪くこじれると劣等感、引っ込み思案、非社交的、臆病、ひねくれなどというようなふうになりやすい。(P256-257)」

この記述をよんで、とくに内向的な人の長所について書かれた部分で「反社会的なところも少なく、人から信用される」という記述があることに驚いた方もおおいのではないでしょうか。
90年代から(厳密には80年代中盤から)現在のおおくの日本人は、内向的な人間に対して「反社会的なところも少なく、人から信用される」という印象は抱いていないだろう。内向型の人間こそ「反社会的で信用できない」と思っている人が大方だとおもわれる。

この『対人恐怖の治し方』が書かれたのは1953年だが、その53年当時は内向的な人は「反社会的なところも少なく、人から信用される」という印象 だったのです。ところが90年代あたりから内向的な人は、反社会的で信用できない人間の代名詞のように(おもにマスコミから)扱われることがおおくなった とおもえます(これには90年代に人気になった某テレビドラマの「冬彦さん」の描き方にもあわれている)。

それはやはり80年代に「ネクラ」という言葉ができて、それによって内向的な人がバッシングされたので、おおくの人が「内向的な人間は嫌な人間だ」と思うことが多くなったのではないだろうか。

 また、この本によると神経症のなかには「小心取越苦労」という症状があるという(255ページ)。こういうことから考えても、90年代に小心者と いわれた人は神経症の患者なのだろう。神経症には「対人恐怖性」のほかに「高所恐怖症」といった恐怖症があるが、こういう症状をもった人が小心者といわれ たのだ。そうなると小心者という言葉は、神経症の患者を罵倒した差別語といえる(小心ということば自体は昔からあるが、小心者ということばは90年代にで きたとおもわれる)。

 80年代に「ネクラ」といわれて迫害された人のなかには、すでに神経症だった人間も多くふくまれていたとおもわれる。内向的で口下手な人間は「ネ クラ」などと呼ばれてバカにされる典型的な人間だが、こういう人は対人恐怖症と思われる。対人恐怖症は神経症の一種である(神経質症状ともいう)。

対人恐怖性および神経症は日本だけの病気ではない。神経症は海外では「社会不安障害(SAD)」といわれ、社会不安障害はアメリカではうつ病、アルコール依存症に次いで3番目に多い精神障害である。

『ニューズウィーク』2003年10月15日号に社会不安障害についての記事があった。この記事では、あるアメリカ人男性が社会不安障害のため「高 校時代も孤独で、デートなんてもってのほか」だったという(56ページ)。後述するが社会不安障害=対人恐怖は、自分が嫌われたくないと思っている人にほ ど起こりやすいので、このように自分が好意を持つ異性に対しては起きやすいだろう。そうなると、社会不安障害の男性はモテない人が多いとおもわれる。90 年代の恋愛ブームは、こういった社会不安障害=対人恐怖の患者への迫害というニュアンスも強かったようにおもえる。

前述の『対人恐怖の治し方』には、つぎのような記述がある。
「なお対人恐怖の心がけるべき態度を挙げれば--(中略)常人が常識で忠告し訓戒するように、患者に対して『気を小さくしてはいけない、大胆になれ、勇気 を起こせ』とかいうことがある。しかるにこれは患者自身がそう考え、そう苦しんで、その強迫観念になったものであるから、かえって患者の心の薪に油をそそ ぐのと、全く同様のことである。(24ページ)」

このように、神経症にかかった人には、症状に対して「これではいけない」との葛藤があり、なんとかして治したいとの強い意欲がある。なので対人恐怖の患者に「勇気をだせ」等と忠告をすることは逆に患者をおいつめることになるのである。

よく、外向的な人は内向的な人を「傷付くことを恐れているからダメだ」と批判することがある。マスコミでこの手の発言をする有名人もいる。しかし神 経症の人間が「傷付くことをおそれてはいけない」と無理に勇気をふりしぼって何かをやろうとすると、強迫観念は強まり、余計にガチガチに緊張してしまい、 おもうような結果がでないものである。このように、神経症は、安易に「勇気」で治るものではない。

人間は、ストレスを感じると、無意識に身体の筋肉が緊張してしまうといわれている。ストレスによる筋の緊張は「錐体外路系」の働きにより人間が意識しなくても生じる緊張である。
筋肉というのは意思によって発動はするが、全てが随意になっている訳ではない。意識的な動きというのは、錐体路系という神経経路が司るが、もう一つ錐体外 路系という神経経路があり、これは意識しない動きを司っているのである。対人恐怖の感情もストレスであるから、対人恐怖による身体の緊張は錐体外路系の働 きによるものだろう。こういう緊張は無意識に神経の働きでおこるのだから本人の責任とは言い難い。

精神的ストレスで筋肉の緊張が高まり、体がねじれたりするジストニア(ジストニー)という病気もある。『痙性斜頚 各科の治療の実際』(新興医学出 版社)という本には、森田療法を用いたジストニアの治療について書かれてある(72〜83ページ)。こういうことからも、神経症とジストニアとは関係の深 い病気のようである。

喉頭にジストニアが起こった人は、しゃべろうとする時に声帯がきつく引っ張られて声が出にくくなる。声が力んで、しゃがれ、量も小声になる。神経症 の対人恐怖の症状で、他人と喋れないという「吃音恐怖」という症状があるのだが、この「吃音恐怖」と喉頭のジストニアは症状が似ているとおもわれる。そう なると、他人と話すのが苦手という人は、実は喉頭ジストニアの患者である可能性もある。そうなると、他人と話すのが苦手という人間を迫害することは、ます ます障害者虐待ということになるだろう。

それなのに、世間には「神経症は『勇気』が足りないのだから本人に責任がある」と考えている人もいるようだ。こういう考え方は、一人歩きして神経症 患者へのバッシングの口実になる可能性もあり問題がある。人間の人格は一人一人違うが、それと同じで、心の強さも人それぞれでまちまちだろう。

巷では、対人恐怖の人間をバッシングすることを「一種の治療だ」などと言い張る人もいるが、こういうことからすれば、対人恐怖の人間を批判することは、患者をかえって追い詰めることになるだろう。

対人恐怖というのは、自分が好意、好感をもっている人に対して話そうとするときにこそ起こりやすい。そういう意味では「人間不信」とは違うのだが、混同されやすい。

普通の人でも、自分が好きな異性や、ファンだった有名人と話すとき緊張するという人は多いとおもう。これと同じようなことが対人恐怖でもおこるのである。

(今の日本社会において、自己主張する人間は嫌われない。しゃべりかたや仕草が変だとキモイといわれ嫌われるのである。対人恐怖の人間がおそれるの はこういう「変なしゃべりかたや仕草をしてしまわないか?」ということであって、自己主張をためらって対人恐怖になるのではない。)

『うつ病と神経症』(渡辺昌祐,著/主婦の友社)では、対人恐怖の症状を「自分の言動、表情、視線の向け方などがもとで人に変に思われたり軽蔑されるのではないかと気にかけること(55ページ)」と説明している。
このように、対人恐怖の人は、正確には相手を直接恐れているのではなく「人前に出ると自分の挙動が変になり、周囲の人間から『妙な奴だ』と思われて嫌われてしまうのではないか」ということを怖がっているのである。

『対人恐怖の治し方』には、対人恐怖は他人の前で恥ずかしくなる感情から生じるとある。そのうえで、次のようにいう。
「恥ずかしいとは何を意味するか。それは人から嫌われないように、好かれたい。劣等のものと思われず、偉いものと見られたい、という感情である。(18ページ)」

「人々は、異性、金銭、名誉、権勢等を得たいと憧れる。これを獲るには、人から良く思われることが得策である。このゆえに、美人や偉い人の前では恥ずかしいが、乞食や愚人や醜婦の前では恥ずかしくないのである。(18ページ)」
(ちょっと不適切な表現がありますが、原文ママなのでご了承ください)

少々打算的な動機ばかり書かれているが、他人から好かれたいという動機は人それぞれだろう。このような打算的な動機ではなく、本心から尊敬している 人に対しても緊張するのが対人恐怖である。ようするに好意を持っている人間から嫌われたくない、と思い緊張するのが対人恐怖なのである。
このように、自分が敬意や愛情を感じている人から「嫌われたくない」もしくは「好かれたい」という願望が、かえって対人恐怖をおこす要因になっているので ある。対人恐怖の人間は、実は普通の人以上に周囲の人間と打ち解けたいとおもっているのだが、それがかえってプレッシャーになってしまうのである。対人恐 怖の人間は他人に興味がないわけではく、その逆なのである。他人と接するのが本当にイヤなわけではないのだ。
(上記のように、対人恐怖の人間は異性に好かれたいという強い欲求があることから、恋愛に興味がないわけではない。むしろ実際はその逆なのである。好意を もっている相手ほど緊張するのだから、対人恐怖は「人を愛する」が故に起こるのであり「誰かから愛されることばかりを夢見ている受け身の態度」ではない)

つまり、対人恐怖とは、本人の意志(表層意識での意志)だけではどうにもならない病気だ。こういうことは、うつ病にもいえるようだ。
『月刊望星』1999年12月号(東海教育研究所)の保坂隆(東海大学医学部講師)のコラム『病に対する偏見を捨て、早期治療を!』によると、うつ病の患 者を、怠惰であると非難したり激励したりすると、患者の自責感情は強くなり、自殺に追い込まれていくことになるという(50ページ)。

対人恐怖やうつ病だけでなく、多くの神経症、精神病患者は、本人の治療意欲の有無と関係なく自分で自分をうまくコントロールできないというものらし い。なのに、80年代以降の知識人やマスコミは、こういう神経症、精神病的な人間を罵倒して面白がり、社会から追い詰めていったのである。これは極めて排 外主義的である。こういったバッシングは、内向型人間や神経症、精神病の人によっては抑圧以外のなにものでもない。

精神病の人間を罵倒する80年代以降の流行は、うつ病の人間を非難する行為に相当するのはいうまでもないことだろう。先に述べたように、うつ病の患 者を非難することは、患者を自殺に追い込むことになるのだが、そうなると、神経症、精神病の人間を罵倒する流行が長く日本国内でつづいたことと、近年、日 本の自殺者が世界でトップクラスであることとは関係があるように思えるのだが。

『エヴァ』ブームの際に、マスコミの神経症、精神病的な人間へのバッシングが特に激しくなったのだが、このことも関係があるのかもしれない。80年代にネクラと言われた人たちも今思えば、鬱病の気のある人が多くふくまれていたのかもしれない。

日本の言論人やマスコミトップは、内向型人間などの弱者を虐めることに背徳的な「毒」というものを見い出し、その「毒」に魅力を感じていたようだ。そして80年代以降、弱者をバカにするような流行ばかりをつぎつぎ仕掛けたのである。

『うつ病と神経症』(主婦の友社)によると、神経症が進行して鬱病へ症状が変わっていくケースもある という(78ページ〜120ページ)。近年日本はうつ病が大流行しているといわれる。鬱病大流行の原因は、内向的な人間が80年代以降のマスコミのバッシ ングの影響で神経症になり、それが進行して鬱病を発病しているからなのではないだろうか。

鬱病は自殺願望を抱きやすい病気だが、『うつ病と神経症』によると、神経症から鬱病へ進行した患者も 自殺願望をいだくことがおおいようだ(87ページ、106ページなど)。近年の日本の自殺者の半数以上が鬱病の患者だといわれているという。そうなると、 自殺者が増えている理由は、マスコミによる内向型人間へのバッシングが引き金になっている可能性も否定できないだろう。

 おそらく、日本のメディアのトップにはニーチェ主義者(背徳主義者)がおおく、そういうことから、弱者を軽蔑する80年代以降の流行は出来上がっていたとおもえる(「人間を一つの方向に束ねる」という意味で、「流行」というのは危険な側面をもっているといえよう)。

 近年日本で自殺者が多いのは、こうやって迫害の対象になった弱者が自殺しているからなのではないだろうか? つまり今の言論人は自ら手を汚さず、弱者を死に追いやり「大量虐殺」しているのだ。

朝日新聞社『AERA』2005年1月24日号(17ページ)によると、TV番組の影響で特定の血液型の人間がイジメにあうという事実があるらし い。血液型性格判断のTV番組の影響で「子供が通う学校で血液型によるいじめが始まっている」という苦情が視聴者から「放送倫理・番組向上機構 (BPO)」に寄せられているという。
(『日経エンタテイメント!』2005年2月号の23ページにも同様の記事あり。)

血液型性格判断のTV番組の影響によってイジメがおこる、という実例が存在するとなると、マスメディアの報道によって、特定の人間たちへ偏見が生ま れ、その人たちが周囲の人間たちから迫害されるということは起こりうるだろう。つまりマスコミは大衆を扇動して迫害を行わせる力を持っているわけである。 マスコミによる内向型人間へのバッシングが一般市民に影響を与え、一般市民が内向型人間を迫害、疎外しているのが80年代以降の日本国内の現状だろう。

『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』によると、ドイツでは現代でもネオナチの若者が障害者を迫害し、自殺に追い込むのだそうだ。ネオナチの若者は障害者に「ヒトラー時代だったら、ガス室送りだよ」といって迫害するという(315ページ)。
現代の日本人は、主に精神病、神経症患者とおぼしき人たちを「きもちわるい人」などといって迫害して面白がっているが、これはこのネオナチの青年たちに通じるとおもえる。

90 年代の恋愛ブームもそれの延長である。恋愛ブームとは、事実上モテない人がバッシングされるというブームだったからだ。内向的な人はいままで述べたよう な、内向型人間へのバッシングの流行によって、日本ではモテない人がおおい。そこに目をつけてモテない人をバカにしたのが恋愛ブームである。なので、恋愛 ブームおけるモテない人へのバッシングも、ネクラバッシングの延長上にあ るのである。

(世の中の多くの「恋愛できない人」は、いくら異性に興味をもっても相手にされないという「モテない人」が大半ではないかとおもう。それをマスコミトップは、「恋愛できない人」は「異性に興味を感じない人」なのだと強引に話を摺り替えて、バッシングを正当化する。)

また90年代の恋愛ブームのとき「女にモテる人間は仕事もできて成功する」とマスコミでよくいわれた。理由は、仕事ができる人間は優秀な種だから、 繁殖力も強いので女性に強い興味があるからだ、というものだ。この考え方も、人間社会にダーウィンの進化論を適用しているという点で、ニーチェ主義やナチ スの優生思想に通じるといえる。

90年代以降、内向型の人間はすべてにおいて外向型の人間に劣っているということになっているが、『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』には、内向型の人が外向型よりすぐれている点を現実の具体例をあげて、多数紹介されており、内向型の人間はすべてにおいて外向 型の人間に劣るというのは誤解である。しかし、90年代以降の日本では、外向型であるかどうかということがコミュニケーション力という言葉で絶対的な価値 とされ、人事考課にも影響をおよぼしている。

草食系男子という言葉も、内向的な男性のことをさし、ネクラ、きもちわるい人という一連の内向型の人間への差別の延長である。アメリカでも3分の1は内向型と『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』で指摘されている(6ページ)。
ナチスの強制収容所にも女性の監守がいて、ユダヤ人を虐待していました。女性だから他者を差別しても許されるということはない。

日本のメディアトップ(大手メディアに登場する著名人)の人間にニーチェ主義者が多いのは、60年代に1度日本のインテリ層にニーチェブームがあったらしく、これが理由の一つにある とおもう。桜井哲夫著の『TV 魔法のメディア』(ちくま新書)によると、筒井康隆の短編『火星のツァラトゥストラ』(『ベトナム観光公社』に収録)は、 60年代のニーチェ・ブームを皮肉った作品なのだという(23ページ)。

そして、法務省の犯罪白書の少年による凶悪犯罪合計のグラフによると、1960年代にも少年による犯罪がふえたようである。当時も文化人たちがマス コミなどでニーチェ主義的なことをよくしゃべったのではないだろうか。やはり犯罪の増加とニーチェとは、関係があるようにおもえてならない。法務省の犯罪 白書の少年による凶悪犯罪合計のグラフをみると、あきらかに90年代後半から、ふたたび凶悪犯罪が増加しているのがわかる。

 ニーチェ主義はオウム事件前ではインテリと、インテリにあこがれた一部の市民たちの間でのみ定着していた感じだった。80年代の 半ば頃にインテリ層にあこがれた若者を中心にフランス現代思想が流行し「ニューアカデミズム(略してニューアカ)」といわれるブームをよぶ。この「ニュー アカ」ブームは、ガタリ、ドゥルーズらのフランス現代思想を紹介した浅田彰の『構造と力 記号論を超えて』(勁草書房)が火付け役だが、いづれもニーチェ 主義の延長にある構造主義(含むポスト構造主義)の思想であった。浅田氏の『構造と力』では、盛んにニーチェの引用が行われている。

 ニーチェ主義の延長上の構造主義とは、社会で正しいと思われているものは社会が作り出した「制度」にすぎず時代や文化によって変化するとし、この「制度」を分析するというもので、事実上の「善悪相対主義」である。

 日本国内の「ニューアカ」ブームは80年代の流行だが、本論文の『「反ニーチェ」を読む』の項でふれたように、永井均によれば、海外ではこの時 期、この種のフランス現代思想はすでに見直しが行われていたようなのだか…。前述の『反ニーチェ』という本にも、フランス人学者デコンブが構造主義の思想 家フーコーやドゥルーズを批判している箇所がある(118ページ〜)。『反ニーチェ』によればフーコーやドゥルーズらのフランス現代思想が台頭したのはフ ランスでは60年代から70年代らしい(333ページより)。

「ニューアカ」ブーム以降、「進歩的」というニュアンスで「ポストモダン」という言葉がマスコミで多用されるようになった。しかし、現代思想におい てはポストモダンという言葉は、ニーチェ主義の影響下の構造主義の知識人が好んで使っているにすぎないようである(渡辺幹雄『リチャード・ローティ ポス トモダンの魔術師』(春秋社)88ページ参考)。ポストモダンという価値基準自体が、そういった学者が自ら設けた基準であるようだ。

