作品研究3

『第二期ウルトラ怪獣デザイン論』

01,3/20おまけの小論『二代目怪獣造型論』追加

『帰ってきたウルトラマン』は、シリーズ初期の怪獣は『ウルトラセブン』の後半から引き続き池谷仙克氏が担当したが、当時氏は、京都でATG作品に関わっていたため、スケジュールの都合で降板し、以降はプロデューサーの熊谷健氏が自ら多くの怪獣デザインを行っている。

 熊谷健氏は、学生時代、松竹で小津安二郎に師事した後、円谷プロの製作進行を経てプロデューサーに昇格。『新マン』から『レオ』までの全ての第二 期ウルトラシリーズをプロデュース。その後は、国際放映に移籍し、大ヒットした夏目雅子主演の『西遊記』(78年)をプロデュースした。氏は画家としての 活動もしており、現在、多摩市の美術連盟会長でもある。

 熊谷氏が怪獣デザインを担当したのは、当時から氏が画家としての活動をしていたことに加えて、脚本の打ち合わせの際に、ビジュアル的なイメージが 決まっていないとイメージが浮かばず、打ち合わせが難航するということから、脚本の打ち合わせをしながら、怪獣のデザインを決めていく必要があったためだ という。

 熊谷氏は人気怪獣のデザインを分析したそうで、人気怪獣のデザインの条件とは「立ち怪獣で角や牙がある」「色や形が明解なこと」だそうである。熊 谷氏の『帰ってきたウルトラマン』でのデザインした怪獣は、13,14話のシーゴラス、シーモンス、18話登場のベムスター、37,38話のブラックキン グなど、シリーズを代表する人気怪獣が多く、平成ガメラシリーズで一躍脚光をあびた特技監督,樋口真嗣氏も氏のファンである。

 私事だが、熊谷氏のデザインのベムスターは、自分にとっては特別な怪獣である。じつは自分がはじめて買った怪獣人形というのがこのベムスターだったのだ。

 自分は昭和47年生まれなので再放送で『Q』から『レオ』まで再放送で視聴した世代だ。自分が幼稚園児のころは、再放送でウルトラがブームになっ た。このベムスターの人形は、ポピー(現バンダイ)から発売していた『キングザウルスシリーズ』のものだが、自分がこのベムスターの人形を買ってもらった ときは、『初代マン』から『新マン』までの怪獣しか人形になっていなかった。それでも、この時の私は、他の『初代マン』や『セブン』の怪獣を差し置いて 『新マン』の怪獣を選んだから、やはり『初代マン』や『セブン』の怪獣と比べて『新マン』以降の怪獣が遜色があるということはなく、世代を超えた魅力のあ るものもいるといえるだろう。ちなみに、この『キングザウルスシリーズ』では、『A』以降の怪獣(含む超獣)は再放送ブームが終わるころになってようやく 商品化されたため、欲しくても買うことが出来ず、しかも置いている店も少ないため商品化されていたことを知らなかったものも多く、残念だった記憶がある。

『ウルトラマンA』の超獣のデザインは、「怪獣デザインのポストモダン化」であるといえ、このデザインの方向性は実に70年代的なアプローチではな かろうか。『ウルトラマンA』に登場する超獣とは異次元人ヤプールが作った「怪獣を超えるパワーを持つ生物兵器」の総称である。超獣のデザインが、以前の 怪獣に比べてやや生物感が弱いのも、こういう生物兵器という設定と合致していて、超獣は最近のアニメ、 SFマンガに登場する「生体メカ」の先駆ともいえ るものかも知れない。

 超獣以前の怪獣、いわゆる成田亨(『ウルトラマン』『ウルトラセブン』前半のキャラクターデザインを担当したデザイナー)や、池谷仙克のデザイン のものは、怪獣デザインに、前衛彫刻の要素をとりいれるというものだが、前衛芸術というものは、そもそも分類的にはモダンアート(モダニズム)に属する。 なので成田、池谷怪獣は、モダニズムの怪獣と言えるだろう。
超獣はサイケなデザインだが、サイケというのはロック、ポップ、パンクと同様、70年代に発祥したポストモダンに分類される表現なので超獣はポストモダン 的な実に70年代的な怪獣である。もともとポストモダンという表現は、モダニズムに対する反動という側面も持っている。シンプルにこだわった成田亨、池谷 仙克のデザインに対する反動として、超獣は複雑なデザインになっていったということが言えなくもない。なので、このことからも、まさに超獣は「ポストモダ ンの怪獣」なのである。
 東宝怪獣は、前衛彫刻の要素をとりいれる前の怪獣デザインなのでプレモダンの怪獣デザインだろう。こう考えると


(プレ・モダン=東宝怪獣)→(モダン=成田、池谷怪獣)→(ポスト・モダン=超獣)

