公と個の論争の検証
『ニーチェと少年犯罪についての一考察』追加記事(2007/4/8)
個人主義が右翼なのに、現在の日本では左翼だと誤解されているきらいがあるが、そのきっかけの最たるものは、やはり90年代にマスコミでおこった「公と個」の論争なのではないかとおもいます。この論争で、いつのまにか「公=右翼」という誤解がおこってしまい、それが市民に浸透してしまったのは問題であろう。
越智道雄『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)に紹介されているリベラル派の米国の消費者運動家、ラルフ・ネイダー(ネーダー)のエピソードを紹介しましょう。
ラルフ・ネイダーは現在でも活躍中ですが、ベトナム反戦運動が盛んなときから「自動車安全センターCAS」「市民に呼応する法律研究センターCSRL」を発足させて活動していました。ネイダーは2000年のアメリカ大統領選の時には左翼政党「緑の党」代表として大統領候補として立候補し、このときは『華氏911』のマイケル・ムーアもネイダーを支持しました。この件については『アホでマヌケなアメリカ白人』(柏書房)の280〜307にくわしい(ネイダーをネーダーと表記)。
『アメリカ「60年代」への旅』には、ネイダーについて、以下のような記述がある。
「市民運動は個々の参加者が名声や高い収入を犠牲にすることを要求する。(中略)ネイダーたちの活動では、特にエリートの専門家たちが名声や高収入への誘惑を棄てる辛さに打ち勝たなければならない。ネイダー自身は超有名人だが、週百時間働き、独身で一切の愉楽を犠牲にした行者的生活なので、反発は少ない。彼のこういう生活態度は、一つには企業その他につけ込む余地を与えないためだが、これだけの献身がなければ彼の組織が稼動しないためでもある。レバノン系移民でレストラン経営者である彼の父親は、移民にありがちな出世主義が希薄で、極めて公共意識の強い性格だが、この家庭環境がネイダーの超人的な公共意識の基盤になっている。(190ページ)」
こういうネイダーの姿勢は、なにやら自身の名声のために表面だけリベラルを装っている「どっかの国」の言論人たちとは正反対ですねえ。日本でこういう行者的な活動をしている人がいたら、たちまち「右翼的」だのというような変ないいがかりがつけられそうです。基本的にリベラル派は、ディガーズの食料配給所のメンバーでもそうだったらしいですが、有名になると平等性が失われるとして、運動家が有名になることは嫌がられるものなのだそうです。
さらに『アメリカ「60年代」への旅』によれば、ネイダーは「自分には私生活はない。公的生活だけだ」といいきるのだそうです(274ページ)
ネイダーは、GM(ゼネラル-モーターズ社。アメリカの世界最大の自動車メーカー)が1959年に発売したスポーツカー・コルベアの欠陥を暴いたことで有名です。そのことはこの『アメリカ「60年代」への旅』でくわしく触れられていますが、このコルベアの欠陥というのは実は企業側は発売前に知っていて、コスト高を理由に欠陥を補正しないで発売していたという事件であり、単なる欠陥というより会社ぐるみの不正行為であり、これも資本主義社会の弱点をさらけだした事件といえます。
この欠陥は、一時GMの副社長になって、退社後に自分で自動車メーカーを起こし『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムマシンとして有名なデロリアンをつくったジョン・デロリアンも自著で告発しているそうですが、ネイダーにいわせれば「自社の犯罪を黙視する者は市民レベルでは「私的市民」の範疇に入るが、敢然と自社告発に踏み切る者は「公的市民」になる」(196ページ)なのだそうです。
今の日本では、会社が組織だから、会社の犯罪を告発しないものは集団主義者で、告発するものは個人主義者というようにおもわれている節がありますが、ネイダーの考えだと逆ということになります。企業というのは、結局自分自身が働いて賃金をえるために他人と分業して協働しているだけであり、そういう自分の利益のために他人と連携するというのも個人主義の一種ということになるからです。
『アシッド・ドリームズ』(第三書館)によれば、ドラッグ文化にかかわっていた(88ページ)詩人のチャールズ・オルソンは「個人とは公けであり、その公とは、われわれが行為するところにある」といっていたそうです(183ページ)。
このように、オルソンは公を個人と敵対するものとしてはとらえていません。
よど号事件の田宮高麿の書いた『わが思想の革命』には、個人主義を「古い思想」と書いている箇所がありますので(p41、p270)、70年代までの国内世論では、まだ個人主義が保守思想だという認識があったようなのですが、いったいいつごろから個人主義が左翼だという誤解がひろまったのか? やはり90年代「公と個」の論争が原因のようにもおもえる。
また、『60年代アメリカ 怒りと希望の日々』(彩流社)によると、ベトナム反戦運動当時のニューレフトは「もともと公的なものである個人の感情は、それが本来所属する公けの場所に還元されるべきである」と考えていたそうです(193ページ)。
この「個人の感情は、公けの場所に還元されるべき」という考え方は、日本国憲法の12条の「国民に保障する自由及び権利は(中略)常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」という条文につうじる考え方だろう。
近年、なぜか忘れられがちであるが、日本国憲法にも公共という言葉が肯定的につかわれている。敗戦後、GHQによってつくられた、この日本国憲法に公共という言葉がつかわれていることは重要な意味をもっている。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。(日本国憲法 12条より)
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(日本国憲法 第13条より)」
ちなみに、これど同様の記述は、日本国憲法の最初期の草案といわれるマッカーサー草案にもあるのです。
「此ノ憲法ニ依リ宣言セラルル自由、権利及機会ハ人民の不断の監視ニ依リ確保セラルルモノニシテ人民ハ其ノ濫用ヲ防キ常ニ之ヲ共同ノ福祉ノ為ニ行使スル義務ヲ有ス。」
(マッカーサー草案、11条より)
この草案でも、国民の自由や権利は「人民ハ其ノ濫用ヲ防キ常ニ之ヲ共同ノ福祉ノ為ニ行使スル義務ヲ有ス」とあり、「濫用ヲ防キ」と制限しています。この草案は、あきらかに上記の現行憲法の12条と13条の元になったものであり、「共同ノ福祉」も現行憲法の12条や13条にある「公共の福祉」と同義であるといえます。
日本国憲法はGHQの民生局という部署がつくったものですが、このGHQの民生局は、アメリカの隠れ社会主義者であるニューディール派の拠点だったそうです(『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の63-64ページに関連記述)。なので、日本国憲法に12条や13条で公共の重要性が唱えられているのは、そういう社会主義的なGHQの民生局の思想が色濃く反映された部分なのである。
日本国憲法の社会主義的な部分が色濃くでているのは社会福祉、社会保障について規定した憲法25条であろう。
1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
(以上、日本国憲法 第二十五条)
この25条は生存権について定めたものである。サミット参加国で自国の憲法に生存権の明文規定をもつ国は、日本のほかはイタリアぐらいであり先駆的だと評価されている。生存権は戦争の原因となった貧困を除去するため、世界人権宣言や国際人権規約にも盛り込まれ、世界で広く認められている(2002年4月28日「しんぶん赤旗」より(HPより))。
貧富格差を是正して社会保障を重視するのがアメリカの左翼、貧富格差を放置し社会保障を軽視(ないし否定)するのがアメリカの保守主義だと何度かのべた。しかし、ブッシュ大統領やブッシュの支持基盤のひとつである「宗教右派」はクリスチャンでありながら保守主義に分類される。これを不思議だと思う人もいるかとおもわれる。この部分について、いままでこの文章では説明をはしょっていた感があるので改めて説明します。
実はアメリカのクリスチャンに「カルヴァンの予定説」を信じている人間がおおいのだそうです。これはスイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンのキリスト教解釈で、この予定説では、救済される人間は予め神によって決定されており、人間の意志や努力、善行の有無などで変更することはできないということになっています。あらかじめ運命が神によって決定されているのですから、弱者は永久に弱者のままで救われないということであり、これは事実上の弱者救済の否定に通じます。
この「カルヴァンの予定説」を信じている人たちが「宗教右派」であり、したがって「宗教右派」がブッシュ大統領を支持しているからといって、ブッシュ政権がリベラルなのではないのです。この部分を誤解している人はおおいのではないでしょうか。
この辺は、副島隆彦の『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)の346〜347ページにも少し説明があります(この本ではカルヴィンと表記)。しかし、この本ではなぜか「神のみえざる手」を「神のみえざる子」と誤植している。副島氏の師匠にあたる小室直樹(法学博士)も、自著でカルヴァン主義の解説を頻繁におこなっており、光文社『ソビエト帝国の最期 予定調和説の恐るべき真実』の166ページ以降には、「神のみえざる手」について、より詳しくかかれてある(この本では「神のみえざる御手」と表記)。
また、副島氏による『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』(講談社)の204〜206ページにも「神のみえざる手」についての記述があり、これには誤植はなく『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』より若干詳しくかかれてある。
このカルヴァン主義は、キリスト教原理主義ともいわれます。キリスト教原理主義は、いったい聖書のどの部分を個人主義として解釈しているのでしょうか。
副島氏の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』によると、聖書には神が人間に対して「お前が救済されるかされないかは、予め神が決めるのである。
すべては神が決める。神を条件づけるな。神に命令するな。神を試すな」といって怒るという話があるそうで、この部分を根拠にキリスト教を個人主義として解釈するそうである(205ページ)。
これは具体的に聖書のどの部分かというと、旧約聖書のヤコブとエサウという兄弟に関する、新約聖書の『ローマ人への手紙(ローマ書)』の9章におけるパウロの説明が、それにあたるでしょう。
ここには
「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(15-16節)」
という、かなり直接にカルヴァンの予定説に通じる記述がある。
(日本聖書刊行会:発行『新改訳 中型聖書』(いのちのことば社)より)
キリスト教の原理主義者は、聖書のこういう部分をもちだして「誰がすくわれるかは神がきめる。人間が弱者を救済してはいけない。」という「予定説」を言い出して個人主義を唱え、社会保障や社会福祉を唱えるリベラル派を批判するのである(同時に聖書には同性愛を禁じる部分があるが、こういう部分もキリスト教原理主義者はこだわるので、アメリカのキリスト教原理主義者は同性愛を否定する)。
前述の新約の『ローマ人への手紙(ローマ書)』の9章以外に、旧約聖書でも「予定説」の根拠となった記述がある。これは『エレミヤ書』の15章の2節である。
