作品研究9
『第二期ウルトラのシリーズ構成論』
03,3/14加筆 加筆箇所は青字
02,12/19捕足追加
02,12/19訂正 訂正箇所は青字
02,12/1加筆 加筆箇所は青字
02,11/30UP

『帰ってきたウルトラマン』の主人公は、初期ウルトラのような絶対的なヒーローではなく、人間的にやや未熟であるところに新味があった。主 人公がトラブルをおこして問題を起こすというのは、それまでのヒーローものでは描かなかった部分だ。描かなかった理由は、主人公はあくまで視聴者にとって のお手本にならなければならないという不文律が子供番組に存在したからであろう。

『新マン』 以降、他のヒーローものでも、こういった未熟な主人公というのはたびたび登場するようになった。とくに『スーパーロボット マッハバロン』などはその代表 的なものだろう。そういう意味では、『新マン』はひとつのエポックメーキングな作品といえるかもしれない。 

『ウルトラセブン』では3クールあたりから、照明がこってきて、これが評価されているが、新マンはそれに対して鈴木清氏の野心的なカメラワークが作品の映像的なクオリティーを支えていたとおもう。
新マンで鈴木氏が撮影をやった回では、普段オーソドックスにしか撮らない監督の担当回でもカメラアングルが凝っている場合がおおくて、これはかなり鈴木氏のカラーが出ている。

『ウルトラマンレオ』でも、1話と2話だけ鈴木氏が撮影しているが、これはやはり真船監督の推薦なんでしょうかね。新マンのプルーマの話で真船監督は鈴木氏と組んでいるので、この時に真船監督に気に入られたのだろうか。

 このときすでに鈴木氏は『スーパーロボット レッドバロン』で監督デビューしていたのだが、鈴木氏はここでも独特のシュールな演出をしていた。こ の鈴木氏と真船監督が組んだために『レオ』の1,2話の映像的な暴走ぶりは凄まじいものがあった。魚眼レンズや手持ち撮影の多用が印象的だった。

 鈴木氏のメイン監督作品『マッハバロン』で団時朗氏が村野博士として出演していますが、この村野という名字は村野ルミ子からとったのかな? する と村野博士の正体は村野ルミ子の婿養子となった郷秀樹なのか! そうなると「新マン・パート2」としての『マッハバロン』という見方もたのしめますね! 

 話は変わって、『宇宙船』(朝日ソノラマ)の上原正三氏と荒川稔久氏の対談を読むと、アキ役の榊原ルミのスケジュールがとれなくなったあたりか ら、脚本家たちの暴走がはじまって11月の傑作群が生まれたというような当時の事情が語られてた。こうやって考えるとアキが降板したから11月の傑作群が うまれたということになる(結局一長一短という感じですかね)。

 たしかに最終回は少々はしょった内容だったとはおもうが、いきなりルミ子の夢のシーンからはじまってたり、けっこう不思議なシュールさがあってそ れなりに楽しめましたけどね。以前団時朗氏も印象に残っている作品に挙げていた。ラストで海岸に郷の墓として木で作った十字架がたってて、その後ろから郷 が走ってくるカットが映像的に美しい。本多猪四郎のテレビの演出作品では、この作品が一番映像的にこってたようにおもいます(この新マン最終回が本多猪四 郎の作品だったということは、案外忘れられやすいのも残念)。

 アキの降板によって新マンの場合は11月の傑作群が生まれたり,ウルトラマンやセブンとの共演が実現したが、こういったアクシデントによる成功例 として他には『仮面ライダー』におけるライダー2号・一文字隼人の登場があげられる。仮面ライダー2号がなければ、70年代の変身ブームは存在しなかった わけで、アクシデントから70年代の変身ブームは始まったといっても過言ではない?

 これに似た例では刑事ドラマ『太陽にほえろ』における主人公マカロニ刑事の殉職があげられるだろう。これはマカロニ刑事を演じた萩原健一が、当時売れっ子でスケジュールがとれなくなったため降板を申しいれたことことが切っ掛けで行われたことであったが、ショッキングな展開として話題をよぶ。マカロニ降板後に新しい主人公として登場したジーパン刑事も殉職するが、これもジーパン演じた松田優作が降板を申し出たためであった。

 ジーパン刑事は松田優作の出世作だが、松田氏本人は『太陽にほえろ』という作品が気にいっていなかったらしい。
 ジーパン刑事が出る時期の『太陽にほえろ』は30パーセントの高い視聴率を稼いだ。だが、松田氏は『太陽にほえろ』について「無難で安易なつくりの番組」という感想をもっていたようだ。これは、当時の視聴者たちにとってはかなりショックな事実ではある。
 加えて共演者、スタッフと気があわなかったそうで、松田氏にとって『太陽にほえろ』は出世作でありながら早くやめたかった仕事だったようだ。
 マカロニ刑事とジーパン刑事の殉職の回は高い視聴率をはじき出し、いまではテレビ史に残る名シーンとなっている。

『新マン』におけるアキの降板は、主人公がヒロインと死別するという展開をうみ、『セブン』の最終回よりも、もっとハードな恋人との別離のドラマと なった。これだけハードなドラマにもかかわらず、この回は高い視聴率を獲得した。『セブン』の最終回が辛口のドラマなら、この新マンの37話は激辛のドラ マであった。
 アキの降板というアクシデントを逆手にとって、逆に傑作に仕上げた当時のスタッフの手腕には驚かされる。キャストの降板が、高視聴率をかせぎ名シーンをうんでしまったという点で、『新マン』と『太陽にほえろ』は共通してるともいえる。

 アキの降板のあとも、「主人公の日常生活を描く」「隊員同士の対立」という当初のコンセプトはそのまま引き継がれたので、「新マンらしさ」は最後 まで維持されたと筆者はおもう。新マンはアキ降板後の4クール目が一番視聴率が高く、そういう意味でもこれはこれでよかった、と筆者はおもう。また、新マンは、変身アイテムなしで変身するというシリーズ中でも異色の設定だが、この点が最終回まで貫かれた点も評価できる(途中で変身道具が追加されるということはなかった)。

 それまでのウルトラシリーズでは、隊長の命令などを隊員たちが無批判にうけいれていた。「隊員同士の対立」という『新マン』のドラマは、これに疑 問をもった制作者側が、隊員各人の考え方のちがいを描こうとしたためであった。こういった展開は、一つの出来事についても、人間によっては対応が異なると いう人間の多様性や社会の複雑さを表したものであり評価できる。

 シリーズ初期の『新マン』は主人公がウルトラマンに乗り移られているために超感覚をもっていて、それ故に他の隊員と対立するという作品が何本かあ る。主人公が超能力によって怪獣の存在を感知するが、他の隊員にはそれが分からず論争になるというドラマが3話『恐怖の怪獣魔境』で描かれる。こういった 対立は、両者が納得できる決定的な証拠がなにもない状況では、どちらが正しいともいえない問題であり、それゆえに収拾の困難さを示している。これが思想的 な対立なら、自分と他人で考え方が違う、ということで逆にそれなりに両者が妥結できるかもしれない(絶対の真理は存在しないのだとすれば)。
 しかし、こういう「怪獣がいるかどうか」という対立は、正解(怪獣がそこに生息するかどうか)は確実に存在する以上、対立している両者も意地になり、よ り収拾が困難になるということもありうるのである。現実社会でのこういった対立は、ネッシーや雪男、UFOや超能力等の存在についての肯定派、否定派の対 立などにみられる。
 そして、この「怪獣がいるかどうか」という問題は、その後のMATの作戦行動に大きな影響を与える問題であり、そういう意味では大変重大な対立なのであ る。両者が納得できる証拠が見つかるまで判断を保留にするということもできるが、それによって対処がおくれて犠牲者が出ればMATに責任が生じるのだか ら、この問題はかなり複雑な問題をはらんでいる。