というデザインの進歩の図式が成り立つ。


『ウルトラマンA』の超獣の大部分は、『A』よりウルトラに参加した東宝の美術デザイナー、鈴木儀雄氏による。

 鈴木氏は、第1作の『ゴジラ』から東宝特撮の現場にいたという円谷特撮ゆかりの人物。鈴木氏の怪獣デザインのコンセプトは、人間社会において怪獣 は非調和の象徴であり、他を寄せつけない排他的な存在である、というもので、このコンセプトのもと、派手で複雑な、サイケデリックな怪獣デザインを行った という(『レオ』のLDボックスのライナーのインタビューより)。この鈴木氏の“非調和”というコンセプトは、いわば秩序破壊を目的としたダダイズムの追 及といえ、『A』と『タロウ』の怪獣に装飾の多い複雑なデザインが多いのは、こういう抽象美術的な意味合いがある。

 この鈴木氏の定義する怪獣の概念は、奇しくも『ウルトラマンダイナ』の実相寺昭雄監督作『怪獣戯曲』の劇中のセリフ「怪獣とは一体何か?人間たち にとって欠落したもの、理解を超越したもの、邪悪、異端、悪魔の使い!」と類似している点が興味深い。このセリフは実相寺氏にとっての怪獣の定義であると 思われるが、とすれば実相寺氏の怪獣観と鈴木氏の怪獣観は非常に似ているといえるだろう(奇しくも『ウルトラマンティガ』の実相寺作品『夢』に登場した怪獣バクゴンは、デザイン的にも原色を派手につかった超獣的なデザインだった)

60年代のアメリカでのベトナム反戦運動について書かれた本『アシッド・ドリームズ』(第三書館)によると、詩人のアレン・ギンズバーグが、ドラッ グでバッドトリップした際に、派手な色彩に彩られたウロコをもつ蛇が体にからみつくという幻覚を見たという話がでてくるんですが(121ページ)、派手で サイケデリックな鈴木氏の第二期ウルトラの怪獣デザインは、このバッドトリップの際にギンズバーグが見たという「派手な色彩に彩られたウロコをもつ蛇」の 幻覚に通じるようにおもいますね。

アレン・ギンズバーグという詩人は、ヒッピー文化に深くかかわったビート文学の代表的な人で、60年代のアメリカのカウンターカルチャー関係の本では必ずといっていいほどでてくる人です。この人の詩では『吠える』と『カディッシュ』という詩が有名です。
そのうちの『吠える』という詩は、ベトナム戦争当時のアメリカ国内の荒廃について書かれた詩として有名です。この『吠える』では、そのアメリカ社会の荒廃は古代フェニキアの「モーラック」という「生贄の子供を食らう魔神」が生み出したもの、として例えられています。

「モーラックの精神は単なる機械である モーラックの血は流通するドルである モーラックの指は十個の軍隊である モーラックの胸は人喰人種のダイナモである モーラックの耳は煙の立っている墓である」(思潮社『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』22ページ)

「モーラックの血は流通するドルである モーラックの指は十個の軍隊である」とあるように、この詩ではモーラックを軍産複合体を含めたアメリカ資本主義の権化として捉えています。ギンズバーグにとってアメリカの資本主義はモーラックのような怪物だということなのです。

そういえば、『巨大ヒーロー大全集』(講談社)という本に『シルバー仮面』『アイアンキング』などについて橋本洋二や佐々木守らが語った座談会とい うのが載っていたのですが、そのなかで佐々木氏は『シルバー仮面』に登場する宇宙人について「日常の恐怖の具現化した姿」としてとらえていたと発言してい ます(172ページ)。

こういう「日常の恐怖の具現化した姿」という『シルバー仮面』の宇宙人観というのは、アメリカ資本主義の歪みをモーラックのような怪物に見立てた『吠える』におけるギンズバーグの表現に通じるものがある、とおもうのは筆者だけでしょうか。

この「日常の恐怖の具現化した姿」という『シルバー仮面』の宇宙人観を発展させていったのが、『ウルトラマン80』の「人間の心の闇が怪獣を生み出す」という設定なのではないかとおもいます。

また『ウルトラマンレオ』のDVDの12巻のライナーでの熊谷健プロデューサーが自身の怪獣観について以下のように語っています。
「怪獣や宇宙人とは言っても、人間の化身なんです。人間の悲しみや恨み、喜びや夢。そういったものを拡大した、誇張したかたちが怪獣であり、宇宙人だというのが、やっぱり僕のなかにあるんです。」

こういう熊谷氏の発言も、先の『シルバー仮面』の宇宙人観や『ウルトラマン80』の怪獣の設定に通じるものがありますね。
「日常の恐怖の具現化した姿」という『シルバー仮面』の宇宙人観は、おおかれすくなかれ、後のウルトラシリーズや同時期の円谷プロ作品のスタッフに影響をあたえ、『ウルトラマン80』まで受け継がれていった感があるとおもいます。

東宝の特撮スタッフが協力したことで知られる北朝鮮の怪獣映画『プルガザリ』(85)に登場した怪獣プルガザリも鈴木儀雄氏のデザインであった(こ の場合は設定が伝説の怪獣なのでサイケにはできなかった様ですが…でも複雑なデザインであるのは確か)。この作品は完成直後に監督の申相玉(北朝鮮のクロ サワといわれる巨匠)がアメリカへ亡命したことで公開が一時延期され話題となった。