「彼らがあなたに、『どこへ去ろうか。』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。』 」
この「主はこう仰せられる。死に定められた者は死に」という言葉が、「予定説」と直結する部分である。神はあらかじめ死ぬものは死ぬと予定しているという、大変非情な教えです。
この部分は「ローマ人への手紙(ローマ書)」9章より少々みつけにくい。というのも、やはりあまりに問題のある記述であるがゆえに、削っている聖書がおおいのである。
しかし、上記の出典である日本聖書刊行会の発行の『新改訳 中型聖書』(いのちのことば社)は、この「死に定められた者は死に」という言葉は削られていない。また岩波書店の『新約聖書8 エレミア書』(関根清三・訳)にも、この「死に定められた者は死に」という部分はかかれてある。
新約聖書の『ヨハネの黙示録』には、予定説の根拠となる記述があります。
『ヨハネの黙示録』の13章の8節には、以下のような記述があります。
「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」
(日本聖書刊行会:発行、『新改訳 中型聖書』(いのちのことば社)より)
これは、この部分だけだとわかりづらいのですが「〜彼を拝むようになる」の彼とは、『ヨハネの黙示録』13章の1節より登場する「十本の角と七つの頭がある獣」です。この獣は、おそらくローマ帝国のような野蛮な権力の象徴らしいです。ダニエル書7章の17-20節にも同様の獣が登場します。
そして、前述の引用箇所『ヨハネの黙示録』の13章の8節は、「ほふられた子羊の書」に名前が書き記されていない人間は、この獣のような野蛮な権力に隷属するようになる、という意味に解釈されます。
つまり、「ほふられた子羊の書」にあらかじめ名前がある人間のみ、獣の支配から解放されるという意味であり、さらに20章15節によると、この命の書に名前のない人間は、最後の審判のときに、火の池に投げ込まれるとされています。これが「人間がすくわれるかどうかは、神によって予定されている」という予定説の教義の根拠とされる。
この部分はエルミア書よりも、予定説の根拠としては一般的によく取り上げられるものらしい。ほかには、新約の『エペソ人への手紙』の1章4-5節、11節も、予定説の根拠とされている。
聖書の上記のカルヴァン主義に通じる部分は、リベラルなキリスト教の信者はなかったことにするらしい。例として、内村鑑三(キリスト教思想家・聖書学者)は日記『“予定説”の疑問』で「予定説」について「予定説は理解できない」としながらも、「予定説を理解できないからといって、キリスト教信者になれないことはない」と書き記しています。
「われらの小さな教会は再び予定の教義について論じ合ったのである。この朝の集会で研究した聖書ロマ書九章であった。色とりどりのインクでアンダーラインを引いたり欄外に書き入れをしたために、ひどくよごれてしまった私の古い聖書の中の、このおそろしい神秘的な章に、一つの大きな疑問符が、大きな釣り針のようにぶらさがっている。」
「だがこの問題はしばらくそっとしておくこととしよう。予定の教義を理解できないからと言って聖書とキリスト教とを捨てることはできないのだから。」
(『内村鑑三全集』の『内村鑑三信仰著作全集・第2巻』 (教文館)37項、1880年12月26日の日記より抜粋)
このように、救済されるものと救済されないものを神が決めるという聖書の記述にこだわるのがキリスト教原理主義者である。前述の「好きな人だけ守る」という価値観は、こういう「救うものを選ぶ」というキリスト教原理主義に通じるのはいうまでもなく、問題があるだろう。
ベストセラーになった藤原正彦/著『国家の品格』にもカルヴァン派プロテスタントの解説はあるが、この本の論旨は日本を封建時代に退行させる恐れがあるので問題のある本だろう。副島隆彦の師匠にあたる小室直樹(法学博士)も自著でカルヴァン派プロテスタントの解説を頻繁におこなっている。例として光文社『ソビエト帝国の最期 予定調和説の恐るべき真実』の176ページ以降には『国家の品格』とほぼ同様の予定説の解説がある。『国家の品格』をよむより、筆者としては小室氏の著書をお勧めしたい(ただし、上記の『ソビエト帝国の最期〜』は、現在は絶版)
(また、イラク戦争を支持する宗教右派がカルヴァン主義者であるということについて書かれている本としては、講談社現代新書『最新・アメリカの政治地図』の233〜234ページがあります。この本では宗教右派を「キリスト教右派」と表記していますが、宗教右派と同じ派をさしています。)
また、栗林輝夫の『ブッシュの「神」と「神の国」アメリカ』(日本キリスト教団出版局)という本の10ページによると「ブッシュは自身のキリスト教を、内面の豊かさや敬虔を大切にするウェスレー神学の枠から、いっそう黙示録的で戦闘的なカルヴァン神学へと転じた。イエス・キリストの人格的応答から、神の特別な「予定」、神の主権に獲得されたアメリカの「選び」の信仰へと大きく変えた」とあります。
この記述をよむと、ブッシュ本人も当然ではありますが、やはりカルヴァン主義者だったということがわかります(ウェスレーは18世紀の英国国教会のキリスト教司祭で、プロテスタントのメソジスト派を起こした神学者)。
また、ブッシュ政権の支持層であることで有名な福音派のクリスチャンも、この本によるとやはりカルヴァン主義者なんだそうです。この本の16ページの「福音派」というコラムによると福音派は「歴史的にはその多くがカルヴァン主義に起源をもつ。」とある。
この本は2003年にでた本なのですが、ブッシュがカルヴァン主義であること、またカルヴァン主義がどういう教えかを国内のメジャーな出版マスコミがぜんぜん紹介しないで、ブッシュが熱心なクリスチャンであるということをやたらに紹介したことから、弱者をかばうのはブッシュ政権のイデオロギーに通じるとでもいうような誤解が日本国内の世論に定着、それをもとに『女王の教室』のような競争原理を称揚するドラマなどが作られ人気になってしまい、結局、解散総選挙において自民党が圧勝し郵政民営化という結果を招いたのではないでしょうか。
『最新アメリカの政治地図』(講談社)233ページによると、キリスト教のプロテスタントのカルヴァン派とは、アメリカのWASPを形成したプロテスタントなのです。WASPのPは、このカルヴァン派プロテスタントのことをさします。カルヴァン派のキリスト教の解釈とは、人間が救済されるかどうかは神によってあらかじめ予定されているという「予定説」であり、人間が善行をなすことは自分が救済されることにはつながらない(よって、あまり意味がない)、という教えです。
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、カルヴァン派プロテスタントが近代資本主義の生誕に貢献したということを分析した本として有名です。この本にはカルヴァンの予定説について説明している箇所に興味深い記述があります。
「地上の「正義」という尺度をもって神の至高の導きを推し量ろうとすることは無意味であるとともに、神の至上性を侵すことになる。(岩波文庫、大塚久雄訳、152ページ)」
「われわれが知りうるのは、人間の一部が救われ、残余のものは永遠に滅亡の状態に止まるということだけだ。人間の功績あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な決意を人間の干渉によって動かしうると見なすことで、あり得べからざる思想なのだ。(同じく152ページ)」
これらの記述からすると、カルヴァン主義というのは、ある種、背徳主義的な意味合いのあるキリスト解釈であって、ニーチェのアンチキリスト(反キリスト)におけるキリスト解釈に通じるものともいえます。「地上の「正義」という尺度をもって神の至高の導きを推し量ろうとすることは無意味〜」なんて、クリスチャンの某有名脚本家がしょっちゅういっているようなことですねえ。ひょっとして「あの人」はカルヴァン派なのかな??
このカルヴァン派の神学者であったアダム・スミスは、『国富論』という本の中で「個人は利己的に利潤を追求すると、神の見えざる手に導かれて社会の繁栄が達成される。」としました。このことは、『国家の品格』72ページにも要約してかかれてありますが、『国富論』において、この「みえざる手」という言葉が書かれている箇所の前後を読むと、もっと直接的に個人主義といえることが書かれてあります。
「彼はただ彼自身の儲けだけを意図しているのである。そして彼はこのばあいにも、他の多くの場合と同様に、みえない手に導かれて、彼の意図のなかにまったくなかった目的を推進するようになるのである。(中略)自分自身の利益を追求することによって、彼はしばしば、実際に社会の利益を推進しようとする場合よりも効果的に、それを推進する。公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったくしらない。(岩波文庫『国富論 2』304ページ)」
ようするに、このアダム・スミスの考えは「自由な競争が人間のエゴイズムを刺激し、創意工夫を促し、結果的に社会全体の利益を増進させる」というものです。このアダム・スミスの思想の影響をうけて「『社会のため』とは考えずに、自分の利益だけを考える」という個人主義が、アメリカの社会に定着していったのです。このカルヴァン主義と、それから派生したアダム・スミスの考えがアメリカの保守主義であり右翼なのです。
しかし、現実は、自由競争にまかせる市場原理主義は、一度勢いのついた裕福な人間はどんどん富をえていき、また一度貧乏になった人間は悪循環でどんどん貧乏になる、という経済格差が生じます。しかし、アダム・スミスの考えを信じている人たちは「社会のために」という利他的な行為を否定しているため、貧しい人たちを社会保障で救援しようとは考えずに「まだ自由な競争を妨げている障害が社会のなかにあるから、社会が繁栄しない」と分析して、競争をより徹底させようとします。
その結果、社会保障はないがしろにされ、激しい競争によって弱者や敗者が大量に社会に発生し、社会が階層化していくのです(このことは『国家の品格』182ページにもかかれてあります)。
『華氏911』のマイケル・ムーアの『アホでマヌケなアメリカ白人』(柏書房)によれば「(アメリカの)1990年代の民主党政権時代に、金持ちどもは山賊のように成功を収めた。そしてその間、健康保険もなくて苦しんでいる4500万人のアメリカ人の苦境は、何ひとつ改善されなかった(283ページ)」という記述があります。このように「自由競争にまかせれば社会全体が経済的に潤う」という考えが間違いなのは歴史的事実である。なので、このアダム・スミスの考えは宗教的な一種のファンタジーであって、まったく現実味のないものである。
ちなみに、アメリカの民主党というのは本来はリベラルなスタンスの政党のはずなんですが、ここのところ保守化(資本主義に傾倒)していて共和党とかわらない方針をとりはじめており(ネオ・リベラリズム)、90年代のアメリカが上記のように貧富格差がおこって4500万人のアメリカ人が健康保険もなく苦しんだのも、それが理由です。『アホでマヌケなアメリカ白人』によれば民主党と共和党は「とちらも同じ穴のムジナ(290ページ)」なんだそうである。あとにマイケル・ムーアはこの健康保険の問題をあつかった『シッコ』という映画を製作した。
よく、貧乏な人を「自分自身が貪欲になっていないから貧乏になってしまうんだ」というロジックで批判する記事が最近の出版マスコミで見かけますが、それは、このアダム・スミスの「みえざる手」の延長にある考えであり、よって一種の保守主義、右翼ということになるでしょう。
この「自由競争にまかせたほうが社会が繁栄する」というアダム・スミス的な考えは、日本国内では国鉄(JR)の民営化のときに定着したといえます。ようするに「事故を起こして信用をなくせば客がこなくなるから、自由競争にまかせたほうが、国鉄は安全性に気を使うようになる」として「民営化こそ安全につながる」とした考えです。