第二期ウルトラで味方同士のはずの防衛チームのメンバーが、メンバー同士で意見の対立を起こしてしまうという一連のドラマは、70年代当時の全 共闘の内ゲバの比喩という見方もできるのではないだろうか。そういう意味では実に「全共闘的」ないし70年代的な人間ドラマだったともいえるのである。第 二期ウルトラでの防衛チームのメンバー同士の対立のドラマは、大概が主人公にとって試練として描かれ、最終的には和解して結束を取り戻して終わるため、内 ゲバ的な組織内の内紛を超克する重要性をテーマにしたドラマだったといえるだろう。こういった組織内の現実的な側面を描くということ自体、シビアなドラマでであった。

 4クール目のミステラー星人の回(49話『宇宙戦士その名はMAT』)は戦争特撮映画の巨匠、松林宗恵の監督作品で、このことも忘れられやすいの が残念。内容も反戦色を感じる作品で、ああいう話が仮にセブンにあったら「ミステラー星人(善玉)はベトナム戦争の脱走兵の比喩なんだ」とかいってみんな 傑作扱いしたんじゃないでしょうかね。
 平和主義者のミステラー星人善玉は、戦争を避けて地球に逃亡した。そのミステラー星人善玉が娘を人質にされると、娘への愛情から、嫌っていたはずの戦闘をやむなくおこなってしまうという皮肉な状況をえがいた。
 そもそもミステラー星人が戦争を嫌っていた理由が娘への愛情だった。なので、娘を人質にされたとき、ミステラー星人は平和という本来の目的を見失ってしまたのだ。
 人間(宇宙人を含む)が戦争や争いを避けて生きることへの難しさ(同時に大切さ)を描いた反戦的なテーマの作品であり、宇宙人をも一人の人間として描いた秀作と言えるだろう。

 よく途中から新マンは自分の意志で変身できるようになった、とおもわれているが、筆者が見たかぎり、4クール目でも、話によってはギリギリまで自力で努力している場合があった。
 新マンでは、郷が自分の意志で変身しているような描写が作品中にいくつかみられ、これが作品の矛盾点であるかにいわれたこともあった。だが、筆者として は、郷秀樹が自分の意志で変身している場合は、郷の努力の結果として、郷秀樹と新マンの意識がシンクロする場合である、とかんがえている。

 この郷秀樹の意識は、郷が強い悲しみや怒りを感じたときにはウルトラマンの精神にも影響を与えるという設定があり、これによってウルトラマンは一 度ナックル星人に捕らえられ暗殺されかかった。このように『新マン』は、それ以前のヒーローたちとちがって精神的に不完全な部分をもっている。それまでの ヒーローものは「ヒーローは肉体も精神も完全無欠」というような不文律があったが、『新マン』はこれを覆した野心作だった。こういう不完全なヒーローとい うのは70年代のヒーローの特徴であり、他には『人造人間キカイダー』がある。

 蛇足ではあるが、『セブン』には変身がらみの問題として、あまり触れられない問題点がある。それはベル星人の回でダンはウルトラアイ使わずに変身していたのである(!)。
 この回ダンはウルトラアイ使わずに変身にもかかわらず、他の話では、ダンがウルトラアイを盗まれるか紛失するかしてピンチに陥るというシーンがたびたび あったりする。特に『零下140度の対決』では、ダンはウルトラアイをなくしたために凍死しかかっているのである。この点はあきらかな矛盾点である。
(初期ウルトラの主人公は、大事な変身道具をわざとらしく毎回落としたりなくしたりするので、子供ごころにマヌケだなどとおもってたということがありました・笑)。

 4クール目の作品で印象的なのは、他にはやはり44話『星空に愛をこめて』だろう。この回は「宇宙にすんでいる人たち全部が、みんなお友達になれる日がくる」というラストのルミ子の台詞がポイント。
 この話は、宇宙人と人間の平和共存をテーマにした作品。宇宙人を敵としてあつかう場合が多いウルトラシリーズの中でも、異色のテーマの作品である。

 そういう意味では、メシエ星雲人の回(45話『郷秀樹を暗殺せよ』)も侵略者として送り込まれた宇宙人の少女と人間(次郎君)との間の淡い感情を 描いた作品だった。4クール目は、こういった宇宙人と人間との恋愛をえがいた作品や、ミステラー星人の話のように、宇宙人と人間との友好関係や平和をテー マにしたものがいくつかみられたのだ。

『タロウ』のヘルツの回(37話『怪獣よ故郷へ帰れ!』)も、反戦テーマの作品である。怪獣ヘルツはメドゥーサ星人の起こした宇宙戦争から亡命した という設定であり、ラストの北島隊員の台詞「この地球でも争いが絶えないけれど、宇宙でも同じなんだなぁ」という台詞に、この回の宇宙戦争に地球上の戦争 がダブらせられているのがわかる。

『新マン』4クール目と同様のレギュラーの変更は『ウルトラマンレオ』の4クール目の『恐怖の円盤生物シリーズ!』でも行われている。しかし、こちらは同時に防衛隊まで全滅するという、より大胆な展開を見せた。

『円盤生物シリーズ』という展開によって、作品の見た目が変わった。が、このシリーズは、周囲の人々が殺され孤独になったレオの戦いを描くという狙 いの展開であり、これは番組の最初の企画書にかかれていた「“自分の道を自分で切りひらく”孤独であたらしいスーパーヒーローの創造」という作品コンセプ トに奇しくも一致していた。そうなると、『円盤生物シリーズ』はドラマ面においていえば路線変更ではなく、むしろ作品の当初の製作路線に戻したものである といえる。『レオ』は番組初期から暗く陰惨なムードのある作品だが、そういうムードは『円盤生物シリーズ』においても変わらなかった。

 シリーズ前半と『円盤生物シリーズ』のレオは評価が高い(好きな人の間ではですが)ので、レオのテコ入れというのは結果的には番組を盛り上げてし まった。このことは、『レオ』をそれなりに楽しんだ人たちにとって異論はないであろう。逆にシリーズ初期の設定でずっとやっていたらネタ切れみたいなこと が起こってたかもしれない。
 テコ入れとかが全くない作品でも、『超神ビビューン』みたいに、筆者としてはみてて飽きてしまったのもある。刑事ドラマでも前述の『太陽にほえろ』のよ うに、マカロニ刑事が退場してジーパン刑事がでたりといった、時期によって作品の設定が変わるということはあるようだ(マカロニ刑事編とジーパン刑事編で は、作品のテイスト自体がかなりことなる)。

 こういうのは『イナズマン』にも言えることだ。『イナズマン』は『イナズマンF』になる前の13話以降ぐらいから、すでに『〜F』の前哨戦とでもいうべきハードな作品がおおいが『〜F』になってもハードな展開をみせた

『イナズマンF』は『イナズマン』のレギュラー全部が何の説明もなく退場したりしたが、これについて誰も批判しないのはなぜなのか。『イナズマン F』の1話は完全に『イナズマン』と話はつながっているので、単独の作品とはいえないし、そうなると『イナズマン』のレギュラーがちゃんと退場する話がな いとまずいとおもうが。そういう意味では第二期ウルトラでは、レギュラーが降板する際には退場する話がつくられている場合や、退場する理由が劇中で説明さ れている場合がおおく、みていてあまり違和感を感じないのだ。また、初代『ウルトラマン』では、シリーズ前半で大変目立っていたホシノ君が、なんの説明も なく降板していて、これはもっと指摘されていい問題点である。

 東映作品でも『仮面ライダー』『仮面ライダーV3』『人造人間キカイダー』『キカイダー01』『アクマイザー3』等とかをみると、けっこう設定の 変更がおおい。またアニメ作品ではあるが、『勇者ライディーン』も、番組の前半と後半で、総監督が交替し作品カラーが変化、人気キャラクターのシャーキン が降板するという路線変更があった。なのに、これらの作品はあまり批判されず、なぜか円谷作品になるとやたらに設定の変更が批判されるという傾向は今だに あるようだ。