 この時期の怪獣は商品化を意識したために派手なデザインになった、という説を一部の業界関係者や評 論家が唱える場合がある。しかし、こういう鈴木儀雄氏の証言から考えると、この時期の怪獣が、装飾の多い複雑なデザインになったのは、特に商品化などを意 識したためではないようだ。商品化する際には大量生産することを前提にしなくてはいけないが、装飾の多いデザインの怪獣は、玩具にした際に大量生産しにく いため、本来は商品化には適さないと思われる。事実、とくに装飾の多い『A』後半から『タロウ』の怪獣は、当時全く商品化されなかった。

 平成ガメラシリーズの特技監督,樋口真嗣氏も超獣には思い入れがあるそうで、『AX』(ソニーマガジンズ)のエッセイによると『ガメラ3』に登場 した怪獣イリスのデザインは超獣をインスパイアしたものだという話である。『ガメラ3超全集』(小学館)に載ったイリスのデザインスケッチの端に、『ウル トラマンA』登場の超獣バキシムの顔の落書きがあったのも、思わずニヤリとさせられる。「自分のデザインの怪獣には、超獣や70年代の円谷怪獣のテイスト がある」と言われる樋口監督だが、そう言われてみると、『ガメラ2』の怪獣レギオンも超獣バキシムにイメージが似ている気がする。

 樋口氏が特撮を手掛けた近作『さくや妖怪伝』での巨大女郎蜘蛛(松坂慶子が演じ、話題となった)の衣装は、樋口氏の注文で衣装を複雑なデザインに したという。複雑にした理由は、巨大感を出すためだったそうで、言われてみると複雑な形状のものは、巨大感を強調するという効果があるということに気付か される。たしかに樹木でも、大木になればなるほど枝が沢山ついて「複雑」になっていく。メカデザインでも単に流線形のロケットよりは、表面に複雑なディ ティールが沢山ついた『スターウォーズ』に出てくるようなメカのほうが巨大感を受けやすいだろう。
 そうやって言われてみると、超獣のデザインなども、複雑なデザインにすることでそれまでの怪獣にくらべて巨大感があったかな?などと思えてくる。
 初代『ウルトラマン』のレッドキングは、巨大感を出す為に頭を小さくした、とのことだが、その割には、なぜか足が小さくデザインされてしまっており(本 来なら顔を小さくすると同時に足も大きくするべきでは?)、実際は単に小顔の怪獣といった印象が強い。そうなると、巨大感をだすための複雑なデザイン、と いう意味でも超獣のデザインは意義のあるものかもしれない。

 怪獣が人気が出るかどうかというのは、ひとえに作品を発表する時期によるのではないかと思う。初期ウルトラファン(『ウルトラQ』、初代『ウルト ラマン』や『セブン』のファン)は、第2期ウルトラの怪獣や超獣が初期ウルトラの怪獣にくらべ知名度が低いのを、番組のなかでの描き方やデザインに問題が あると分析することが多いが、これは筆者としては少々疑問だ。初期ウルトラはテレビで怪獣モノがやること自体が珍しい時期に放送したので世間の注目度が高 かったことから人気怪獣も多いのではないか。

 その証拠に、初期ウルトラのファンが、番組中での描き方やデザインを高く評価している平成ウルトラ(特に『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンガ イア』)の怪獣に、一般の人間達にとって知られている怪獣はいるだろうか? 恐らく平成ウルトラの怪獣は全ての怪獣がマニアと子供しか知らないマイナーな 物だ。これらに比べれば、第2期ウルトラの怪獣の方がまだ知名度があるものが多いだろう。また、平成ウルトラの怪獣は一部超獣を意識した装飾の多いデザイ ンの物もいるのに(『ガイア』の根源的破滅招来体)、そのことについて初期ウルトラファンが意識しないのは可笑しい。『ウルトラQ』に登場するゴメスが装 飾の多いデザインでありながら知名度が高いのも、そういったことを裏付けている。

 ここで重要なのは、ドラマの中で怪獣のキャラクター性が希薄でも、それによって怪獣の人気というものは決まらないということだ。マニア、特に初期 ウルトラ世代はこういう勘違いをしがちである。これが勘違いであるという根拠は、『ウルトラセブン』のエレキングが、侵略者によって操られるという怪獣な のに、人気怪獣となっている点が挙げられる。『ウルトラマンA』の超獣は、自分の意志をもたず、侵略者に操られる怪獣であり、強さや威力という観点からの 設定しかないことが不人気の原因とされることが多い。が、このエレキングも、自分の意志をもたない、侵略者に操られる怪獣であり、その上、電気を武器にす るという、強さや威力という観点からの設定しかないだけの怪獣であるが、マニアではない人でも知っている人気怪獣だ。エレキングが人気怪獣であるというこ とから、ドラマの中で怪獣のキャラクター性が希薄でも、それによって怪獣の人気というものは決まらないということがいえるのである。