しかし、実際は安全より利益を上位におくために事故が増えたという指摘もあります。自由競争にまかせると自然と万事うまくいくという類の考えは、そこに「神のみえざる手」というカルヴァン主義のキリスト教から派生した概念なくしては成立しえない考えであり、こういう考えは実は「形而上学の影響下にある思想」ということになるでしょう。
カルヴァン派プロテスタントの「神の見えざる手」という宗教的なファンタジーは、国鉄民営化の際に日本社会に定着してしまいました。このことは、以前このサイトの日記でふれましたが、この「神の見えざる手」の概念は恋愛に適用され、90年代の恋愛ブームというひとつの大きなブームになってしまいました。
いわゆる「モテない人は異性に対して興味が薄いから(欲が弱いから)モテないのだ」という論理は、「神の見えざる手」を恋愛に適用したものといえます。この考え方は恋愛ブームの根幹にあるもので、恋愛ブームとは、事実上モテない人をいかに馬鹿にして迫害するかというブームだったのです。
近年、孤独で友人の少ない人間がおおくなったといううわさを聞くことがおおいですが、その原因も国鉄民営化の際に日本社会に定着した「神の見えざる手」の論理に起因するのではないでしょうか。
これによって資本主義の競争原理である「神の見えざる手」が対人関係に適用され、人間関係が「自由競争の舞台」になってしまったのではないか。人間関係に自由競争が導入され、今の多くの日本人は隣人を「減点法」で評価するようになったといえないか。それによって人間関係を築くことの難易度が高くなってしまったから、孤独な人間がふえたのではとおもいます。
つまり、周囲の人間を楽しませる能力(おもに話術)をもっていない人間は周囲の人間たちから、企業でいうところの「リストラ」をうけて仲間はずれになってしまうのです。なので、会話の下手な人(口下手な人など)は孤独になってしまうのではないでしょうか。
こういう場合、他人と話すと緊張して声がでなくなるという社会不安障害(神経症)の人は、やはり「リストラ」の対象になりやすいでしょう。こういう社会不安障害の人は周囲の他人から「リストラ」をうけて、以前よりもますます孤独になっていってしまうのではないかとおもいます。
2007年に亀田大毅と試合をして勝利し、一躍時の人となった、ボクシングの内藤大介選手は中学時代にいじめにあったという。そのときの様子は「仲の良かった友達がだんだん離れて孤独だった。」という(スポーツニッポン2007年10月12日 2面)。
90年代のマスコミは、友人の少ない人は自分から友人をもとめていない人だと勝手にきめつける場合がおおかった。しかし実際は、この中学時代の内藤選手のように、友達の少ない人、いない人は、本人が友達をつくらないようにしているのではなく、周囲の人たちからさけられて孤独になっている人がほとんどだとおもわれる。
一時期というか昔からですが、日本国内には「個人の利益のみ考えている個人主義の人間は戦争には加担しない」みたいなことをいう言論人が多くて、そういう言論人がこぞって公共意識を否定し「公共意識というのは戦争に通じる」みたいなことばかりいって、これが日本では常識として定着した感があるのが昨今です。
しかし、このサイトで今まで紹介したようにアメリカの軍事介入には、軍産複合体の利益や、他国に進出しようとしているアメリカ企業の利益が絡んでいるということを何度もふれました。こういうのは「個人の利益」のための戦争です。そうなると、自分の損得のみ考えるという価値観も、結局は戦争に通じるということになります。
軍産複合体というのは、兵器のメーカーのことですが、戦闘に参加する兵士でも「個人の利益」のみを考えて戦争に参加する兵士が実はおおくいるのです。
本山美彦著『民営化する戦争』(ナカニシヤ出版)によると、近年の戦争には、金でやとわれた傭兵というのが多く参加しているそうです。
この本によると、20世紀から21世紀にかけて、アフガンやイラクへの侵攻といった大規模な軍事作戦には、米軍から委託された民間会社(略称PMC)が活躍していたそうです(2ページ)。
古代の戦争は、傭兵などの私的暴力を利用するのが一般的であったらしいのですが(7ページ)この民間の軍事請負企業のPMCは現代の傭兵といえます。
「戦争に利益を見出すPMCのトップが政府の要職に就いて、軍部に強い影響力をもち、そうした文官の方が軍人よりもはるかに好戦的な姿勢を見せるというねじれ現象が存在する、というようになってしまった。」(3ページ)
「建前的にはPMCは顧客の政府のために忠誠を誓うと宣言しているが、実際には、私的利益追求を究極目的とする私企業と政府の願いは往々にしてずれる。企業は、契約をなるべく長引かせたいし、自己資産の損傷をできるかぎり防ぎたい。政府はなるべく戦争を短期に終結させて、リスクの多くを正規軍ではなくPVCに被せたい。そのことから、様々な問題が生じる。(15〜16ページ)」
このように、PMCのような軍事請負企業としては戦争が起こって、それが長引くほうが儲かるので好戦的になるという現象がおこっており、そうなると「自分の利益のための戦争」のほうが戦争がおきやすいだけでなく、それが長期化するということがいえそうです。
傭兵はジュネーブ条約で禁止されているそうですが、PMCはそれでもなぜか世界の紛争地域に派遣されているのだそうです。この本によれば、ジュネーブ条約における傭兵とは「個人の利益のみを目的とし、自国のかかわらない武力紛争のために採用された個人であると定義している(11ページ)。」のだそうです。このように報酬目当てに個人の利益のみ考えて戦うというのが傭兵です。
したがって個人の利益のみ追求するという価値観も戦争に通じるのですから、そういう生き方を理想的な生き方として教えこむと「傭兵による戦争や軍産複合体の利益のための戦争は認めてもいいのではないか?」などと考える人間が増えるだけで、ちっとも戦争の抑止にはつながらないようにおもえますがどうでしょうかねえ。正規軍だって職業軍人の場合は給料をもらっているんだから、給料目当てに戦っている職業軍人だったら、傭兵とたいして変わらないとおもえますし。
話は前後するが、マイケル・ムーアが製作した前述のアメリカの健康保険についての映画『シッコ』はカンヌ映画祭にも出品された。『シッコ』の日本公開時の公式ホームページによれば、カンヌ映画祭での記者会見でマイケル・ムーアは、民営の保険会社が利益追求のために顧客から保険料だけとって治療をちゃんとおこなわないことを対して批判し「誰かを助ける際に、利益が関与してはならないんだ」といったという。このように、自分自身の利益は顧みないという考え方は、反資本主義のアメリカのリベラル派の基本的なスタンスである。
教育基本法(2006年に改悪される前のもの)もGHQがつくったものらしいが、なぜか公共という言葉が書かれておらず、これが国内の「公と個」論争のときは、争点の一つとなってきた。
教育基本法には「公共」という言葉はないが、第2条に「自他の敬愛と協力によって」という言葉があり、これが事実上「公共」と同義であるといえなくもない。「自他の敬愛」というのは「他人に迷惑をかけない」という考え方に通じるので、反個人主義的な言葉といえ、それゆえに「公共」と同義だとおもえる。
ちなみに、第2条の「自他の敬愛と協力」は、原語では「mutual esteem and cooperation」であり、直訳だと「互いの尊重と協力」となる。「互いの尊重」という言葉でも、「他人に迷惑をかけない」という言葉に通じるのはかわりないだろう。
よって、「自他の敬愛と協力によって」という言葉をもって「公共」という言葉のかわりとした可能性もあり、旧教育基本法は、そもそも公共という概念そのものを否定したものではないとおもわれるのだだがどうだろうか。
憲法12、13条の「公共の福祉」という表現が、あまりに抽象的なので、より具体的にのべたのが、この旧教育基本法の「自他の敬愛と協力によって」という言葉なのかもしれない。
さらにつけくわると旧教育基本法には、前文に「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」という一節があり、この「人類の福祉に貢献」という言葉も、弱者救済に通じるという点では事実上「公共」と同義ともいえるのではないか。福祉とは「社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福」なので、福祉という言葉自体が個人主義の対立概念といえ、この言葉が明記されている以上、旧教育基本法は個人主義の法律ではないといえるのではないか。
実は、教育基本法には「公共」という言葉がないという問題は、旧教育基本法が施行された当時から問題にはなっていたらしい。それも当時は、左翼系の知識人たちが、旧教育基本法に批判的だったのである。
小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)によれば、敗戦後のマルクス主義者は教育基本法を個人主義的だと解釈してを批判し、戦後の教育改革をに強い批判あびせたそうで(359ページ)、左翼系の教育学者たちは、概して教育基本法に批判的だったそうです(359ページ)。
「当時の左派知識人にとっては、『国民の育成』を掲げたこの基本法も、あまりに『個人主義的』に映ったのである。たとえば、清水幾太郎(注・社会学者、学習院大教授)は、教育基本法の根底にある『アメリカの教育思想』を批判した。彼によれば、近代的個人を重視するアメリカ教育思想は、ヨーロッパではすでに時代遅れとなった『十八世紀の思想』にすぎす、『十九世紀と共に現れた歴史の力』を認識していないというのである。(362ページ)」
「社会変革の視点を欠いたまま『個人』の重視をうたう教育基本法は、『封建制』を打破するという意味では一歩前進であっても、富める者の勝利を正当化する自由主義思想にすぎないとみなされた。(363pページ)」
このように、当時の国内の左翼系知識人たちは、教育基本法をアメリカの保守主義(資本主義)のものと解釈して批判しました。このように個人主義は「十八世紀の思想」であって、これに対抗する形で共産主義系の思想(アナーキズム、マルクス主義、リベラリズム)が登場したのであって、本当は個人主義は古い思想なのです。
(上記の引用箇所の『十九世紀と共に現れた歴史の力』とはそういう共産主義の出現をさします。また、上記の引用箇所の「自由主義思想」とは古典的自由主義=市場原理主義のことであって現在のアメリカ左翼の「リベラリズム」のことではありません。)
この本によれば、教育学者の矢川徳光が、教育基本法に対し「きわめて幼稚な、おくれた個人主義的機械論の社会観」にもとづく「市民すなわちブルジョアジー」のイデオロギーだと批判したそうです(363ページ)。このように、個人主義はブルジョア・イデオロギーであるために右派の思想であり、アメリカの左翼のリベラリズムは、これに対抗して公共性を重視するものとなっているのです。
しかし、この時期の左派の学者たちは、いまだに自民族主義からの呪縛から開放されておらず、教育基本法の個人主義的な部分を批判すると同時に、ナショナリズム(民族主義)を擁護してしまいます。
前述の教育学者の矢川徳光は、教育基本法が日本の教育を「日本人」ではなく「コスモポリタン(世界人)」を作り上げようとしているのを批判します。
矢川氏は「個人から人類や世界へ連帯してゆく無国籍人の形成」は「アメリカ帝国主義への加担」であると批判してしまったそうです(364ページ)。
このあたりから、公共意識と自民族主義が混同されてきたのかと個人的にはおもいます。矢川氏の上記の意見は、反個人主義を、ナショナリズムと不可分としていることに問題がある。
また、それ以前に、そもそも個人主義が「コスモポリタン(世界人)」と結び付けられているのも理解に苦しむ。個人主義は「人類や世界へ連帯してゆく」という性質のものではなく、人類や世界のことに無関心で、人類や世界との連帯を否定するのが個人主義であろう。なので「人類や世界へ連帯してゆく」というのは、通常は個人主義とは反対の思想的スタンスであろう。
