作品研究8
『第二期ウルトラファミリードラマ考』
最終更新 2007年10月14日
2000年、2月UP
『ウルトラマンA』以降、ウルトラシリーズにはウルトラ兄弟という設定が登場した。また、シリーズ後半からウルトラの父が登場し、ウルトラ兄弟はウルトラファミリーとなる。この『A』でのウルトラファミリーという設定は、以降の第2期ウルトラシリーズにもひきつがれた。いわば『ウルトラマンA』という作品は、ウルトラファミリーという設定を確立させたという意味においては、ウルトラマンシリーズの新たな出発点であり、原点であるということができるかも知れない。
ウルトラマンの家族の設定は、ギリシャ神話の神々を彷佛とさせるもので、この設定により、ウルトラマンはより神話性を帯びた神秘的な存在になったと言えるだろう。
ギリシャ神話について大雑把に説明しよう。大昔、まだ世界が混沌としたカオスの時、その中から天と地が別れた。これがそれぞれ天の神ウラヌス、地の女神ガイアと呼ばれる。そしてこの二人から、ティタン神という、12人(正確にはギリシャの神々は人間ではないため、1柱、2柱と数えるそうです)の兄弟、姉妹が生まれる。そしてそのなかの神クロノスと女神レアが6人の子供を生み、それがオリンポス神とよばれる神々となった。このように、ギリシャ神話の神々は全て血縁で繋がっている家族である。
ウルトラファミリーにギリシャの神々をダブらせる、というのは、この時期のウルトラシリーズのスタッフも意識していたようである。『ウルトラマンタロウ』25話で出てきたウルトラの国のイラストは、ギリシャの神殿のような建造物が沢山描かれている。さらに、この回に出てきたウルトラタワーのデサインも、古代ギリシャの聖火台を意識したデザインとなっている。さらに『タロウ』51話『ウルトラの父と花嫁が来た!』においては、死んだ南原隊員のフィアンセ、珠子をウルトラの父が生き返らせるときに、ウルトラの父が月桂冠型の道具から光線をだし、蘇生させるというシーンがある。月桂冠は、なぜか日本酒の名前になっていたりするが、本来は古代ギリシャで、競技の優勝者や一番名誉のある人物に与えられた装飾品だ。
第2期ウルトラの関係者の証言から、ウルトラファミリーにギリシャの神々を関連させていたという内容のコメントは出てこない。だが、完成作品にこういったシーンがあるというのは、制作当時は、第2期ウルトラの関係者の誰かに、ウルトラファミリーにギリシャの神々イメージを持たせようとした人物がいたことは間違い無い。当時の番組関係者というのは、過去の自分の手がけた作品について忘れていることも多いので、関係者からウルトラファミリーにギリシャの神々を関連させていたというような証言が出てこないのは、当時の関係者がこのことについて忘れているだけなのかもしれない。
ウルトラ兄弟は宇宙警備隊という組織に所属しているという設定で、この宇宙警備隊というのは初代『ウルトラマン』の1話でウルトラマン自身のセリフの中に登場したものだ。第二期ウルトラでは、この宇宙警備隊の設定を発展させてウルトラ兄弟や、ウルトラファミリーという設定が生まれたのだ。
子供向けの雑誌などの設定ではウルトラの父を大隊長とし、ウルトラ兄弟の長男ゾフィーが隊長という設定となっている。が、実際の作品内ではゾフィーは隊長とは呼ばれておらず、兄弟の間での上下関係は強調されていない。ウルトラの父も『タロウ』26話で宇宙警備隊の創設者だったという説明があるが、劇中では大隊長というような肩書きはもっていなかった。
雑誌、絵本などでは、ウルトラファミリーには、この他にも実に詳細な裏設定があるが、作品内でのウルトラファミリーの設定は、単に5人兄弟に父、母がいるという以上の説明はなく、至ってシンプルである。この文では、あくまで映像作品内でのウルトラファミリーの設定に準拠して語っていくことにする。