 また、こういう設定の変更は、制作の裏事情をしらないで作品だけみると、当初からの予定なのか、それとも視聴率をあげるためのテコ入れなのか判別 できない、というものも少なくない。たとえば、アニメのウルトラシリーズ『ザ・ウルトラマン』は、中盤からウルトラの星が登場するが、これはテコ入れでは なく当初からの予定だったらしい。また、最近作『ウルトラマンコスモス』では、粒子状だったカオスヘッダーが中盤から実体化して怪人型になるが、これも当 初からの予定だったそうである。

 アニメ作品『六神合体ゴッドマーズ』は、当初2クールで終了予定だったのが、人気があったため延長が決定し、3クール以降は大幅に新設定か加わっ た新シリーズ(マルメロ星編)になった。これなどは、視聴率がよかったが為に行われた設定の変更である。こういう例もあると、設定の変更の理由は作品だけ を見た場合はわからない。

 よって、制作者側の裏事情をしらないで作品だけみると『レオ』の設定の変更も、『ゴッドマーズ』同様に「当初3クールで終了予定が、好評のため延長になったので円盤生物シリーズになった」というように見えなくもない?のである。

 また、最近の東映の変身ヒーロー作品は「1年間同じ設定では飽きられる」という理由で、番組途中で様々な新キャラ、新メカを登場させるのが当たり前になっている。第二期ウルトラにおける設定の変更は、こういう近年の作品制作のやりかたを先取りしていたのかもしれない。

 円盤生物シリーズを見返すと、レオのアクションで、シリーズ初期の特訓で会得した技に似た技を結構つかっていることに気付いた。
 まず、対ブラックドーム戦で、レオは自分の身体についた泡を高速回転で弾き飛ばすが、これはギロ星獣の回の特訓で会得した技と同じものと言える。これは、筆者以外の方でも気付いた人はいるみたいですが…。

 次に、対ブラックテリナ戦でレオは目を負傷し、目が良く見えない状態になったところをブラックテリナに攻撃されまくる。しかし、レオは戦いのさな かで、一時沈黙し周囲を見回すような動作をしてから、手から手裏剣状の光線を発射してブラックテリナに命中させます。これは、フリップ星人の回の特訓で会 得した心眼によってブラックテリナの位置をレオが感じ取ったものと言える。

 また、デモスの回やアブソーバの回で、怪獣が口から出す泡や火炎をバック転で素早く巧みにかわすが、これはノースサタンの回で鍛えた瞬発力による ものと解釈できる。ノーバ戦でも、ノーバのガス攻撃を素早くかわすが、これもノースサタンの回の特訓で鍛えた瞬発力によるものといえる。

 さらに、最終回において、ブラックエンドの両手(角?)をレオが両手で封じながら、ブラックエンドの胴体にレオが蹴りをいれているが、これは3〜 4話で会得した3段攻撃の応用だといえる。3段攻撃はツルク星人の左右の手刀をレオが両手で封じたうえで、星人の胴体に蹴りをいれて攻撃するというもの だ。

 つぎはブラックガロン戦。ブラックガロンとレオは2回戦うのだが、最初に戦った際、飛行形態で回転して迫ってくるブラックガロンをレオはジャンプ でかわしている。これは対カーリー星人戦で会得した技だといえる。こういう正面方向の攻撃をジャンプでかわすというのは、カーリー星人の回の特訓で会得し た戦法だ。

 最終回でも、ブラックエンドのシッポの攻撃をジャンプでかわして、着地の際にブラックエンドの背中の2本の角を引っこ抜いているのですが、これも対カーリー星人戦で会得した戦法を使っているシーンといえる。
 また、ブリザードの回では、ブリザードの火炎攻撃を受けたレオが、ジャンプして空中から光線をだしてブリザードを攻撃した。これは正面方向からの火炎攻 撃を避けるために、空中へジャンプしたものだろう。ブリザードの回では、ブリザードのチョップをレオが両手をクロスさせて受けとめるシーンもあるが、これ もカネドラスの回で会得した真剣白羽取りの応用と解釈できる。

 あと、ブラックガロンが口から出した舌をレオが手で掴んで、この舌が腕に絡まったところで舌を切断している。これが致命傷になってブラックガロンは倒されるのですが、これは対ボーズ星人戦の戦法の応用だといえなくもない。
 ボーズ星人の回の戦法とは、レオが星人のムチにわざと絡まり、星人に接近して星人の腕を切断するという技だ。 シルバーブルーメとの戦いでも、これに似た戦法を使っている。シルバーブルーメの触手にからまれ、レオはシルバーブルーメの口に引き寄せられて食べられそ うになるが、その直前でレオが触手を払いのけ、逆にシルバーブルーメの口に手を突っ込んで内臓をひきずりだし(このシーンは名シーン・笑)シルバーブルー メにダメージを与える。これもボーズ星人戦での戦法の応用ではないかと考えられる。
 ブニョとの対戦のときも、ブニョが口からだしたロープがレオに巻き付く。このときレオはロープにからまりながらブニョに接近して光線を出してブニョの口を攻撃している。これは見ようによってはボーズ星人の回の特訓で会得した戦法の応用のように思える。

 これらの技は、おそらく偶然で、スタッフは意識はしていないものかもしれない。しかし、成長し一本立ちしたレオの活躍を描くのが円盤生物シリーズだとすると、初期の特訓で会得した技がここで使われているというのは特訓の成果だと解釈できて面白い。

 イタリアの記号学者ウンベルト・エーコ(1932〜)は、小説などの文学作品における内容の解釈は、作者の意図を絶対視せず「テクストの意図」を優先す ることを提唱した。これは本来のテクストの字義的な意味(単語の意味や文章の文法的な意味)をないがしろにしない範囲で、読者の自由な作品の解釈を許容す るということである。
 映像作品におけるテクストとは作品中における台詞や映像であろう。ここに挙げたように、円盤生物シリーズのレオの技には、いくつか番組初期の特訓によっ てもたらされた技に似ているものが見られる。これをエーコのいう「テクストの意図」であるとするならば、円盤生物シリーズのレオの技をシリーズ初期の特訓 の成果であると結びつける解釈は「テクストの意図」にはそっているものであり、作者の意図しないものであっても許容されてしかるべきだろう。

『レオ』の3クール目の『日本名作民話シ リーズ!』は、一見『レオ』という番組の作品路線から逸脱しているようにも見える。しかし、『レオ』のシリーズ初期と日本名作民話シリーズは、ジャポニズ ムと言う点で共通しているともいえる。『レオ』の民話シリーズは、あえて日本の民話だけに題材を絞っている。このことと、シリーズ初期での空手の特訓シー ンとに日本趣味的な共通点をみいだせないこともない(制作者側は意識していないだろうが)。

 初期ウルトラシリーズは、海外への輸出を前提にして制作されており、その為なるべく日本固有の文化 を作品内に出さないという方針があった。しかし、実際は日本人が海外にアピールをする際は、むしろ日本固有の文化を作品内に出した方が海外(特に欧米)に は受け入れられやすく、初期ウルトラ制作当時の円谷プロの方針には疑問がのこる。
 第二期ウルトラは輸出を前提にしていなかったことから、少しづつ日本固有の文化に根ざした作品が、主に石堂淑朗脚本作品などにみられるようになってい く。『ウルトラマンA』の38話で秋田のナマハゲがそのままウルトラマンの敵として登場することなどが、その代表的なものだろう。

 空手着を着て滝にうたれたり、山寺で修行したりする『レオ』の初期の展開はこういった流れの延長上 にあるのかもしれない。その上に、3クール目には日本の民話をモチーフにした作品群が制作されている。レオはウルトラシリーズでも最も日本的なウルトラマ ンだったといえるかもしれない。