「ニューアカ」あたりの時期から、日本国内の一般市民にインテリ層への憧れが少しずつ強まりはじめたようだ。その後の90年代に『ソフィーの世界』(日本放送出版協会)が流行って哲学ブームがおこるが、これも市民のインテリ層への憧れを象徴する。

 そして、オウム事件後の「正義否定論ブーム」の後に、ニーチェ主義的な「善悪相対主義」は一般常識(あたりまえのこと)といえるところまで一般市 民に浸透してしまったようにおもえる。現在の日本人はニーチェの名前を知らなくても、ニーチェ主義的な価値観は誰もがしっている。ニーチェのニヒリズム (背徳主義・虚無主義)は、日本社会において「インテリ的な思想」として認知されステイタスになった。

80年代ぐらいから「道徳というものを守っている人間は、ヒトラーみたいな独善的な人間になる」というような認識が日本人に少しずつ浸透してきた感 があった。そういう認識が浸透した理由は、前述の「正義=ヒトラー」というイメージが一人歩きした結果かもしれない。そして背徳主義はインテリの思想であ るというような認識が、この当時から一般市民に浸透していったように思える。

ニーチェ主義者の言論人たちは背徳主義を否定する意見を「道徳の復権」という言葉で、あたかも保守思想であるかにいって揶揄する。が、実際は「善悪 の否定論」が定着した現在の日本社会こそ、60年代に一度起こったニーチェブームの再来であり、そういう意味では近年の日本社会でのニーチェ主義の浸透ぶ りこそ「ニーチェ主義の復権」だったと言えるだろう。

ニーチェが否定したキリスト教的道徳、カント的道徳は、民主主義やアナーキズムの元になったもののため、本来は背徳主義の否定こそが左翼であり、 ニーチェ主義は貴族主義的でナチズムを生んだということが物語るように右翼(保守)の思想といえるのだが(前述の浅田彰『構造と力〜』ではニーチェ主義を 「ポストモダン」に分類してしまう(237ページ)が、こういう分類は構造主義関係の著書以外には、あまりみかけない)。

宮内勝典の『善悪の彼岸へ』によると、宮内氏はそれまで50数カ国をあるいてきたが、そのなかでも日本社会ほどニヒリズムとシニシズム(冷笑主義) が浸透している国はみたことがないという(260ページ)。これは、やはり日本はニーチェ主義やニヒリズムこそが進歩主義だという世論をマスコミが形成し たことが原因だろう。「ニヒリズムこそ左翼だ」という奇妙な誤解が日本には定着した。日本は国際的にきわめて特殊な社会になってしまったようだ。

ナチスというのは、いわゆる背徳主義(ニーチェ主義)から始まったということを、今まで述べてきたのだが、現在日本人のニーチェ主義者は「背徳主義こそナチスから遠ざかる最善策だ」とだれもが妄信している。

ある意味、現在のマスコミはナチスに通じる思想をもった「第二の国家」だとおもっている。ニーチェ的背徳主義を推奨し、内向的な人間や、うつ病の気のある人間を執拗に迫害してきたマスコミは、日本国内をナチスの強制収容所の内部のようにしようとしているようにおもえる。

ニーチェの『道徳の系譜』には、犯罪者を罰さないように推奨している箇所があるが、このことは、ヒトラーが凶悪犯罪者を強制収容所の職員に起用したことに通じる。犯罪者がユダヤ人と障害者を奴隷にする強制収容所の内部はニーチェの思想を実践した空間なのだろう。

「背徳主義をやたらに推奨する昨今の日本のマスコミのオピニオン」を「ナチスが凶悪犯罪者を強制収容所の職員に起用したこと」に置き換え、「内向的 な人間やうつ病の気のある人々」を「収容所内部のユダヤ人や障害者」に置き換えると、今の日本社会は、そのままナチスの強制収容所と同じになるのではない かとおもうのである。

今のマスコミ業界の内部にいる人間は、なぜか妙に「平等」や「弱者救済」ということを否定したがるが、これは、マスコミ業界が金と力がものをいう弱肉強食の世界だからだろうか。
『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』には「十年間でヒトラーはドイツをジャングル国家に変えた(145ページ)」とあります。マスコミ業界がニーチェをいまだに信じているのは、業界が弱肉強食の「ジャングルの世界」だからであろうか。

正義や道徳を否定する日本のマスコミや言論人たちは「そうすれば自分達は絶対に不当な差別は行わない」というようにおもいこんでいたにちがいない。 しかし、80年代以降の内向型人間(神経症、うつ病患者も含む)への迫害は、正義や道徳を否定するマスコミや言論人によって行われた。そうなると、正義や 道徳を否定しても不当な差別や偏見といった判断の誤りを抑止することにはつながらないということになる。筆者は、「他者への軽蔑や罵倒」という行為が差別 をうむ元凶であると思うのだが。

内向型人間を迫害した人たちは、ここに挙げた「内向型の性格は病気ではなくパーソナリティーである」こと、「神経症、うつ病は本人の意志ではどうしようもない病気だ」ということを知らなかった。なので彼らが判断が誤ったのは仕方がないと思う人もいるかもしれない。

そうなると、判断の誤りを回避する有効な方法は「正確な情報を知ること」だということになるのではないだろうか。これは正義や道徳を否定することよ りも重要だろう。判断を誤らないためには情報が少ないうちから性急に判断を下さないことや、日頃からデマに惑わされず正確な情報をえるように心掛けるしか ないだろう

80年代の「ニューアカ」ブームの起爆剤となった本は、前述の浅田彰の『構造と力』ともう一つ、中沢新一の『チベットのモーツァルト』(講談社学術文庫)も挙げられる。これはチベット密教とフランス現代思想(主にクリステヴァ)とを結び付けて分析した本である。

チベット密教といえば、オウム真理教を思い出す人もおおいだろう。実は『チベットのモーツァルト』の影響で、オウム真理教に入信した人間もおおかっ たそうである。『チベットのモーツァルト』は巻頭で早速「ポワ」という言葉についての記述がある(21ページ)。この「ポワ」は、オウム真理教が殺人を行 う際に用いたことは有名である。またチベット密教の「オーム・マニパドメ・フーム」というマントラについて触れている箇所もあり(123ページ)。この 「オーム」はオウム真理教の名前の「オウム」と同じ「aum」だとおもわれる。

この『チベットのモーツァルト』は1983年に初版がでたが(初版時はせりか書房より刊行)この翌年の1984年にオウム真理教の母体となった「オ ウムの会」が渋谷区に発足している。こういうことから考えても、オウム真理教は『チベットのモーツァルト』に影響をうけて生まれた教団であるといえるだろ う。つまり80年代のマスコミが仕掛けた「ニューアカ」ブームがオウム真理教を生んだといえるのである。オウム真理教が事件を起こしたとき、国内マスコミ はオウム真理教をバッシングしたが、実はオウム真理教はマスコミ自身が作り出したといえるのではないか。

『チベットのモーツァルト』はフランス現代思想の本らしく、文中に「善悪二元論」を否定する記述があちこちで出てくる。この本によればチベット密教 には善悪二元論を否定するような意味に読めるテクストが存在するそうで(116ページ)これを根拠に、著者の中沢氏は本のなかでくり返し二元論の否定や形 而上学の否定を行っている。オウムを生んだといえるこの本に、二元論を否定する記述があり、そのうえでオウム真理教でオウムは前述のように「万物は変化す る。固定されるものは一切ない」ということを絶対の真理として掲げていた。となると、オウム真理教の思想的スタンスはフランス現代思想的(ニーチェ的)ニ ヒリズムだったといえるだろう。

(注:『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』についての箇所のみ、2014年12月に加筆しました)

リバタリアニズムとニーチェ
たまにテレビドラマで、人付き合いのない内向的で孤独な人間が犯罪を犯すという作品や、内向的な人間が主人公に敵対する「嫌なやつ」として番組内で描かれている作品がある。

このように「他人と馴染まない(馴染めない)人間を危険人物として描く」という作品は、テレビドラマなどでは多々ある。このようなドラマは80年代以降、ネクラバッシングの影響などで特に増加した印象がある。

神経症の人の症状のいくつかは「他人と関わることが苦痛になる」というものがある。こういう症状は、前述のように本人自体がそのことで内心悩んでお り、自分でもどうにもならないという状態にある。そういう人間を世間が危険人物として扱うことは、本人をますます追い詰めてしまうことになるだろう。

神経症の症状で、他人と関れなくなる症状としては、前述の「対人恐怖」と「罪悪恐怖」がある。

対人恐怖の場合は、以下のように、他人と関れないことで悩むそうだ。
「神経質の対人恐怖の人々は、やはり人を避けたがる。しかし決して人と離れたままで満足しているのではなく、人と親しみたい、人に好かれたい、尊敬されたいという欲望を充分に持っているのであるが、対人恐怖という強迫観念のためにそれが出来ないことを悩むのである。」
(『高良武久著作集・』(白揚社)より)

また、罪悪恐怖の場合は、対人恐怖とは違う理由で、他人と関れなくなる。罪悪恐怖というのは「自分が罪を行ってしまうのではないか」という不安に自分でおびえるという神経症の症状である。
「(罪悪恐怖の人は)自分が何か悪いこと、不正のことをやりはせぬかということが気になる。人中に出てひょつと人の物を盗りはしないか、猥褻なことをやり はせぬか、ふっと乱暴を働きはしないか、人の頭をなぐることがありはしないかなどと恐れて、人中に出ることも困難になる。」
(『高良武久著作集・』(白揚社)より)

神経症の患者には、上記のように「他人と関わりたくても関れない」という患者がいる。なので、他人と打ち解けないで孤独でいる人間を危険人物扱いす ることは、こういった神経症患者を追い詰めることになるだろう。近年問題となっている「ひきこもり」は、こういう神経症の患者にマスコミが変な名前をつけ ただけのようにおもえるのだがどうだろうか。

上記のような神経症の人は、他人と関れないために、他者から愛されることもなければ、他者と友情を育むこともできない。つまり、愛情や友情はこういった神経症の人は救えないのである。

こういう人は「勇気」でも救えない。なぜなら神経症の患者にとって「勇気をだせ」という激励は本人の強迫観念をより強くしてしまい、症状を悪化させるからである。

こういうことを書くと、読者の方のなかには
「神経症の人が見殺しにされるのは仕方ないんだよ。そういう人まで救ってられない」
などと考えて開きなおってしまう人もいるだろう。

しかし、こういう考え方こそが、現在ブッシュ政権を動かしているアメリカの保守主義(右翼思想)の「リバタリアニズム」なのである。2003 年2月28日放送の『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)での宮台真司の発言によると、ブッシュ政権の中枢で軍事強行路線を進めるラムズウェルド国防長官は リバタリアン系の政治家なのだそうだ(「リバタリアニズム」の訳語は「自由至上主義」。リバタリアンは「自由至上主義者」)。

「リバタリアニズム」というのは、人間には本人の才能や境遇に見合った「権原」というものがあり、その権原の分だけ、本人は自由に生きる権利があ る、とし人間の平等性を否定する考え方だ。この考えは一見合理的だが、ともすれば、権原のない人間は見殺しにしてもよい、ということになってしまう。

たとえば、障害者は「権原」をもっていない人間なのだから生きる資格はない、として、周囲の人間が見殺しにすることが正当化できてしまうのだ。

「権原」を重視する右翼のリバタリアニズムに対して、アメリカの左翼思想であるリベラリズムは「人権」を重視する。これは、人間はただ存在するだけ で、才能の有無にかかわらず、必要最低限の自由をえる権利があるという考え方だ。弱者を救済することを美徳とする道徳的な価値観はリベラリズムに該当する (「リベラリズム」の訳語は「自由主義」)。

「リバタリアニズム」という思想を理解するには、『倫理とは何か』(永井均、著/産業図書)が分かりやすい。「リバタリアニズム」とは個人の自由を最優先し福祉政策を否定する過激な自由主義である。『倫理とは何か』によると、このリバタリアニズムこそがアメリカでは「守るべき伝統」であり保守思想ということになる(179ページ)。こ こでは、リベラリズムの倫理学者ロールズが、リバタリアニズムの哲学者ノージックと対立したこともふれられている(178ページ〜)。リバタリアニズムに ついては、副島隆彦の『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)にも解説されている(第4章と第6章など)。

リベラル派のロールズは「能力、境遇に恵まれた人は、最も不遇な人々の暮らしの改善を改善するべき」と主張する。ロールズは、これを格差原理とよ んでいる(ロールズは個人の「自由」や「機会」の均等と「結果」の極端な格差の是正を指向する。「結果」の完全な平等は指向していない。講談社『ロールズ  正義の原理』291ページなどより。)。この場合の境遇とは「たまたま弱者の近くに居合わせる」ということを含んでいるとおもわる。つまり、格差原理と は「近くに困っている人がいたら助けてあげましょう」というような一般的な道徳観念を、学問的に言い表わしたものであろう。

この格差原理は「自分達に余裕がある場合は積極的に他者を救うべき」という考え方である。格差原理は、市民から税金を徴収し、恵まれない人たちへ財 の再分配をする福祉政策に通じる。福祉政策は通常、裕福な人ほど高い税金を払うことになるが、それは裕福な人は「他者を救う余裕がある」といえるために妥 当であるだろう。日本国憲法は第二十五条で弱者救済を定めているので、今の日本の社会はリベラリズムの社会ということになる。

これに対してリバタリアニズムは「他者を救うだけの能力、境遇に恵まれていても、他者を救いたくなければ救わなくてもいい」という考え方である。前 述のロールズとノージックの対立を読めば、それは明白である。ノージックは「恵まれた人が恵まれない人を援助する義務はない」として、ロールズの格差原理 を批判しているからだ(『倫理とは何か』182ページ)。

こういうリバタリアニズムのような考え方の方が進歩的だ、と現在の日本の言論人やマスコミは勘違いしているようだ。リバタリアニズムに酷似した価値 観をとなえて、それを進歩的な価値観だなどという言論人は多い。が、本当はアメリカではリバタリアニズムが保守主義で右翼となる。ここを勘違いしている日 本人はおおい。

「自分が好きな人(恋人、友人、家族)だけ救ってあとの人間は見殺しでいい」という考えを今の日本の一部の言論人やマスコミは進歩主義のようにいい、大方の日本人もそう思っているようであるが、こういう考え方は「恵まれた人が恵まれない人を援助する義務はない」というノージックの考えに通じる。

他者を救うだけの能力に恵まれている人が「他人を救いたくなければ救わなくてもいい」となれば、その人は間違いなく恋人、友人、家族のような「自分が好きな人」だけ救うとおもわれる。なので「自分が好きな人だけ救ってあとの人間は見殺し」という考え方はリバタリアニズムに該当するだろう。

なぜ日本のマスコミはそういう勘違いをしているのかは謎だが、これはやはり彼らが背徳主義に傾倒しており、背徳主義を進歩的だと思い込んでいるから だろう。弱者を見殺しにすることは、日本では一般的に不道徳とされているからだ。日本では言論人がリバタリアニズムに酷似した価値観ばかりとなえるので、 リバタリアニズム的な思想(弱者の見殺し、人間の平等性の否定)が「現代的な価値観」みたいにいわれている。しかし『世界覇権国アメリカを動かす政治家と 知識人たち』によると、リバタリアニズムは実はアメリカの西部開拓時代の農民の思想なのだそうである(319ページ等)。つまり「西部開拓時代の農民の思 想」が、なぜか現代の日本では「現代的な価値観」だといわれていることになる。

『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』によると、70年代のアメリカでは、裕福な老人層から「納税者の反乱」という運動がおこった。こ の際の老人達の主張は「各種の福祉予算の必要を理由に課税が強化されるなら、われわれは断固として税金反対の法廷闘争をやる」というもの。中間層や貧困層 が増税に反対するなら分かるが、裕福層の老人がこのような訴えをおこしてしまうのがアメリカなのである。

かれらアメリカの裕福な老人たちは「自分たちが払う税金は自分たちのために使われるべきだ」と主張したという(307ページ)。アメリカで老人が、 こういう運動をおこすのは、福祉否定が「アメリカの伝統的な価値観」であり保守主義だからであろう。この老人たちは、家族(配偶者など)や友人には援助す るだろうから、やはり「好きな人だけを守る」というのはリバタリアニズムだろう。

「好きな人だけを守る」という考えは、ボランティア団体にたとえれば、そういう団体が紹介制の料亭みたいに「コネがなくちゃ援助しません」と言い出すことと同じですからねえ。それじゃあみんな困るでしょ(もはや「福祉」ではない)。
社会保障にたとえれば、社会保険庁が「政府とコネのある人でないと健康保険や社会保険はつけない」といいだすのと同じですからね。

日本では弱者救済を否定するリバタリアニズム的な価値観が「進歩主義で左翼だ」という過った認識が定着してしまった。こういう認識が定着してしまう と、弱いものイジメが進歩的な行為だということになってしまうだろう。これが、イジメ問題の直接的ないし間接的な原因のように自分はおもえる。80年代に マル金、マルビという言葉が流行って、貧乏人をバカにすることが流行し、貧乏人をバカにすることは進歩的なことだとおもわれていた。しかし、経済的に貧し い人間をバカにすることは、リバタリアニズム的な行為であり、本来は保守的であるはずである。

国内の言論人が、こういうリバタリアニズム的な価値観ばかりとなえるのは、単なる勘違いではなく一種の「税金対策」である可能性もある。著名な言論 人たちは、著書等の印税で儲けている「裕福層」だが、彼らは儲けの一部を税金として払うことが嫌なため、弱者救済を否定したがるのではないだろうか。弱者 救済を否定することは本来は保守主義なのだが、言論人たちは裕福層である自分達が高い税金を払わないで済むように、あたかもそれが進歩主義であるかのよう な流行を流布しているのかもしれない。