 エレキングは、侵略者の生物兵器であるという設定なので、ある意味超獣の原形ともいえる怪獣だ。また、エレキングは侵略者の生物兵器であるにもか かわらず、劇中では、人気のない湖に現われ、ろくに破壊活動をしないまま、よってたかってウルトラ警備隊やら、カプセル怪獣やら、セブンやらに叩きのめさ れてしまい、自分がこどものころ、「なんにも悪いことしてないのにやっつけられちゃった」と随分違和感を感じたものだった。生物兵器の名に恥じず、ちゃん と市街地を破壊し破壊活動に勤しんでいたことの多かった超獣に比べると、エレキングは、なにやら情けない怪獣である。『セブン』の怪獣で、エレキング同様 キャラクター性が希薄な怪獣は、他にバンドンやガイロスがいる。とくにバンドンはコロッケに手足を付けたようなスタイルで、子供のころ「これが最終回の怪 獣?!」と落胆したものだった。

 初期ウルトラの成田亨氏による怪獣デザインは、魅力はあるものの神格化されすぎている。子供のころ成田亨氏の怪獣デザインは、顔が不細工な怪獣が 多いという印象があった。成田氏の怪獣デザインは、ピンポン玉のような丸い目、豚っ鼻、ピンクのたらこクチビル、といった特徴をもったものが多い。これら の顔のパーツがなんとも愛敬のある表情を作り出してしまっている。ガラモンは豚っ鼻、ピンクのたらこクチビル(しかもへの字)という2つの特徴があるが、 この特徴から、子供のころから今まで、ガラモンは不細工な顔の怪獣という印象が拭えない。またラゴンも、いかりや長介のような顔で筆者が子供のころは大変 不人気だった。

 ゲスラ、クール星人、ミクラス、チブル星人、ブラコ星人、ガンダー等、初期ウルトラ怪獣は目がギャグマンガのキャラか、ピンポン球のように真ん丸 なものも多く、これらは、コミカルな印象を与え恐さや迫力に欠けているにもかかわらず劇中ではシリアスな役回りで登場するチグハグなものである。ゲスラ、 ミクラス、ビラ星人、チブル星人、ガンダーはさらにたらこクチビルが付いていて、より不細工である。さらにミクラスはまるで北島三郎の如き鼻の穴のでかさ がとどめで、ウルトラ怪獣屈指の不細工さではないか(笑)。クール星人、ポール星人においては、かん高いギャグマンガ系キャラの声でしゃべるのにシリアス な役回りのキャラクターなのでやはりチグハグである(また宇宙的神秘性も感じられない)。ペギラの眠そうな目も、子供のころギャグにしか見えず、違和感が あったものだった(コミカルな怪獣という設定なら、まだいいが)。

 レッドキングも、丸い目、豚っ鼻、たらこクチビル(ピンクでは無いが)、といった顔の特徴があり、さらに輪をかけてハゲ頭だったりするので、自分が子供のころはレッドキングは嫌いで、狼の様なスマートな顔のブラックキングの方が気に入っていたのだ。

 動物の目、特にハ虫類の目は無表情のものが多く、変に表情をつけると、その表情は擬人化されて、現実感を損なう。ゴジラも、1作目のゴジラは左右の目の焦点の合っていない「死んでいる目」をしており、この無表情さが、なんとも言えない恐さとリアルさをかもし出していた。
 初期ウルトラの怪獣には、怒ったような表情が目に与えられたものも多いが、ある意味、こういった目の表情のディフォルメは、親しみやすさは湧くものの怪 獣を擬人化してしまい、本来の人間とは異なる異形としての不気味さ、恐さを損ねてしまった感もある(初期ウルトラ怪獣の人気は、擬人化された親しみやすさ が子供に受け入れられたのだろうか)。これに対し第二期ウルトラの怪獣は、無表情な目をした怪獣が多く、表情に不気味さ、恐さが感じられるものが多い。
 第二期ウルトラの怪獣製作は、開米プロという会社によって行われたが、開米プロの創設者、開米栄三氏は、1作目のゴジラの造型にもタッチしていたそう だ。初代ゴジラを思わせる第二期ウルトラの怪獣の表情の不気味さ、恐さは、初代ゴジラの生みの親の手による由緒正しい(?)ものといえなくもない。
(初期ウルトラにもいわゆる「死んでいる目」の怪獣はいることはいるが…、ネロンガ、ゴドラ星人、ペガッサ星人などが代表的なもの)

 ホビー雑誌『クールトイズ』の記事によると、成田亨氏は怪獣をデザインするとき“怪獣デザイン3原則”なるポリシーを自分で作り、それに基づいてデザインを行なったという。成田亨氏の怪獣デザイン3原則とは、以下の3つである。
 1.動物を、ただ巨大にしたものは避ける。
 2.人間や動物の奇形(病気によって体が変形したような形)は作らない
 3.人間や動物を怪我させたようなデザイン(体に傷を付けたり、血を流させたり)という  デザインはさける
 そして1はともかく、2、3のポリシーを設けた理由として成田氏は「子供に健全なものを見せなくてはいけないから」という理由を挙げている。つまり、成 田氏が怪獣デザイン3原則の2と3を設けた理由を考えると、成田氏の怪獣デザインは商品化は意識してないものの、子供の目を大変強く意識したデザインであ ることがわかる。最近のアメリカのホラー映画やアメコミ系のキャラクターに、人間や動物の奇形や、人間や動物を怪我させたようなデザインが多く(ゾンビ系 のものや『スポーン』等)、ウルトラ怪獣よりそちらの方が子供より高い年齢層に受けていることを考えると、怪獣デザイン3原則の2と3は、あくまで子供の 目を意識したポリシーであるといえるだろう。