 この3クール目も、新キャラクター、ウルトラマンキングが登場したり、中川信夫監督の起用など、そ れなりに盛り上がってしまった。この民話シリーズでは、コミカルな作品もあったが、『レオ』の場合、シリーズ初期から『冒険野郎が来た!』のようなコミカ ルな作品が何本かあったため、それほど唐突な印象もなかった。また、民話シリーズ内でも『帰ってきたひげ船長!』や『運命の再会!ダンとアンヌ』『さよう ならかぐや姫』のようなシリアスな作品があったことなどは特記事項であろう。

日本の伝統文化を日本人が評価することをナショナリズムとして捉える見方をする向きもあるかもしれない。だが、筆者としては日本人が自国の古来の文 化を認めることはナショナリズムとは直結しないとおもえる。『映画宝島 怪獣学・入門!』(JICC出版局)96ページにおける佐々木守の以下の言葉を引 用しよう。
「天皇制批判をしている僕が、古都を愛するというのは、矛盾と思われるかもしれませんね、でも僕はそうは思っていないんです。文化や風情を愛する心というのは、それとは別なんです。」
佐々木氏のこの言葉に象徴されるように、日本文化を愛しながらも、天皇制やナショナリズムに対しては批判的なスタンスをとることは可能である。よって日本の伝統文化とナショナリズムは直結しないといえるだろう。

『新マン』では、主人公がウルトラマンと乗り移ったことで超感覚をもっている。シリーズ初期の新マンは、それによる判断で郷が行動すると、周囲の人間がそれを理解できず郷と対立してしまう、という展開がしばしばある。こういった展開の代表的なものは、前述の3話や5話『二大怪獣東京を襲撃』における郷と隊員たちとの対立だろうか。

 こういうことは、それこそSFの中でこそ起こりうるものあろうが、最近、こういう超感覚が右脳にあるとする「右脳開発法」なるものがブームを読ん でいる。フィクションの世界なら分かるが、現実の人間にそういう感覚があるとはとても思えないのだ。これもオウム事件などと同様の一種のオカルトブームだ といえるだろう。そういう感覚を持つ人もいるのかもしれないが、すべての人間にそれがあり、それが右の脳にあるというのは首をひねってしまう。
 右脳は人間の潜在意識を司るもので、「直感による判断」が右脳による判断であるといわれている。そして、この右脳の判断こそが、つねに正しい判断であ り、天才と言われる人は右脳が発達している人だという。右脳は宇宙につながっていて、その宇宙の意志が人間に正しい判断をくださせる、というオカルトまが いの説を真面目にとなえている学者までいる(『七○式右脳開発法』あたりが代表か)。

 こういう直感至上主義については、筆者はかねてから疑問だった。筆者は学校の試験の選択問題をヤマカンでやって全く当たらなかった、という経験が 何度もあります。最近では競馬やロトくじをヤマカンでやって全く当たらなかったという苦い経験をしました。なので、直感による判断が正しい、とする直感至 上主義には、以前からずっと納得がいかなかったのです。
 筆者と同じような理由で直感至上主義に疑問をもっている人は結構いるのではないかと筆者はおもいます。そして直感至上主義について筆者はこのサイトで何 度か異論を唱えていたのです。実は、こういう直感至上主義とでもいうような考えは、認知心理学で否定されているのである。

 講談社現代新書の『〈意識〉とは何だろうか』(下條信輔,著)という本には、ずばり『直感的判断の錯誤』(45ページ)という項目がある。
 これによると、人間が直感的な判断を行う際には、暗黙のうちに行っている法則が存在し、これによって人間は間違い(錯誤)を起このだそうだ。
 その錯誤の原因の一つに、足りない情報を「常識」で無意識に補ってしまうという行為があるそうです。この「常識」のことをこの本では「暗黙知」とよんでいます。こういう直感的な判断の際に、人間が無意識におこなっている判断は「ヒューリスティック」ともいわれるそうだ。

 こういう「暗黙知」による錯誤は、答えが複数ある問題か、あるいは答えが存在するとは限らない、というような問題に人間が直面した場合におこりやすいそうだ。
 つまり錯誤とは、情報が少なく、かつ明確な答えのない問題にたいして、「暗黙知」による「常識」をあてはめて明確な答えをつくってしまう、ということのようです。また、こういう錯誤は、あとに正しい知識があたえられても、なかなか直らないのだそうです。

 昨今ブームになっている直感至上主義というような考え方では、直感は「人間の右脳による潜在意識の判断」であるとされています。潜在意識は「無意識」ともいわれます。潜在意識(無意識)による判断は絶対にただしい、とするのが直感至上主義の考え方です。
しかし、この本には、「錯誤はおおむね無意識的過程においてもたらされます(195ページ)」という記述があります。

 でも、この本の著者は「無意識的な判断がすべて錯誤だ」ともいっていない。つまり「無意識的な判断が正解を導く可能性もあるが、同時に錯誤を引き起こす原因にもなる」といっているのだ。

 世間一般では、こういう「暗黙知」は、先入観という言葉で表されることが多いとおもう。この先入観というものについてかかれた本もついでに紹介す る。それは『人間この信じやすきもの』(新曜社)という本だ。この本は、人間の迷信や誤信の原因となるいくつかのことを分析した本だ。

 この本では、先入観を迷信や誤信の原因として分析している。この本の「期待や先入観の影響の現われ方」という項では、黒いユニフォームを着たフッ トボールの選手のプレーは、他の色のユニフォームの選手のプレーより反則をとられることが多かった、ということが紹介されている(83ぺージ)。この本に よると、白いユニフォームの選手と黒いユニフォームの選手に、それぞれ同じ攻撃的なプレーをさせ、それを録画したビデオを審判に見せるという実験をおこ なったそうだ。この実験で審判は、白いユニフォームの選手がおこなったプレーより、黒いユニフォームを着た選手のプレーが、より攻撃的で反則に近いプレー に見えたそうだ。

 こういうことからすると、第二期ウルトラが初期ウルトラより低く評価されることが多い、というのも、この先入観によるものではないか、と思えるの だ。ようするに20年前に商業誌で批判されて以来、かなり長い間、出版業界の閉鎖的な体質もあいまって、第二期ウルトラ批判が商業誌で垂れ流し状態になっ た。

 この為、日本の社会の一部に「第二期ウルトラは駄作」という認識が「常識」として定着し、それが人々の「暗黙知」になってしまったのではないだろ うか。こういう映画、芸術の批評というのは、それこそ「答えがあるかどうか分からない」問題なので、人々は第二期ウルトラに「暗黙知」による「常識」を当 てはめて、第二期ウルトラを極端に過小評価しているのではないかとおもう。

 また、ナチスドイツの総統アドロフ・ヒトラーは直感を重視した男だったという。ナチスの障害者虐殺について書かれた本『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(現代書館)には、以下のような記述がある。

「ヒトラーは複雑な男だった。洞察力で判断するタイプの指揮者で、直感に従って決断をくだしたという点でリンカーン、ルーズベルト、そしてロナル ド・レーガンと同様である。自分が天才的なのは『心中の確信が行動を求める際に躊躇しない』点にあると、ヒトラー自身が語っている。まるで自分の行動を動 かす潜在意識を理解しているようで、しかもその潜在意識の正しさに絶対的な信頼を置いていた。(40ページ)」

このように、ヒトラーは直感で下した判断を絶対的に信じていた。それであのような「20世紀最大の負の遺産」とよばれる残虐な行為をしたのだから、直感による判断も相対的なものだといえるだろう。

