作品研究7

『第二期ウルトラ構造的脚本論』

 第2期ウルトラは、怪獣が起こす事件や宇宙人の侵略作戦やヒーローの闘い(アクション部分)と人間ドラマが、ある程度の分離をしたまま一つのストーリーを形成している2重構造のシナリオになっている話がおおい。これは人間ドラマを重視した制作方針によるものだ。この重層的な構造をとることによって第2期ウルトラはエンターテイメント性とドラマ性という、本来両立の難しいものの両立に成功している。ドラマ性を追及すると、特撮シーンの見せ場となる怪獣や宇宙人の起こす事件は映像的に地味なものになってしまい、エンターテイメント性が犠牲になってしまう。しかし、ウルトラシリーズは、やはり特撮シーンを見せるための作品なのだから、ドラマを重視しすぎて肝心の特撮シーンの魅力が半減してしまったら本末転倒であろう。この問題を第2期ウルトラは、怪獣や宇宙人が起こす事件と人間ドラマを、ある程度分離させるというアイデアでみごと解決したのだ。
『ウルトラマンA』で例にとると、本作の代表的な傑作編の4話『三億年超獣出現!』においては、マンガ家の栗虫太郎が描いたマンガの通りに超獣が暴れる、という怪獣事件と、栗虫太郎が美川隊員を幽閉して結婚を迫るという人間ドラマの二重構造になっている。この話は、ドラマ的にも偏執的な人間の心理を描いた人間ドラマであり、大変見応えがあるが、その上で、超獣が作品中で2度も出現するので特撮も意外と派手で飽きさせない。この作品がドラマ的に重みをもっているにも関わらず特撮も派手なのも、ドラマと怪獣事件を分離させたことで成し得た偉業である。
 このような、一つのストーリーに2つのストーリーが平行して流れるという2重構造になっているドラマは、実は第二期ウルトラ以外にも沢山ある。

 辻真先(脚本家、小説家)が昭和56年に書いた『面白シナリオ術(朝日ソノラマ)』という本がある。この本は、アニメを中心にシナリオライターとして活躍した辻真先が、シナリオライター志望の人にむけて、シナリオの書き方を教えるハウツー本的なものだが、この本には、辻はいつもストーリーのアイデアを練るとき、2つのストーリーのアイデアを組み合わせてひとつの脚本をつくると書かれている。この本の辻氏の文章を引用しながら、2重構造になっているドラマというものの魅力を検証して見よう。
 この本では、まず本の冒頭で『第1課 アイデアをひねり出す方』と題して、早速2重構造のドラマを推奨する記述がある。辻はこの本で、ストーリーのアイデアは、とっくの昔に出尽くしており、多かれ少なかれ似たアイデアは先人が発明している場合が多い、として、その上で先人が発明しているアイデアにヒネリを加えることで、より面白いアイデアになる、と延べている。
 「では、どうひねったら、あなたのアイデアが面白くなるのか。ひとつのテを教えよう。アイデアAにアイデアBをかけあわすのである。それも、両者はできるだけ無縁な思いつきでありたい。例を挙げる。
 ロボット活劇とシェークスピア(『闘将ダイモス』もそうだが、ルーツともいうべきは、『鉄腕アトム』の「ロビオとロビエット」か)悪役プロレスラーアクションと孤児の感動美談(『タイガーマスク』)怪奇バイオレンスと無償の純愛(『デビルマン』)。
 まだいろいろとあるだろうが、ひとつあなたも、あなたの興味の及ぶ範囲で、テーマのあれこれを掛け合わせてごらん。(13ページ)」

 以上は、『面白シナリオ術』のなかにある記述を、そのまま抜粋したものだ。このように世の中で名作といわれている『鉄腕アトム』や『タイガーマスク』、『デビルマン』といったアニメ作品が、みなアクションとドラマを分離させて一つの作品を形成しているのだ。そして辻は、掛け合わせるアイデアは、できるだけ無縁である方がよいとさえ言っている。ここで重要なのは、この本でこの意見を書いたのは辻真先という、高い評価と実績を持つプロのシナリオライターであるという点だ。
 このことから、第2期ウルトラの2重構造のシナリオは、ひねりの効いたアイデアの、大変凝った構成のシナリオなのである。この2重構造のストーリーは結果的にドラマの内容を複雑にし、当時の低年齢の児童には難しいドラマになってしまった。本放送当時、ウルトラシリーズより仮面ライダーの方が児童の人気を獲得したのは、あるいはこういったストーリーの複雑さに当時の子供がついて行けなかったということが考えられる。