朝日新聞も90年代あたりからリバタリアニズム的な価値観が左翼であるかのような報道をおこなっている。その朝日新聞社は、実は90年代から10年ちかく断続的に脱税していたのである。
まず2004年3月期までの7年間に約11億8000万円の申告漏れがあったことを摘発され(2005年5月31日の朝日新聞朝刊より)さらには、 2005年度までの3年間に約8億3300万円の申告漏れも指摘されている(2007年5月30日の朝日新聞朝刊より)。こういう報道があると、リバタリ アニズム的な価値観を左翼にみせかけたのは、こういう脱税と関連があるのでは?とかんぐってしまう。

リバタリアニズムがなぜ保守主義なのかというと、リバタリアニズムは19世紀のヨーロッパで主流だっ た古典的自由主義(クラシカル・リベラリズム)が原形であり、これを現代的にアレンジしたものだかららしい。古典的自由主義は『フランス革命の省察』の著 者エドマンド・バークや、『奴隷への道』などの著者フリードリヒ・ハイエクの思想が代表的なものである。

古典的自由主義は人間の平等性を否定し、弱者がほろびることこそ自然の掟、すなわち「自然法」だとし て弱者救済(障害者、貧困者の救済)を否定する思想らしい(『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』239〜240ページ、262ページ等)。 これを換骨奪胎し、自然法を否定しながら弱者救済を否定したのがリバタリアニズムである。
ちなみにリベラリズムは自然法肯定派だが、弱者救済を自然法に含めており、この点が古典的自由主義とは異なる。またリベラリズムは前述のジョン・ロックの 自然法思想(自然権)から派生した思想であるが、ロックの自然法思想自体は権利のみの平等をみとめ弱者救済を自然法に含めていないために保守となる(前掲 書202、210ページ参照)。

アメリカでは、建国後1世紀後に、古典的自由主義が「右翼」になってしまう。それ以前には、この個人主義的な古典的自由主義こそが「自由主義(リベラリズム)」であった。
個人主義的な古典的自由主義がなぜ「右翼」なのか。その事情をもっとも分かりやすく書いているのが渡辺幹雄『リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師』(春秋社)の293ページの以下の記述である。
「産業資本主義の全面的な開花によって、それ以前のアメリカには見られなかった社会現象が生じた。資本家と労働者、裕福層と貧困層の分離である。いわゆる 階級と社会的カーストが、本来貴族主義的な階層性とは無縁な新興国家にも発生したのである。この歴史的事実が、アメリカの政治的諸勢力を二分することに なったのだ。そう、「右翼」と「左翼」の誕生である。」

アメリカでのこういった事情により「社会に激しい貧富の差が出ても構わない」という政治的スタンスも「右翼」ということになった。こういうことは、アメリカだけでなく、封建制が打倒され資本主義の体制に移行した欧米の他の国々でも同様である。

こういう事情により、アメリカでは貧富の差をなくすために所得の再分配をするというスタンスが「リべ ラリズム」といわれるようになり、それまで「リべラリズム」といわれていた個人主義が「クラシカル・リべラリズム」といわれるようになった(このときの名 残りからか、現在でも、まれに「クラシカル・リべラリズム」のような個人主義を「リべラリズム」ないし「自由主義」といわれることもあるようだ)。これら の事情については『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』87〜90ページと、同じ副島隆彦による『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ (下)』の35〜40ページを参照。

また、さらにややこしいことに、古典的自由主義を20世紀以降に復権させようとする政治的スタンスを「新自由主義」という(『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』90ページ)。2000年代あたりから、国内マスコミでは、この「新自由主義」という呼称が、「資本主義」を表す言葉として多用されている。

つまり単純に「国粋主義」が右翼で「市民主義」が左翼なのではないのである。共産主義が左翼といわれ るのも、この文脈においてである。このように、個人主義も社会に階層を生み「下の階層の人間が上の階層の人間に逆らえない」という、封建制と変わらない階 級が社会に生じてしまうのである。

古典的自由主義やリバタリアニズムは、後述する「市場原理主義」に通じるため「資本主義」として一括されて呼称される。マルクス、エンゲルス著『共 産党宣言』には「人類の全歴史は階級闘争の歴史であった」という有名な一節がある。このように、左翼は歴史は階級が消滅していく方向にすすむと考えた。

この考えにのっとって「原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義」という順に時代がすすむと考えるのが本来の左翼のスタンスであ る。これを「発展段階論」という。本来は「原始共産制→奴隷制」の間に「アジア的生産様式」というのが入りるが、これは人によっては省略する場合もある。 発展段階論について書かれてある文献で一番わかりやすいのが光文社新書の『マルクスだったらこう考える』(的場昭弘/著)の40ページである。

発展段階論について記述のある、おおもとの歴史的に著名な思想家の本としては、マルクスの『経済学批判』の「序説」、それに文庫本で『資本主義的生 産に先行する諸形態』(大月文庫)(後者は『経済学批判要綱』の一部です)。ほかに『反デユーリング論』や『資本論』(第1部第24章)などで発展段階論 についてふれている。

このうち、社会主義は共産主義へと到達するまでの準備段階(共産主義の第一段階)として考えられる(三省堂「大辞林 第二版」の「社会主義」の項を参照)。
そして奴隷制→封建制→資本主義の3つの段階は社会的な階層が生じることを是認する社会ということで、右翼と定義され、それから先が左翼と分類される。前述のリベラリズムは資本主義と社会主義の中間に位置付けられ、「福祉国家」といわれる場合もあり、左翼に分類される。
日本国憲法は、憲法25条などで国民すべてに生存権をみとめているために社会保障を重視する憲法であるがゆえにリベラリズム(福祉国家と同義)に該当する ものなのである。このことは『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の201〜202ページ、244ページを参照。
また竹内真澄/著『福祉国家と社会権』(晃洋書房)によると、日本国憲法をつくったGHQはニューディール派であり(p39)そのうえで日本国憲法はアメリカが福祉国家に近寄ったニューディール期の思想が反映されている(p147)という。

日本の天皇制がなぜ右翼かというと、明治憲法は天皇主権であり、天皇には天皇大権という絶対的な権限があり、この明治憲法における天皇の扱いは共産主義者が封建主義の最終段階(封建主義のの再編成ないし末期状態)と考える「絶対王政」に通じるからである。

封建主義が行き詰まりを見せ始め、貴族が没落し、ブルジョアジーが勃興すると、国王は両勢力を押さえ込むために絶対的な権限を打ちたてようとします。これを共産主義者は「絶対王政」という状態だと分析します(ウィキペディアの「絶対王政」の項を参照)。

戦時中までの日本における天皇制は、この絶対王政の日本版であると左翼は考える。内外の左翼が天皇制を絶対王政として分析したということは、有名な本では小熊英二『<民主>と<愛国>』の125ページを参照。

日本の場合、この天皇制から第二次世界大戦の敗戦によって、資本主義の段階を通過しないで、飛び級で福祉国家の段階に移行してしまったといえます。 資本主義を左翼だと勘違いしている日本国内の一部の人たちは、こういう部分があまりよくわかっていないのではないかとおもえ、それゆえに個人主義が左翼だ と勘違いしたのではないか。社会の階層をなくすのが左翼であり、天皇制は封建制に属するので右翼になるというのは基本ではないかとおもえる。
この日本の「資本主義の段階を通過しないで、飛び級で福祉国家の段階に移行してしまった」という状態が、「資本主義が左翼」という誤解が生じる元凶になってしまったといえるだろう。

アメリカの政界は福祉を否定する政治家が共和党にあつまり、福祉重視の政治家が民主党にあつまってい て対立している。共和党が右派で民主党が左派の政党となる。今のアメリカ(2004年現在)のブッシュ政権は共和党政権である。前述のラムズウェルド国防 長官も共和党の政治家である。

ブッシュは大統領に就任する前からラムズウェルドと付き合いがある。ラムズウェルドは同時多発テロが 起こる前の1994年に『ラムズウェルド委員会』をつくってイラクや北朝鮮などの脅威を指摘していたという(『ラムズフェルド 百戦錬磨のリーダーシッ プ』51、206ページなど)。そして1999年、ブッシュはラムズウェルドと会談し、ラムズウェルドに「軍事問題についての考え方を変えさせられた」と いう(前掲書250ページ)。

ブッシュ政権で大統領特別補佐官をつとめたリチャード・クラークの『9,11からイラク戦争へ-爆弾証言-全ての敵にむかって』(徳間書店)には、イラク侵攻を切り出したのがラムズフェルドだったという事実が書かれてある。

「12日の午後までには、ラムズウェルド国防長官が対応策の目的を広げ、”イラクをとらえる”ことについて話し始めていた。(53ページ)」
「その日遅くなってから、ラムズフェルド長官が、アフガニスタンには爆撃するのにふさわしい標的がなく、”もっとよい”標的のあるイラクの爆撃を考慮すべ きだと訴えたのだ。最初、わたしはラムズフェルドが冗談を言っているのかと思った。しかし、彼は本気であり、ブッシュ大統領も、イラクを攻撃するという考 えを即座にはねつけることはしなかった。(54ページ)」
このように、イラク侵攻に関してはラムズフェルドが言い出しっぺどいうのが実際のようだ。

また現ブッシュ政権のチェイニー副大統領はラムズウェルドの腹心なのだそうだ(師弟関係にある)。ラムズウェルドは一貫して保守的な政治家であり、ラムズウェルドとチェイニーは2人で軍事強行路線をすすめている。

前述のようにリバタリアニズムは、人間の才能や境遇による「権原」を重視する。この「権原」というものは、能力の優秀さ等といった「力」を絶対視す るニーチェのエリート主義に通じるものがある。また、福祉を否定し弱者を切り捨てるという部分も、リバタリアニズムとニーチェ主義の共通点だろう。リバタ リアンには社会ダーウィニズムを信じている人がおおく、この点もニーチェ主義に通じる。

近年のイスラム社会の近代化による混迷は、同時多発テロの際によくとりただされたが、このことは、実はリバタリアニズムの落とし穴を端的に示している。

昔のイスラム社会には、イスラム教のザカート(喜捨)という教えにのっとって、金持ちが収入の一部 (収入の2,5パーセント)を貧乏人に寄付するという習慣があった。それが、欧米文化の影響をうけて近代化するにつれて、ザカートの教えを守らず貧乏人に 寄付しない金持ちが増えてしまった。結果イスラム社会は、好景気にもかかわらず極端な貧富の差が生まれ、経済混迷を引き起こした。こういうイスラム社会の 近代化に反発して登場したのがイスラム原理主義であり、アルカイダもこういう原理主義の一つである。

こういうことから考えると、欧米人がイスラム社会に押しつけたのは「民主主義」というより「弱肉強食 の市場原理主義」であり、その市場原理主義というのはリバタリアニズムや古典的自由主義のような弱者救済を否定する保守的な自由主義であることがわかる。 つまり、このイスラム社会の状況は、弱者救済を否定したリバタリアニズムという思想の危険性を表しているといえる。

イスラム社会はもともと「神の前では人間は平等だ」というイスラム教の教えにのっとった民主主義に通 じる平等主義の社会であった。それが欧米文化の影響で貧富の差が激しくなり平等主義が奪われ、それを現地のイスラム主義者たちは怒っている。つまり「アメ リカが民主主義をイスラム社会に押しつけている」という国内マスコミの分析はおかしいということになる。現在の中東情勢は「アメリカが弱肉強食の市場原理 主義をイスラム社会におしつけている」と分析されるべきだろう。

弱者救済の否定という思想のルーツはやはりニーチェだが、ナチスに次いで、またもニーチェ的な思想によって戦争がおこってしまったのである(国内マスコミはなぜかこれを逆に解釈したがっている)。

この辺のことはイスラム地域研究を専攻する宮田律(静岡県立大助教授)の『現代イスラムの潮流』(集英社新書)がくわしい。この本には以下ような、ちょっと意外な記述さえある。
「欧米ではイスラム政治運動は、民主主義とは相いれないという考えや見方が根強いが、しかし現代のイスラム政治運動は、一様にイスラム社会の〔民主化〕を唱えるようになっている」
(『現代イスラムの潮流』80ページ)

宮田氏はアメリカとイスラム社会との衝突を「宗教戦争」「分明の衝突」とするマスコミの解釈を否定す る。宮田氏はイスラム過激派のテロを、政治的、経済的な要因によるものと分析する(『現代イスラムの潮流と原理主義の行方』(集英社)11ページより)。 イスラム教徒は遊牧社会の伝統があり外来の人間と接触する機会がおおいため、異教徒にも本来は親切に振る舞うのだそうである(前掲書204ページ)。

前述のロールズの格差原理は奇しくもイスラム教のザカートに通じる。リベラリズムとイスラム教は弱者 救済という共通点があるので、イスラム社会にリベラリズムが導入されていれば、イスラム社会の良さを損なわずにスムーズに近代化できたのではないかとおも えるのだが。イスラム過激派のテロは、目的はまちがっていないが、手段に誤りがあるということだとおもえる。

リバタリアニズムは政府による経済の規制・介入に反対し、政府より自由市場が政治的権力もつべきとする思想であり「市場原理主義」「市場万能主義」である。リバタリアニズムの重視する「権原」という概念は、市場原理に直結しているからだ。

2005年8月31日の毎日新聞の夕刊によると、米国勢調査局が発表した2004年の米所得調査では貧困層は4年連続で増加しており、これに対して 民主党からは「富裕層優遇の大型減税などブッシュ政権の経済政策の誤り」との批判が出ているらしい。このことはブッシュ政権が富裕層を優遇し、激しい貧富 格差を促進させる保守主義の政権であることを如実にものがたっている。

リバタリアニズムは自由競争を基盤とする市場原理の徹底を求める。なので「世の中金が全てだ」という拝金主義はリバタリアニズムに通じるだろう。拝 金主義は近年の日本では進歩的、現代的な価値観とおもわれている。しかし拝金主義は自由競争の市場原理の全面肯定に通じるので、本来は右翼であり、保守主 義となるだろう。

『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』によると、民族主義的な天皇尊重派とともに、資本主義(全面)肯定派も「保守」「右翼」となるそ うだ(208ページ)。これが本来の右翼、左翼の分類なのだが、なぜか80年代以降、これが逆さまに入れ代わったようである。拝金主義は「資本主義(全 面)肯定派」のスタンスに通じるので右翼のスタンスだとおもわれるが、なぜか80年代以降「現代的な価値観だ」と思われ、進歩主義だと誤解されたようだ。

つまり本当は保守主義で右翼となる拝金主義を、近年の日本では進歩主義で左翼だと誤解されているのである。そして「世の中金じゃない」という拝金主 義を批判するスタンスは保守的な価値観とされてしまう場合がおおい。これらは勘違いであり、価値の捻転である。この捻転の原因も、言論人にこの手の発言を する人間が多かったからだろう。

『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』によれば、ヒッピー哲学というのは、本来急進リベラル派なのだそうで貧困者の味方で金持ち層への 大増税には賛成するというスタンスだそうである(98ページ)。しかし日本ではなぜか弱者、貧困者をみすてて無関心なのがヒッピーだと誤解されているよう なところがある。

ベトナム反戦運動が盛んなときに「ヒューマンビーイン」というヒッピーと新左翼の交流イベントがあった。これは新左翼がヒッピーにベトナム戦争反対 の政治運動をすすめるという主旨の催しだったが、ヒッピーたちはこの新左翼のよびかけに耳をかさなかった。この「ヒューマンビーイン」の話が誤解されて、 日本では「ヒッピー=無関心=個人主義」という誤解がまかり通っている感じがある。

ヒッピーたちは、たしかに新左翼のよびかけに答えずにドラッグをやりつづけるだけでしたが、かといって「世界のことなどどうでもいい」と思っていたわけでもないのです。

マーティン・A・ヘリー、ブルース・シュレイン共著『アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命』(第三書館)によると、ドラッグをやることは「世界を救う」ことに通じるとヒッピーたちは考えていたのです。
「『ビー=イン』で見せつけられたこの政治的無関心に、ルービン(註・ジェリー・ルービン。新左翼イッピーのリーダー)をはじめとする新左翼の連中は幻滅 した。彼らは、それまではこのヒッピーたちに同志愛に近い親近感までいだいていたのだ。過激派たちは、このLSDまみれの人間たちが、世界を救うために は、じぶんたちを高めさえすればいいと口にするたびに、猛然と反発した。意識拡大(註・ドラッグによるトリップ)を体験する人口が充分な数に達しさえすれ ば、世の中は完全に変わることができる。これが、このピッピーたち、ドロップアウトら、そしてそのほかLSDサブカルチャーに浸っていた者たちの概念だっ た。」(178ページ)

このように、ヒッピーが新左翼の言葉に答えなかったのは、別に世界がどうなってもかまわないとおもっていたわけではないのであり、むしろ実際は逆 で、ドラッグを普及させることで世界をすくおうとしていたんですが、この部分が誤解されて、日本では「ヒッピー=無関心=個人主義」という誤解がまかり 通っている感じがします。

この時期のアメリカのドラッグ解禁運動はマリファナとLSDの解禁運動でした。この2つは他の麻薬にくらべて習慣性がなく安全といわれており、さら には当時これらのドラッグには「人間をどん欲さから解放して誠実にする」という効能があると信じられていました(これらのことについては後述します)。

『アシッド・ドリームズ』によれば、ヒッピーたちのモットーは「全宇宙的な人類愛」だったそうで(177ページ)こういうことからも、ヒッピーが個人主義というのは誤解とおもわれる。