『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』に登場するZAT 、MAC の個性的なメカデザインも鈴木儀雄氏によるもので、これらの曲線を多用したデザインは、コラーニ的なデザインラインをいち早く取り入れたと言えなくも無い (『セブン』のウルトラホーク1号などは、子供のころは、なにか三角形のトタン板が空を飛んでいるような感じで、なんとなく弱そうなイメージがあったので すが…)。

 鈴木儀雄氏によるZAT 、MAC のセットデザインは、日用品を寄せ集めて壁面などの装飾に使用している。また、『タロウ』に登場したウルトラの国の遠景用ミニチュアは、メッキを施した日用品を様々に組み合わせて未来的な建造物に見立てている。
 この鈴木氏の手法は、ネオ・ダダのジャンク・アートの表現技法の一種、アサンブラージュ(Assemblage)を思わせる。このアサンブラージュなる 手法は、平面または立体の非芸術的な既製品や素材をそのまま寄せ集めたり、組み合わせて作品化する技法。この技法は、既製品を寄せ集めることで、現代消費 社会の現実を造形に直接取り込んで、既存の芸術観を否定して新しい表現の可能性を示した反芸術運動の一つ。予算的な制約を逆手に取って、セット、ミニチュ アのデザインにこういったネオ・ダダ的な手法を用いた鈴木氏の手法は、ウルトラシリーズ中でも異彩を放っている。初期ウルトラでも『セブン』の『地底 GO!GO!GO!』における地底基地は、ブロック玩具やら、コマやらが沢山ついていて、若干アサンブラージュ的ではあるが。

『ウルトラマンレオ』の特撮美術は、平成ゴジラシリーズ(89年〜)全作の特撮美術を手掛けた大沢哲三氏が特撮美術を全話担当し、氏はMAC基地などのメカデザインのほか、大半の怪獣デザインや、アストラ、ウルトラマンキングのキャラクターデザインを担当している。

 大沢氏の怪獣デザインは、池谷仙克氏のタッチを彷佛とさせるシンプルでクールな味わいのものが多い。大沢氏の怪獣デザインには目に黒目が無いものが多く、これが『レオ』怪獣の残忍なキャラクターを十分に引き出していた。
 また、『レオ』の大沢氏のデザインの怪獣には、材質などに実験的な試みもみられ、30話のローランは、羽の部分に本物の鳥の羽根がびっしり植えられてい る。50話のブニョは、デザイン画の書き込みから判断すると、軟体動物的な身体を表現するため、着ぐるみが風船のような構造になっており、空気を入れられ ているようだ。40話のシルバーブルーメも、飛行シーンで使用されたプロップは、ガラス細工で造型されたもののようである。13話のバイブ星人も、体から 生えるヒレを透明のプラスチック板で造型するという、実験的な試みがみられた。
 初代ウルトラマンの口元がアルカイックスマイルをヒントにデザインされてあることは、コアな日本特撮マニアの間では有名である。そしてアルカイックスマ イルというのは、もともとギリシャ彫刻の表情のことだ(誰だ?!仏像の表情がもとだと思っている人は)。ならば、ギリシャ彫刻には口ひげを蓄えた男性の像 が多く作られていることから、ウルトラマンキングの口ひげはウルトラマンのデザインの原点であるギリシャ彫刻に立ち返った意匠であり(多分大沢氏は意識し ていないだろうが)、認められるべきと言えないか?。ウルトラマンキングのデザインは平成ウルトラマンに先駆けて体色に赤以外の色をつかった初のウルトラ マンであることにも注目したい。

 ウルトラマンタロウは、セブンのデザイン のアレンジである。タロウはセブン同様上半身に銀色のプロテクターが付いているが、セブンでは胸から腕にかけて付いているプロテクターが、タロウでは肩の 部分で寸断されており、その上で若干スタントマンの肩幅より幅が広くなっている。これによってタロウはセブンにくらべ肩幅が広くみえ、精悍さが増した(ス タントマン自体足長いし〜)。
 蛇足だが、超獣のデザインが複雑になったことを初期ウルトラファンは批判することがある。が、セブンのデザインは、初代マンと対照的な複雑なデザインなのに、セブンのデザインの複雑さが批判されることが無いのは不思議である。

 映画(テレビ映画を含む)の美術デザインというものは、映画という総合芸術を構成するあくまで一部分であり、デザイナーの個人作品とはいいがた い。なのでウルトラマンのデザインが、カラータイマーを付けられたり、又は第二期において角がつけられたりして他のデザイナーにいじられたことをいつまで も怒っているデザイナー成田亨氏には筆者は首をひねってしまうが。