 怪獣の起こす事件と人間ドラマを分離させるという、第二期ウルトラのこういったストーリーは、別の見方をすれば怪獣とウルトラマンとの戦いと直接関係ないところまで、人間ドラマがきっちり描かれてあることであるとも言えるだろう。第二期ウルトラは、過去の怪獣ものではしょってしまう、ウルトラマンと怪獣の戦いと直接絡むところ以外の、登場人物たちの営みまでこだわって描いた緻密なストーリーの作品だったのである。

 近年社会現象になった『新世紀エヴァンゲリオン』も、実はストーリーが、敵とエヴァの戦いと、ネルフの内部の人間関係のドラマという2重構造になっていることも忘れてはならない。また、平成ウルトラシリーズにも、怪獣や宇宙人が起こす事件と、ドラマが分離している作品は多数あり、『ウルトラマンティガ』の『うたかたの…』や『拝啓ウルトラマン様』などが代表的な作品だ。
 また、初期ウルトラでも怪獣と人間ドラマが分離した作品が多数ある。『セブン』の最終回が好例で、この回に登場するゴース星人やバンドンも、ただ悪者の星人、怪獣という役回りしか与えられていないキャラクターだ。よって『セブン』の最終回も2重構造のストーリーの作品である。
 『セブン』では、この手の作品が多数あり、他にも、クレージーゴン編やアイロス星人編、カナン星人編など、挙げ出したらキリがないという位にある。
 『セブン』以前の作品でも、『ウルトラQ』ではパゴスの回などは怪獣事件とドラマが分離している作品だろう。『ウルトラマン』26・27話の『怪獣殿下(前・後編)』も、ゴモラを発見してから倒すまでのドラマと「怪獣殿下」というあだ名の少年がベータカプセルをハヤタに届けるという2重構造のドラマである(これはトータス砲さんの発見!)。

 しかし、第2期ウルトラの2重構造のシナリオは、怪獣とドラマが分離しているとはいったものの、それらは全く分離している訳ではなく、怪獣の起こした事件と人間ドラマは、なんらかの形で関係を持っている。その一つの例として『タロウ』の40話『ウルトラ兄弟を超えてゆけ!』を取り上げてみよう。
 正月休みをとる東光太郎は、河原で知り合った自転車に乗れない少年タケシを、乗れるようにするよう訓練していた。しかし、その一方で宇宙では怪獣タイラントが地球に接近しており、それを知ったウルトラ兄弟たちはタイラントの地球侵攻を食い止めようと戦いを挑み、次々と倒されて行く。兄弟たちは地球にいるタロウに助けを求めてウルトラサインを送るが、自転車の訓練に夢中だった光太郎は、そのサインを見のがしていたため、ついにタイラントは地球へ来襲してしまう。
 この作品では自転車に乗れないタケシ少年を光太郎がコーチする、という人間ドラマと、宇宙の彼方でのウルトラ兄弟と怪獣との死闘という2つのストーリーが平行して描かれる。そして、自転車の練習に光太郎が熱中するあまりタイラントの地球侵攻を促す切っ掛けを作ってしまう、という点でその2つが、接点を持っている。仮にこの時光太郎がタケシの面倒を見ていなかったら、タロウは兄弟を助けに宇宙へ飛び、タイラントの地球侵攻を事前に食い止められたかも知れない。この回は、光太郎と少年との人間ドラマが、怪獣とウルトラ兄弟の戦いに影響を与えたというケースだ。

 この話での光太郎とタケシのドラマは、タケシが補助輪のない自転車を乗れるようになることで、少年が自立心を得て成長する過程を描いている。タケシが自転車に乗る訓練をしていたのは、自分の力では何も出来なかったそれまでの自分を変えて周囲の人々を見返したかったからだという。
 そんなタケシは光太郎のサポートや助言をえて、自転車にのれるためのコツを段々つかんでいくが、そのときにタイラントが地球を襲撃。そのあとは、怪獣と戦うタロウと、健一(レギュラーの子ども)のサポートをうけたタケシの訓練が平行してえがかれる。その甲斐あってタケシは自転車を乗りこなすことに成功する。
 光太郎はタイラントと戦うまえに「自分も勇気をだして怪獣と戦う」と、タケシに誓う。以降、タロウの戦いとタケシの自転車の訓練が対比的に平行して描かれ、これによってタロウとタケシのドラマは接点をもっている。