トッド・ギトリン/著『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)によれば、ベトナム反戦運動をおこなった新左翼イッピー(国際青年党)のス ローガンに「全ての人にドラッグを!」をいうのがあったそうです(332ページ)。あくまで「あなたの大切な人にドラッグを」ではなかったところが重要で あろう。「全ての人に〜」というところが、人権というのを重視している60年代のアメリカの新左翼運動家たちらしいスローガンといえる(だた、ドラッグと いうのは体質的にうけつけない人もいるので、本当は「ドラッグを求める全ての人にドラッグを」ではないといけないのだろうが)。

また『アシッド・ドリームズ』では、ヒッピーがサイケデリックな外見をしている理由について「じぶん(ヒッピー)たちは、まっとうな市民社会に対し てある脅威を伝え、そしてこの拝金主義の消費社会にこんなかたちで抵抗を示しているのだ。(191ページ)」という記述があります。いわゆるヒッピー独特 のいでたちというのは、実はそれ自体が拝金主義の社会への抵抗のポーズだったというのである。

『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』の566ページによると、ベトナム反戦運動を行った新左翼の反体制組織「ウェザーマン(別称:ウェザーアン ダーグラウンド)」たちは、「男性優位主義、個人主義、競争」を「粉砕」さるべき「忌まわしい内なる豚」として批判し「豚を粉砕するとはわれわれの内なる 豚を粉砕することに他ならない。われわれ自身のヘナチョコを克服しなければならないのだ。」といっていたらしい(566ページ)。

ウェザーマンのメンバーのいう豚とは、白人の軽蔑的な比喩である。『アシッド・ドリームズ』の296ページによると、ウェザーマンたちは資本主義に傾倒したアメリカ白人たちを「金まみれの白ん坊の豚ども」といって批判しているのだ。
上記の「男性優位主義、個人主義、競争」を「忌まわしい内なる豚」として批判したというのは、ウェザーマンのメンバーの多くが白人であり、その自分たちの 心のなかに男性優位主義や個人主義や競争を好む価値観が芽生えることを、自ら忌まわしく思い、それをなんとか防ごうと葛藤していたのだ。

ウェザーマンの格好は『アシッド・ドリームズ』によると「ある者は、ヘッド・バンド、ビーズの首飾り、そしてケープといったヒッピーの正装を身にまとい、ある者は革ジャンにチェーンといういでたちだった(297ページ)そうである。
このウェザーマンが活躍した時期というのは、すでに新左翼がヒッピー文化の影響を受け始めていた頃だっために、ウェザーマンにヒッピーの格好をした者がい たのですが、今の日本国内では、みんなこの手の格好をする人間たちは「個人主義が左翼だ」というマスコミのミスリードを妄信している人たちなので、服装は 同じでも思想的な方向はウェザーマンとは正反対になってしまっている。

ウェザーマンの名前は、ボブ・ディランの歌『サブタレニアン・ホームシック・ブルース』の歌詞からとったものである。歌詞のなかに「天気予報士なん て必要ない/風がどっちにふくか知るために」というのがあり、この「天気予報士(ウェザーマン)」が、ウェザーマンの名前の由来である。

『アシッド・ドリームズ』は、カウンターカルチャーの運動家たちがさまざまなベトナム戦争反対運動をおこしたことが詳しくかかれているのですが、342ページには以下のような記述があります。
「多くの活動家たちが、ヴェトナム戦争とは、決してアメリカ外交政策の失敗や勇み足の結果などではなく、それは多くの国で見られるあの帝国主義的介入のいちばんあたらしいかたちなのだ、という思いをいだきはじめていた。」
この文からもわかるように、当時のアメリカ国内のカウンターカルチャーの当事者たちは、ヴェトナム戦争を軍需産業を発展させるための侵略戦争だととらえていたようです。

どうも日本では、ベトナム戦争は民主党政権がやった戦争だから、「アメリカが海外に弱者救済主義をおしつけた戦争」とか誤解している人がおおいよう におもわれるのですが、実際はぜんぜん違うようです。また、そうでなければ60年代から70年代にかけて起こったヒッピーや新左翼といったカウンターカル チャーが共産主義系の思想の延長にあるものばかりになるはずがないのです。

ベトナム戦争あたりから現在まで、アメリカの軍需産業は、CIAやマフィアも味方につけ、もやは政治家がコントロールできない状態にあったといわれる。この件について『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(ハヤカワ文庫)にあるベトナム戦争についての記述も引用してみよう。

この本の巻末には上智短大助教授の土田宏による解説がありますが、このなかで、ケネディはベトナムへの軍事介入を拒んだためにCIAとマフィアに よって暗殺されたとあります。ベトナム戦争への介入の動機ですが、当初CIAとマフィアはキューバへの侵攻を望んでいましたが、ケネディは人道的な理由か らキューバ侵攻を中止しました。ケネディの後釜のジョンソン大統領もキューバ侵攻をみとめませんでしたが、それは人道的な理由よりも打算的な理由だったよ うで、これがベトナムの軍事介入へとつながっていきます。

「新大統領に立てられたジョンソンもキューバ侵攻は認めなかった。キューバへのソ連の介入が余りにも大きすぎたからだ。とすれば、ジョンソンとして はキューバの代わりになるものを、キューバ侵攻で利益を得るはずの人たち(軍産複合体とよばれたもの)に与える必要があった。それがヴェトナムだった。 ヴェトナムへの介入を強化することで軍の一部は満足する。そして、そこに麻薬を持ち込むことで、キューバのカジノから得た利益以上のものを得ることがで き、マフィアたちも満足する、と考えることも可能だろう。」(483ページ)

このように、土田氏もやはりヴェトナム戦争は軍産複合体の利益のための戦争だったとしています。しかもマフィアも深く関わっており、マフィアの利益 も見込んだものだったとはおどろきです。また、『JFK ケネディ暗殺犯を追え』の本文には、著者のジム・ギャリソン本人によってベトナム戦争にアメリカ がかかわる経緯がつづられています。

そこには「第二次大戦終結以来、アメリカの冷戦支持派の立場は、いかなる理由であれアメリカはヴェトナムとその貴重な天然資源を手放すことはできな いというものだった。」(272ページ)という記述があり、これによると、アメリカがヴェトナムにこだわった理由はベトナムの天然資源(鉱物資源と天然ガ スと石油など)による利益があったようである。

こうみると、同時多発テロ以降のアメリカの中東への侵攻は、基本的にベトナム戦争への軍事介入とあまりかわりないようにおもえる。ベトナム戦争はベ トナムの天然資源と軍産複合体の利益のための戦争ですが、今の中東への侵攻も中東の石油と軍産複合体の利益を追求するための戦争であり共通点があるとおも います。この件については、他に落合信彦の『決定版 二〇三九年の真実』(集英社)にもいくつか記述がある(214、215、226〜229ページ)。

アメリカの軍産複合体の存在が公に語られたものとして、34代大統領ドワイト・D・アイゼンハウワーの辞任演説が有名である。この辞任演説は『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』57ページにもふれられている。
また『民営化する戦争』(本山美彦著/ナカニシヤ出版)49〜51ページには、この演説の内容が詳しく書かれてある。アイゼンハウワーは、大統領辞任の3 日前の1961年1月17日の夕方、全米のラジオとテレビの演説でアメリカ軍を支配している軍産複合体について言及し「軍事力が不当に使用される災害の可 能性は増大している」と市民に警告した。

レーニンの『帝国主義(帝国主義論)』によると、戦争は市場・資源・資本の輸出先・さらに植民地獲得のために行うものとして理解すべきものだという 分析がおこなわれている。レーニンの『帝国主義』の岩波文庫版の16ページによると、第一次世界大戦は「どちらの側からみても帝国主義戦争(すなわち、侵 略的、略奪的、強盗的な戦争)であり、世界の分けどりのための、植民地や金融資本の「勢力範囲」等々の分割と再分割とのための戦争であった。」とある。

そして「ある戦争の真の社会的性格がどのようなものであるかということの証明は(中略)すべての交戦列強および全世界の経済生活の基礎にかんする資 料の総体をとりださなければならない(16ページ)」とし、レーニンは「戦争の社会的性格は経済でわかる」といっています。戦争の原因は経済であるとす る、こういう考え方こそが、本来の左翼のスタンスだといえます。

そして「資本主義の発展が高度になればなるほど、原料の欠乏がより強く感じられれば感じられるほど、また世界における競争と原料資源にたいする追求 が先鋭化すればするほど、植民地獲得のための闘争はますます死にものぐるいとなる。(136ページ)」とあり、植民地の獲得(すなわち侵略)は資源のため という分析をしている。
911以降のアメリカのブッシュ政権による戦争を「石油資源のため」とする分析は、こういうレーニンの分析にのっとったものであるがゆえに左翼的な戦争の分析ということになるだろう。

ヒッピー文化に深くかかわったビート文学の代表的な詩人、アレン・ギンズバーグは60年代のアメリカのカウンターカルチャー関係の本では必ずといっていいほどでてくる人である。この人の詩では『吠える』と『カディッシュ』という詩が有名だ。

そのうちの『吠える』という詩は、ベトナム戦争当時のアメリカ国内の荒廃について書かれた詩として有名である。この『吠える』では、そのアメリカ社 会の荒廃は古代フェニキアの「モーラック」という「生贄の子供を食らう魔神」が生み出したもの、として例えられている。『吠える』はアレン・ギンズバーグ の詩集『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』(思潮社)に収録されている。
「モーラックの精神は単なる機械である モーラックの血は流通するドルである モーラックの指は十個の軍隊である モーラックの胸は人喰人種のダイナモである モーラックの耳は煙の立っている墓である」(思潮社『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』22ページ)
「モーラックの血は流通するドルである モーラックの指は十個の軍隊である」とあるように、この詩ではモーラックを軍産複合体を含めたアメリカ資本主義の権化として捉えています。ギンズバーグにとってアメリカの資本主義はモーラックのような怪物だということなのだ。

また『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』に収録されている『ペンタゴン悪魔払い』(196ページ〜197ページ)という詩には「軍需生産のために莫大 な僕の精神を浪費しているのは誰だ?」とか「洗脳! 恐怖! 支配者の言葉! 産軍を混同した大統領の発言!」とか「銀行は戦争投資の高利貸しに電話をす る」という言葉があります。

こういうことからも、はやりベトナム戦争は軍需産業を儲けさせるための戦争として当時のアメリカの左翼(ヒッピーや新左翼)たちは考えていたことがわかる。

90年代の日本マスコミに登場する文化人たちはニーチェ主義の影響をうけているため「戦争は禁欲的あるいは利他的な価値観がこじれたうえで起こる」 と戦争の原因を分析する。ブッシュ政権によるイラク侵攻の際も、国内マスコミには、イラク侵攻の原因を「禁欲的あるいは利他的な価値観がこじれたもの」と 分析をした文化人がおおかった。しかし、そういう考え方というのは、結局「世の中金と力だけ」という、資本主義の全面肯定論にいきつく。90年代のそうい う価値観が、現在の格差社会の一因になっているのはいうまでもないだろう。

ブッシュ政権と軍産複合体とのつながりについて書かれた本『民営化される戦争』によると、米国の国際紛争の介入というのは、基本的に米企業が莫大な利益をえるためのものだと述べられている。

この本にれば「米国がイラクの病院、橋、水道施設を爆撃で入念に破壊した後、今度は米企業が復興事業から利益をむさぼろうとしている。戦争は企業支 配拡大の都合のいい手段である。WTO(世界貿易機関)を通じる政策が不発なら戦争を使えばよいと米企業は考えている(57ページ)」のだそうだ。

その上で、元米司法長官で弁護士のラムゼイ・クラークが日本の週刊誌の取材を受けた際に語った、以下のような言葉が紹介されている。
「米国が国際紛争に介入する時は、必ず背後に大企業の利益がからんでいるという史実を、日本人は知らないのですか?(57ページ)」
このラムゼイ・クラークの日本人への驚きのコメントは、日本人そのものにむけた言葉というより、日本のマスコミのイラク侵攻の報道に対する驚きの言葉といえよう。

やや話はかわって、80年代後半から90年代にかけて、ファッションがダサい人間というのをマスコミが執拗に嘲笑の対象にして迫害した。しかしこれ も実はリバタリアニズムに通じるのではないか。ファッションがダサい人間というのはファッションセンスが他の人間より劣る人ということになる。ファッショ ンセンスというのは、その人の能力、才能に該当するだろう。

人権という観点からすれば、そういう能力が足りない人間でも、本来は他の人と平等に生きるという権利、すなわち人権があるはずであり、よって迫害さ れることは許されないということになる。ファッションセンスの劣る人間を迫害するという行為は、才能、能力の低い人間に生きる権利をみとめないという、リ バタリアニズムの権原理論に通じ、右翼的ということになるのではないだろうか。

越智道雄(明治大学教授)/著『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)によると、フリーセックスというのも日本では相当誤解されているようにおもえます。

まず、この本の111ページによれば、フリーセックスを実行に移すにはそれまでの男女間の役割や役割演技を完膚なきまでに剥ぎ取るのだそうです。
「男は女をハントし、女は簡単には落ちないわよという演技、相互に相手の気をひくなど、相手の期待に添うためのお馴染みの馬鹿げた演技をせずにすむ。こう して男女関係の見かけの神秘性がいっさい剥奪されているから、いきなり相互の実質でつき合える。また美貌の相手に引かれるということすら外の世界の価値観 なので、長くここ(フリーセックスを実行しているコミューン)で暮らすうちに容貌より人柄という実質が尊重されだす。(111〜112ページ)」

つまりフリーセックスは「モテるためにこういう言動をしなければならない」とか「こういうふうに外見をおしゃれにしなければモテない」ということに気を使わずに恋愛をするということであるようです。
日本のマスコミでいうところのフリーセックスの解釈とは、モテる言動やオシャレが上手にできるように男性がテクニックを磨くことですが、こういうのは本来のフリーセックスとは程遠く、フリーセックスというより単に「日本型ヤッピーの女遊び」でしかないと言えそうです。

90年代に起った恋愛ブームという社会現象は、常に競争の要素がつきまといます。何人とセックスしたか、とか童貞喪失は何歳かということがとりただされ、セックスした相手が多いほど、童貞喪失が早いほど社会的ステータスとなることで人々を競争に駆り立てるというわけです。

ヒッピーや新左翼は、競争を否定することにかなり神経をつかっていました。競争は市場原理に直結するから市場原理主義=資本主義に通じるという考えからです。

『アシッド・ドリーム』(第三書院)によれば、ドラッグカルチャーの高僧といわれる心理学者ティモシー・リアリーがLSD解禁の運動を始めた狙いは 「サイケデリック・ドラッグを使って膨大なアメリカ青年層に労働倫理の束縛からみずからをきりはなすようにしむけることだった。そして正気のさたとは思え ないはげしい競争社会こそほんものの「麻薬的逃避」の常習者であり、LSDの助けを大いに活用してその社会からドロップアウト、みずからを「消毒」すれば 新たな調和を手にいれることができる(123ページ)」ということにあります。

このように、ドラッグやロックといったカウンターカルチャー(60年代アメリカの反体制系運動によって起った文化の相称)における「社会のルールへの反逆」は、資本主義社会の競争原理のことをさします。

ヒッピーは非血縁の拡大家族というものをつくって、家族の血縁性を否定(一応血縁でつながっている家族も同居するようなので、完全な否定ではないよ うだ)したのですが、これは血縁性の核家族は受験戦争や出世競争に通じるという考えがあるからでした(以上は『アメリカ「60年代」への旅』p79、 p113より)。

今の日本では、核家族より恋愛が出世競争に直結しているとおもいます。つまり「高学歴、高収入の人間がモテる」という流行です。これをモテる男性の 条件にするということは、今の日本では出世競争と恋愛が直結していることを意味しています。そうなると、今の日本での恋愛ブームというのは、実は市場原理 主義に通じるので一種の保守主義だといえるとおもいます。

『FRIDAY』(講談社)2005年12/2号106ページによれば、郵政民営化はアメリカ政府の要請だったという。恋愛ブームによって競争好き な人間が増えることによって、アメリカ政府の要請である郵政民営化も大衆はすんなりうけいれてしまい、日本を対米追従に導くのです。

本来カウンターカルチャーというのは、競争をなるだけ避けるもので、60年代〜70年代のアメリカでは血縁による核家族が「出世主義、競争社会に通 じる」として否定され、非血縁の拡大家族というものをつくることがヒッピーたちの間ではやりました。90年代の日本では、これが恋愛にとって代わり、「女 にモテるためには出世しなくてはいけない」「お金もちにならなければもてない」と多くの男性を激しい競争にかりたてました。

恋愛が資本主義に通じるというのは、実は前述の「ウェザーマン」たちがすでに指摘していたことだったのである。
『アシッド・ドリームズ』(第三書館)264ページによると、ウェザーマンたちの間では「恋愛感情は資本主義的なこだわり」としてご法度とされたそうです。では、セックスもしないのかというとそうではないのです。

『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)の555ページによると、ウェザーマンたちは、男女のカップルも命令により解体され、女と男、女と女、男と男、すべてが区別なく全員が全員と寝るという規則をつくったそうです。

メンバー全員が性的関係をもつという規則をつくってセックスするというのが、ウェザーマンのいうフリーセックスなのです。こういう規則をつくって も、ウェザーマンの女性メンバーらは自ら「一夫一婦制に対する勝利を喜ぶ文章を書いた(前掲書555ページ)」というのだから、フリーセックスというの は、やはり女性の側の意識がかわっていることが重要のようです。

なぜ同性同士で寝るようにまでしたのかというと、彼らはジェンダーの完全な否定を考えていて、その上でフリーセックスをしようとしていたからのようです。
同性でセックスしなくてはならない、という部分には筆者は抵抗を感じるものの、ある意味、大変平等な規則であり、モテない人でもほかの人と同じようにセッ クスができるという点では大変弱者にやさしい規則だったといえます。いわば義理チョコのセックス版というべきものでしょうか(笑)。