 海外の映画でも『エイリアン』シリーズに登場するエイリアンが、2作目以降、ギーガー以外のデザイナーによって数々のバリエーションが生み出され ていったということもある。映画、テレビなどのキャラクターデザインには、「クリーン・ナップ」といって、最終的に他のデザイナーが手を加えて仕上げるこ とが頻繁にあることなどを考えると、ウルトラマンのデザインが他のデザイナーにいじられたことは本来はそれほど奇異なことではないように思えるが

雑誌『デザインの現場』(美術出版社)1999年8月号の、海野弘の連載『モダン・デザイン史再訪』の39回『インディペンデント・グループ』とい う文章によると、イギリスの美術界では、1950年代に、モダニズムを啓蒙しようとするロンドンの現代美術研究所(ICA)の首脳の批評家とポスト・モダ ニズムを確立させた若手の芸術家の集団インデペンデント・グループ(IG)とが対立したという。現代美術研究所の首脳たちは芸術を「形而上学的な理念(イ デア)」と考えていた。その理念に向かって芸術を抽象化、観念化していくのがモダンアートだとし、現代美術研究所は「よい芸術」の見分け方を啓蒙しなけれ ばならないと考えた。これに対し、ポストモダンを志向するインデペンデント・グループは反発した。

「よい美術を決める絶対的根拠といったものはあるのだろうか。(138ページ)」

モダニズムのように芸術の絶対的な価値というものを否定するのがポストモダンであるポップアートなのだとインディペンデント・グループの芸術家たちは反発したという。

「よい芸術といった絶対的価値はない。あくまである社会条件、あるパラダイムにおける相対的な価値でしかない。(中略)よいと悪い、ハイとロウといった芸術の区別の根拠はない。(138ページ)」

これがポストモダンであるポップアートのスタンスなのであるという。

京都造形芸術大学の教授をしている田名網敬一という画家は、60年代から70年代初頭にかけてグラフィックデザイナーとして活躍した人である。田名 網敬一の作品における、けばけばしい色遣いや複雑な書き込みはサイケと評され、田名網氏の作品はそういうサイケデリックアートの代表といわれる。筆者はウ ルトラマンAの超獣のサイケさは、こういう田名網氏の作品に通じるものがあるとおもえる。とくに、田名網氏の代表作であるサイケデリックな「金魚」の絵 は、まさに「金魚超獣」とでもいえるものである(井口昭彦による番組初期の超獣はまだ色彩的に地味だが、そのあとの鈴木儀雄によるものは、色彩がより派手 な点や、ぐにゃぐにゃしたデザインラインを強調する点がサイケである)。「金魚」の絵は作品集『踊る金魚』(アムズ アーム プレス)や『spiral』 (青幻社)に多数収録されている。

ウルトラマンA自体が70年代の初頭の作品であり、けっこう超獣のデザインとかは、こういう田名網氏に代表される当時のサイケなグラフィックアート の影響をうけているんではないだろうか(だたし、前述の「金魚」は60〜70年代の作品ではない)。意識していなくても、偶然だとするならば、それはそれ で評価できることである。

田名網氏の作品集『spiral』(青幻社)には、以下のような言葉がある。
「田名網作品を指してよくいわれるサイケデリックとの言葉。だがサイケが重要な意味を持つのは、社会権力が推進する単一の現実以外にも様々な世界観が存在 し、しかもそれが人間内部の状況によって左右されうる、ということを示した点においてであり、LSDを中心とした薬物はあくまでそのきっかけを拓いたに過 ぎない。(120ぺージ)」
この言葉は大変興味深い。前述のイギリスのインデペンデント・グループが唱えた「芸術作品の価値は社会条件によってきまり、絶対的な価値はない」という考えと、上記の文章における「サイケ」の定義には接点があるようにおもえる。

そうなると、マスメディアに登場する高名な芸術家や批評家が名作と評する作品は、あくまでマスコミという社会権力が推進する単一の価値観によって名 作ということにされている作品ということになるではないか。そして、それに異論をとなえることは、社会権力が推進する価値観以外の価値観を世間に知らしめ るという意味で、それ自体でサイケな行為ということがいえまいか。この際、薬物を実際に服用しているかは問題ではない。社会権力が唱える単一の価値観と異 なる価値観を唱えることがサイケに通じるのである。

成田亨は生前、第二期ウルトラ(とくにエース以降)の美術デザインを酷評していたが、この時点で成田氏は、この文章でいう、現代美術研究所的な「よ い芸術」の啓蒙運動を始めてしまったのだといえ、ポスト・モダンの段階へシフトできずモダニズムを脱却できなかったデザイナーだといえる。
それに対してエース以降の第二期ウルトラの美術はサイケデリックな点からしてすでにポストモダン・アート的であり、やはりモダンアートからポスト・モダンへのシフトへ成功したといえるのではないでしょうか。
インデペンデント・グループの一人であったリチャード・ハミルトンが語ったというポップ・アートの11箇条の定義のなかには、「消費的である」「大量生産 される」という定義があるが、この2つは商品化を意識した第二期ウルトラのメカデザインに奇しくも当てはまるのではないかとおもえる。
この定義のなかには「ものまねである」という定義もあり、これは初代ウルトラマンやセブンのデザインを引用して、それに角をつけたりした第二期ウルトラのウルトラマンのデザインにも通じるといえなくもないのではないか。