公共意識が愛国心と不可分とする意見はこの辺がルーツなのだろうか。当時、つまり敗戦直後の日本人には、あまりにそれまでの民族主義的な教育の影響がつよすぎて「国家意識を超えた公共」というものが理解できなかったがゆえに公共意識を民族主義とむすびつけたようである。
渓内謙 著『現代社会主義を考える ロシア革命から21世紀へ』(岩波新書)では、「第二章 ナショナリズム」(29〜77ページ)という項で、共産主義とナショナリズムの関係をつづっていますが、これによると「マルクス主義ほど徹底してナショナリズムを超える国際主義を鼓吹し実践した思想は稀であった。」(41ページ)とありマルクス主義はナショナリズムではなく国際主義だったとあります。
また「ナショナリズムが社会主義のイデオロギーあるいは秩序原理となるという思惟は、農民を主役とする農本的社会主義と同様、レーニンら革命の指導者たちにとって無縁であった。」(56ページ)とあるようにレーニンも「一貫してナショナリズムを拒否」(37ページ)して国際主義的であり、共産主義とナショナリズムが結びついたのはスターリンが最初だったということです(56ページ)。
『共産党宣言』における有名な言葉「労働者は祖国をもたない」という言葉(岩波書店版/65ページ)に言い表わされるように、マルクス主義をはじめとする共産主義の最終目標は国家の「死滅(実際は地方分権)」なので(『現代社会主義を考える ロシア革命から21世紀へ』では83ページに関連記述)、本来はナショナリズムとは別のものとしてとらえなければならないだろう。
『アシッド・ドリームズ』によれば、ヒッピーたちのモットーは「全宇宙的な人類愛」だったんだそうで(177ページ)、「人類愛」を意味する(と筆者は思う)公共という言葉を、「自国しか愛さない」という意味の強い「愛国心」とむすびつけてはいけないとおもえる。
この公共という概念を「『お国のため』という戦時中の教育に通じる」とか批判する一部マスコミがありますが、こういう公共という概念そのものをナショナリズムと不可分とする国内世論には大変問題があるだろう。
たしかに保守論客に「愛国心」を公共と不可分とする考えの人間が多いが、こういう意見に対しては、公共という概念そのものを否定して反論するのではなく「公共は愛国心と不可分ではない」と反論するべきである。
戦時中の教育の「お国のため」というのは、結局自国の人間のみ愛するという意味であり、さらにその裏には天皇や政府(軍部の上層部)のために市民が隷属するという意味がかくされており、それは前述の「人類愛」とはかなりかけ離れているものとおもえます。よって、真の公共とは「愛国心」ないし「ナショナリズム」とは別だと考えなければならない。
ヒッピー文化に深くかかわったビート文学の代表的詩人アレン・ギンズバーグによる『ファン・ゴッホの耳に死を』という詩には「戦争は抽象だ/世界は破滅するだろう/だが僕は世界を救う詩のためにのみ死にたい」という一節があります(『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』149ページ)。
このようにギンズバーグは「世界を救う詩のために死にたい」と書いていて、ギンズバーグの詩にこういう一節があることからも、やはり60年代アメリカのヒッピーたちは個人主義者ではなかったといえそうです。こういう自己犠牲の精神は、しばし国内では「特攻隊に通じる」といわれ、日本固有の考え方とおもわれがちであるが、上記のギンズバーグの「世界を救う詩のために死にたい」という詩の一節をよむと、自己犠牲を美徳とする価値観が日本固有のものではないことがわかる。
『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)によると、ベトナム反戦運動をやった反体制運動家集団「ウェザーマン(別称:ウェザーアンダーグラウンド)も、そういう価値観をもっていたようです。
ウェザーマンたちは、敵であるアメリカ政府と対決するべくメンバーの増員を図り、アメリカ各地で高校に乱入して青年たちにアジ演説を行ったりしましたが、あまり人員はあつまらず、かれらは逆に市民たちから締め出されてしまいます(549〜550ページ)。
「ウェザーマンたちはパンチを食わされ、地域から追い払われたが、それでも闘争は成功だったと主張しつづけた。上流階級の子弟である彼らは、血のにおいを喜んだ。それが自分の血でもよかった。敵が優勢で、血祭りに上げられても、殉教が前衛としての証となるからである。(中略)ウェザーマンは動揺もせず、「戦争を国内へ」をスローガンとしてシカゴでの10月大闘争(註:ウェザーマンによる「怒りの四日間」というデモ)に突き進んだ。68年8月のシカゴ大闘争(註:シカゴの民主党大会に反戦デモ隊が押しかけて大荒れになった事件)は、本国白人の反帝国主義運動の懐胎と誕生を印すものである、と彼らは主張した。戦闘の中ではぐくまれ、死をいさぎよしとする運動である。(550ページ)」
このように、ウェザーマンも「自己犠牲は美徳」という価値観をもっていたようで、アメリカの左派の運動家である彼らがそういう価値観をもっていたことからも、自己犠牲的な価値観は日本人固有ではないようです。しかし、だからといって、こういう死を伴う自己犠牲は他者へ強制すべきではないとはおもいます。しかし、自発的に行った自己犠牲は、手放しでは誉められないものの、一応「勇気ある行動」と評価されるべきでしょう。
(自分の命にかかわらない範囲での、自分の過度の利益を犠牲にするということは、社会の格差をなくすためには、ある程度義務化されてしかるべきでしょうが。)
要は、特定の国家や民族に奉仕するために自己を犠牲にするのが特攻隊的な自己犠牲であり、世界や人類を救うための自己犠牲は左翼的な自己犠牲ということになる。
『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』の565〜566ページによると、ウェザーマンは身内を事故で数人死亡させたことはあったが殺人事件をおこさなかったという。日本の左翼テロリストにくらべ、比較的穏健なグループであった。ウェザーマンは市民にも人気があり、『WEATHER UNDERGROUND』というドキュメンタリーも存在しアカデミー賞にもノミネートされた。
また、『アシッドドリームズ』のあちこちに書いてありますが、60年代のアメリカの新左翼によるベトナム反戦運動というのも「いまこの瞬間にも、ベトナムではアメリカ軍によって人が殺されている」だから「アメリカ国内のわれわれがアメリカ政府を打倒しよう」というような、利他的な考え方で反戦運動をやっていたのです(178ページ、257-258ページなど)。
なので「他国のことはほっとけ」という個人主義で反戦運動をおこなっていたわけではないんですが、このへんも90年代には相当誤解されていたようにおもいますね。
赤軍派の田宮高麿も、『わが思想の革命』で、以下のように書いています。
「革命を自己のもっとも切実な要求とする人だけが最後までたたかっていくことができる。だからといって「自分のために」云々と主張するのは絶対に誤っている。(52-53ページ)」
「やっぱり「人民のために」という思想が絶対必要だ。この思想があってこそ死をも覚悟していくことができる。「人民のために」、これだ。(50ページ)」
また、北朝鮮の拉致問題によど号事件のメンバーがかかわっていたというマスコミ報道に反論し、無実を訴えている団体として有名な、元赤軍のよど号グループによる「かりの会」がある。この「かりの会」の小冊子『欧州留学生拉致問題についての見解』(かりの会ブックレットNo.5)では著者の赤軍メンバーが以下のような宣言をしている。
「元来、革命家、社会運動家は、世のため人のために自分を捧げることを決意した人であり、自己犠牲はありえても、自分の目的のために他人を犠牲にすることは絶対にあってはならない。万一そのようなことがあったら、そのときからその革命、社会運動は論理性、道徳性を失う。ゆえにいかなる大義名分があろうと、ハイジャックや今回の拉致事件をはじめ他人の犠牲のうえに成り立つ自己中心的な活動は、社会運動では断じて許されない。これが、70年代初期、ハイジャック闘争を胸痛い教訓として赤軍派的思想方式を清算し、新しい出発を開始した私たちの思想的な出発点であり、今日まで一貫して堅持してきた信条である。(14ページ)」
このように、元よど号グループのメンバーは、ハイジャック事件で一時的に乗客を人質にしたことを反省しており、それゆえに拉致問題について無実をうったえている。ここで重要なのは、もと赤軍派の「かりの会」のメンバーは「元来、革命家、社会運動家は、世のため人のために自分を捧げることを決意した人」とのべていることである。左翼運動家の彼等がこういうことをいっていることも、世のため人のために行動することこそ本来の左翼であることをものがたる。
国連で採択された世界人権宣言の29条(2項め)にも「public」という言葉が用いられている。つまり、世界人権宣言にも公(公共)という言葉がつかわれているということになる。
「すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。(世界人権宣言29条・日本語版の2項めを抜粋)」
この国連による世界人権宣言に「公」という言葉がつかわれていることからもわかるように、公共という概念は、「国家意識と不可分」ではなく、国家をこえた人類の連帯というものをあらわす概念にもなりうる。
前述のように、ヒッピーのモットーは全宇宙的人類愛だったし、またキング牧師も「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識」「すべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛」という「人類愛」の概念を「人類が存続していくために絶対不可欠」とまでいっている。この「人類愛」の概念こそが「ナショナリズムと切りはなした公共」であろう。
記録映画『アメリカVSジョン・レノン』日本公開にあわせて出版された『ジョンとヨーコの愛こそはすべて』という本の77ページには、ジョン・レノンが暗殺された直後のオノ・ヨーコの声明が紹介されている。
この声明で、ジョン・レノンのもとにファンからたくさんの花がおくられたことに対してオノ・ヨーコは「あなたがたが花を送ってくださったことに非常に感謝しおります。しかし今後は花を送るのではなく、スピリット・ファウンデーションへの寄付をご検討ください。この団体はジョンの個人的なチャリチィ団体です。彼はあなた方の寄付に感謝すると思います。ジョンは人類を愛し、人類のために祈っていましたから。」といったという(77ページ)。
この声明からしてもわかるとおり、ジョン・レノンは「人類を愛し、人類のために祈って」いたのであって、ビートルズなどの60年代のロックやフォークに歌われている「愛」というのは、人類愛のことであることがわかる。
また、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻の支持者であるトロントのラビ(ユダヤ教における神主や住職みたいな役職の人)であるエイブラハム・ファインバーグによると、「ジョンとヨーコがお互いに感じている愛は、すべての人類への愛へつながっている」のだという(15ページ)。
有名なジョン・レノンの曲『イマジン』の歌詞に「人はみな兄弟なのさ」という一節があり、これも人類愛を意味する言葉だ(『イマジン』は、アメリカで戦争がおきるたびに放送禁止になるという)。また、この本によればソロ活動時代のジョン・レノンは、チャリティーでしかコンサートをやらなかったそうである(83ページ)。
記録映画『アメリカVSジョン・レノン』のサントラの解説書によると、ジョン・レノンのソロ時代における最大のコンサートは、知的障害児のためのチャリティである『ワン・トゥ・ワン・コンサート』だったという(しかもFBIはこれを「不穏な集会」としてマークしていたらしい)。