 直感ブーム、ないし右脳ブームというのは、実は怪しい自己啓発をやって荒稼ぎしている業者が、商売の為に起こしたブームというような側面があるよ うだ。右脳の開発法としてしられる「速聴」だが、これは、なんと200万円もする「速聴プログラム」というものを購入しなければならず、書店においてある 「速聴」についての著書は、実はこの「速聴プログラム」を売るための宣伝のような本だ。筆者としては、右脳ブームというものは実にうさんくさい「商売」の 匂いのするもののようにおもえる。

 2003年3月13日の国会で、小泉総理はアメリカのイラク侵攻に関する日本の対応について「雰囲気できめる」と言ったそうだ(『週刊SPA!』 2003年4/29,5/6号)。こういう直感主義をついに政府側の人間がつかい始めた。これはつまり、今の市民の間に直感主義がもてはやされていること を知って、あえてこういう直感主義的なことをいって国民を味方につけようとした可能性がある。

 また、前述の「黒いユニフォーム」の実験で筆者は思ったのだが、いわゆるアニメファンや特撮ファンが、他の世間一般の人間より非常識だとされることが多いというのも、先入観による部分が多いのではないか、ということだ。

 日本のアニメや特撮ものは、長いことマスメディアで様々な言論人たちから酷評された。これによって生じた国産アニメや特撮に対する悪いイメージが 先入観となって、アニメファンや特撮ファンを非常識な人間たちに見せている、ということもあるのではないかとおもう。今の日本の社会では、「アニメファ ン」「特撮ファン」という肩書きが、ちょうど先の実験における「黒いユニフォーム」の役割をしてしまっているのではないだろうか。

 一般の人でもやりそうな言動をアニメファンや特撮ファンがおこなうと、その言動が非常識として周囲から批判される。アニメファンや特撮ファンが非常識で異常だとされるのは、そういうことなのではないだろうか。

『自由からの逃走』(東京創元社)はエーリッヒ・フロムというドイツの社会心理学者が書いた本である。一般的にはナチスがドイツに台頭してきた理由を分析した本としてしられているが、この本はそれ以外にも、とくに近代におけるマスメディアの影響についてにも触れている。

 この本では、現代人は国家という外的な権威の支配からは解放されたものの、その替わりに内的権威とでもいうべき、人間の内面にある権威によって支配されていて、それに多くの人が気付いていない、と言及している。

 その内的権威とは、古くは理性、良心といわれるものだったが、現代では、それが常識、科学、正常性、世論というものに置き換わっているという(185ページ)。これは、ドイツにおける話であろうが、こういった傾向は日本にもみられるのではないか。
 現代では常識、科学、正常性、世論はマスコミによって定義、提唱されるものだ。そうなると、マスコミというのは現代の日本社会においては国家よりやっかいな権威であり、そのことに多くの人は気付いていないということになる。

 そして、『自由からの逃走』によると、人間は他者の影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むこともあると、著 者エーリッヒ・フロムはいう。この例として新聞の影響をあげている。一般の新聞読者に、ある政治問題にについてたずねると、その人はその新聞に書いている意見を、自分の思考 の結果と思い込んで語るのだという(211ページ)。また、こういった刷り込みは芸術作品に対する評価にも影響するそうだ。この本ではその一例として、美 術館に訪れた人間の美的判断を分析している。有名な画家の絵を眺めると、普通の人はその絵を美しいという。しかし、こういう人間の判断を分析すると、本当 はその絵に対してなんの特別な内的反応は感じておらず、その絵を美しいと考える理由は、その絵が一般に美しいものとされているからだということが分かるの だという。

このように、マスメディアなどの影響が人々にあたえる刷り込み効果はおおきい。なので、第二期ウルトラが過小評価されたり、アニメファンや特撮ファンが非常識に見える理由もマスコミによる刷り込みである可能性は十分にありうるのである。
 こういうことを特撮ファンの筆者がいってもあまり説得力がないかもしれない。しかし、もし「アニメファンや特撮ファンは他の人間たちより 非常識」という認識のお持ちの方がこれを読んでいらっしゃったら、その認識はホントに絶対に正しいのか?と今一度疑っていただきたいとおもうのだ。

*註)『自由からの逃走』の著者は、権威というものを全面的には否定していない。本人の利益を助長し、抑圧の要素をもたない権威にまで反発してしまう人間は、逆に権威にあこがれをもっている「権威主義的性格」の人間であると分析している(187ページ)。

 某有名脚本家は30年以上前に『仮面ライダー』の企画の際「正義はヒトラーがつかっ た言葉だから自由という言葉をつかおう」という意見をだし、以降この意見が若い世代を中心とした日本社会に定着した。しかし、実際は、ヒトラーの『わが闘 争』を読むとヒトラーは自身の闘争の目的を「わが民族の自由のため」と何度も述べているのだ。つまり某有名脚本家のこの意見は事実誤認であったのだ。

 なのに、多くの日本人はこの事実に気付かず、某有名脚本家の「正義はヒトラーがつかった言葉だから自由という言葉をつかおう」という意見を30年 以上妄信していたのだ。この事実は、現代の日本社会では著名人が一般市民にとって絶対的な権威になっていることを証明する事実である。現代の日本社会は、 一流マスコミに登場する言論人によって支配される中央集権的なファシズムの社会なのである。この件は現在の日本の市民が、いかにマスコミに登場する著名人 の一言に弱いか、ということを示す証拠である。

心理学用語で「ハロー効果」という言葉がある。これは、権威のある人間が何か語ると、それが例え間違いでも人々はその発言が正しいと思いこんでしまう効果の事だそうである。「ハロー効果」は『大辞林 第二版』(三省堂)によると「人や事物のある一つの特徴について良い(ないしは悪い)印象を受けると、その人・事物の他のすべての特徴も実際以上に高く(ないしは低く)評価する現象。後光効果。光背効果。」とある。

某有名脚本家が「ヒトラーは正義という言葉をかたったから自由という言葉を使おう」などというと、誰もが「ヒトラーは自由という言葉を使わなかった」と思い込んでしまった。これは、このハロー効果によるエラー(ハローエラー)によるものだろう。

ある人物を評価するとき、その人に目立って劣った特徴があると、その人物や物事のすべてを劣っている、と見なすということもハロー効果である。日本 特撮ファンやアニメファンの言動が他の人間より奇妙にみえるというのは、このハロー効果によるものである可能性もあるのではないか。日本特撮や国産アニメ は知識人やマスコミによって酷評されたため、日本特撮やアニメを好むことは、社会的にはその人の「劣った特徴」となってしまった。そしてその「劣った特 徴」によって、彼らの言動がハロー効果ですべておかしく見えているだけなのかもしれない。

血液型性格判断の番組の影響で特定の血液型の人間がイジメにあうという事実があるらしい。朝日新聞社『AERA』2005年1月24日号(17ペー ジ)の報道によると「放送倫理・番組向上機構(BPO)」には視聴者から血液型性格判断の番組の影響で「子供が通う学校で血液型によるいじめが始まってい る」という苦情が寄せられているらしい。
(『日経エンタテイメント!』2005年2月号の23ページにも同様の記事がある。)

血液型性格判断の番組の影響によってイジメがおこる、という実例が存在するとなると、マスメディアの報道によって、特定の人間たちへ偏見が生まれ、 その人たちが周囲の人間たちから迫害されるということが起こりうるのではないか。扶桑社『週間SPA!』2005年2/1号の『誤解と偏見の「オタク迫 害」に異義アリ!』という特集では宮崎事件の直後にアニメファンがいじめにあったらしい(20ページ)。90年代あたりのマスコミは、あたかも「オタクの 方から社会を避けている」と解釈しているが、宮崎事件の直後にアニメファンがいじめにあったという事実があるとなると、本当は逆である可能性がある。つま り一般人たちが日本特撮ファンやアニメファンを疎外しているので、オタクは閉じこもらざるを得ないのではないか。