 この回のドラマは、労働者が一人前になるまでの話として解釈することもできる話ではないだろうか。この回の「自転車に乗る訓練をしているタケシ少年」というのを「労働者」に置き換えた場合、この話における「光太郎や健一」のやっていることは「労働者への職業訓練」を意味する。

 そうなると、この回は、人間が自立するためにも、社会(この場合は光太郎や健一)のサポートが必要というテーマにも解釈できる。光太郎や健一のサポート(自転車を途中まで手でおさえて送り出すことで、バランスをとるコツを教える)や助言なしでは、タケシ少年は永久に自転車にのれなかったかもしれない。そういう点からも、人間が自立するためには「自立のための補助」が必要といえる。

 このように、労働問題に結び付けて『タロウ』40話をみてみると、労働者に一人前のスキルをつませるためには、完全に労働者自身の責任として周囲が突き放してしまうのではなく、やはり周囲の人間(すなわち社会)のサポートが必要という意味のドラマにとれる。

 事実、雇用政策で世界でもっとも進んでいるデンマークでは、失業者に対し国が無料で職業訓練をおこなうシステムが存在する(朝日新聞社『論座』2008年5月号の論文『コペンハーゲン・コンセンサス』の284ページより)。もっとも、デンマークでも、一時期失業保障の不正受給者が増えてしまい、それによってシステムの維持が困難になったこともあったそうである(おなじく『コペンハーゲン・コンセンサス』284ページ)。やはり雇用保障を充実させても、最後は本人が自立するべく努力するということが重要になってくる。

 以下、第二期ウルトラで、怪獣事件と人間ドラマの2重構造が顕著な作品の中から、印象的なものをいくつか挙げてみよう。
 
『ウルトラマンA』の最終回『明日のエースは君だ!』は、『新マン』11月の傑作群の『怪獣使いと少年』のネガ版とでもいえるバリエーションである。この回も、登場する超獣ジャンボキングとAの戦いはストーリーの中心ではなく、その超獣を操る異次元人ヤプールの仕組んだ罠に主人公が苦悩する、という展開がメインのドラマになっている。
『怪獣使いと少年』の方は、テーマ自体は民族問題を扱った重い題材の作品だが、ストーリーは、主人公が弱者を救済する(しようとする)という、従来的なドラマツルギーにのっとったものだ。これに比べると『A』の最終回の方は、主人公が弱者を救済しようとすると、それ自体が罠だったという、従来的なドラマツルギーを逆手にとった脱ドラマ的とでもいうべき異色の展開の作品である。
 物語の冒頭で、子供たちが無抵抗の友好的な宇宙人をウルトラ兄弟を気取っていじめており、それを主人公が注意すると子供たちは、自分らはウルトラ兄弟だから悪い怪獣をやっつけているんだと主張する。このくだりは自分たちと異なるものを迫害したがる人間心理の業を現わしており、これが、現実の社会における民族問題の元凶であることはいうまでもない。このことは『怪獣使いと少年』では物語のテーマの中心となっているが、『A』の最終回は、さらにもう一段階ひねったテーマ展開をみせる。
 主人公に、弱いものを守る“やさしさ”が人間には大事だから無抵抗の宇宙人をいじめちゃいけない、と諭されると子供たちは宇宙人と仲良くしだすが、実はこの宇宙人が友好的なのは芝居であり、町を破壊している怪獣(超獣)を操る悪い宇宙人だったことが後で判明する。それを知った子供たちは「もう“やさしさ”なんて信じない!」と言い出す。
 『怪獣使いと少年』では、地球人に迫害をうける友好的な宇宙人サイモン星人を救おうとする主人公が描かれており、結果、友好的な宇宙人を救うことが出来ずに物語は終わる。悲劇的な作品だが、この場合は友好的な宇宙人を救おうとする主人公の“やさしさ”は作品の中では正当性のあるものという前提のもとでストーリーが進展している。これは常識的、従来的な価値観だろう。これに対し『A』の最終回の方は、弱者を救済しようという主人公の“やさしさ”が裏目に出てしまうという展開なのである。『A』の最終回は、そういう従来的な価値観に疑問符を投げかけたペシミスティックなスタンスの作品なのだ。『セブン』の最終回が、いわゆる人情ドラマのみに終始しているのに対して、『A』の最終回は社会の既成の価値観に刃をむけたアンチテーゼ的なテーマの作品だ(『A』の最終回は、そういうペシミスティックな問題提起をしながら、最終的にはラストのA自身のセリフで“やさしさ”を肯定している点が清清しい)。