ウェザーマンのフリーセックスほど極端ではなくとも、本来のフリーセックスというのは、こういう平等主義的な価値観から派生したもののようなので 「何人の女とセックスするか競争する」という、90年代の日本人が思っているようなものではないようです。つまり、女性も男性も「自分を求めてくる異性は 好きではない相手でもなるだけ拒まずに、義理で一度ぐらいはセックスさせてあげる」ということのようなのですが…(ちがう?)。

ウェザーマンは「恋愛感情は資本主義的なこだわり」としましたが、これは、『電波男』(本田透/著)でいうところの「恋愛資本主義」に通じるといえます。ウェザーマンは90年代の日本の恋愛資本主義の台頭を予言していたというわけです(!)。

アメリカの政治思想にはネオ・リベラリズムというものもある。これは名前こそリベラリズムとあるが、実際はリバタリアニズムとほとんど変わらない思想で保守主義の一種であり、リベラリズムとは別の思想である。
ネオ・リベラリズムは民主党の政治家たちが共和党のリバタリアンの政治家にリベラリズムが批判されたことをうけて、リベラリズムをリバタリアニズムにちかづけた思想である。『世界覇権国アメリカ〜』では中道主義と書かれている(140ページ)。

しかし、森村進による『自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門』(講談社現代新書)によればネオ・リベラリズムという言葉は「学問的文献よりもジャーナリズムでよく見かけるが(中略)大変多義的である。(21ページ)」という。
この『自由はどこまで〜』によればネオ・リベラリズムという言葉は「リバタリアニズムに近い立場を指すこともある(21ページ)」らしいが、ネオ・リベラ リズムがそもそもジャーナリスティックな曖昧な言葉であるので、本サイトではネオ・リベラリズムという言葉を使うことは避けている。ただし、ネオ・リベラ リズムが「市場原理主義」「社会福祉の縮小」というような意味で使われる場合は、リバタリアニズムの穏健なバージョンと同義だとおもわれる。なのでネオ・ リベラリズムも事実上の保守主義、右翼であろう。

ちなみにリバタリアニズムのもっとも過激なバージョンとは、完全に国家を消滅させ、全て市場に委ね、社会保証は一切なしというものである。

『自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門』(講談社現代新書)は、リバタリアニズムの穏健なバージョンを推奨している本である。この本はリベ ラリズムの側からのリバタリアニズム批判に対する反論なのだが、現実にイスラム社会がリバタリアニズム的な価値観を導入したことで混迷している現在(〜 2004年)では説得力にかける。
リバタリアニズム社会はイスラム社会のように貧富格差がひろがるが、この本ではそれを森村氏は容認してしまうのだ。

「経済的不平等は、社会内部の連帯感を損なう、と言われるかもしれない。(中略)経済的に豊かな人と貧しい人はライフスタイルが異なるために連帯感 が生じにくいかもしれないが、そのことは、異なった地方の住民の間で連帯感が存在しにくいのと同様、問題ではない。(124ページ)」

この一節はリバタリアニズム批判への反論ではあるが、実はリバタリアニズムの問題点を自らさらけだしてしまったという記述である。
このなかの「経済的に豊かな人と貧しい人はライフスタイルが異なるために連帯感が生じにくい」という記述はリバタリアニズムの問題点そのものである。よう するに、貧富格差が広がることは、裕福な人は裕福な人同士、貧乏な人は貧乏な人同士での交流が多くなり、裕福層と貧困層との交流は少なくなるということ だ。つまり、裕福な人が貧乏な人と「友情、愛情を育む」ことが、大変困難になるということを意味する。

そうなると、友情、愛情によって、裕福な人が貧乏な人を救済するということは、あまり期待できない。つまり友情や愛情によって社会の貧富格差が是正 されるということは難しいといえるだろう(裕福な人が友情や愛情によって貧乏な人を救済するというケースがあったとしても、ごく稀だろう)。イスラム社会 で貧富格差が広まったのは、このことを証明しているといえないでしょうか。

話はもどるが、対人恐怖、罪悪恐怖といった神経症の患者は「愛」や「友情」ではすくえないと先にのべた(ここでいう「愛」とは、人類愛のことではなく、何かを好きになるという感情のこと)。

現在の日本のマスコミトップは、道徳や正義を否定するかわりに「愛」や「友情」が大事だということをいう場合がおおい。しかし「愛」や「友情」というのもは、基本的に他者から愛される(好かれる)魅力が本人になければならない。
そうなると「愛」「友情」というものを基底にした価値観はリバタリアニズムに近付いてしまうことになる。「他者から愛される魅力」というのは、リバタリアニズムでいうところの「権原」に相当するからである。

世の中には、上記の神経症の患者のように、自分の魅力を他者にアピールできない境遇に置かれている人もいる。つまり「愛」「友情」という価値観は、こういう人を見殺しにしてしまう危険があるのだ。

青木薫久(医学博士)が神経症について書いた本『心配性をなおす本』(KKベストセラーズ)によれば、神経症の人間は「弱者である」という(154ページ)。
「人がこわくて電話にでたり会議で話すこともできなくなる。実際には心臓病でもないのに心臓のドキドキ発作を恐れ、電車にも乗れなくなって外出ができなくなる。こういう人たちが弱者でなくてなんでしょう。(154ページ)」
このように、神経症は日常生活に支障をきたす病気であるため、神経症患者は間違いなく弱者にあたる。神経症の人間を救済しないのは、あきらかに弱者救済の否定である。

健常者との縁に恵まれないという障害者は、上記の神経症の患者以外でも多くいるとおもわれる。また健常者と障害者が恋愛関係や友人関係になっても、 健常者の方が経済的に余裕がなければ障害者の救済はできない。現実に全ての障害者に、裕福な健常者の恋人や友人ができるのなら、社会保証制度というものの 必要性が提起されることはそもそもなかったであろう。

影書房の『季刊 前夜』2号(2005年冬号)には『ねじれた抑圧構造のなかの若者たち』という題で中西新太郎のインタビューが掲載されている。
このインタビューでは、インタビュアーの小野祥子が「若者たちが広く共有しているメインカルチャーを見渡すと、競争の原理を追い求めているものにあふれて いる」と指摘し、中西氏が「カレシ、カノジョを切らしてはだめ」という日本国内の90年代の恋愛ブーム以降の価値観を、その一例として挙げている(21 ページ)。
さらに小野氏はこういう恋愛ブームを「強者の立場にたつための論理で構成されたメインカルチャー」と評して批判している(22ページ)。恋愛も競争原理か ら成り立っている以上、恋愛を流行にしたりすることは、いたずらに人々を競争原理にかりたて、焦燥感をあおるだけだろう(このインタビューではそれをあ おったのがマスメディアであることには触れられていないのが残念)。

裕福な健常者の恋人や友人ができない障害者は「弱者を救うことは美徳」という価値観によってしか救えないとおもえる。前述のロールズの格差原理はそういう価値観に該当する。ロールズは『正義論』の著者として有名で、この格差原理を『正義論』のなかでかたっている。
そうなると、上記のような神経症の患者は「正義」でなくては救えないということになるのである。

ロールズの『正義論』は、20世紀リベラリズムの古典といわれる著書なので、「正義」という言葉と左翼リベラリズムは不可分の関係にあるだろう。

『正義論』は2原理の「正義の原理」で構成される。1原理目は「身体の自由、良心の自由(←ここでは信仰の自由のことを表す)、思想の自由、政治的 自由等といったものを、平等に人々に分配する」というものである。2原理目は「恵まれない人の暮らしを改善する」というものだ(大雑把な要約だが)。格差 原理はこの2原理目に含まれる。
(『現代思想の冒険者たち23 ロールズ──正義の原理』(川本隆史/著・講談社)より)。
わかりやすくいえば、1原理目は「他人に迷惑をかけない」という意味である。2原理目は前述のように「困った人をたすけてあげよう」という意味である。これらのことは、一般的かつ基本的な道徳観念であろう。

この『正義論』では1原理目も注目に値する。1原理目で注目したいのは「信仰の自由」や「思想の自由」といった他者の価値観を認めることをも含んでいることだ。こういう正義論が発表されている以上、正義とは必ずしも価値の絶対化を意味する言葉ではないのである。

オウム事件以降、日本のマスコミや言論人は「正義は価値の絶対化を意味する」という「正義否定論」を一斉に唱えた。正義、道徳を「価値の絶対化」とみなす考えは「すべての価値は相対的なもの」というニーチェの価値相対主義に通じる。

この「正義否定論」は日本社会に定着してしまった感があるが、「正義否定論」を唱えた論客はロールズの正義論を見落としていたのだろう。これは、少年犯罪の増加の引き金になった可能性がある。

日本でロールズの正義論を研究している川本隆史氏(現、東京大学教授)によれば、この正義という言葉には本来「バランスをとる」という意味があるという。

「西洋ではこの正義をそれぞれの手に剣と秤を持って目隠しをした女神の図柄で描いてきた。(註,タロットカードの「正義」のカードの図)つまり正義 というのは、不当な差別を剣でもって断ち切り、個々の正当な権利主張を秤で調停するという役割を果たすものと考えられてきたのである。」

これは、『月刊フォーラム』1997年8月号に川本氏が書いた『民主社会の倫理〜高校教科書の作成に携わって』の一節だ。
タロットカードの「正義」のカードには、天秤をもった女性の絵がかかれてあり、これは「正義」が複数の人間同士の権利主張にバランスをとるという意味があると解釈できる。

複数の人間の間で意見や思想の相違がある場合、第三者はだれの意見にも偏ることのない中立的な立場をとることが理想とされるだろう。これが多元主義 ということであり、ひいては「他者と自分との関係にバランスをとる」ことを意味する。そうなると、「バランスをとる」という意味をもつ正義という言葉は、 こういった多元主義のスタンスを言い表わすのに本来は適切な言葉ということになる。
一方、自由、愛という言葉は「バランスをとる」という意味は本来もっていない言葉なのであまり適切ではないとさえいえる。

「正義」を否定し多元主義をとなえる言論人は、ニーチェ主義者である場合がおおいので「人間は平等であるべき」という考え方を否定する場合がおお い。しかし「人間一人一人の価値観の違いをみとめよう」という多元主義の考え方自体が、そもそも「人間一人一人は平等の権利をもつ」という平等主義的な価 値観に裏打ちされている。正義論の第一原理からわかるように思想の自由も権利の一種であり、この権利を各人が平等に持つことが多元主義だからである。

ロールズの正義論は海外ではかなりメジャーなものであるという(ベストセラーになった哲学の入門本『ソフィーの世界』にも、ロールズを紹介している 箇所があるが、この本はノルウェー人の学者によって書かれたもの)。この正義論はアメリカで70年代初頭に発表され、学者たちの間で社会現象となったらし い。

『ロールズ 「正義論」とその批判者たち』(勁草書房)の247ページには、このロールズの『正義論』が発表された時のアメリカ国内のリアクションを、以下のように記している。

「(前略)アメリカでは『正義論』出版の後しばらく、「ロールズ・インダストリー」を呼ばれる、『正義論』に関わる学者業界の活況を呈すことにな り、多数の理論家たちが、この本を種に仕事をするようになった。(中略)いずれにせよ思想の状況が、正義を規範的に論じることをタブー視するような『正義 論』以前の状況へと戻ることは、二度となかったのである。」
 これを読むと、ロールズの『正義論』が刊行される前のアメリカは、正義を否定することがブームになっている現在の日本国内と似たような状況だったよう だ。それが『正義論』の発表後に変化し、以来正義を肯定することがアメリカではタブーではなくなったようだ。すると今の日本の状況は『正義論』出現以前の アメリカと同じ状況であるといえ、アメリカより日本は30年近くも遅れていることになる(ちなみにこの『正義論』は、日本では1979年に和訳されてい る。紀伊国屋書店より発売)。

ロールズの正義論を支持する哲学者リチャード・ローティ(スタンフォード大学教授)についての本、『リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師』 (渡辺幹雄著/春秋社)がある。これによれば、ロールズの正義論は、ポストモダンに分類されるとしている。ロールズの正義論は哲学的な価値の一致ではなく 政治的なコンセンサス(同意)であるからだそうである(105ページより。他に26〜27、80〜81ページにも同様の記述あり)。

ポストモダン(ポスト構造主義)の代表的な学者デリダは自著『法の力』(法政大学出版局)で「脱構築は正義なのだ」と言っている(35ページ)。デ リダは哲学上の「善悪」の境界線は決定不可能とであるといい、この「決定不可能性」はデリダを論じるときのキーワードだそうである。が、その上で「脱構築 は正義なのだ」といっている。

脱構築とはデリダの用語で、善悪などの二項対立をしている事柄の決定不可能性を暴露することを意味する。しかし、デリダはこの脱構築こそ正義だという。このように、海外ではポストモダンの学者でも、正義という言葉自体は否定しないようである。

ちなみに、リチャード・ローティは、デリダのいう「善悪」の決定不可能性は、あくまで哲学上の問題であり、現実の政治(生活)には活用できない(大 意)として批判している。『〜ポストモダンの魔術師』によればローティはニーチェ主義やそれの延長にあるデリダの思想も哲学の一種とみなす。その上でロー ティは「哲学を単なる一つの文芸ジャンルと捉え(355ページ)」、デリダを「公共的な有効性をほとんど持たない哲学者(357ページ)」と批判する (101、242〜243、282、355ページ等のも同様の記述あり)。
ローティのこういう結論は永井均が『これがニーチェだ』で書いていたことに通じる。

また、資本主義とフランス構造主義は本来不可分だとおもわれる。リチャード・ローティの特集を行った『理戦』(実践社)no.74の橋本努による 『リチャード・ローティを脱構築する』という文章によると「(前略)ポストモダニズムは、現実の社会においては、(アメリカの)80年代の中産階級の豊か な消費生活と連動しつつ、政治的には民営化路線を掲げる新自由主義のイデオロギーと結びついてきた。(p69)」とある。

フランス構造主義のポストモダニズムは、ニーチェのニヒリズムをベースにしたものであり、これによって「世の中は強弱だけ」というようなことを文化 人たちはマスコミで言いつづけ、そういうニーチェのニヒリズムが日本の一般市民に浸透していった。だからこそ、日本の大衆は「弱者切り捨て」に通じる小泉 純一郎総理の行った構造改革をなんの抵抗もなくうけいれてしまったのではないだろうか。

このように、もともとポストモダニズムというのは、「民営化路線を掲げる新自由主義」とむすびついてきたものである。国内の90年代のマスコミによるフランス構造主義のブームが、実は日本国内で2000年代に表面化した格差社会の元凶ではなかろうか?

デリダは『法の力』で「世に脱構築と呼ばれているものは、一部の人々が広めて得をするような混乱した見方からすれば、(中略)正義にかなうものと正 義にかなわないものとの対立を前にして、ニヒリズム同様の棄権をすることに相当するということになるが、そんなことはまったくない。」といっている(46 ページ)。
つまりデリダは、脱構築は正義にかなうものと正義にかなわないものとの対立を前にして、ニヒリズム同様の棄権をすることではないと延べているのだ。ここで いう「一部の人々が広めて得をするような混乱した見方」とは現在(90年代以降)の国内マスコミのような脱構築に対する理解を指していることはいうまでも ないだろう。また、この本の195ページでデリダはナチスのおこなった大量虐殺を「最大の悪」と呼んでいる(つまりポストモダン哲学においても正義と悪と いう概念は存在するということになる)。

前述のポストモダンの学者デリダ(ジャック・デリダ)は2004年に他界したが、朝日新聞のデリダの訃報(2004年10月10日)によると、デリ ダの思想は「ニヒリスティックな言葉遊びではないかという批判をよんだ」という。この記事によるとデリダは「80年代後半から、現代において正義は可能か と問い、政治的な脱構築へと大きく転回した」という。デリダとロールズの思想は多元主義こそ正義だとするという点においては、共通しているといえる。前述 の『法の力』は89年と90年のデリダの講演をもとに構成された本である。デリダは前述のローティーの批判などをうけてか、後年、自身の思想の見直しをし ており、90年代以降は正義そのものは否定していなかったようである。

昨今の日本の言論人は「世の中白黒でわりきってはいけない」といい、この「白黒で割り切らない」という考え方を「グレーゾーン」という言葉で表現する。そのうえで、正義という言葉は、世の中を白黒で割り切っている言葉だ、と批判する。

しかし、ロールズの正義論の第1原理は、信仰や思想の自由も含んでいるため、全ての思想に中立的な立場であり、よって「グレーゾーン」と同じことだ といえるとおもえる。つまり正義論の第1原理は言論人たちが「グレーゾーン」と呼んでいる部分と同じものを指しているといえるのである。

ロールズは人間が「私憤(自分が他者から危害を加えられたときの反応)」や「公憤(他者が別の他者から危害を加えられた状況をみたときの反応)」や 他者と友情や相互信頼のような絆を保てるのは「正義感覚の能力」が人間に備わっているからだと分析した。(『〜ロールズ──正義の原理』100ぺージよ り)。正義感覚とは「相手の身になることを欲する安定した心的傾向性であると定義する(前掲書153ページ)。こういったロールズの分析は、ロールズ哲学 が「自然法主義」的であることを示している。

日本の言論人は「相手の身になって考える」ということを正義とは別の感情としている場合がなぜか多いが、ロールズのように「相手の身になって考える」ことを正義(の一部)だとした学説があることが視野にないっていない。

 話は前後するが、前述のラムズウェルド(ラムズフェルド)国防長官についてもう一つ。日本では80 年代ぐらいから「現代は本音の時代だ!」などとマスコミがいいはじめ、罵言、暴言お構いなしの状態になった。いわれた相手が傷付こうがお構いなしに誹謗中 傷が垂れ流しである。こういう流行は現在でもつづいているが、実はラムズウェルド国防長官も「本音」を重視する人間なのである。
『ラムズフェルド 百戦錬磨のリーダーシップ』(KKベストセラーズ)によると
「ラムズフェルドが(アメリカ国民に)人気なのは、彼が本音を語るからだ。自分の職場で本音をさらしたらどうなるかを考えれば、彼のすごさが分かるだろう。(100ページ)」とある。