これらの事実も、個人主義ではなく「人類愛」をとなえるスタンスこそがリベラルであることをうらづける。
公共という概念は「お国のため」という戦時中の教育と不可分であり、それは特攻隊の自己犠牲に通じるという論客もいるが、石原慎太郎(東京都知事)脚本・製作総指揮の特攻隊の映画『俺は、君のためにこそ 死ににいく』の記者会見(2005年8月 赤坂プリンスホテルにて)によると、特攻隊の隊員は「お国のために死んだのではない」という。
この映画は、戦時中に九州の特攻隊基地で食堂を営み、当時「おかあさん」と隊員たちに慕われていた鳥浜トメさんを描いた映画だという。
記者会見には、鳥浜トメさんの娘さんの礼子さんが同席しており、礼子さんによれば鳥浜トメさんは「特攻のひとたちが残した言葉『俺たちは国のために死ぬんじゃない。父や母、親友…のために体当たりする。後世に伝えてくれ』と語られた」のだそうです。
こういう当時の人の証言があるとなると、実は「好きな人を守るために死ぬ」という考え方のほうが特攻隊に近いということになるではありませんか。「愛する人だけ守るのが理想」という価値観のほうが、本当は特攻隊に通じるのではないでしょうか。第二次大戦で日本がおこなった戦争が「犯罪」ならば、かれら特攻隊の隊員は「実行犯」に相当しますが、その彼らを戦場に駆り立てた行動原理は「好きな人を守る」だったのである。
国内では、いわゆる天皇主義者、すなわち封建主義の人間が、資本主義や個人主義を批判することがあり、これによって「資本主義や個人主義は左翼だ」と思い込む人間が少なからずいるが、このことについても検証したい。
前述のマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』には、フランスおよびイギリスの貴族階級が、資本主義のブルジョア階級に対して敵対しており、ブルジョア階級を打倒するために、プロレタリアートの共産主義の運動家たちを味方につけようとしたという興味深いことがかかれてあります。
「同情をひくためには、貴族は、自分の利益を眼中におかないように見せかけて、もっぱら搾取される労働者のためにブルジョア階級に対する公訴状を作成しなければならなかった。こうしてかれらは、あたらしい支配者に対する侮辱の歌をうたい、多少不吉な予言をあたえて支配者の耳につぶやくという腹いせをしたのであった(岩波文庫版・70ページ)」
このように、封建主義者にとってブルジョア階級は敵なので、プロレタリア階級と封建主義者の両者にとって、ブルジョア階級は「共通の敵」ということがいえます。なので、封建主義者がブルジョアを批判すること、すなわち封建主義者が資本主義を批判するということは大昔からあったことになります。
かれら貴族階級におけるブルジョア批判について『共産党宣言』では「ときには辛辣な、機知に富む、激しい批評によってブルジョア階級の心臓に打ちこむこともあるが、近代史の歩みを理解する能力をまったく欠くため、つねにこっけいな効果をあたえる。(71ページ)」という記述あります。
このように貴族によるブルジョアへの批判意見を「機知に富む、激しい批評」と評していることから、マルクスや共産主義者たちも、貴族によるブルジョア批判の意見には部分的には同意していたようです。
ですが、かといってマルクスや共産主義者は封建時代にもどることは拒絶するために「近代史の歩みを理解する能力をまったく欠く」と貴族を批判し、貴族の味方にはならなかったのはいうまでもありません。
「かれら(註・貴族)は、民衆を自分の背後に呼び集めるために、旗じるしとしてプロレタリアの乞食袋を打ち破った。だが民衆(註・プロレタリア=共産主義者)は、かれらのあとについていくと、そのたびにかれらの背後に昔の封建時代の紋章を見つけて、無作法な大笑いをして四散するのであった。(岩波文庫版・71ページ)」
こういう、封建主義者によるブルジョア批判というのは、ちょうど今の日本でいえば『国家の品格』に該当するのではないかとおもえますね。
筆者からすれば、『国家の品格』で著者が8割がたの文面を割いて展開する資本主義批判には「機知に富む、激しい批評」と一応評価しますが、そのうえで「武士道」を担ぎだした段階で筆者は「昔の封建時代の紋章を見つけて、無作法な大笑いをして」しまったのです。
『共産党宣言』は、マルクスが書いた本ということでマルクス主義者のみの思想を述べた本と誤解されますが、この『共産党宣言』は、アナーキストと呼ばれたマルクス主義以外の共産主義者たちも同意した内容であり、マルクス主義を含むアナーキズム(無政府主義)全般において適用される内容のものです。
この『共産党宣言』は、国際労働者協会(「インタナショナル」と表記されることもある)という、国際的なアナーキストの集合体の綱領であり、この『共産党宣言』の内容は、ほかのアナーキストたちも異存のない内容だったのです。
「この綱領(註・『共産党宣言』)--インタナショナルの規約の基本原則--は、マルクスによって、バクーニンや無政府主義者たちさえほめたほどの巧みさをもって起草された(岩波文庫版・17ページ)。」
よって、『共産党宣言』はマルクスによって書かれたものですが、決してマルクス主義だけの綱領ではなく、当時のアナーキストたちも共有する綱領だったのです。
資本主義=個人主義を否定するという点では、封建制もリベラリズムも共通するのですが、問題はそのうえで社会の階層を認めるかどうかです。階層のある社会を志向するのが封建制で、階層を極力へらす社会を志向するのがリベラリズムだといえます。
資本主義を否定するのがリベラルだということになると、個人主義と同時に(過度の)物質主義を否定するのもリベラルなスタンスということになるのですが、このへんも90年代の日本では相当に誤解されていたようにおもえます。
物質主義を否定するという部分も、封建主義者とリベラリストの主張が若干かぶる部分ですので、ここを誤解して90年代では「物質主義を否定するのは右翼(封建主義)だ」とか批判されることが多かったようにおもえます。
『カッコーの巣の上で』の作者として知られる作家ケン・キージーは、60年代のアメリカのドラッグ文化に深くかかわった人です。60年代のドラッグ文化ではティモシー・リアリーという心理学者も有名ですが、このリアリーにキージーが書いた手紙というのが『アシッド・ドリームズ』(第三書館)に引用されています。この手紙を読むと、当時のドラッグ文化の人たちが物質主義へかなり批判的だったことがよくわかります。
「(前略)この十年間、この国の魂をむしばみつづけてきた物質主義という毒素に烙印を押し、指弾すること、そしてわれわれの欲望が矩をこえず、そしてわれわれがこの地球をいためつけることをやめないかぎりは、つまりひとことでいえば、すべての人間にやさしさがあふれなければ、そして聡明にならなければ、われわれは知っています、われわれはいまの生活と国土を失うばかりではない、それどころか、生まれながらにしてそなわっていたものさえも失ってしまうだろうと。あの旧約のエサウのようにです。しかもさらに悪いことには、われわれの子々孫々の、生まれながらの権利をも失ってしまうだろうということなのです。(310ページ)」
このように、キージーも物質主義には批判的であり「すべての人間にやさしさがあふれなければ」とまでいっています。ドラッグ文化とは、それ自体が物質主義への抵抗運動だったようですが、このへんも90年代の日本ではかなり誤解されていたようにおもえます。
個人主義と対立する概念とは、本来「集団主義」といわなければならないとおもうのですが、個人主義の反対は全体主義だという誤解が定着しているのが問題だとおもいます。
全体主義というのは右翼的な組織のことをさすといえましょう。今までこのサイトでのべてきたように、右翼と左翼の境目は、階層を認めるかどうかにかかっていますので、このことからすると、全体主義と集団主義の違いとは以下のようなことになるでしょう。
*ヒエラルキー(階層)のある不平等な組織=全体主義
*ヒエラルキー(階層)のない平等な組織=集団主義
またヒエラルキーが実際はあるていどあっても、なるだけなくすように工夫している組織、またヒエラルキーが多少あっても階層の差が極端ではない組織も集団主義的な組織だといえるでしょう。
H.C.トリアンディス著『個人主義と集団主義 2つのレンズを通して読み解く文化』(北大路書房)は、個人主義と集団主義について、さまざまな学者の研究を引用しながら対比的に論じた本です。
よく、集団主義というのは、日本固有の価値観だ、みたいなことをいう人がいますが、この本によればそうではないようです。
「個人主義は文字以前社会でもいくらかはみられたが、多くなったのは現在のヨーロッパや北アメリカにおいてである。一方、集団主義は、集団立場が中心という考えに基づいており、世界の「残り」のほとんどの地域でみられる。したがって、たいていの場合は「西洋」と「残りの地域」との比較を行うことになる。(p18)」
こういう記述がこの本にあるように、集団主義は西洋以外のどの国でもみられ、国際的にみて個人主義こそが西洋独特ともいえる特殊な価値観ということになるといえそうです(イラク侵攻あたりの国内マスコミのオピニオンは、あきらかにこの部分を正反対に取り違えていたようにおもえるが…。)
この本によれば、「『純粋な』個人主義または集団主義は望ましいものではなく、これら2つの社会的パターンのバランスのとれた混合が理想的」という記述があり(p17)、そのうえで、「孔子やソクラテスのような偉人たちはバランスを強調した。反射神経の過敏な、自由市場肯定者たちはこのことを忘れている。」と、個人主義に偏った自由市場主義者を批判しています(p179)。
この本には「垂直的個人主義は自由市場の理念または共和党の右翼にあたり〜(後略)」という記述があります。やはり個人主義は本来は右翼の思想なのです(p175)。
この本では「過激な」という意味あいで「垂直的」という言葉をつかっており、穏健というような意味で「水平的」という言葉をよく用いています。なので上記の引用箇所の「垂直的個人主義」というのは過激な個人主義というニュアンスの言葉でしょう。
そして、この本で注目すべきは以下の記述です。
「『純粋な』個人主義は、ホッブス主義の『万人の万人に対する闘い』、利己主義、自己愛、アノミー、犯罪、高い離婚率、子どもの虐待を招く(p19)。」
ここで書かれていること、とくに利己主義、犯罪、高い離婚率、子どもの虐待というのは、まさに今の日本の社会問題そのものではないでしょうか。今の日本の諸問題は、やはり個人主義の行き過ぎということで、ある程度説明できるとおもわれるのですがどうでしょうか。
この本ではアメリカなどの核兵器の武装ラッシュも根底には個人主義的な競争心があるとしています。
「垂直的個人主義者間の極端な競争心は不安(私の課題達成は十分なのか)と欲求不満(私は十分な達成をおこなっていない)を産む。競争心は差別(他の集団よりも私は優れている)に結びつき、核兵器の武装ラッシュに関係する。(p188)」(これはシューという別の学者の意見の引用)
上記のように集団主義は日本固有の価値観ではなく、ほかの西洋以外の地域と共有していた価値観だろう。もともと日本社会がもっていた集団主義的な価値観は縄文時代がルーツだといえる。決して『国家の品格』がいうような武士道ではない。
マルクスら共産主義者たちは人間社会の歴史が原始共産制を起点にして奴隷制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義という順に発展するとかんがえていました。かつての左翼系の知識人たちは、この考えを日本の歴史にあてはめ、石器時代(主に縄文時代)を原始共産制の時代とかんがえていました。
(「縄文時代 原始共産」で検索すると、けっこういろいろなページがかかります)
縄文時代を原始共産社会とみなす代表的な本としては予備校講師の須藤公博の書いた『まるわかり日本史 図解で分かる時代の要点』(永岡書店)の縄文時代の記述(15ページ)があります。