最終回の冒頭では、ウルトラ兄弟を気取った少年たちが、友好的なサイモン星人に暴力をふるうというシーンがあるが、『A』では、30話『君にも見えるウルトラの星』でも、これに通じる展開があった。『A』の30話では、ウルトラ兄弟になったつもりの梅津ダンが無謀な行動を起こすという展開がある。30話で、ヒーローになったつもりになって、自分の力を誇示しようと危険な行為にでるダン少年は、最終回の冒頭の少年たちに通じるだろう。このように『A』ではウルトラマンに安易に憧れることへの「危険性」も何度か描いていたのである。

『タロウ』の最終回『さらばタロウよ、ウルトラの母よ!』も、登場するバルキー星人や怪獣サメクジラは、ストーリーを進めるためのコマとしての悪役でしかなく、人間ドラマと宇宙人の侵略作戦が分離している2重構造の作品であった。
 この回はヒーローものの不文律によって生じる矛盾をヒーロー作品自体のなかで暴いてしまうラディカルな作品でもある。スーパーマンに始まるヒーローものには、ヒーローが正体を秘密にしなくてはいけない、という不文律がある。『タロウ』最終回は、この不文律によって犠牲者が出てしまう、という作品なのだ。この回はヒーローもののジャンル作品が普遍的に内包する矛盾点を暴いてしまったという、斜に構えた異色のストーリーである。また、この回は、ドラマのクライマックスにウルトラマンが登場しないというパターン破りの構成で、このことも含めて『タロウ』最終回は極めて異色の最終回であった。

 バルキー星人の操る怪獣サメクジラがタンカーを襲撃。光太郎はZATの隊員として現場に駆け付ける。が、このとき光太郎の隣には北島隊員がおり、北島隊員がいるため変身をためらっているうちにサメクジラはタンカーを撃沈。サメクジラは逃げ去ってしまう。ふつうのヒーローものなら、事件がおこると、主人公は、正体がバレないように人気のない所に身を隠してからヒーローに変身するものだが、現実的に考えると、そうやって変身のチャンスを伺っているあいだに、事件の被害は拡大して、取り返しのつかない犠牲が生まれている可能性がある。通常なら、こういった部分はフィクションとして割り切り、あえて描かないものだが、この『タロウ』最終回は、普通のヒーローものがオミットしてしまうこの部分をあえて描いてしまった意欲作である(この展開は、ヒーローが変身の際に乗り捨てたバイクが子供に突っ込んで重症を負わせるという『鉄人タイガーセブン』のコールタール原人の回(23話)に通ずる)。制作者側のある種の屈折した(?)こだわりを感じずにはいられない物語展開だ。
 タンカーには光太郎の同居人の、健一少年の父が乗っていて死亡した。悲しみにくれた健一はタロウを責める。光太郎は健一に正体を明かし、変身バッヂを捨てて、人間としての力でバルキー星人を倒そうとする。巨大化して街であばれる星人を光太郎は石油コンビナートに誘い出し、石油コンビナートもろとも星人を爆破し倒したのだった。変身能力を失った光太郎は、もとの冒険家にもどり、大都会の雑踏の中に消えて行く…。光太郎は以前は冒険家として世界を旅していたという設定で、第一話で日本に一時帰国した際にウルトラマンタロウに生まれ変わって日本にとどまったのだ。最終回でもとの冒険家にもどるという展開は、時間が逆戻りにしたような不思議な余韻を残す印象的なクロージングである。

 この回は、冒頭でヒーローものの不文律による矛盾点をあえて暴き出し、ウルトラマンという存在の虚構性を暴き出したうえで、ウルトラマンのようなヒーローが存在しない現実で、人間たちが自分達で様々な社会の問題を解決していかなければならないと説いているドラマといえないだろうか。
 健一がタロウを責めるくだりは、健一の父を直接殺したのは怪獣なのに、ヒーローが怪獣を倒せなかったことでヒーローが人を殺したかのように言われてしまうという展開であり、これもヒーローものとしてはかなり斜に構えたシーンとなっている。