上記のように血液型性格判断の番組の影響で特定の血液型の人間が迫害されるという実例がある。こういう事実がある以上、日本特撮ファンやアニメファ ンが社会的に孤立するのは、マスメディアのオタクバッシングの影響をうけた人間たちが、特撮ファンやアニメファンを疎外しているからである可能性が高いと おもえる。

雑誌『ダヴィンチ』(メディアファクトリー)2005年2月号の『もうオタクと付き合うしかない?』という特集でのアンケートでは、アキバ系のオタ クの過半数以上が「彼女が欲しい」と思っているという結果が出た(60ページ)。いままでマスコミは、オタクは「生身の女の子に興味がない」と分析してお り、定説となっていた。話題となった酒井順子著『負け犬の遠吠え』(講談社)でも、そのような記述があるらしい。しかしこの『ダヴィンチ』のアンケートの 結果をみると、そういうオタクの分析は事実誤認だったようである。こういうマスメディアの分析を事実と信じて「オタクは生身の女の子に興味がない」と思い 込んでいた人は多いのではないだろうか。これもマスメディアの報道が人々に特定の人間への偏見を生み出すという実例だろう。

 明治学院大学教授の川上和久氏の著書『情報操作のトリック その歴史と方法』(講談社)45ページによると、権力者が民衆を支配する方法にはいく つかのパターンがあるという。それは「カリスマ的支配」「伝統的支配」「合法的支配」「暴力による支配」からなり、このうち「カリスマ的支配」とは、指導 者の能力や資質などの魅力に対し服従者が自発的に服従するような形の支配を指す。言論人、著名人の意見を民衆が妄信する現代の日本は、この「カリスマ的支 配」の状態にあるのだろう。

 2003年のアメリカのイラク侵攻の際、アメリカ国内でブッシュの支持率が50パーセント台という高い支持率をえている。これはアメリカ政府が、 ブッシュへ批判的な報道がおこなわれないようにアメリカ国内のマスコミに圧力をかけているというのが理由のようである。選挙のPRを担当した広告代理店が 政権入りして大統領の相談役になり、政府の世論操作に一役買うという(2003年3月20日の東京新聞の記事『ブッシュ政権のメディア戦略』より)つま り、これもマスコミの影響の恐さを物語っている。やはり新聞などの報道メディアの人々への影響は凄まじいようだ。

ベトナム戦争後、シンクタンクが競うように「いかに世論をコントロールするか」を研究したそうで、グレナダ侵攻、パナマ侵攻はまさにメディア操作の 実験場だったといわれている。アメリカのメディア操作については、同時多発テロの際には大々的に報じられたが、なぜか最近はほとんど報じられなくなってし まった。

 アメリカの政府にくらべれば、日本の政府はまだ報道メディアには寛容のようだ(あくまで比較論ですが)。その証拠に、日本国内のマスコミで、この アメリカのイラクへの侵攻を支持する報道をしているものは見当たらない。つまり日本の政府は、まだアメリカほどマスコミへ厳しい圧力はかけていないのであ る。

 しかし、政府のメディア規制法案が可決されれば、政府のマスコミへの圧力は合法的におこなわれてしまう。そうなれば日本もたちどころに今のアメリカの二の舞いである。なので、メディア規制法案には反対しなくてはいけない。

 日本政府がメディアにあまり圧力をかけていない現状では、やはり日本で権力をもっているのは、政府よりマスコミである。とくに報道メディアや著名 人、言論人は絶対的な権威だ。しかし、だからといって政府がメディア規制をおこなったら、『自由からの逃走』の著者のいう「内的権威」を国家が支配すると いう状況になり、きわめて危険だ。同時多発テロ以降のアメリカは、さしずめそういう状態なのだろう。

越智道雄(明治大学教授)著の『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)によると、ベトナム戦争当時のアメリカでは、女性解放運動の一環として、聖書の女性差別語の排除の運動がはじまったそうです(239ページ)。

この運動は80年代までつづき、83年にはリベラルな宗教横断組織「全国教会会議NCC」が、差別語を排除した聖書を発刊したそうです(239ペー ジ)。アメリカでは、こういう差別語排除運動はリベラル派がマスコミに対しても行うそうです。「差別語や差別的イメージ排除の運動はマスコミに対してもむ けられ、特に児童に差別像をうえつけないよう教科書、絵本、テレビ番組などをチェックし続けている(有名な「セサミ・ストリート」も標的にされ、70年代 には性差別も配慮された番組に変わった)。(239ページ)」

このように、差別語をカットするという表現規制は、むしろリベラル派がおこなうことなのである。こういう表現規制は、その規制の目的がリベラルな方 向のものであるかどうかが問題になるのであって、規制することそのものは否定されないようだ。このようにアメリカのリベラル派(左派)は、市民による表現 規制をおこなうのだから、法規制に反対しつつ、市民グループによる働きかけで表現規制するべきではないだろうか。

 話をウルトラにもどすと、作品内の設定の変更がもっとも著しいのが『ウルトラマンA』である。『A』は当初、男女合体変身のヒーローだったが、シリーズ半ばの28話でやめてしまっている(29話以降は男性の北斗星司が一人で変身するようになった)。

 この『ウルトラマンA』の男女合体変身という設定は、今でこそ評価が高いが、筆者が幼少のころは大変評判がわるかった。なにせ男女が合体して一人 のウルトラマンになるのだから「Aはオカマだ」あるいは「Aはオトコオンナ」といってバカにしていた子供は少なくなかった(「オカマだ」という批判は性同 一性障害の人には失礼なことではあるが…)。

 なので、番組途中で男女合体変身をやらなくなり、北斗が一人で変身するようになるのは、子供ごころに「やっぱり番組を作ってる人たちも、変だとお もったんだろう」と思い、納得していたという思い出がある。正直筆者自身の子供のころは、北斗一人でAに変身するようになってからのほうが、ウルトラマン Aというヒーローに素直に感情移入できたのだった(ストーリー的には前半も楽しめたのだが)。

『A』の男女合体変身は「男性と女性が合体し、性を超越した超人が現れる」ということで考え出されたらしい。男性と女性という両性の合体によって完 全な人間、すなわち超人がうまれる、というのは、古来より人類が形而上的な理想像として求めていたものだ。その「完全な人間」というのがウルトラマンAに 託された理念なのだという。

 ヒーローを「完全な人間」にしてしまうということは『新マン』以前の古いヒーロー像にもどしてしまうといえ、問題ではないか。また、A自身のデザインも体つきが男性的で声も男性なので、「性を超越した超人」というイメージもあまり感じられないのだった。

 聖書の創世記の2章において、神はアダムのあばら骨の一部をとって女をつくったとされている。これは、過去において女性蔑視の根拠となった問題のある聖書の記述である。
 この「あばら骨の一部をとって女をつくった」という聖書の記述は『ウルトラマンA』の企画書に引用されており、『A』企画書では「聖書でも、男はあばら骨(女)と合体することによって、はじめて完全な人間になりうるのだ、と教えています。」とある。

 このように『A』企画書では聖書にならって「完全な人間は男性」ということになってしまっており、変身後のウルトラマンAが声や体型が男性なの は、この聖書の引用を反映したもののようにもみえてしまう。つまり『A』の合体変身の設定は、聖書の女性蔑視の元凶となった部分を元にしたものであり、そ れゆえに問題もあるとおもわれる。

 まだ男女合体変身だったころの話である『A』の14話では劇中で「彼ら(ゾフィから新マンまでのウルトラ兄弟)の最愛の弟であるウルトラマン A〜」というナレーションがある。このように、14話ではウルトラマンAをナレーションで「弟」と呼んでしまっている。この回で「弟」と呼ばれているとな ると、合体変身をしていたころでも、変身後のウルトラマンAは男性だということになってしまうだろう。