実は、初代ウルトラマンのデザインは、成田亨の完全なオリジナルとは言い難いものなのである。バウハウスに参加していたオスカー・シュレンマー(1888-1943年) という舞台装飾家(彫刻家、画家でもあった)の作品に、初代ウルトラマンのデザインの元ネタになったとしか思えない作品があるからだ。

それはオスカー・シュレンマーの代表作である舞台『トリアディックバレー』(1920年代)の衣装である(画像はその画像。左が顔のアップ。右が全身)。

『バウハウスの舞台 (バウハウス叢書 (4))』(中央公論美術出版)のp22〜37によると、この衣装は、三部からなる『トリアディックバレー』の第三部の『黒い舞台』の衣装の一つである。 これは、円盤状の板にウルトラマンのような銀の仮面に黒タイツの衣装の人物が、挟み込まれたように入っているというデザインの衣装だ。2体登場し、それぞ れ、頬の出っ張り具合など、顔の形状が微妙に異なっているようだが、そのうちの、頬の出っ張りが小さい方の仮面(=画像のもの)が、初代ウルトラマンの顔 に酷似しているのである。

*参考『トリアディックバレー』の画像は、以下のサイトからの転載である。
『Mechanische balletten』(海外サイト)
http://www.digischool.nl/ckv2/moderne/moderne/schlemmer/Mechanische%20balletten.htm
(全身はこのHP上の画像から。顔のアップは、このHPについている3番めのムービー『Video fragment 1 Van deel 3 (Zwart) een aantal fragmenten. (Matig beeld, geluid slecht)』より。

このように、初代ウルトラマンのデザインは、完全なオリジナルではなかったということがいえるのではないだろうか? そうなれば、生前に成田亨のおこなったウルトラの父のデザインへの批判は果たして意味をなすのだろうか?

成田亨は生前に第二期ウルトラを批判していた。第二期ウルトラを批判する人間というのは、そういうことをことさらに意識して「成田亨原理主義」におちいっているのではないでだろうか。

アメリカの右翼のキリスト教原理主義というのは、もともと聖書にあった万人救済を否定するような記述(『ローマ人への手紙』9章15-16節など)をことさらに強調して、キリスト教を個人主義として解釈し(予定説)、社会主義に通じる社会保障制度を嫌う思想である。
成田亨が生前に第二期ウルトラを批判していたことにことさらにこだわって第二期ウルトラを批判する人間たちは、聖書の個人主義的な記述にこだわって、キリスト教を個人主義に解釈するキリスト教原理主義者の思考パターンに通じるものがあるようにおもえる。

こういうキリスト教原理主義に反対するリベラルな(左派な)キリスト教信者は、こういう聖書の記述はなかったことにして読み流し、キリスト教を反個人主義として解釈するものである。

こういうリベラルなキリスト教信者にならって、成田亨の生前におこなった第二期ウルトラ批判を聞き流すのが「原理主義におちいらない」ウルトラのファンのあり方だとおもえる。
 晩年の成田氏は、自分のデザインしたキャラクターの著作権についてうるさくなっていたが、著作権というのは知的財産の所有権であって、ことさらに著作権 こだわるのは財産所有権に固執するという点では資本主義的といわざるをえない。つまり、もやは「前衛」ではなくなったのだ。〈了〉


おまけの小論『二代目怪獣造型論』

 旧ウルトラシリーズで過去の怪獣が登場すると造形の違う着ぐるみが登場することが常で、特にバルタン星人は人気があるだけに何度もウルトラシリー ズで再登場を果たし、その都度造形の事なる着ぐるみが登場した。それらバルタン星人の着ぐるみのバリエーションでは、筆者は2代目のものが子供のころから 現在まで一番嫌いだ。第一シルエットが初代とまるっきり異なるため、子供のころ見た時にはバルタン星人に見えず、別の怪獣のような気がしてならなかった。 しかも頭が長くなったおかげで胴体が長くなったために初代より短足に見えるのもマイナスであった。ひょろひょろしたイトトンボのような貧弱な造形で興ざめした覚えがある。色が茶 色なのも良く判らない(造型面の話ではないので蛇足だか、2代目は、胸に反射鏡つけたって「胸以外を攻撃されたら終わりじゃん」とか子供心におもってし まった。飛び人形が当時市販のソフト人形の流用で、着ぐるみと体型が全然ちがって違和感ありました)。
 子供のころは実はバルタン星人Jrが初代バルタン星人の次に好きだった。バルタン星人Jrの顔の部分の形状はよっぽど2代目より初代のものに近い。また 体色が銀と黒の2トーンなのも、返って初代より宇宙的なカッコ良さを強調していたようにも思う。体色が銀と黒の2トーンになったことに合わせて、ハサミも 銀と黒の2トーンにデザインを変更する細かい配慮も、大人のセンスを感じる。
 メトロン星人は初代よりジュニアの方がプロポーションか良いということも、あまり意識されない問題だ。初代は頭以外は肉じゅばんだが、ジュニアは頭以外 はウエットスーツで造形されいるのでスマートで、スーツアクターのスタイルも良い。初代はジュニアより顔の造りもデコボコしている。子供の頃もメトロン星 人は初代よりジュニアの方が好きだった。