変身バッヂをすてたことにより、タロウへの変身能力は封印されたようで、次回作の『レオ』にはタロウは登場しない。こういう番組の設定に準じた配慮はこの当時の変身ヒーロー作品ではめずらしい。仮面ライダーのシリーズの場合、『仮面ライダーV3』の最終回近くでライダーマンが死んでいるにもかかわらず、後の仮面ライダーのシリーズにもライダーマンは再登場し、なぜ生きているのかは全く説明されない。このように、劇中で死んでいてもいつの間にかヒーローが生き返っているのが、70年代の変身ヒーローものでは普通のケースであった。

余談だが、ヒーローの変身にまつわる話として『セブン』の18話『空間X脱出』は問題のある作品だ。この回でダンは、なぜかウルトラアイを使用しないでセブンに変身している。『セブン』はウルトラアイが侵略者に盗まれることでダンが変身不能になってピンチに陥ることがおおい。にもかかわらず『セブン』の18話でダンがウルトラアイを使用しないでセブンに変身してしまったことは、『セブン』という番組においてはかなり問題のある設定面での揺らぎであろう。

 脚本の構造面の話にもどすと、『タロウ』最終回のような、宇宙人の起こす事件と人間ドラマが分離している作品は第2期ウルトラだけでなく、海外のSFテレビにも存在する。特に英ITC作品『UFO(謎の円盤UFO)』においてこの傾向は顕著だ。『UFO』は、世界中のSFファンに親しまれているTVシリーズだが、このような国境、民族を超えて親しまれる名作にも、宇宙人の事件(侵略作戦)と人間ドラマの分離という2重構造のストーリーになっている。
 以下、『UFO』における宇宙人の侵略作戦と人間ドラマが分離している作品の例をいくつか紹介しよう。一番2重構造が顕著な作品は、『UFO攻撃中止命令』という作品で、この作品は愛人と共謀して夫を殺害しようとする人妻のドラマと、UFOをわざと撃墜しないで地球に侵入させ、宇宙人を生け捕りにしようとするSHADOのドラマが平行してえがかれる。この2つのドラマは、終盤で、人妻と愛人が夫を殺そうとしたとき、偶然その場にSHADOの追跡から逃れた宇宙人が現われるというシーンになるまで全く接点を持たない。この作品は『UFO』における宇宙人の侵略作戦と人間ドラマが分離し、2重構造のストーリーになっているもっとも代表的なものだ。
 この他にも、『円盤基地爆破作戦』は、SHADO本部を狙うUFOの侵略作戦と平行してSHADOのストレーカー司令官とヘンダースン長官との対立のドラマを平行して描いた作品。また、『宇宙人捕虜第2号』は、宇宙人を生け捕りにしようとするSHADOの作戦と、ストレーカーがコンピューターを信じすぎることに疑問を感じるエリス中尉のドラマが平行して描かれる作品。『フォスター大佐死刑』は、軍事スパイの濡れ衣を着せられたフォスター大佐の容疑を晴らすためストレーカーが奮闘するという作品で、全くUFOの侵略作戦は描かれない。フォスターに軍事スパイの濡れ衣を着せたのも、宇宙人と無関係の民間の地球人であり、宇宙人の策略ではないのである。第2期ウルトラにおいて主人公が濡れ衣を着せられる話としては『レオ』の13話『大爆発!捨て身の宇宙人ふたり』(脚本,田口成光)があるが、この作品では、主人公に濡れ衣を着せるのは宇宙人の侵略作戦なので、ある意味『UFO』の『フォスター大佐死刑』よりは、まだ宇宙人の侵略作戦と人間ドラマがある程度融合している作品であるといえる。『ムーンベース応答無し』という作品は、UFOの策略によってムーンベース周辺の電波が乱されるというストーリーと、フォスターと女性科学者とのすれ違い的なメロドラマの2重構造のストーリーになっている。この作品も宇宙人の侵略作戦と人間ドラマが2重構造になっている作品だ。
 