ラムズウェルドは、日本のマスコミでは代表的ネオコンとして紹介され、イラクと北朝鮮との戦争を推進するするタカ派だ。つまり、本音重視の価値観はある意味ネオコンの価値観に近付いてしまうことのなるのである。

そうなるとフセイン政権が崩壊した際の「自由な人間には、犯罪や悪いことをする自由があるのだ」とい う彼の発言は、やはり「本音」なのであろうか?? 『ラムズフェルド〜』のあとがきに「ブッシュはマリオネットで、人形使いがラムズウェルドだ」とあるほ ど、ラムズウェルドはブッシュ政権の中心的人物である。

ちなみにネオコンとは「新保守主義」のことだが、森村進の『〜リバタリアニズム入門』によれば「『新保守主義』という言葉は、学問的というよりも ジャーナリスティックな用語なのでそれが何を意味しているかは曖昧(193ページ)」だそうで、明確な定義が存在するものではないようだ。ラムズウェルドはイラク侵攻の際のマスコミにはネオコンとして紹介されたが、副島隆彦の『世界覇権国アメリカ〜』における分類では「リバタリアン保守」に属するとおもわれる。

未開人も戦争をしていた

『男の凶暴性はどこからきたか』(三田出版会)という本がある。この本は、直接ニーチェ主義を研究した本ではないが、ニーチェ主義と密接な関係のあることが書かれている。

ルソーは『人間不平等起原論』のなかで「原始時代は戦争はなかった」ということをいっていて、これをルソーは「自然状態」とよんだ。原始時代こそが 平和なユートピアだという、このルソーの考えは20世紀半ばまで支配的だった。しかし、このルソーの考えは実は間違いだっだというのがこの本の主旨であ る。

ルソーの説が信じられていたころは、現代に残る未開の人々は「文明人のような無駄な殺し合いはしない」というのが定説だった。しかし、この『男の凶 暴性はどこからきたか』という本によると、近代社会の影響をうけてない未開社会でも部族間抗争は時々発生して死亡者が出る場合が多くあるという。

この本によると、ベネズエラ南部からブラジル北部にかけてのアマゾン低地の森に暮らすヤマノモ族は、女をめぐる争いなどがエスカレートして、村と村 との戦争になるという。マノマモ族の全男性の約30%が暴力で命を落としている(96〜102ページ)。ヤマノモ族は貴金属や余剰食料はほとんど持ってい ない種族であり、戦争の際にも物資の略奪はみられない(104ページ)。

そして民族誌学的な調査では、農耕以前の社会の狩猟採集民は定期的に、絶えまなくといえるほどの頻度で戦争をしていたそうで、狩猟採集民族2年に1度戦争をしていたものが64%,それ以下が26%なのだそうである(109〜110ページ)。

また、「ヒト以外には同種殺しを日常的に行っている動物はいない」というのが少し前の動物行動を考えるときに前提とされていた。しかし、この本によ ると動物の世界でも「子殺し」は日常的におこなわれているそうで、ライオン、ゴリラから鳥類にも魚類にも昆虫類にもみられるという(210〜215ペー ジ)。

最もヒトに近い類人猿チンパンジーでも子殺しは行われる。チンパンジーは子殺し以外にも集団で他集団の構成メンバーを組織的に襲い、一つの群を壊滅 させてしまう事もあるという(35〜38ページ)。また、人間そっくりの戦争をするミツツボアリというアリもいる。このアリは、大規模な縄張り争いをす る。勝者は敗者の巣を略奪し、敵の女王アリは殺されるか追い出され、幼虫やさなぎや若い働きアリは奴隷になる(218〜219ページ)。マスコミが唱えた がる「イデオロギーが戦争の原因だ」という説では、こういう動物がやる戦争は説明できないだろう。また、前述のようにヒトラーは『わが闘争』でイデオロ ギー批判をおこなっており、このことからも、イデオロギー批判は戦争の抑止には直接つながらないといえる。

こうなると、ルソーのいう自然状態とはウソだということになり、むしろ戦争や殺人を肯定するニーチェの貴族道徳こそが、真の「自然状態」ということになってしまう。

ルソーは、『〜不平等起原論』で人間が土地を私有することは文明人特有であり、人間が罪をおこなう元凶だといっている。しかしこの『男の凶暴性はど こからきたか』によると、友好的な類人猿といわれるボノボでも、オスが他のボノボの集団に対して自分たちのなわばりを防衛するそうです(286ページ)。 この動物の「なわばり」は土地の私有というものの原点のように筆者はおもえる。

このボノボは、チンパンジーとならんで人間にもっともちかい類人猿なのだが、ボノボについて、いろいろ興味深い事実が報告されている。
カンジと名付けたボノボの子供に言葉をおしえ、人間と会話させるという実験をおこなった学者スー・サベージ・ランボーの実験のレポート『言葉を持った天才ザル カンジ』(NHK出版)によると、このボノボにも道徳、善悪といった概念があるようだ。

この実験は、物の名前や動作などの意味をもつ図形を並べたキーボードをカンジに与え、その図形の意味をおしえたうえで、カンジにこのキーボード(レキシグラムという)で人間と会話させようというものだ。

この実験で、行動の善し悪しを表す図形のキーをキーボードに配置し、カンジにその図形の意味を教えた。すると、カンジはこの善し悪しを表すキーを自 発的に使いはじめたという。そしてカンジは同居している他のボノボや人間にいたずらをした際、この図形をつかって自分のいたずらを「悪いこと」だとコメン トをしたのだという(151〜152ページ)。

ボノボは2才ぐらいまで親は子に全くしつけをしないのだが、2才をすぎると、親は子にしつけをはじめるのだそうだ。ボノボの親は子供のいたずらが度を越えると、子供の手を口にいれて咬んでいたずらをやめるようにしつけるのだという(49ページ)。

このボノボは、類人猿のなかでもとりわけ友好的で平和な種といわれている。それに対して、ボノボとならんで人間にちかいとされるチンパンジーは、前述のようにかなり攻撃的である。

『男の凶暴性はどこからきたか』(三田出版会)によると、チンパンジーの社会は階層社会であり、トップを争って権力抗争をおこない(174〜176 ページ)、他の集団を襲撃し全滅させるということもやってのける(35〜38ページ)。チンパンジーがこのような性質をもっているとなると、人間の暴力性 は文化や発達した脳といった人間固有の性質からきたとはいえなくなる(44ページ)。

この本によると、ボノボの社会もチンパンジーの社会と同様の階層社会であり(280ページ)、同種での喧嘩などもときおり見られるとも書かれている(284ページ)。しかし、チンパンジーの社会にくらべるとはるかに平和的なのだそうである。

この本では、人間の暴力性の根底には、自尊心という感情があると分析している。ここでいう自尊心とは「自分が他者より優れていることは価値のあるこ とだ」という感情のことを指す。こういう自尊心はチンパンジーにもみられる感情だそうで、人間とチンパンジー両方の根底にある感情だという。

この本では戦争も自尊心が原因だという(256〜259ページ)。戦争は地位をめぐる競争から発生する傾向があり、この傾向は世界で最初の大規模な 戦争だったギリシャのペロポネソス戦争(紀元前341〜紀元前404)から現代の戦争にいたるすべての戦争に適用できるのだという。

戦争は表面上は当事国のさまざまな利害や政策などがからみあったものにみえるが、根底には「トップの座を占めるのはつねに価値あることだという理屈 ぬきの感情(259ページ)」があるのだそうだ。「他国を支配下におきたいという欲望は自尊心のなせるわざなのだ。(259ページ)」と、この本ではい う。この本のなかでは指摘されていないが、こういう自尊心はニーチェのいう「権力への意志」に通じるものではなかろうか。

この本では、こういった人間の暴力性はどうやって抑制できるかについて「伝統的にみて、社会のなかで不良行為を抑制できるのに一番効果的なものは道徳の拘束力である(330ページ)」という。
その上で、宗教の倫理観をこえ、「人類は単一の種である」という認識にもとづいた「世界の倫理的な秩序」が発達していけば「個人が高い地位をえることなど 平和を守ることにくらべればささいなことだ」という意識が人々に広まり平和につながるという(330〜331ページ)。しかし、この本には「だがそれは、 まだずっと先のことだ。(331ページ)」とある。

日本のマスコミや現論人は「人間同士が争うのは道徳があるから」などといい道徳を否定することがおおい。しかし道徳を守っているとは思えない暴力団 が、組同士で抗争をおこなうという事実がある以上、道徳の否定が平和に通じるとはいえないだろう。やはり、人間同士が争うのは、道徳とは別の理由があるよ うにおもえる。暴力団の抗争は大概、縄張り争いであるが、そうなると、やはり人間が争う理由は権力欲、支配欲、だということになる。

90年代あたりからのマスコミの論調で、あたかもヤクザを左翼であるかのように評している文化人の意見があるが、赤軍派の田宮高麿は『わが思想の革命』でヤクザ映画を「ヤクザを称賛する反動映画」と評していたのである。
「ヤクザの世界の「義理」が真の義理でないことはいうまでもない。搾取階級の「義理」は、少数支配階級のために利用するものでしかなく、もっとも醜悪で汚い「義理」である。」
(『わが思想の革命』161-162ページ)
田宮のいうように、ヤクザとは本来は反動主義者であって、とても左翼とはいえないものであろう。

そうなると『仁義なき戦い』みたいな実録のヤクザものには義理人情はないから左翼なのではないか、と思う人もいるかもしれないが、その場合は本論文 の『ニーチェとアナーキズム』で後述する「スティルナー主義」的な個人主義であって、こういうヤクザは金と名誉と女をめぐった資本主義的な闘争をくりかえ している連中であって、結局「反動主義者たち」であることにはかわりない。

ことなる思想をもったもの同士が争う場合も「どの思想が一番優れているか」というような、優劣を競う争いであるともいえる。つまり思想同士の衝突も、実は「だれが一番優れているか」を競う一種の地位争いであるといえなくもない。

ニーチェとアナーキズム

「アナーキズム(アナキズム)」という言葉は、近年の日本のマスコミには「背徳主義」や「ニヒリズム」と同義語という認識があるようだ。しかし、これは誤解である。
ニーチェは『反キリスト』でアナーキズムをキリスト教と同一視して批判している。なのでニーチェ主義である背徳主義やニヒリズムとアナーキズムは正反対の存在なのだ。

「キリスト者とアナーキスト、これはともにデカダンであり、両者ともにものごとを解体し、汚毒し、萎縮させ、血を絞るよりほかに能がなく、両者ともにいっさいの立っているもの、生に未来を約束するもの、そうした処のいっさいに対して不倶戴天の敵意を抱く本能なのである。」
(以上は『反キリスト』の『五八』より抜粋。『偶像の黄昏 アンチクリスト』(白水社)258ページ)

アナーキズムはその言葉の響きが、無法地帯のような無秩序のことと誤解されている。なので、リバータリアン社会主義・リバータリアン共産主義と言い換えられることもあり、基本的には社会主義の一種であり、マルクス主義とも共通点をもつ左翼思想である。
「リバータリアン社会主義」「リバータリアン共産主義」という呼び方は前述のアメリカの保守思想リバタリアニズムと似ているが、アナーキズムとリバタリアニズムは別の思想である。

リバタリアニズムとアナーキズムは、国家や政府の力を極力抑えるという点は共通する。だが、リバタリアニズムは人間の平等性を否定し福祉を否定する が、アナーキズムは平等にこだわり、福祉も重視する(国家による福祉ではなく、組合によって福祉を行うというのがアナーキズムのスタンスらしい)。

イタリアでムッソリーニの弾圧に最後まで抵抗した英雄的アナキスト、エリコ・マラテスタも「自由と福祉に必要な環境が創りだされないかぎり、人間の 完成とアナーキーは、数千年たっても達成されないであろう」といっている(『権力の拒絶−アナキズムの哲学』(風媒社)134ページより)。この言葉は、 福祉を重視するアナーキストのスタンスを明確に表している。

(福祉という言葉の意味とは「社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福(三省堂『大辞林 第二版』)」である。単に弱者を介護すれば福祉なのではない。)

マラテスタの言葉に、以下のようなものがあった。
「革命とは、あらたな、生命の通った制度、あらたな集団作り、あらたな社会関係の創造である。特権と独占の破壊である。正義と同胞愛と自由の新精神である。(『権力の拒絶〜』134ページより)」
このように、マラテスタも正義という言葉を使っている。この言葉は1924年の『ペンシエロ・エ・ヴォロンタ』で発表されたものだ。当時マラテスタはイタ リアにいたが、ムッソリーニが独裁政権を樹立したのは1922年だから、当時のイタリアはファシスト政権の支配下にあった。なので、ここでマラテスタのい う「革命」とはファシスト政権の打倒という意味が強いだろう。

アナーキズムという言葉の語源である「アナーキー」という言葉は、ギリシア語で「政府を持たないこと、政府が無い状態」を意味する。アナーキーという言葉の本来の意味は「無秩序」という意味ではない。

アナーキズムは、背徳主義やニヒリズムだと誤解を招くことも多いようだ。しかしジョージ・ウドコック著の『アナキズム1 思想編』(紀伊国屋書店)では、ニヒリズムとアナーキズムを同一視することは誤解だとし、つぎのようにいう。

「ニヒリストは、(中略)何らの道徳原理も、何らの自然法も信じない。ところがアナキストは、権威の破壊の後までも生き残り、なお友愛という自由自然なきずなで社会を結合することのできる力強い道徳的な衝動というものを信じている。(9ページ)」

 アナキストのいう「自然法」とは、自然淘汰や食物連鎖のことではなく、弱者救済を含めた道徳や倫理などをさす。

 アナーキズムの基本的スタンスは、この「自然法」主義である。というのも、国家権力を否定するアナーキズムの思想は「自然法」と密接に関係があるからだ。
「いずれの(国家の)理論も、人間が善へ向かって自分を高め、自然の衝動によって善を行う能力がないという仮定を基本的前提としており、人間の自然の衝動 は抗い難い力で逆の方向に働き、つねに人間を悪へ向かわせると考えているからだ。従って、いずれの理論とも、いかなる人間社会においても、原則の尊守と法 の執行を保証するには、国家の先頭に、監視し、調停し、必要とあらば抑圧する権力がいなければならないと教えるわけである。」
(以上、『バクーニン著作集5』(白水社)『連合主義・社会主義・反神学主義』より。117ページ)

 つまり、人間に本来的に道徳的な行動を行わせる衝動があると認めないと、中央集権的な国家権力の必要性を認めなければならなくなる、ということである。なのでアナーキズムは「自然法」主義なのである。「自然法」をもとに考えると、「背徳主義の否定」こそ「人間を解放している」ということになり、背徳主義こそ「人間を縛っている」ということになるのである。

こういう自然法というのは、事実はどうあれ「あるということにしておいた方がいい」ものだろう。自然法を否定してしまうと、中央集権的な国家による厳しい管理社会か、犯罪だらけの荒廃した社会かの、どちらか1つという絶望的な二者択一に人間を追い込むことになるからだ。

前述の60年代のアメリカのドラッグ文化についてふれた本『アシッド・ドリームズ』には「マリファナとは、人を解放する物質だった。この薬草には人 を誠実にする効能があるのだ。(254ページ)」という記述がある。このように、60年代のアメリカのドラッグ文化(ドラッグ解禁運動)も、じつは「自然 法」主義に近いものだったといえるようだ。

60年代のアメリカの左派の人間たちにLSDがなぜもてはやされたかというと、このLSDには「人間の心から貪欲と羨望をとりのぞいて浄化して、た がいをへだててきた障害を破壊するサイキックな溶剤(『アシッド・ドリームズ』158ページ)」として信じられていたからである。

『アシッド・ドリームズ』によれば「LSDでハイになれば、同胞兄弟姉妹の思いで、だれとでも笑みを交わすことができた(p176)」「LSDに よって、だれもがとつぜん、愛とか人類愛といった恩寵の気分に満たされた(p247)」という記述があるように、60年代当時のアメリカのドラッグカル チャーの当事者たちは、LSDを「人間を人類愛に目覚めさせる薬品」として信じていたのである。

このように、60年代アメリカのマリファナやLSD解禁の運動というのは、ただ単に非行少年がグレてシンナーをやっているのとは訳がちがい、一種の政治運動としての性質がつよかったのである。

「ドラッグ文化の高僧」といわれドラッグ解禁運動の中心的人物である心理学者ティモシー・リアリーは、『アメリカ「60年代」への旅』の53ページ によれば、LSDとも似た構造の幻覚剤サイロシビン(シロシビン)を重犯罪刑務所の32人の受刑者に服用させる実験をおこなった。その結果、再犯で戻った のは25パーセントだったという(服用しない場合の再犯率は80パーセントである)。このように、この当時にドラッグ解禁運動で解禁させようとしていたド ラッグとは、犯罪を抑制するための薬品として信じられていたのである。

実際LSDに本当に人間の精神や能力を向上させる働きがあるかどうかは、現在では意見が分かれるが、バッドトリップさえしなければ、ストレス解消の 効果ぐらいはだろうし、もともとLSDはマリファナとともに中毒性のない幻覚剤として有名なので、管理した状況で使用すればそれほど危険ではないだろう。

ティモシー・リアリーもドラッグを手放しで解禁することには反対した。リアリーは、LSDを人間の精神的向上、知識向上、あるいは自己を啓発するた めの使用に限定し、専用のトレーニング・センターを設立、ライセンスをあたえられた人間にしかドラッグを与えない、ということを提案していました(『ア シッド・ドリームズ』162ページ)。