『ウルトラマンA』の合体変身が評価が高いのは、ひとえに発案者が著名な市川森一氏だったことが大きいのではないだろうか。前述のハロー効果によって『A』の合体変身の評価は過大評価されている感がある。
仮に『A』の合体変身が市川氏の発案ではなく、女児の視聴者層を獲得するためというような理由であったなら、ここまで合体変身は評価されなかったであろう。

 初代ウルトラマンをデザインした成田亨氏は「ウルトラマンには性別はあってはいけない」といい、第二期ウルトラに登場したウルトラの母の胸に乳房 のついたデザインを批判した。しかし、初代ウルトラマンのデザインは、筋肉隆々とした男性の身体つきをしていて、声も男性であった。そうなると、成田氏の この批判は、なにか男性中心主義的な意見におもえ、筆者としては疑問にのこる。
 つまり明らかに男性の体つきや声をした初代ウルトラマンを指して「男女どちらでもない」とする成田氏の考えは、男性の身体こそが本来の人間の肉体であ る、という男性中心主義的な価値観を感じる。これは前述の「男のあばら骨の一部をとって女をつくった」という女性蔑視の根拠となった聖書の記述にも通じる だろう。

 話をもどすと、ウルトラマンAの合体変身は、映像的にはそれなりのユニークなアイデアだったのも事実である。しかし、先のように、子供が憧れる要 素にはなりにくかった。そうなると、筆者としては合体変身をシリーズ前半のみにしたのは丁度よかったのではないかと思えるのだが…。
 南夕子は、28話『さよなら夕子よ、月の妹よ』で月星人だったということが判明し、退場する。しかし、この回も子供のころは、それなりに一種のイベント として楽しめたようにおもう。夕子が月星人だったというアイデアは、かぐや姫のオマージュであり、民話研究家の熊谷健プロデューサーのカラーが出ていて秀 逸であった。

 そして、『ウルトラマンA』のもう一つの設定の変更はレギュラーの異次元人ヤプールのシリーズなかばにおける全滅である。これについては子供のこ ろは、東映の変身ヒーローものにおける敵組織の交替劇(たとえばショッカーの壊滅のあとにゲルショッカーが出てくる)というものと同じように捉えていたと おもう。正直ヤプールというキャラに特に思い入れのなかった幼少の筆者にとって、別段ヤプールの全滅は残念なことではなかった。

 今となっては、ヤプールの全滅はもったいないようにおもえなくもないが、ヤプールの全滅も中盤の一つのイベントを形成していてそれなりに盛り上 がったのも事実であった。これはやはりヤプールが全滅する回23話『逆転!ゾフィ只今参上!』が作品的に大変異色な傑作だったことが幸いしている。この 23話から29話までの『A』はイベント編の連続でそれなりに盛り上がり、目が離せなかった。

 この『逆転!ゾフィ只今参上!』はTBSヌーベルバークの異名をもつ演出家、真船禎氏が脚本まで手掛けたという作品で、不条理劇のような傑作に仕上がっていた。
 この作品は幼少のころも、ゾフィが客演することや、巨大ヤプールのデザインのスマートさなどが魅力的で楽しめたが、大人になって見返しても、『A』を代 表する異色傑作であり、大変気に入っている作品である。ヤプールが全滅しなければ、この作品は存在しなかったわけで、そうなると『A』から傑作編が一つ消 滅することになってしまう。

『A』の後半は、ヤプールがいないのにも関わらず、なぜか超獣が引き続き登場しつづける。超獣はヤプールが宇宙生物と地球の生物を科学的に合成させてつくり出した怪獣のことだ。しかし、そうなるとヤプール全滅後にも超獣はなぜ出現しつづけるのだろうか? 
 
 巨大ヤプールは、死際に「ヤプール死すとも超獣死なず! 怨念と共に必ずや復讐せん!」という捨てセリフをいい、こなごなに砕け散った。
 子供向けの雑誌では、こなごなに砕け散ったヤプールの破片が超獣になっているため、ヤプール全滅後も超獣が出現する、という説明がされているものもある。

 だが、劇中では、「(前略)しかし、死んだ異次元人ヤプールの身体は我々の知らない間に粉々になってやはり地球に舞い降りていた。やがて、地球に なにが起こるのか。だあれもしらない。恐るべきヤプールの復讐。君たち、危機はまさにせまっているのだ。」というナレーションがあるだけだ。つまり「ヤ プールの破片が超獣になっている」というようなハッキリとした説明が劇中にあるわけではない。

 制作者側は、このナレーションと、死際のヤプールの台詞「ヤプール死すとも超獣死なず!」で「ヤプールの破片が超獣になっている」という説明をしたつもりなのかもしれない。だが、説明としては少々不十分である。

 ヤプール全滅後は、怨念を抱く人間と宇宙生物が、ひとりでに合体して超獣になるという展開が何本もある。そうなると、やはりヤプール全滅後に超獣が出る理由は謎であり、謎をのこしたまま『ウルトラマンA』は終了する。

しかし、筆者としては、ヤプール全滅後に超獣が出る理由が謎のままで『A』が終わるところに、『エヴァンゲリオン』的な面白さがあるようにも思えるのだ。 

『新世紀エヴァンゲリオン』は、作品の中での謎の多くが解明されないままに終了し、これに不満をもった一部の視聴者がテレビ局に抗議した(筆者は謎 のままでいいとおもってたが)。この抗議を受けて、謎の全てを解明した劇場版が後に製作されるのだが、当初『エヴァ』のスタッフ側は、あえて謎を解明しな いで「寸止め」の状態で作品を終了するつもりだったらしい。

『A』で、ヤプール全滅後の超獣の出現理由がきちんと説明されないのも、そういう「寸止め」的な面白さがあるとはいえないか。『エヴァンゲリオン』 は劇場版の公開前に、謎の解明をめぐって、いろいろな説が飛び交い、研究書が多数刊行された。同じように『A』後半の超獣の出現理由も、視聴者である我々 がいろいろと考察をして楽しんでみるのも一興だろう。

 制作者側は後半の超獣の出現理由について、とくに何も考えていなかった可能性はあるが、それを視聴者が解釈で埋め合わせるということは許容されるべきものであろう。
『A』の場合は前述の巨大ヤプールの死際のセリフやナレーションで、ヤプール全滅後も超獣が登場することが示唆されている。これらのセリフやナレーション を「テクスト」とし、これらの「テクスト」から超獣の出現理由について、様々な解釈をおこなうことは可能だ。これは、前述の記号学者エーコのいうところ 「テクストの意図」にはそっているものであろう。

 筆者が『A』で『逆転!ゾフィ只今参上!』と並んで好きな作品が48話『ベロクロンの復讐』である。この48話は、全滅させられたヤプールの生き 残り(女ヤプール)が、Aに復讐をするという作品。この回はヤプールが一度全滅させられたという設定を生かした作品であり、ヤプール全滅という展開があっ たからこそ生まれた傑作であった。
 この作品は、争いのあとには遺恨がのこり、それによって争いが長期化、ドロ沼化することもあるという現実社会の問題を鋭くえぐりだした異色作だった。こ れは女ヤプールの「勝ったものは負けたものの怨みと憎しみを背負って生きつづけることをわすれるな!」というセリフに象徴されている。

前述の巨大ヤプールの死際の「ヤプール死すとも超獣死なず! 怨念と共に必ずや復讐せん!」というセリフによって、ヤプール全滅後にも出現しづつげ る超獣自体に「ヤプールの怨念」という意味づけがなされたともいえる。ヤプールが全滅したあとに超獣が出るのは、それ自体が「争いの遺恨」を象徴している といえなくもない。

(『A』の『ベロクロンの復讐』は夢(ないし幻覚)と現実が交錯するというストーリーであり、こういう展開は第二期ウルトラにはおおい。他には『レ オ』のサタンビートル編もこれにあたる。前述の『A』の巨大ヤプールの回も、狼の顔になった老人と北斗が戦う場面は、夢なのか現実なのか分からないまま終 わる。)