 やや、話しは横道にそれるが、第2期ウルトラにおいては、とくに『エース』後半や『タロウ』において、怪獣の起こす事件や怪獣の設定にファンタジー的なものが、多く見られる。
 そうはいっても実はそれ以前のウルトラにも、ファンタジックな作品は多数存在し、そのうちのいくつかはウルトラを代表する傑作といわれている。
 そもそもウルトラの原点は『ウルトラQ』であり、この作品は米TV『ミステリーゾーン(トワイライトゾーン)』の和製を狙った作品だった。『ミステリーゾーン』はオムニバス形式で、いろいろな超現実的なストーリーを連作したシリーズである。よって『ミステリーゾーン』のストーリーはSF、オカルト、ファンタジーの3種類の作品が混在し、『ミステリーゾーン』の場合はファンタジーが主流ですらあった。『ウルトラQ』はこの影響を受け、6話『育てよ!カメ』や15話『カネゴンの繭』のようなファンタジーや、9話『クモ男爵』や25話『悪魔っ子』のようなオカルトに分類される作品が混在する。この流れは初代『ウルトラマン』においても引き継がれ、20話のヒドラや30話のウーのように妖怪、幽霊の類にしか分類できない怪獣が登場したり、15話『恐怖の宇宙線』、のようなファンタジックな作品が制作され、いずれも高い評価を受けている。
 『ミステリーゾーン』を意識した『ウルトラQ』が原点であることから、初期ウルトラの制作目的は、円谷プロの特撮技術を使って“超現実的な映像作品”をつくることであり、SFをつくることではないのである。事実初期ウルトラの作品タイトルの副題は、『空想特撮シリーズ』であり、『空想科学シリーズ』ではないのである。

 事実、本放送当時TBS番組宣伝課の発行した初代『ウルトラマン』の紹介冊子(あらすじ集)には「シリーズの内容」という項目で
「二十七回にわたって放送した「ウルトラQ」はアンバランス・シリーズとして、SFタッチのもの、ファンタジー等、いわゆる空想映画のあらゆるジャンルを扱ってきたが、このウルトラマン・シリーズは怪獣ものに徹底し、それ以外の夾雑(きょうざつ)物は一切排除した。」
という一節がある(これは『宇宙船別冊ウルトラマン大鑑』(朝日ソノラマ・昭和62年発行)の218ページに採録されている)。このことからも、『ウルトラQ』は、当時のスタッフが明確に意識してファンタジーの作品を製作したことがわかる。
 米TV『ミステリーゾーン』は、ファンタジーが主流だったと先に延べたが、では、『ミステリーゾーン』におけるファンタジー編とはいかなるものだったか。その一例を紹介しよう。紹介するのは『家宝の瓶』という作品だ。
 古道具やを営む中年男は、ある日客が持ち込んだ瓶から、魔法を使う、自称「魔物」を偶然呼び出してしまう。「魔物」は中年男に4つの願いをかなえてやるという。男は魔物の魔法を信じていなかったため、4つの願いのうち2つの願いを、つまらないことで使ってしまった。魔物の魔法を信じた中年男は、退屈な日常から解放されたいと思い、自分を絶対に失脚しない権力者にして欲しいと魔物に頼む。すると男は敗戦直前のナチスドイツのヒトラーになってしまい、部下に自決を薦められるのだった。男は最後の1つの願いで自分をもとの古道具屋に戻してくれと頼む。もとに戻った男は、退屈な日常もすてたもんじゃない、と古道具屋としての人生に生きがいを見い出そうとする。
 この話でわかるように、『ミステリーゾーン』のファンタジー編はどう解釈してもSFとは解釈できない作品である。『ミステリーゾーン』は完全に大人の為に作られた番組だから、ファンタジーや寓話といったジャンルは子供だけを対象にしたものではない。有名な文学作品においても寓話にカテゴライズされるものは沢山あり、芥川の『蜘蛛の糸』はその代表的なものだろう。なので、ファンタジーという方向をウルトラで打ち出したものは子供騙しであるという批判をする初期ウルトラファンは多いが、この批判は的外れのものだ。

 以上、第2期ウルトラのドラマの作劇構造について分析した。これらのことから怪獣事件及び宇宙人の侵略作戦と人間ドラマが、分離をしたまま一つのストーリーを形成する2重構造の脚本になっているのは、第2期ウルトラの欠点どころか、作品を奥の深いものにしている美点であるという事をお分かり頂けたと思う。第2期ウルトラで人間ドラマとアクションが分離しているのは人間ドラマを重視した結果なのだ。そう、第2期ウルトラは、アクションシーンに決着をつけるのはウルトラマンでも、人間ドラマに決着をつけるのは、いつも人間だったのだ。〈了〉

トップに戻る