「縄文時代はまだ貧富の差のない時代でした」云々という記述が歴史の教科書にのる場合がありますが、この記述が原始共産主義を意味します。
このように、石器時代は原始共産制の社会とかんがえられている。日本社会にもともと集団主義的な価値観があるのは、石器時代の原始共産制の社会制度の名残である可能性がある。日本社会に存在する集団主義のルーツは石器時代であり、武士道ではない。武士道に集団主義的な価値観が含まれていても、それは石器時代を起源とした集団主義的な価値観が、たまたま混在してしまっただけだと考えられます。
石器時代を、前半が旧石器時代、後半が縄文時代というふうにわけるのが、日本の歴史の場合は一般的です。
日本の70年代の左翼系の知識人たちの間で「石器時代は原始共産制の時代だった」とかんがえられていたことを示す資料として『歴史科学大系 第1巻 日本原始共産制社会と国家の形成』(歴史科学協議会)という本を紹介する。1972年に初版発行で、筆者が入手したのは1973年にでた3刷のものである。
これは複数の学者が、日本の石器時代についてふれた論文を収録している本だが、そのなかで注目なのは121ページからの渡部義通による『日本原始共産社会の生産および生産力の発展』である。この論文は「『思想』1931年7・8・9月号所載」と表記されている(159ページ)。
この論文では、最初に当時日本歴史の始点を「農業共産社会」の時代だったとする説が新進の学者たちに支持されていると延べ(122ページ)、それに対して渡部氏は異論をとなえます。
この論文での渡部氏の論旨は石器時代に日本でおこなわれた農耕は、部分的なものであり、まだ生産性も低いため、日本社会全体の支配的な生産部門ではなかった、というものです。
石器時代、とくに縄文時代の日本は、まだ農耕が本格的にはじまっておらず、おもに狩猟、採集をして人々が生活した原始共産社会だった、という渡部氏の分析のほうが、石器時代についての一般的な分析であり、前述のように歴史の教科書や参考書にも、こういう分析がのることがあります。
この論文をみると、当時、石器時代ですでに農耕がおこなわれたということを示す証拠は1930年代当時まででも、かなりみつかっていたようである。
こういう事実を根拠に、70年代当時の左翼系の知識人たちの間では、日本の石器時代の社会は「すでに農耕がおこなわれたうえでの農業共産社会だった」とする説と、渡部氏のように「農耕がおこなわれていたとしても部分的なものであり、やはり石器時代は狩猟、採集が主流の社会だった」という2つの説が存在していたようです。
この論文のおおもとは1931年の『思想』に掲載されたもののようですが、それが73年の本に収録されているということは、70年代でも当時の左翼系知識人たちの間で石器時代についてのこれらの見解はおおきく変化はなかったといえるとおもいます。
「『原始日本』のわが未開祖先もまた、かくして、自然生動植物の採集とともに、原始的耕作に出発していた。が併し、それは群島の諸種族を通じて一般的であったのではなく、寧ろ反対に、稍々(やや)進歩的であり故国若しくは前住地よりかかる技術を将来した種族及びかかる種族と文化的交渉を有せる一部の異族間に行はれたに過ぎなかった。例へば東北の地に占拠せる旧アイヌ族の如きが遥か後代まで農耕に関する何等の知識も有たなかったことは明らかな史実である。(143ページ)」
このように(旧かなづかいで読みにくいが)、渡部氏は石器時代でおこなわれた農耕とは、他の土地からわたってきた農耕技術をもっている民族か、そういう民族と交流のあった一部の種族だけだとしており、その根拠として東北の旧アイヌが農耕をおこなっていないことをあげています。
渡部氏は、この時代の日本の民族でおこなわれた農耕は、狩猟によって得た獲物が欠乏がちになった場合の予備的なものと分析します(150ページ)。
そして、文章の最後は「日本歴史の始点は、原始共産社会のより低き段階--に置かねばならぬ。然らざれば、吾々は啻(ただ)に史実を誤るのみではなく、日本歴史に於てプロレタリアートが真に理解し、来るべき革命闘争の実践に際して役立てねばならぬところの、具体的=理論的な多くの問題を軽視する結果を招くだろう。(159ページ)」としめくくられています。
ちなみに「原始共産社会のより低き段階」というのは、農業共産主義を「原始共産社会の最後の発展段階」として渡部氏はみているので、それに対して狩猟採集による原始共産主義は「低い段階の原始共産主義」ということになります。
歴史の本なのにいきなり「革命闘争」という言葉がでてくるところに驚かされるが、このように渡部氏は石器時代を狩猟採集による原始共産社会としてみており、渡部氏にいわせれば、そういうふうにみないと「革命闘争に問題が生じる」とのことである。
渡部氏の主張はともかく、かりに渡部氏の分析があやまっており、すでに石器時代から農耕が本格的におこなわれたとしても、そのときは渡部氏が否定した「農業共産社会」説の方が信憑性があったということになるし、どちらの説が正しいにせよ、石器時代を原始共産社会とする説が左翼の基本的なスタンスであるということは、この論文で確認できることであり、これが日本国内の左翼思想を考えるうえで重要なのである。
(蛇足ながら、西洋ではデンマーク人も集団主義的な価値観をもっているという。『論座』(朝日新聞社)2008年5月号『コペンハーゲン・コンセンサス』(ロバート・カットナー)286ページによると、デンマークは歴史的にはルター派(プロテスタント)教徒が多く、デンマークに根付いているルター派の価値観が「コミュニティーのことを考え、何事も控えめに徹する」デンマーク人の態度を育んでおり、これが福祉国家の政策を支えているのだそうである。)
2006年、教育基本法は改悪され、その際に公共という言葉が明記されたが、同時に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という、いわゆる「愛国心」と同義の言葉も付け加えられてしまった。
改悪後の基本法には「愛国心」と同時に、「他国を尊重する」という言葉も併記されている。が、「他国を尊重する」という言葉を併記したところで国境を強く意識しているという点では国家主義的なニュアンスは免れないだろう。「愛国心」ということばは、日本国内においては戦時中「自国のみ愛する」という意味につかわれたため、国粋主義的なニュアンスが強い点も問題である。
マスコミは、この教育基本法改悪の際「公共は愛国心と不可分だから危険だ」といって一斉に個人主義を理想的な価値観として、いままで以上に唱え続けた。上記のように、こういう場合は、「公共と愛国心は不可分ではない」と反論すべきなのに、マスコミは「公共」という概念そのものを否定した世論を定着させてしまった。そして、これの影響が日本社会のいたるところででてしまったようにおもえる。
この時期、いじめ自殺の事件が多発したことは記憶にあたらしいが、これもやはりこういうマスコミ報道の影響だとおもえます。この時期にマスコミが個人主義を今まで以上に理想的な価値観として一斉に唱えたので、これの影響をうけた学生が、いじめをいままで以上にエスカレートさせていったため、自殺者がふえたのだとおもいます。
朝日新聞の2006年12月4日朝刊のオピニオン「私の視点」に掲載された稲垣久和(理学博士)の「『公共の精神』の議論を深めよ」という文章は、公共という概念をナショナリズムと結び付けないようにという論旨で教育基本法の改悪を批判しており、この時期の報道ではもっとも的確な批判をおこなったものと思えます。
これと同様のことを、実は稲垣氏は2004年の自身の著書『宗教と公共哲学』(東大出版会)に書いていたのである。『宗教と公共哲学』という本は、オウム事件や9.11のテロを検証しながら、「21世紀公共世界における宗教の位置(帯より)」を検証するということをメインの論旨にしていますが、本のなかで一部、教育基本法の改悪についてふれた部分があります。
まず、稲垣氏は中央教育審議会が教育基本法改正について答申を重ねるうちに、あらたに基本法に付け加えられる「公共」という言葉が「愛国心」とむすびつけられ「完全に古いタイプの「公(=お上)」に戻ってしまっている。(257ページ)」ことを指摘します。
そして稲垣氏は以下のように、教育基本法の改悪案にもりこまれた「公共」を批判します。
「ここには、社会が国家に包み込まれてしまうような感のある古いタイプの「国家・社会」というような発想。それが「公共」であるとする矮小化が見られる。まず「国家」が先にきて「国境を超える」ことがない。こういう国家主義のイデオロギーが先行する中でいくら「公共」を語っても、そこでは市民の側からの生活のニードに応じたボトムアップな市民社会の形成とはならない。(238ページ)」
稲垣氏は「われわれは、今後、国家や政府の「公」ではない市民の「公共」の意味をもっと学びながら、それを実践すべきではないだろうか。(240ページ)」と締めくくっている。
ほかに国際主義としての公共という概念を提唱している学者に、東大教授の山脇直司(哲学博士)がいる。山脇直司の著書『公共哲学とは何か』(ちくま新書)では「21世紀の公共哲学は、地球的公共世界の屋台骨となる『グローバルな公共善=財』をつねに意識しなくてはならないというのが本書のスタンスです。」という著者の宣言がある(164ページ)。また、カントもコスモポリタニズムにもとづいた「世界市民的公共性」という概念を唱えていたことも紹介されています(90ページ)。
そのうえで、「国連開発計画では非常に包括的な「地球的公共財」のコンセプトを呈示しています。」とある。この国際公共財とは「すべての人々に便益を与えるという方向がはっきりしているもの」と定義され、具体的には「人権や福祉、平和のほか、地球環境」があげられています(165ページ)。
国連でこういう「地球的公共」という概念がとなえられているということは、国連で採択された「世界人権宣言」に公共という言葉がつかわれていることと関連があるだろう。そうなると、まちがいなく「世界人権宣言」にある公共とは「地球的公共」であり、「世界人権宣言」とほぼ同時期にできた日本国憲法にある公共ということばも、この「地球的公共」に他ならないだろう。
「地球的公共」のようなコスモポリタニズムとしての公共は、ナショナリズム(愛国心)とはむしろ対立的な概念である。コスモポリタニズムの公共がナショナリズムと対立的ということは、『公共哲学とは何か』において山脇氏が、ドイツの哲学者フィヒテの提唱したナショナリズムに根ざした公共の概念と、カントのコスモポリタニズムの公共と対比的に論じていることからもわかる(73ページ〜)。
コスモポリタニズム【cosmopolitanism】とは大辞泉によると「民族や国家を超越して、世界を一つの共同体とし、すべての人間が平等な立場でこれに所属するものであるという思想。古くは古代ギリシアから今日までみられる。世界主義。世界市民主義。世界公民主義。」という意味であり「民族や国家をこえた共同体意識である。
『アシッド・ドリームズ』によれば、アメリカ新左翼のイッピーのリーダーのジェリー・ルービンという人は「世界がひとつの大きなコミューンとなり、そこでは食料衣類をはじめ、すべてが共有される」という社会を著書に理想として書いていたということもあります(234ページ)。このイッピーの思い描いた「世界がひとつの大きなコミューン」というビジョンもコスモポリタニズムである。
また『公共哲学とは何か』では197ページからの『5 教育の公共哲学のために』という章でまるまる教育基本法についてもふれています。ここで山脇氏は「旧教育基本法には公共という言葉はないものの公共という概念そのものは否定していない」という、筆者が主張していることと同様のことを主張しています(この本は2004年5月にでたものなので、もちろん筆者より先)。