『ウルトラマンA』は市川森一氏が企画から関わっていて第1話も執筆している。ウルトラシリーズに参加した脚本家の中では、市川氏は石堂淑朗氏とと もに著名な脚本家である。市川氏の手掛けた『A』の作品は、この『ベロクロンの復讐』と4話『三億年超獣出現』、14話『銀河に散った五つの星』、それと 最終回『明日のエースは君だ!』の4本が白眉であろう。

 しかし、ヤプールの全滅という展開がなかったら、傑作『ベロクロンの復讐』は存在しなかったわけで、そうなると『A』という作品から、また傑作編 が一つ消えてしまうことになるのである。つまり、ヤプールの全滅は、結果的には『A』という番組をドラマ的に深化させたともいえる。

『エース』の後半では、ヤプールについてセリフとしても語られることが少なくなるが、これは番組を途中からみた視聴者への配慮であろう。こういう配 慮は視聴者にわかりやすい作品をつくるという配慮としては一応評価できる。近年はDVDソフトで作品に初めて触れる視聴者もおおくなっているが、DVDソ フトを後半の巻からみる視聴者もいるとおもわれ、こういう「わかりやすい作品をつくるという配慮」は現在でも無効化はしてはいない。

 市川森一氏は『ウルトラセブン』からウルトラに参加する。『セブン』で市川氏が手掛けた作品は7本だが、上原正三氏との合作が2本あるため、それ を除けば5本である。『A』では7本書いており、他のライターとの合作はない。そうなると『セブン』より『A』の方が、実質的には多くの本数を手掛けてい ることになる。
『セブン』の市川作品は24話『北へ還れ』、29話『ひとりぼっちの地球人』、37話『盗まれたウルトラアイ』の3本に評価が集中している感がある。
 筆者としても、『セブン』で印象的な市川作品はこの3本であり、その他はやや凡作といった印象がある。『A』でも前述の4本を除いた作品は、他のライターの作品とくらべて際立って強い印象は感じなかったようにおもう。

『セブン』の24話『北へ還れ』はドラマ性はあるものの、そのドラマはフルハシの母親が息子を心配して上京するというもので、いい話ではあるが、後 のウルトラでも似たような作品はいくつかみたれた(『タロウ』で阿井文瓶氏が書いた51話『ウルトラの父と花嫁がきた!』など)。なので『北へ還れ』は、 とりわけ市川氏らしさの出た作品ではないと筆者は思う。

『A』の14話『銀河に散った五つの星』も、盛り上がる話であり『A』という番組を代表する傑作ではあるものの、市川氏らしさ、というものはあまり出ていなかったようにもおもわれる(あとに田口成光氏によって多く書かれた兄弟の客演作品とあまり大差はない)。

 ちなみに『新マン』では6本の作品を執筆。『新マン』においてはウルトラブレスレットの登場や、伊吹隊長の登場の回など、中盤の設定編をいくつか 書いており、メインライターさながらの活躍をする。しかし、その後4クール目は『シルバー仮面』に移ったためか全く書いていない。
『新マン』における市川脚本は、最も凡作が少なく、6本手掛けたうち6本ともファンの人気の高い話題作であった。

 そのなかでも31話『悪魔と天使の間に…』は市川氏らしさを強く感じるドラマで特に人気が高い。18話『ウルトラセブン参上!』も市川氏の作品で あるが、この回はドラマ的にはやや凡作のようにも思える。だが、セブンを再登場させるというアイデアの奇抜さ(このころは奇抜なアイデアだった)や、怪獣 ベムスターのデザインやアイデアの面白さにより、やはり『新マン』を代表する人気作でもあった。

 以上、第二期ウルトラのシリーズ構成、つまり設定の変更(よく路線変更といわれる)について、いろいろと考察してみた。『A』の設定の変更は批判 されることがおおい。だが、あえてここでは、ある面からみれば成功かもしれない、という考察を行ってみた(単に巨大ヤプールに思い入れがあるだけという噂 もあるが…)。こういう意見もあるということで御容赦いただきたい(蛇足だが、前述の『太陽にほえろ』のジーパン刑事は、当初は拳銃を使わないポリシーを もつ刑事だったが、途中から拳銃を使うようになった。これも一種の設定変更(路線変更)であろう)。

 また、あまり触れられないが、初期ウルトラ(初代『ウルトラマン』『セブン』)は、途中で設定変更が行われなかったにもかかわらず、設定面でいくつかの混乱がみられる。

 初代『ウルトラマン』は、わずか39本という短いシリーズでありながら、シリーズ中で時代設定が2転3転してしまっている。23話『故郷は地球』 (ジャミラの回)では、ジャミラの墓にジャミラが死んだ年が1993年と刻まれている。そうなると初代『ウルトラマン』は1993年の物語のはずである。
 それなのに後の26〜27話『怪獣殿下(前・後編)』(ゴモラの回)では、科学者が大阪万博にゴモラを出品しようとする展開があるため、初代『ウルトラマン』は大阪万博の建設中の1960年代後半(本放送当時)の設定の物語ということになってしまう。
さらに最終回『さらばウルトラマン』では、冒頭で岩本博士のセリフに「(ゼットン星人の)空飛ぶ円盤は1930年以来ひんぱんに地球にあらわれている」 「敵(ゼットン星人)は40年間侵略のチャンスを狙っていた」というものがある。これらのセリフから考えると『ウルトラマン』の時代設定は1970年とい うことになる。

 このように、初代『ウルトラマン』は23話、26〜27話、最終回で時代設定がことなっている。これは明らかな設定の混乱であろう。『ウルトラセ ブン』の時代考証は、企画書には1987年となっているそうだが、劇中ではとくに時代設定を語るセリフ等はない。『セブン』は実相寺昭雄監督作品を中心に 当時の下町の町並みがうつっているので、やはり現代だということになろう。

『ウルトラセブン』では、19話『プロジェクト・ブルー』(バド星人の回)から、地球と月をつつむ電磁バリアーが始動しており、19話では、このバ リアーによって星人の宇宙船が墜落するというシーンもある。しかし、この電磁バリアーの設定は、あとの回で忘れさられる。『セブン』は全ての敵星人や怪獣 が宇宙からくるのだから、19話以外の話にこの電磁バリアーの設定が全く関わってこないのは変ではないだろうか。この点も『セブン』の設定面の混乱といえ るだろう。

 自分はナチスドイツのヒトラーの退廃芸術展についての本『ヒトラーと退廃芸術』(河出書房新社)を読んだことがある。これによるとヒトラーは「完 全なもの、完成したもの」しかみとめず、「未完成なもの」は受け入れなかったそうで、そういう作品を「退廃芸術」として弾圧の対象にしたという(104 ページ)。一部の特撮ファンはやたらに「完成度」ということにこだわり、それを評価基準にしているが、そういう評価基準そのものに筆者は疑問を感じるの だ。〈了〉

*捕足(02,12/19)
ジーパン役の松田優作が「太陽にほえろ!」を気に入っていなかったという件について捕足。松田氏は「あの番組(「太陽〜」)は好きじゃなかった」という発 言を生前にしていたというが、その一方でボス役の石原裕次郎や山さん役の露口茂とも仲が良く、降板後も長さん役の下川辰平や石原氏とも交流があり、降板後 も時折「太陽〜」のスタジオに顔を出していたという。その後の新人刑事の推薦にも同じ文学座出身のボン役の宮内淳やロッキー役の木之元亮をスタッフに推薦 したのも松田氏だった。節目の番組関連パーティーにも積極的に参加していたそうで、「あの番組(「太陽〜」)は好きじゃなかった」という発言とは裏腹な事 実があったことを明記しておく。

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