リアリーは、マリファナとLSDを解禁するように主張すると同時に、麻薬とヘロインの危険性を訴えていたそうで、そうなるとこの人のドラッグ解禁の 運動というのは、単純に麻薬を含むドラッグすべてを全面解禁するということではなくマリファナとLSDのみの解禁を目的としており「マリファナとLSDを 麻薬あつかいするな」という主張だったようだ(HP『松岡正剛の千夜千冊』第九百三十六夜【0936】04年2月16日『神経政治学』より)。

話はそれたが、前述の「自然法」に対抗するのが「人定法」であり、これは「人間社会の道徳や倫理は人 間がきめたもの」とする思想である。アメリカでは「人定法」は保守思想になるそうである(「人定法」こそ進歩的な思想だ、と勘違いしている人も多いとおも われるが)。前述のアメリカの保守思想リバタリアニズムは、この人定法の思想なのである(人定法は価値相対主義の一種といえる)。

『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(副島隆彦/著・講談社)によると、「人定法」の 思想(法人定主義)はナチスドイツの法思想の元になったという(235ページ)。この「人定法」は、「善悪は権力者がつくったものだ」とするニーチェの思 想と接点があるといえ、ナチスの法思想に利用されたのもうなずける。

アナーキズムとは、ヒエラルキー(階層組織)に反対する運動を意味し、カオスや無秩序を意味しない。質問形式でアナーキズムを解説する『アナキズム FAQ』というHPがある。このHPでは「アナキスト(アナーキスト)は「絶対」自由を認めるのか?」という質問に、以下のように答えている。

「ノー。アナキストは、『誰もが、好き勝手ができるようになるべきだ』と思っているわけではない。ある種の行為には、他人の自由を否定するような行為が含まれているからだ。」
「例えば、アナキストは強姦する自由、搾取する自由、他者に強制する自由などは支持しない。」

アナーキズムは、無秩序状態のことではなく、無政府状態のなかで、市民が秩序を自己創出することであり、国家という中央集権をなくし、社会に秩序を自生させる思想である。非常に大雑把にいえば徹底した「地方分権」の社会のことである。

ヒエラルキーのある中央集権的な社会を自発的な協力と相互扶助による階層のない組織によって置き換えられるべきだ、とアナーキストは主張しているのであって、組織を完全に否定しているわけでもないそうだ。

アナーキストの代表的な思想家、ミハイル・バクーニンは著書のなかでこういっている。
「(無政府状態から)正義と公共の秩序がおのずから、また、彼らの生活から自然に生まれて来るし、国家は(中略)もはや単なる事務所、社会に奉仕する一種の中央組合にすぎなくなるだろう。」
(以上『バクーニン著作集5』(白水社)『連合主義・社会主義・反神学主義』120ページより)

アナーキズムは反権力の運動ではあるが、かといって、犯罪者を野放しにするという思想ではない。ア ナーキストは、中央集権的な国家権力を否定しているにすぎない。アナーキズム社会とは地方分権による小さな社会的集団(コミューンとよばれる場合もある) のなかで、市民が自律的に自治をおこなう社会のことなのである(『アナキズム1 思想篇』108ページなど)。

バクーニンは『国際革命結社の諸原理と組織』(『バクーニン著作集5』白水社)で、国立裁判所を廃止 し、人民から裁判官を選出することを提唱している(154ページ)。さらにバクーニンは犯罪者への刑罰も認めており、アナーキズム社会での刑罰について 「刑罰は、社会の側からする報復というより、むしろ、治療であるべき(158ページ)」と述べている。

こういうアナーキストのスタンスから考えると、中央集権に対する反発こそが、本来の「反権力」だと思われる。しかし、日本の言論人は「犯罪をやること」が「反権力」だと誤解しているようにおもえる。

『アナキズム1 思想編』 には、社会から中央集権的な制度(「人間を堕落させてしまった諸制度」)がないアナーキズム社会は、やがて裁判などもなくなり「人々は、自分たちの仲間に 対して有害な行動をやめるように勧めることだけが必要な状態へと進歩するであろう。」(109ページ)とかかれている。
これは「犯罪を行う人間を隣人が注意する」ということが、アナーキズム社会においては法律の代わりになる、ということを意味している。つまり、アナーキストは、社会の秩序をたもつために他人に忠告することが必要だとしている。

しかし、近年の言論人のオピニオンは、他者に道徳的な行為を勧めるような言動を、すぐに「お説教だ」「押しつけ道徳」などといって批判するのである。
その上で、少年犯罪には重罰化するようにいう言論人がおおい。これはつまりスポーツにたとえるならルールを教えないで選手にプレーさせて、反則をとって退 場させているようなものだろう。邪推だがマスコミが少年犯罪者を大人と同等に扱うように主張することが多いのは、そのほうが顔写真を公表できるようになっ て記事が作りやすくなるからなのではと思えるのだが…。

マルクス主義も、目指している社会は、アナーキズムと同じ「無政府状態から秩序を自生する市民社会」である。しかしマルクス主義は、その過程で一旦 プレタリアート(労働者階級)による独裁国家をつくり、社会のすべての勢力を一旦国家に吸収する。そうやって経済的な階級をなくした上で国家を廃止するの だ。しかし、アナーキズムはそういうことをせずに国家の廃止をするのである。

マルクス主義は、プロレタリア独裁国家が、結局そのまま単なる独裁国家になってしまうので、近年では危険視されるようになっているが、本来はアナーキズムと同じく国家を否定し自由な社会をつくることが目的の思想なのである。

バクーニンは、マルクス主義のプロレタリアート独裁に反発したため、マルクスとの仲が険悪になり、以後、マルクス主義者とアナーキストは敵対してい るそうだ。しかし、マルクス主義もアナーキズムも同じ無政府主義なため、マルクスをアナーキストとして紹介している文献(『マルクス・カテゴリー事典』 (青木書店))もある。

現実のマルクス主義の国は、いずれも独裁国家に変質した感がある。このことを、弱者救済を理想とする 左翼思想そのものの敗北だと捉え「弱肉強食の資本主義に対抗できる選択肢はない」とする世論もある。これが近年の日本社会の右傾化の原因のようであるが、 マルクス主義の失敗はあくまで「プロレタリアート独裁」の失敗であり弱者救済主義そのものの失敗ではないといえるだろう。

社会保障を重視している国が、みんな北朝鮮のような独裁国家になっているわけではない。スウェーデンとデンマークは高福祉国家でありながら独裁国家 にはなっておらず、厳しい管理社会でもなく、いまだに経済成長を続けている国である。最近の出版マスコミはこういうことを知らないのか、それとも知ってて わざと触れないのか? これらのことにふれたのは日本版ニューズウィーク2006年1月25日号だけである。
(スウェーデンはまったく問題を抱えていないことはないが、国家が破綻するほどの問題でもないし、過去に2度の不況を経験しながらも、高福祉というスタンスを変えずに不況から立ち直った)。

小泉純一郎のあとに日本の首相になった自民党の安部晋三は著書『美しい国へ』(文藝春秋)で、スウェーデン型の高福祉国家を否定している(165 ページ)。安部晋三は否定する根拠として「日本はスウェーデンより人口が多い」という理由をあげているが、地方分権を徹底すれば条件としては日本もス ウェーデンと同じになるともおもえ、これを根拠に高福祉国家を一概に否定できるものではないともおもえる。

トッド・ギトリン/著『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)によれば、ベトナム反戦運動の当時のヒッピー運動の行政機関といわれたディ ガーズというグループ(315ページ)は家出少年少女へ無料で食料を配給したことで有名だった。ディガーズという名前は、十七世紀のイギリスの革命集団か らそのままとったものだ。以下、『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』のディガーズの説明を抜粋する。
「ディガーズという名前が十七世紀のイギリスの革命集団からとったもので、この集団は愛の原理に立って神の創造した世界から「個人所有」と称する呪わしき 仕組みを廃絶しようとした。この仕組みこそあらゆる戦争、流血、盗み、奴隷制度等、この世を涙の谷間たらしめる元凶であるというのが彼等の主張であった。 この正義感にみちた原始共産主義者集団は、宇宙の神性を顕現する途はすべての土地を「共有の宝庫」と扱うことによって神の栄光を大地の下から掘り出すこと だと考え、一切の許可をまたずに公有地の耕作を開始した。(316ページ)」

このように、十七世紀のイギリスの革命集団ディガーズは「財産の共有化」という目的をもっており、こういう目的のディガーズを上記の文では「原始共産主義者」と呼んでいることからもわかるように、一般的には「財産の共有化」は「共産主義」とみなされるでしょう。大辞林 第二版(三省堂)の共産主義の項にも「財産の私有を否定し、すべての財産を共有することによって、平等な理想社会をつくろうという思想。」という記述があることから、「財産の共有化」が共産主義であるという認識は一般的なものだ。
(ちなみに、前述の『アナキズム1 思想篇』53〜59ページにもディガーズの説明は存在する。)

リベラリズム(福祉国家)においておこなわれる「個人所得の再分配」「社会保障」は、そもそも、こういう共産主義の「財産の共有化」という考え方か ら派生したものであって、そういう考え方がなければ、そもそも「個人所得の再分配」「社会保障」という発想そのものが出てこないことになるだろう。

ベトナム反戦運動のときのヒッピーも『アシッド・ドリームズ』(第三書館)によれば、「私有物は最小限にしぼった共生的生活を実践していた」とあります(155ページ)。これは共産主義の特徴である「私有財産の否定」を実践しているものといえるだろう。

今の日本は一応、日本国憲法の上ではリベラリズムの国家であって、それゆえに社会保険によって医療費が安くなったりするんですが、こういうことが分 からないままに、わけも分からず「共産主義=危険」というように単純に考えている人が日本人には少なからずいらっしゃるようですねえ(マルクス主義のプロ レタリアート独裁が危険、というのなら筆者も同感ですが)。

たしかに「すべての人間を救済する」というのは現実的には無理だろう。しかし、では「すべての人間を救済するのは無理」と明からさまに開きなおって しまうと「犠牲がでるのは仕方がない」と考えて、ナチスのように「優秀な人間だけ生かして、弱者を虐殺しよう」という弱者の虐殺に行き着くとおもえる。事 実、ナチスの障害者虐殺は優生思想による種の強化とともに、経済負担の軽減も目的としていた。
なので「極力、より多くの人間を救済する」としか言えないのが実際だが、そうであっても、弱者を罵倒したり迫害したりしてよいという理由にはならない。弱者の罵倒、迫害は許されないことであろう。

「誰もがあらゆるものを平等に所有するべきだし、工場を共同で所有して、誰がボスで誰が何をするのかを決める発言権を与えられるべきだと思う。学生 自身が教師を選べるようでなきゃ駄目だ。コミュニズム(共産主義)のようなものかもしれないけど、僕は本当のコミュニズムというものがどういうものかを知 らない。本当の共産主義国なんてこの世にはないからね。」

これは『ジョン・レノン120の言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)68ページに収録されているジョン・レノンの言葉ですが、このように 「あらゆるものを平等に」というのが、本来の左翼のラディカルなスタンスだとおもわれる。現実にはすべてものものが平等にすべての人に配分されるというの は難しいが、極力できる範囲でそういう状態に近づけるのが左翼というもののはずである。

それが、どういうわけか90年代の日本では(ひょっとしてもっと前からか?)極端な個人主義がラディカルな左翼だという誤解が広まり「他人に危害を 加えてでも個人主義を徹底させるのがラディカルな左翼だ」という誤解が定着してしまったようにおもいます。そういう誤解が定着してしまえば、犯罪が増える のは当然でしょう。

『アシッド・ドリームズ』(第三書館)の199ページによると、ビートルズのポール・マッカートニーは、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハー ツ・クラブ・バンド』(ビートルズのアルバムのなかでは最もサイケなものとして有名)の制作時期にLSDを経験していた。そのときにマッカートニーは世界 を動かすリーダーたちがLSD体験をすれば「戦いをやめ、貧困と飢餓を追放するうごきにでる」と言ったという。

このように、貧困撲滅の運動とは所得格差の是正につうじ、上記のヒッピーの行政機関といわれたディガーズのおこなった食料の無量配給につうじるがゆえに共産主義的な運動であり、それゆえにロックやドラッグカルチャーと関連をもっている。

映画『アメリカVSジョン・レノン』には、ジョン・レノンのコンサートにゲストで招かれた黒人開放組織「ブラックパンサー」のメンバーがコンサート の合間に演説している映像があり、その演説には「貧困も公害」という発言がでてくる。ブラックパンサーのメンバーがこういう発言をしていたことからも、も ともとロックと貧困撲滅は、古くから関係があったということがわかる(蛇足ながら、この演説には「殺人も公害」という発言もでてくる。この発言は殺人をみ とめないスタンスこそが左翼であることをものがたる。)。

近年(2005年前後)世界的なロックバンドであるU2のボノが、貧困撲滅の運動をおこなっているのは、こういう本来のロックの政治的なスタンスか らすればごく普通のことだといえる。事実、『ローリングストーン日本版』2007年9月号におけるボブ・ディランのインタビューでボブ・ディランはこうい うU2のボノがおこなっている運動を評価している。

ボブ・ディランいわく「チャリティをすることは、気分がいいものだよ。ボノがやっているのはいいことだ。(中略)彼らがその力をどう使うかは彼らの自由だし、その行為は称えられるべきだろうね。」
(このボブ・ディランの発言は『ローリングストーン日本版』2007年9月号(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア)『特別付録 完全保存版US版創刊40周年記念インタビュー集 最終回』11ページ3段目に掲載)

またジョン・レノンの平和運動についてまとめた記録映画『アメリカVS.ジョン・レノン』のサウンドトラック(『アメリカVS.ジョン・レノン  ミュージック・フロム・ザ・モーション・ピクチャー』東芝EMI)の解説書によると、ジョン・レノンはソロ時代に知的障害児のためのチャリティである『ワ ン・トゥ・ワン・コンサート』に参加しており、これをFBIは「戦争に反対する不穏な集会」としてマークしていたという。
この事実も、知的障害者への援助というものが「誰もがあらゆるものを平等に所有するべき」という考え方に通じる社会主義的なものであり、ゆえにロックに通じることをうらづける。

『現代思想』2004年5月号(青土社)の『特集=アナーキズム』よれば、アナーキズムは「『全人類の平等、自由、そして諸権利の実現という原則に基づきながら人間関係に関する新しい方向性の展開を模索している』思想と運動である」という(38ページ)。

しかし、実はアナーキズムとニーチェとは、全く接点がないわけでもない。なぜなら、個人主義的アナーキストであるマックス・シュティルナー(スティルナー)の思想は、ニーチェ主義と共通点があるからだ。

シュティルナーのアナーキズムはエゴイズムを肯定し、道徳や共通の人間性を否定し、犯罪を賛美する。 このようにシュティルナーの思想はニーチェ主義に通じるものであり、アナーキズムを『反キリスト』で批判しているニーチェも、シュティルナーだけは認めて いたという(『アナキズム1 思想編』132ページ)。

アナキズムといってもシュティルナーのそれは「極端な個人主義」といわれる。しかし、シュティルナーの個人主義的アナーキズムは、道徳や共通の人間性を否定している段階で、ニヒリズムに近く、アナーキズムの本流から、かなり外れたところにあるように思える。

シュティルナーのアナーキズムは極端な個人主義だが、これは他者との協力を否定するということではな い。シュティルナーの理想とする人間とは「すべて自分自身の幸福の立場から無慈悲に判断する人間」であり、こういう人間同士で、共通の利益となることがら を追求するエゴイスト同盟をつくるということを薦めている(前掲書132ページ)。そうなるとシュティルナーの個人主義とは、親しい友人や恋人などの「自 分の幸福にとって必要な人間」とは協力し、それ以外の人間は犠牲にしても構わないという思想のようだ。

アナーキズムの代表的な思想家のピョートル・クロポトキンは、このシュティルナーのアナーキズムに反 対し『無政府主義の倫理』という著書を発表している。玉川信明/著『FOR BEGINNERS シリーズ39 アナキズム』(現代書館)によると、クロポトキンは小冊子『無政府主義の倫理』でシュティルナー主義に反対して、社会性と連帯性との倫理学 を提唱し「相互扶助」「正義」「自己犠牲」の三要素を道徳の根幹とした(128〜129ページ)。シュティルナーのアナーキズムは、アナーキズムが「無秩 序」と誤解される元凶をつくってしまったとも筆者には思える(実はシュティルナー自身、自らをアナーキストと名乗ったことはないそうだが)。

また前述のアメリカの保守主義リバタリアニズムは、このシュティルナーの個人主義に通じるものがある と指摘するマレイ(マレー)・ブクチンという学者もいる(『現代思想』2004年5月号54ページより)。森村進の『リバタリアニズム読本』(勁草書房) でも、シュティルナー主義をリバタリアニズムの一種としてとりあげている。この本の102ページからシュティルナー主義とマックス・シュティルナーについ ての説明がある。

前述の通り、リバタリアニズムは現在のアメリカが世界中に押しつけている「市場原理主義」そのものである。シュティルナー主義がリバタリアニズムに通じるとなると、シュティルナー主義も資本主義系の右翼に通じる思想だと言わざるを得ないだろう。

そして案の定、シュティルナーの個人主義的アナキズムは、いくつかのテロや犯罪を誘発してしまった。
フランスでは1892年から1894年にかけて、シュティルナー的個人主義のアナーキストたちが11回のダイナマイト爆発をおこし死者をだした。また、彼 らは要人暗殺、略奪殺人などもおこなったという(ジョージ・ウドコック著『アナキズム2 運動編』(紀伊国屋書店)86〜90ページ)。
フランスでは、1894年以降、アナーキズムの運動を建設的な方向に軌道修正したが、そのあとでも、1913年にシュティルナーの影響をうけた「ボノ団」という大規模な盗賊団が出現したという(『アナキズム2 運動編』97ページ)。

『世界犯罪者列伝』(アラン・モネスティエ著 JICC出版)によるとボノ団(この本ではボノー団と表記)は、自動車で移動し拳銃で無差別に発砲、射殺するという大胆な手口で次々強盗をおこない、住民をパニック状態にした(234〜238ページ)。

興味深いのは、こういったシュティルナーの影響をうけたアナキストたちのテロや犯罪を、当時のフラン スの芸術家や知識人たちが賞賛してしまったことである(『アナキズム2 運動編』58ページ)。この状況は奇しくも、言論人が「悪の肯定」といったニー チェ主義を声高にさけぶ近年の日本の状況に似ていないだろうか?