前述のように、実は日本国憲法の12条や13条にも公共という言葉がつかわれていて、さらには国連の世界人権宣言の29条にもある、という事実や、アメリカのリベラル派や60年代のドラッグ文化の当事者たちも公共という概念を否定することはなかった。こういうことからも、公共という言葉はナショナリズムとは不可分ではなく、国際主義的な公共を志向するのが、本来の左翼であるといえる。
そもそも、日本国憲法には、公共という言葉が明記されているのにもかかわらず、愛国心という言葉は書かれていません。こういう点からしても、公共という概念は、必ずしもナショナリズムと不可分ではなく、国際主義としての公共もありうるとおもいます。
日本国憲法に公共という言葉がつかわれていながらも愛国心という言葉がつかわれていないない、ということ自体が、公共という概念がナショナリズムと不可分ではないことの証明ではないだろうか。
教育基本法改悪のときのマスコミ報道では、旧教育基本法を、強引に個人主義の意味に読みかえ、そのうえで日本国憲法に「公共」という言葉がつかわれていることを一切オミットしたうえで、個人主義を理想の価値観としてマスコミが提唱することがおおかった。
しかし、前述のように旧基本法や日本国憲法にも反個人主義的なことは明記されており、こういうマスコミの旧基本法や日本国憲法の読み替えは一種の解釈改憲だろう。
教育基本法改悪のときの国内マスコミでは、なぜかこの「世界市民的公共」という概念が完全にオミットしたまま議論が進行していたのは疑問である。マスコミはかなり故意に、この「世界市民的公共」という概念をオミットしており、おおくの市民に「公共を否定して個人主義にはしる」か「公共をみとめて愛国心をみとめる」か、という2者択一しかないと信じ込ませているのは不可解きわまりない。
本来なら、ここに上記のような「公共をみとめたうえで愛国心を否定する」という「世界市民的公共」という選択肢がくわえなくてはならないだろう。こういう選択肢を市民に提示しないのはどういうことなのか。
マスコミのなかには『子どもの権利条約』をもちだして「公共という概念は『子どもの権利条約』に違反する」とでもいいたげなものもあった(この時期の『週間金曜日』など)。
しかし『子どもの権利条約』をもちだしたところで、個人主義の正当化にはならない。『子どもの権利条約』にも、実は3箇所「公共」という言葉がつかわれています。しかも、14条はかなり重要な使われ方をしていますので紹介します。
『子どもの権利条約』第14条 (思想・良心・宗教の自由)
締約国は、子どもの思想、良心および宗教の自由への権利を尊重する。
締約国は、親および適当な場合には法定保護者が、子どもが自己の権利を行使するにあたって、子どもの能力の発達と一致する方法で子どもに指示を与える権利および義務を尊重する。
宗教または信念を表明する自由については、法律で定める制限であって、公共の安全、公の秩序、公衆の健康もしくは道徳、または他の者の基本的な権利および自由を保護するために必要な制限のみを課することができる。
このように、「宗教または信念を表明する自由」は「公共の安全、公の秩序、公衆の健康もしくは道徳」を「保護するために必要な制限のみを課する」とあり、「公共」に反する信念を表明することを「制限」しています。
ようするに、公共に反する信念、思想を表明することは、『子どもの権利条約』第14条に反するのですから、個人主義というのは、あきらかに公共に反する信念、思想であるために、この14条に違反しているということになります。つまり個人主義は『子どもの権利条約』にも反するのです。
ここでは「表明」という言葉が用いられていますが、そもそも「表明」とは「態度や決意などをはっきりとあらわし示すこと(大辞林より)」だから、個人主義的な言動を社会のなかで行うことは「表明」に該当するでしょう。この「公共に反する信念」を「表明」するという表現は、事実上「個人主義的な言動をしない」という意味に相当するでしょう。
一切誰にも語らず、態度にもださず、心のなかで個人主義的なことを考えたりするのは自由ですが、それを実行してはいけないというのが、この「表明」の意味することだとおもいます。
つまり、よく「ひとを殺すのはよくない」ということを他人に諭すときに、「心のなかで『あいつをころしたい』と思うのはいいが、それを実行してはいけない」といって、犯罪をやらないように諭すというやり方がありますが、それと同じ意味だとおもいます。
(ちなみに『子どもの権利条約』第14条の「表明」は原語では「manifest」であり、これは「明らかにする」「はっきり示す」という意味の語なので、上記のように「表明」として訳すのは適格な訳だろう。また第14条の「公共の安全、公の秩序、公衆の健康」は原語では「public safety, order, health」であり、しっかり「public」という語がつかわれている。)
教育基本法改悪直後の2007年の東京都知事選挙は、石原慎太郎の大勝となった。筆者はこの原因も、教育基本法の改悪時によるマスコミの報道にあるとおもえる。
というのも、マスコミは確かに選挙期間直前から、石原都知事を「都政を私物化している」と批判しました。ですが、その前に、教育基本法の改悪問題で「公より私だ」「公共は危険だ」と大合唱してしまったので、いくら石原氏を「都政と私物化している」と批判しても、大方の市民は「公より私なんだから、都政を私物化したって別にいいじゃない」とおもって、石原氏にむしろ好意的になってしまったのではないかと筆者はおもいます。
教育基本法の改悪に対して「他人や社会のことより、自分自身の利益のことをかんがえましょう」というような報道を延々と半年ばかりくりかえし、そのうえできちんとした訂正もしないで、石原氏の都政の私物化を批判したって、ちっとも批判にならないでしょう。
「公より私だ」という報道がくりかえされた段階で、大方の市民には「公より私」は理想の価値観としてすりこまれてしまいました。そのままの状態で、石原氏が都政を私物化したという報道をしても、大方の市民は「石原氏は自分の利益のために都政を私物化しているんだから、むしろいいことをしている」と大方の市民は石原氏に対して高感度を上げてしまったのでしょう。
つまり、マスコミは石原氏のバッシングをしたつもりが、無料で石原氏の宣伝を延々とつづけてしまったのです。
前述のアメリカの消費者運動家のラルフ・ネイダー(ネーダー)は、マイケル・ムーアの『アホでマヌケなアメリカ白人』によると「自分のことは一切要求しない(296ページ)」んだそうです。こういう人が立候補すれば、筆者はよろこんで投票にいきますねえ。
このサイトでは、教育基本法の改悪に対しては、公共そのものを否定してしまうのではなく、公共をナショナリズムと結びつけるのをやめるように批判したほうがいい、となんども訴えてきました。今回の石原都知事の当選は、こういう反論をしなかったマスコミに責任があるとおもえる。
基本法改悪の報道や東京都知事選挙が一段落した、2007年5月3日の憲法記念日の朝日新聞は1面大見出しで『地球貢献国家をめざそう』とあり、『提言 日本の新戦略 憲法60年』という8ページにわたった特集があった。
これには、これから日本が「世界のための世話役になる」とあり(17面)以下のようにある。
「世界のための「世話役」になるうえで大事なことがある。国連を軸に、問題解決に役立つ「国際公共財」を充実させ、効果的に使うことだ。集団安全保障や自由貿易、地球環境の保全、人道主義にための制度や機関、条約など。(17面)」
このように、「国際公共財」という言葉をつかっていて、やっと「世界そのものを公共空間とする」という公共の概念をマスコミも理解したようである。公共という概念があたかも国内のことのみをさすような、90年代の「公と個」の論争のときの公共へのおかしな解釈を反省したととれることを書いています。これは90年代以降の大マスコミの報道では快挙であった。
しかし、こういうことを本来なら基本法改悪のときにこそいうべきだったといえ、やはり遅すぎたという印象はいなめない。前述のように旧基本法には公共という言葉はつかわれていないが同じ意味のことは書いてあるので、基本法改悪の際にそのことを言及し「基本法の改定は不要だ」と反論すれば問題はなかったのではないだろうか。
この特集は『日本の新戦略』とあるが、そもそも日本が「世界の平和と人類の福祉に貢献」すべき、というようなことは、60年前の旧教育基本法の前文に書いてあるのである。実は「新戦略」でもなんでもないような気もするのだが。
ようは、マスコミは前述の旧基本法にある反個人主義的な部分を忘れて、旧基本法を「個人主義の法律だ」と、一種の解釈改憲をつづけていき、そういう状態が長くつづいたために、今改めて旧教育基本法の前文にある「世界の平和と人類の福祉に貢献」という言葉を、60年後に再確認しなくてはならなくなったということだとおもえる。
余談だが、あまり触れられることはないが、旧教育基本法には5条に「男女は互に敬重し〜」という言葉がある。「男には女性を尊重させ、女性は男性をさげすんでいい」ということではない。これは「女性の側も男性を尊重しなければいけない」ということである。
しかし90年代の日本では「女性は、よっぽどのことがないかぎり男性をバカにするのが当たり前」という風潮をマスコミがつくってしまったのですが、これは旧教育基本法の5条に反しており、本来の「女性の地位向上」とはかけはなれているとおもえる。「男女は互に敬重し〜」という文面が旧教育基本法にあるということもマスコミはなかったことにして、解釈改憲をして読み替えているようにおもえる。
ベトナム反戦運動当時にアメリカでおこなわれた「女性解放運動」を通して、本来の「女性の社会的地位の向上」について考えてみたいと思います。
越智道雄/著『アメリカ「60年代」への旅』には、そういうベトナム反戦運動当時の女性解放運動について触れられています。
ベディ・フリーダンという主婦ライターが起こした「女性のための全国組織NOW」(229ページ)が、そういう女性解放運動の草分け的な組織のようです。このNOWは、当初は求人広告の男女差別禁止を訴えるために組織されたそうです(229ページ)。その後、このNOWは、容色の衰えたスチュワデスを解雇する航空会社に反対する運動もおこないました。
NOWは1年後には会員が1200人になって、男女平等憲法修正要求、雇用平等、保育施設完備、中絶権などの要求をだしたそうです(230ページ)。
こういう労使問題を中心とした政治的な意味での女性の地位を向上することが、本来の女性の地位向上であって「近隣のちょと変な言動をする男性を馬鹿にしてコミュニケーションを拒絶する」のが女性の地位向上ではないとおもえます。
同時期にNOW以外でも、複数の女性解放運動の組織ができましたが、それらの主張には「社会主義革命の成功で女性問題は解決する」という主張をおこなうものもあったそうです(232ページ)。
NOW以外の団体のなかには、NOWのニューヨーク支部のメンバーの一部が、ほかの団体のメンバーをくわえて結成したフェミニスツという団体がありました。このフェミニスツの団体内部は、現在の日本マスコミで唱えられている「女性の地位向上」のイメージとは、まるでかけはなれたことがおこなわてれいました。以下、まるごと抜粋します。
「フェミニスツは創造的な仕事と事務的な仕事に分け、それぞれ籤(くじ)で担当をきめた。また、特定の人間の独壇場にならないよう全員がレコード盤を数枚持って、発言時間の制限をするシステムまで用いた。(中略)雰囲気はますます反個人主義的になって、会活動への献身が極端に要求され、ついには常時会員の三分の一以上が男と同棲してはならないという規則までできた。フリーダンに背いてこの団体をつくった女性ダイグレース・アトキンスンも、スターになりすぎたことを理由に追放された。(233ページ)」
このように、女性解放運動組織の内部は、徹底した反個人主義が実践されていたのです。
会活動への献身が極端に要求されるという反個人主義とか、会員の三分の一以上が男と同棲してはならないというような平等主義は、今の日本で「女性の地位向上」をとなえる文化人たちなら、かなりヒステリックに拒絶することではないかとおもわれます。