 また『帰ってきたウルトラマン』の最終回の2代目ゼットンの造形について。ゼットン2代目もギャップを感じる造型だが、体格がいいのであまり弱そ うには見えなかった。ギャップがある点は否定でないが。角は解釈を誤って触角として作ってしまったようだ。象の皮膚もシワだらけなので、2代目ゼットンの 全身のシワも、そうみるとあれはあれで生物感があるのかも?しれない。また初代ゼットンは、子供のころ、宇宙人的な人間型のデザインなのに、なぜか劇中で 完全に怪獣として描いていたことに、違和感を感じていたものである。

 初代のエレキングも身体にはシワはおおかった。初代エレキングはその上に身体はブカブカしている(こういうブカブカした着るぐるみが多いのは、こ の時期の高山造型の問題点の一つであろう)。タロウの改造エレキングは、身体に初代よりくっきりとしたシワがあるが、身体はブカブカしていない。

 昔の特撮もので造形の失敗点などを挙げたらきりがない。『帰ってきたウルトラマン』の2代目ゼットンは、まだ敵キャラクターだし、一回でやられる のでいいが、初代『ウルトラマン』においては、肝心の主人公であるウルトラマン自身の造形が、初期13回までずっと不細工だった(俗にいうAタイプのマス ク)。初代マンAタイプもある意味造型の失敗したキャラだが、あのしわくちゃの顔がいい!というファンもおおく、ガレージキットもたくさん出ているので、 ゼットン2代目もゼットンの一つの形態として認められるべきだろう。
 初代マンAタイプのあのでこぼこの顔は、素人目で見てもかっこわるいが、これに対して初期ウルトラのファンは別段批判をしないのはどうしてだろう。同時 期の『マグマ大使』やそれ以前の『七色仮面』の仮面が初代マンAタイプのマスクよりはるかに美しい出来だったことを思えば、初代マンAタイプのマスクが不 細工なのは当時の技術の限界ではなく、単にスタッフの不手際であることは言うまでもない。初代マンAタイプマスクは、口が開閉できるように、との配慮か ら、ゴムで造型されたが、そのためデコボコしてしまい、しかも、口の開閉もほとんど画面上では確認できない。つまり製作スタッフの意図は、ほぼ失敗してい るのだ。

 雑な粘土細工のような初代マンAタイプのマスクは、再放送世代の自分にとって子供の頃、視聴が苦痛だった。それでも『初代マン』が40パーセント の視聴率を取ったのは、当時の子供はテレビで怪獣モノがみられること自体に有り難みを感じていたため、作品に欠陥があっても割り引いて見ていたものとおも われる。

 第2期ウルトラの怪獣は、造形が粗いといわれることが多いが、これも案外初期ウルトラファンに商業誌で批判されたことによって生じた先入観でそう 見える事も多いのではないだろうか。着ぐるみの表面の仕上げを雑にやれば、それによって着ぐるみの体表は不規則なデコボコが生じる。だが本物の生物の体表 も、毛が生えていたりウロコが付いていたりしない生物の場合、不規則にデコボコしているのが普通である。なので怪獣の着ぐるみの体表の造形が不規則にデコ ボコしている場合、見ようによっては、そのデコボコを“粗い造りの造形”と捉えることもできれば、“有機的な生物の体表の表現”と捉えることもできる。つ まり同じ造形物でも、見る側の意識によって粗く見える事もあればリアルに見えることもありうるのである。事実、私が子供のころ特に『新マン』以降の怪獣の 造形が粗いと感じたことはなかった。初代マンAタイプのマスクは、金属的なデザインなのに不規則にデコボコしているので、そういうフォローのしようがな い…。
 バルタン星人の着ぐるみで言えば、初代の着ぐるみは実は表面の仕上げは粗い。初代の頬や首の回りの丸いコブ状の部分は、スチールを見るとウレタンを粗く 削ってラテックスを塗っただけなのが判る。また、それ以外の顔の部分も基本的にセミ人間のマスクの流用なので、かなり痛んでおり、けっこうデコボコした粗 い造りである。それに比べ、バルタン星人Jrの方は、顔がFRPで造形してあることから、表面は大変ツルツルした奇麗な仕上がりなので、本来はバルタン星 人Jrの方が、造形物としては丁寧なものである。しかし初期ウルトラファンは、初代の粗い表面仕上げの造形の方を、リアルな皮膚感だと評価しているのであ る。<了>

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