参考HP『アナキズムFAQ』
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/contents.html
(このページは『An Anarchist FAQ Webpage』という海外のサイトの日本語版)

佐世保の小6女児事件について
2004年6月に佐世保で小6女児が同級生をカッターで殺害したという事件があり、世間をにぎわせた。この事件は、一般的には小説の『バトルロワイヤル』の影響とされているが、実は映画『バトルロワイヤル2』の影響で起こった可能性が高い事件のようである。

事件直後の『週刊文春』2004年6月17号32ページによると、犯人の少女は事件の1ヵ月前に、地元のレンタルビデオ店で映画『バトルロワイヤル2』を姉のカードで借りていたとある。
事件の1ヵ月前に『バトルロワイヤル2』を借りていることから、『〜2』の影響というのは大きいとおもえる。
『バトルロワイヤル2』は日本政府が「正義」の名において子供に戦争をさせるという内容である。

この作品は、「正義、善悪はない」という「正義否定論」がテーマの作品です。『バトルロワイヤル2』のムック本の中でも、監督の深作健太は「正義も 悪も絶対にない」などと発言している。この二作目の存在によって、一作目の内容にも「正義否定論」的な意味づけがなされたともいえ、『バトルロワイヤル』 は一作目と二作目ともに「正義否定論」ないし「善悪相対主義」がテーマの作品だったといえる。

『週刊現代』04,6/26号で、加害者の少女の小説『BATTLE ROYALE ―囁き―』の全文が掲載された。この小説自体は、加害少女が自分のホームページに掲載していたものである。

この小説では、小説の中盤に以下のような件がある。

「『ぱぱぱぱぱ・・・・・・』 そしてそのフルオートの連射のあと、遅れて「うっ」というXのうめき声が聞こえた。正義感が人一倍強いXの事、殺し合いを止められると思ったのだろう。なんてあまっちょろい考え。そして銃声が止んだ。 」

この部分は、「正義」という言葉に対して冷笑的な少女の態度がわる。「正義」を「なんてあまっちょろい考え」といって罵倒している。こういうところにも、やはり「正義否定論」がテーマの作品である、『バトルロワイヤル2』の影響が現れているとおもわれる。

また、加害者の少女は先週の『週刊朝日』(04,6/18号)によれば好きなタレントは前田愛だったそうだが、前田愛は『バトルロワイヤル2』の出演者だ。こういう点からも、『〜2』の影響がかなり大きいとおもえる。

この加害少女のHPには『【バトルロワイアル・プログラム】であなたが選ばれたらどうしますか?』
というアンケートが掲載されている。ここで、アンケートの回答の中に「秋也みたいに逃げ切ってワイルド7に入る」というものがある。

秋也というのは『バトルロワイアル』シリーズの主人公。ワイルド7というのは、『バトルロワイアル2』のみに登場する秋也の組織したテロ組織である。
こういう解答があることも、『バトルロワイアル2』が小学生たちに浸透していたことがわかる。

事件当時に出た『週間ポスト』04,6/18号『サンデー毎日』04,6/20号によると、その小説のあとには少女自身が
「人を奪うことは許されないので殺しあいなんてしません(何きれいごと吐いてるんだ)」と書いていたそうである。
この「(何きれいごと吐いてるんだ)」というのが注目すべき点である。やはり道徳的な価値観を「きれいごと」といってバカにするという近年の風潮が、今回の事件の動機に密接に関係しているように思えてならない。

神戸の酒鬼薔薇の事件も、「善悪はない」というニーチェ主義による事件であり、今回の事件と共通点がある。一部マスコミは今度の事件をインターネットのせいにしようとしているが、酒鬼薔薇がインターネットにはまっていたという話はかない。
佐世保の小6女児殺人事件を「パソコンの電磁波の影響」とする説を唱えた報道もあった。これは「ゲーム脳理論」といわれ、少年犯罪の原因としてマスコミが一時期もてはやしたものである。
ゲーム脳理論は、少年犯罪の原因として、なぜか一時期マスコミは断定的な事実として世間に流布していたものだ。2002年7月8日の毎日新聞の『<ゲー ム>毎日2時間以上は大脳活動に影響』や『AERA』2002年7月12日号『テレビが子供の脳をこわす』という特集を皮きりに、その後何年かにわたって 大手マスコミで報じられていた。しかし、この説は、なぜオウム事件以降に少年犯罪がおこったのか、という肝心の部分に答えの出せない説であり疑問がのこ る。というのも、テレビゲーム自体は80年代からありったが、その当時は近年のような殺傷沙汰の大事件を起こす子供はあまりいなかったからだ。

子供が平気で他人を暴力で傷つけるようになるのはOA機器による脳の異常だとするゲーム脳理論。これは「正常な脳の人間は他人を傷つけたりしない」 という大前提で展開している理論だ。「正常な脳の人間は他人を傷つけない」という考え方は一種の自然法思想に該当するとおもいます。つまりゲーム脳理論は 自然法思想の上に立脚している理論なのです(ゲーム脳理論を唱えている人間はそのことに無自覚のようだ)。そうなるとゲーム脳理論を事実と認めることは、 自然法の存在を認めることになる。
自然法の存在を認めることは、善悪相対主義も否定しなければならなくなります。つまりゲーム脳理論を認めるとなると善悪相対主義を否定し自然法思想を認め ることになり、なおさら「正義否定論」はおかしいということになるとおもえる。ところがマスコミは、善悪相対主義を掲げながら、一方ではゲーム脳理論を支 持するという、大変チグハグなスタンスをとっていた。

このゲーム脳理論は、2005年3月4日号の『週間朝日』の記事『17歳少年がおかしくなったのはゲームのせいじゃない!』(34〜36ページ)に よって本格的に疑問符が打たれる。この記事は大阪の寝屋川市で2005年におこった教職員殺傷事件についての報道である。この記事では、犯人の少年は中学 生のころまではゲームに熱中していたものの、中学卒業後にはゲーム離れしており、事件直前は芥川賞作家の本や海外のロックに熱中していたらしい。

この記事では精神科医の斉藤環氏が「『ゲーム脳』説は事例が少なく、科学的な根拠に乏しい。」というコメントをして『ゲーム脳』説を否定している (36ページ)。『ゲーム脳』が誤りだったとなると、なぜ『ゲーム脳』なる説が浮上したのか、仮に捏造だったとして誰が何のために??という疑問がわいて くる。

公と個の論争の検証
*この項は、2007年4月8日に追加したものです。あまりに長くなったので別ページにしました。核心にせまることが書いてありますので、できればお読みください。
「公と個の論争の検証」を読む

さいごに
現代の国内マスコミは、リバタリアニズム的な資本主義=市場原理主義系の派閥と、伝統的な天皇主義系の派閥に2分されるといえる。資本主義(市場原理主義)も天皇主義も右翼であるため、国内マスコミ業界には「右翼しかいない」という状況になってしまっている。

天皇主義系マスコミとはいうまでもなく「自由主義史観」をとなえる一派のことであり、一般市民にも「右翼」と認識されている派閥である。

一方、資本主義=市場原理主義系マスコミはニーチェ主義の強い影響をうけ、ニヒリスティック、シニカルな思想をもつ一派で、こちらの派閥の方が出 版、放送マスコミ、あるいは映画、音楽業界内で勢力を保っていて、国内の一流マスコミはこの派閥である。この文章での「マスコミ」「マスコミトップ」「言 論人」とは主にこの派閥のことを指す。

ここでいう「市場原理主義系マスコミ」の典型的な例としては小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』で取り上げれれている吉本隆明と、その影響をうけた文化人たちが代表的な人物だろう。

吉本隆明が資本主義を称揚したことについては『〈民主〉と〈愛国〉』の598〜656ページにくわしい。『〈民主〉と〈愛国〉』のp643ページに よれば、吉本氏は「ブルジョア民主こそ真の民主主義である(大意)」といっていたそうである。『〈民主〉と〈愛国〉』によれば、吉本氏の思想は「社会の利 害より私的利害を優先する(p643)」「弱者への罪悪感を断ちきり、家庭生活へ没頭する(p653)」というものなので、吉本氏のスタンスはいままで延 べてきたリバタリアニズムとほぼ全く同じものであり、本来は資本主義の右翼であろう。

吉本氏のスタンスは本来は左翼ではないが、60年安保で吉本氏が「ブルジョア民主」へ転向したあとも、なぜか日本国内では一部で吉本氏のスタンスがあやまって左翼だと認識されており、それが顕在化したのが90年代だということになるとおもいます。

だたし『〈民主〉と〈愛国〉』の記述から判断すれば、吉本氏も資本主義を称揚していながらも、「資本主義は左翼」と明確には語っていないらしいこと から、吉本氏本人は資本主義を左翼だと誤解しているわけではなかったようであるが、吉本氏の意見を周囲の人間たちが誤読し、それがあとの時代に定着したと いう可能性がある。

ちなみに、赤軍派の田宮高麿は、実は『わが思想の革命』(新泉社)において、かなり痛烈に吉本隆明を批判している。田宮氏は「いちばん苦手だったのが吉本隆明だった」といい、以下のようにいう。
「なにが隆明だ。どこがいいのか。隆明を読んで「消耗」したのか、「消耗」し活動をやめる論理がほしくて隆明を読んだのかどうかは知らないが、隆明の本が 人々を革命に奮いたたせる本でないことだけは事実ではないか。著者本人の意図はともあれ、それを読む人がいっそう革命闘争に奮い立とうとするのではなく、 むしろ活動をやめる「論理」を得るとしたら、そんな本のどこがよいのか。クソクラエだ。(74〜75ページ)」

本来は左翼(リベラル派)というのは、社会主義が失敗しても、社会主義的なことを資本主義のなかでできるだけ実現させようという努力、工夫をするも のではないか。前章の『公と個の論争への検証』でふれたラルフ・ネイダーやマイケル・ムーアの行っていることを見れば、そういうスタンスこそが左翼だとい うことがわかる。

しかし、なぜか日本では、安保闘争で左翼系の運動家が敗北して以来、吉本隆明の説く「ブルジョア民主」がおおくの人たちに「左翼」として誤認され、 それが定着してしまったのが問題ではないか。こういう吉本氏のスタンスは「シラケ派」などといわれるが、この「シラケ派」というのは「ブルジョア民主」を 肯定する政治的スタンスだから、事実上の反動保守だといえる。

市場原理主義系マスコミは自分達のスタンスを「左翼」「進歩主義」と思い込んでおり(あるいは見せ掛けており)、大方の市民もそのように誤解している派閥である。

「天皇主義系マスコミ」と「市場原理主義系マスコミ」、この両者は両者とも右翼であるが、この両者の対立が多くの市民から「右翼と左翼の対立」というように過って認識されているのである。

市場原理主義系マスコミは、国家に反対する自分達のスタンスを強調して左翼にみせかけているが、マスコミ業界内が市場原理でうごいていることから、 その主張はアメリカの保守思想リバタリアニズムに近似している。リバタリアニズム=市場原理主義とは市場が国家にとって変わるという思想であり、市場競争 の勝利者たちが国家を越えた「権力者」になることを意味する。

今の日本でマスコミ業界で地位の高い人間(著名な作家、言論人や一流マスコミの記者。この文章中でのマスコミトップとは主にこういった人たちのことである)は市場競争の勝利者であり、彼らは国家を越えた「権力者」になろうとしているといえるだろう。

国家は「政治権力」といわれ、資本は「経済権力」といわれる。市場経済の発達した現代では、権力とは政治と必ずしも同一ではないのが現状である。このことは平凡社『世界大百科事典』9巻216ページ『権力』の項の大嶽秀夫のテクストで言及されている。

「権力は、政治権力、経済権力、社会権力(マス・メディア、大学など)、宗教権力などに区別される。(216ページ)」
「市場経済の発達とともに、政治と経済とが制度的に分離し、経済権力の獲得には、政治権力への接近は必要条件でもなければ、十分条件でもなくなった。(中 略)その結果、今日では、政治権力は一定程度の社会的名声や経済的富を伴いはするが、それ自体ではある程度以上の特権をもたらすものではなくなった。 (217ページ)」

このように、政治と経済とが制度的に分離した現代社会において、権力とは必ずしも政治的な力のみを指すものではない。マスメディアも社会権力という 一種の権力であり、しかもそれが一流のマスコミとなると経済権力としての性質も兼ね備えており(マスコミ自体が「売れてなんぼ」の世界なので)、二重の権 力をもってているといえるだろう。そして一流マスメディアに好意的に取り上げられて有名になった言論人も経済権力であり社会権力ということになるでしょう。有名人が現代の権力者であると分析する『有名人と権力』(勁草書房)という本もあるほどで、有名な言論人は日本社会の権力者なのである。

マスメディアが断続的に政界批判をやっている現状を見ると、今の日本や政界よりもマスメディアが強い力をもっていると言える。一流マスコミでバッシングされれば、政治家の政治生命は簡単に断つことができるからだ。

一流マスコミは、たまに財界の批判をやって「反権力」を気取っている。しかしこれは、異業種の「経済権力」を批判しているにすぎず、一流マスコミ業界自体が市場原理でうごく「経済権力」であるという事実を隠ぺいするためにおこなっているにずぎない。

日本マスコミは出版メディアが中心的であり、放送、映画、音楽はそれに追従している。ここでいう「経済権力」を持つマスコミとは主に出版メディアで ある。市場原理主義系の出版メディアで批判されたものは、間違いなく現代の日本ではドロップアウトさせられてしまうのだ。さらに、マスコミ業界は先に業界 内にいる人間たちが、自分達と考えの違う人間に仕事をまわさないようにして業界から追い出してしまうという異分子排除もあるようであり、多元主義とはほど 遠い。

マスコミはパターナリズム的に、市民のパーソナリティや市民生活のプライベートの部分に干渉する流行を次々にしかけた。そうやって市民を精神的に拘束しているのである。

市場原理主義系マスコミはこぞって「現代は価値観が混迷している」というが、これは正確にはそういったマスコミが「右翼を左翼に見せ掛けた」ために、自分達で混迷させてしまったといえるのである。少年犯罪はこういう価値の混迷から引き起こったのではないか。<了>

*追記(07.8/18)
近年の国内マスコミは、前述の対人面で支障をきたす障害をもつ神経症の患者を救済することを否定したがっている傾向がある。そういう親しくない人 まで救うという博愛主義、万人救済主義というのは共産主義に通じるから危険だとでもいいたいのだろうか。北欧の福祉国家は一応成功しているが、こういうこ とはなぜかオミットされている。これらの福祉国家が北朝鮮やソビエトみたいになっているでしょうか? 

そうやって万人救済を否定する考え方はアメリカの右翼のキリスト教原理主義に通じるものです。対人恐怖などといった、対人面で支障をきたす障害をも つ神経症(社会不安障害)の人は、「愛する人だけまもる」という個人主義的な価値感では救われず、まちがいなく「切り捨てられる弱者」になるでしょう。

こういう今の国内マスコミの考え方は、日本を共産主義国にしないために弱者を切り捨てるということだといえます。つまり、日本国内という「全体」の ために、神経症である個人を犠牲にするということです。なので、こういう「好きな人だけ守る」という価値観は「全体のために個人を犠牲にする」という全体 主義におちいってしまうのだとおもえます。

筆者がこのサイトでなんども書いている「集団主義」や「博愛主義」というのは、1人の犠牲もみとめてはいけない、ということです。

*追記(08.9/23)
映画版の『時計仕掛けのオレンジ』のラストは、実は「反語」という表現技法をもちいているつもりだったという可能性もある。「反語」とは、本当に表したい こととは反対のことを、皮肉を目的としてあえて述べるという表現であり、代表例としては那須正幹の童話『ねんどの神さま』(ポプラ社)の結末がある。

*追記(2021.10.1)
2016年に起きた相模原障害者施設殺傷の犯人の植松聖も優生思想で殺人事件を起こしたが、神奈川新聞2020年1月4日の『やまゆり園 事件考 被告はいま(3) ニーチェに共感 憧れた超人』という記事では岐阜大教授の竹内章郎(社会哲学)は植松の思想を(ナチスより)ニ−チェこそ近いと指摘している。 https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-234461.html (有料会員記事) この記事では「ニ−チェの明快な至言を選抜した自己啓発本がベストセラ−になって久しい。この漫画本も大幅に戯画化されていた。ニ−チェは「毒にもなる」」と竹内氏は警告する。また「ナチスがニ−チェを援用したのは史実」とこの記事では指摘する。 また、記事によると、植松は世界人権宣言の「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という文言を「そんなの建前でしょう」と一蹴したという。 記事によると、植松は自信が「パ−フェクトヒュ−マン」になることに憧れていたという。相模原障害者施設殺傷の犯人はオリエンタルラジオの『パーフェクトヒューマン』に影響を受けていたと思われるが、この歌もニーチェの思想がモチーフである。ニ−チェの影響を受けている(またはニ−チェの思想に近い)という点では、冒頭で触れた酒鬼薔薇聖斗の事件と極めて類似しているといえることから、やはりニーチェの思想は殺人事件を誘発するといえるだろう。


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