(「特定の人間の独壇場にならないよう全員がレコード盤を数枚持って、発言時間の制限をするシステム」というのは、この文面からはちょっとわかりにくいですが、つまりは自分のお気に入りのポップスのシングル盤を持参し、それの片面の演奏がおわるまで発言する(だいたい3分ぐらい)ということと推測されます。)
こういうフェミニスツの例をみてもわかるように、本来は「女性の地位向上」というのは、反個人主義と不可分だということです(すなわち社会主義的な意味での「公共」と不可分だということです)。
すべての人間が平等に生きる権利がある(反個人主義=リベラル意味での公共)。だから「女性も男性と同等の社会的地位がえられるべきだ」ということになり、それゆえに「女性の地位向上」という政治的スタンスが正当性をもつのです。
それが、90年代の日本では、なぜか個人主義と「女性の地位向上」が結び付けられてしまいました。これは、このサイトで散々くりかえしていますが、90年代の国内マスコミが個人主義を左翼だと勘違いしたことが元凶でしょう。
これによって、いつのまにか「ちょっと変わった言動をおこなう男性を軽蔑し、陰湿ないじめまがいのことをやるが女性の地位向上である」という妙な誤解がうまれてしまいました。実際、90年代から現在まで、国内のマスコミでは、こういうオピニオンが主流だとおもいます。
国立社会保障・人口問題研究所の調査(05年)によると30〜34歳の男性では、24.3%に性交渉の経験がなかったそうで、そんな現状を分析した「中年童貞」(渡部伸/著)という本が扶桑社から2007年に刊行された。
この「中年童貞」の原因は、女性の地位向上というのを「女性が男性を馬鹿にすること」だと勘違いしている文化人が90年代以降、マスコミにおおくみうけられた。そういうマスコミの影響を日本全国の女性がうけて、女性は近隣にいる男性の言動を、よっぽどのことがないかぎり批判的にみるようになってしまい、男性を「減点法」で評価するようになってしまったのではないか。
男性のしゃべり方や言葉づかいや、身のこなしがちょっと変わているというだけで「きもい」といって男性をバカにして、その男性とコミュニケーションを拒絶する女性が現在はおおいのです。
雑誌(扶桑社『週刊SPA!』など)などに掲載されている「女性が嫌いな男性の条件」というのをみると、そういう男性の些細な言動(他人に迷惑をかけるわけでもなんでもない些細な言動)が何十例も列挙されています。こんな何十項目のことをつねに意識して女性と接するというのは大変な精神的な負担です。
こういう女性の変な神経質さが、「中年童貞」問題の最大の原因ではないか。男性のしゃべり方や仕草が多少変でも、他人に迷惑をかけるようなことでなければ、それを「個性」としてみとめることこそ真の「個の尊重」ではないでしょうか。
「他人が無意識にやっている些細な言動」を「ダサイ」「キモイ」といって馬鹿にするという90年代以降の日本社会の風潮というのは、突き詰めると80年代後半以降、『宝島』や『週間SPA!』などの雑誌で、人がやっている一挙一動を図表化して、揚げ足をとって馬鹿にするというスタイルの雑誌記事がふえたことが原因とおもえる。
こういう雑誌記事のルーツも『金魂巻』ではないだろうか。ある類型的な人間のタイプを図解にして「いつも●●をもっている」とか「●●がくちぐせ」などと一々あげて「ダサイ」などとバカにするということは、『金魂巻』で「マルビ」の人間をバカにするときのやり方を踏襲しているとおもえます。
今の「他人に気を使う」という言葉の意味は、他人にしゃべりかたや仕草が「キモイ」「ダサイ」といわれないように、常に神経をとがらせる意味になった。「キモイ」「ダサイ」といわれる言動をしてしまうと、その段階でイジメの対象にされてしまうからである。この「キモイ」「ダサイ」といわれるような言動とは、おうおうにして、本人が無意識におこなっている癖だったりする場合がおおく、それゆえに「他人と接するのは疲れる」ということになってしまうのである。
前述のベトナム戦争当時の女性解放運動では、「結婚は奴隷制度」として結婚を否定するものもありました。これは女性が家事をさせられるということに対する反発です(231、233ページなど)。
が、これとて結婚後の女性の扱いについての運動であって、近くにいる男性の些細な言動を「きもい」などと馬鹿にするということとは違うとおもいます。
近年の日本の傾向でいうと、仮に男性が「女性に家事をおしつけない」という考えの持ち主でも、その男性が些細な部分で「ちょっと変わった」言動をする人間ならば、女性は「キモイ」といってその男性とコミュニケーションを拒絶するでしょう。
現代は「女性が男性より強くなった」といわれることもあります。それならば「強い女性」は「弱い男性」を守るというのがリベラルな価値観ではないでしょうか。
リベラリズムというのは、弱者救済主義なんですから、現代は女性が強くなって男性が弱くなったというなら、強くなった女性は弱者である男性を守ってあげなくてはいけないのであって、女性が強くなったからといって、弱くなった男性をいじめるのは「弱いものいじめ」であってリベラルではないでしょう。
『アメリカ「60年代」への旅』によると、ベトナム戦争当時のアメリカでは、女性解放運動の一環として、聖書の女性差別語の排除の運動がはじまったそうである(239ページ)。
この運動は80年代までつづき、83年にはリベラルな宗教横断組織「全国教会会議NCC」が、差別語を排除した聖書を発刊したそうです(239ページ)。
アメリカでは、こういう差別語排除運動はリベラル派の市民団体がマスコミに対しても行うそうです。「差別語や差別的イメージ排除の運動はマスコミに対してもむけられ、特に児童に差別像をうえつけないよう教科書、絵本、テレビ番組などをチェックし続けている(有名な「セサミ・ストリート」も標的にされ、70年代には性差別も配慮された番組に変わった)。(239ページ)」
このように、差別語をカットするという表現規制は、むしろリベラル派がおこなうことなのです。こういう表現規制は、その規制の目的がリベラルな方向のものであるかどうかが問題になるのであって、規制することそのものは否定されないようです。
一時期メディア規制法案がでて問題になったとき、マスコミ側は反発しました。そのときにマスコミの言い分は「社会に悪影響をあたえるようなものは、市場原理にまかせておけば、自然と売れなくなって淘汰されるので、法律で縛る必要はない」というものがおおくみられました。
しかし、これは、このサイトでなんども触れている資本主義の論理、アダム・スミスの経済理論「神のみえざる手」そのものの論理です。つまり、この時期のマスコミの主張は、多分に右翼的だったといえるのです。
中年童貞がふえたことの原因は、90年代マスコミによる「不良」と「反体制」というものへの誤った認識が市民の価値観に影響しているという可能性もある。
記録映画『アメリカVSジョン・レノン』には、生前のジョン・レノンを知る関係者のインタビューのなかに「ミック・ジャガーは単なる金持ちの不良というだけなので、アメリカ政府にとっては危険な存在ではなかったが、政治運動に興味をもったジョン・レノンは、政府にとっては危険な人物であり、ゆえに政府がマークしつづけた」という意味のコメントがある。
このコメントのとおり、つまり不良というのは実は反体制でもなんでもなく、アメリカ政府にとっては、ある意味「人畜無害」な存在であり、左翼系運動にのりだしたジョン・レノンのほうこそ「反体制」だったのである。
日本では、なぜか不良が「反体制」などと誤解され、それによって、なぜか単なる不良が「反体制」としてマスコミがもてはやしている。
その結果として、なぜか単なる不良がモテたりしてしまうということが、学校生活のうえで当たり前の常識となっている。
基本的に不良というのは、内向的な人間や神経症的な人間をイジメるのが普通である。なので、不良を反体制としてマスコミがもてはやすと、不良にいじめられた内向的な人間や神経症的な人たちは女性にもモテなくなり、2重の苦しみを味わうことになるだろう。
こういうマスコミが日本人に刷り込んだ「不良こそ反体制」という価値観は、大人になっても多くの国内女性の価値観を支配しており、結果として不良っぽい人間達のイジメの標的になりやすい内向的な人間や神経症的な人間は、中年になっても童貞という状態になるのではないか(かりに童貞ではなくても、あまりモテないかほとんどモテないという状態に追い込まれる)。
(すくなくとも、日本の不良というのは個人主義的な人間のあつまりで、年中「縄張り争い」という「領土の再分割の闘争」を繰り返している人たちであって、弱者へのいたわりなんてありませんからねえ。不良というのは暴力団の予備軍ですが、暴力団というのは大企業と癒着して大企業の不正の手助けをする役目を負ってますから、本来は体制側じゃないでしょうか)
*補足
筆者は、たまにリベラリズム(福祉国家)について触れるとき、「社会主義的」という表現をつかうことがありますが、このことについて誤解をまねきそうなので補足する。
社会主義そのものと、「社会主義的」というのは同じようで違う。今の日本の年金や健康保険や生活保護は、もともとが社会主義から派生したものなので、社会主義そのものではないが「社会主義的」なものです。
例として、ジャーナリストの田中宇がネット上で公開しているスウェーデンについて書いた文章「『改革』に背を向ける熟年国スウェーデン(98年10月2日)」を紹介します。
この文章の冒頭には
「高福祉という社会主義的な部分と、自由経済という資本主義的な部分が融合するスウェーデン式の国家システムは、資本主義でも社会主義でもない「第3の道」として注目され、遠くアメリカやアジアからも、視察団や研究者の訪問が絶えなかった。
」
という記述があります。
スウェーデンは一応の成功をおさめている福祉国家の代表的な国である。その福祉国家は、上記のように社会主義とはちがうが、資本主義と社会主義の折衷的なものであり、この文章でもスウェーデンの高福祉の社会システムを「社会主義的」と表現しています。筆者がリベラリズムについてふれるとき「社会主義的」という表現をつかうのは、これがルーツです。
日本国憲法には、25条で国民がだれでも社会保障がうけられるという「生存権」について明記されています。この生存権というのも、社会主義の思想から派生したものですから、日本国憲法自体は社会主義の憲法ではありませんが、この25条は「社会主義的」なものです。
なので、「ソビエトは失敗した」ということを根拠に「社会主義的」なものまで全面的に否定したら、年金や健康保険や生活保護は全否定し、日本国憲法から25条を削除しなくてはならないということになります。
前述のように日本国憲法は、アメリカのリベラル派(左派)に属するGHQがつくったものであり、25条は戦時中に政府から弾圧されていた国内の社会主義者の学者、森戸辰男らのアイデアもはいっている。なので、もともと福祉国家としての憲法なのです。つまり日本国憲法自体が「社会主義的」なものなのです。
マイケル・ムーアの『シッコ』では、すべての国民が保険にはいれるように健康保険の国営化をするよう市民がのぞんでも、そういう市民の主張は保険会社から金でやとわれた政治家につぶされるんだそうである。
その際の政治家の言い分は「国営化したら共産主義になるぞ。アカの手先になるより死んだほうがマシだろ」というものだそうです(『映画秘宝』2007年9月号、p9)。
この政治家の言い分でもわかるように、国営の社会保障を全国民におこなうということは、もともとは共産主義的(社会主義的)なものなのです。もともと60年代、70年代のロックは共産主義に通じるものです。なので健康保険の問題は共産主義につうじることだから、ロックなマイケル・ムーアはこのことにこだわるわけです。
社会主義が失敗したからといって、「社会主義的」なものまで全否定してしまう考え方は、この『シッコ』で描かれている政治家の言い分「アカの手先になるより死んだほうがマシだろ」に通じるものだろう。