このウルトラ兄弟の設定は、1971年に放送された『シルバー仮面』での春日兄弟の設定の影響をうけた部分もあるのかもしれない。この『シルバー仮面』は第二期ウルトラと同時期にTBS系で放送された特撮ヒーローもので、視聴率的にふるわなかったが、スタッフは第二期ウルトラと重複しており、このことから、スタッフが『シルバー仮面』の設定を意識せずとも反映させた部分もあるだろう。
『シルバー仮面』の春日兄弟の設定とウルトラファミリーの設定が大きく違うのは、ウルトラファミリーは実の家族ではなく、非血縁性の家族という点である。雑誌では、タロウがウルトラの父と母の実子という設定があるものの、この設定は劇中ではかたられないものである。
60年代のアメリカにおけるヒッピーは、家族の血縁性を否定して、非血縁の拡大家族というものをつくって共同生活をしたという(一応血縁でつながっている家族も同居するようなので、完全な否定ではないようだ)。そこでヒッピーたちは共同育児をやっていたそうである。
この「非血縁性の家族」というのは、奇しくも血縁関係のない家族であるウルトラ兄弟の設定に通じるといえなくもないのではないでしょうか。これは血縁性の核家族は受験戦争や出世競争に通じるという考えがあるからでした(以上は越智道雄/著『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)p79、p113より)。
ウルトラマンの故郷、ウルトラの国は『ウルトラマンA』の44話『節分怪談・光る豆』において始めて映像化されている。以降、『ウルトラマンタロウ』27話と『ウルトラマンレオ』38話でも映像化されている。初期ウルトラのヒーローは、家族や故郷、また彼等の文明や文化といった背景的な設定をはっきり描写していない。初期ウルトラファンは、初期ウルトラのヒーローに、背景的な設定をはっきり存在させていないことを、ヒーローの神秘性を高めていると評価している。さきに延べたように第2期ウルトラにおいて、特に『A』からウルトラマン達の背景的な設定が描写されたが、このことを初期ウルトラファンは、ウルトラマンから神秘性を奪ったと批判した。
しかし初期ウルトラのヒーローに背景的な設定が無いのは、別に制作者側がヒーローに神秘性を持たせる為に意図して行なっていたものではないようだ。初期ウルトラの本放送当時は、視聴者の子供の関心がヒーローではなく怪獣にあつまっていた。なので当時のスタッフは子供達のニーズに答えるべくヒーローより怪獣を描くことに重点を置いた。よって初期ウルトラのヒーローに背景的な設定がないのは、スタッフが怪獣を描くことに神経を注ぎ過ぎた結果、ヒーローの設定を作り込む精神的余裕がなかったというだけのことに過ぎない。つまりスタッフが子供の目を強く意識し過ぎた結果なのだ。スタッフがゲストの怪獣の描写にかまけていた結果、肝心の主人公の設定がおろそかになっているというこの事態は、本来はテレビシリーズの設定としては破綻一歩手前ともいえる事態と言っていい。
もし、初期ウルトラのヒーローを謎の生命体として描くために、あえて背景的な設定をつけなかったのなら、それに伴い、劇中の登場人物たちが、ウルトラマンの謎を解明しようとするというドラマを描く必要があるだろう。しかし、実際の作品ではそういった展開はないため、背景的な設定がないのは、やはり不自然のように思えてならないのだ。
初期ウルトラのヒーローには、背景的バックグラウンドの設定が存在しないのでストーリーの進行役に徹しており、狂言回しとしか解釈できないヒーローである。なので初期ウルトラのヒーローに背景的な設定が存在しないことは、筆者からするとウルトラマンを底の浅いキャラクターにしてしまっているように思え、物足りなさを感じる。
また、先のウルトラの国の映像化にしても、建造物をロングショットで一瞬写したという程度のもので、ウルトラの国の全てを視聴者に見せてしまったとは言いがたい。そういうことからも、ウルトラの国には、まだ多くの謎を秘めていると言え、ある程度の神秘性はたもたれていると言える。
『A』ではウルトラファミリーの設定ができ上がることに附随して、変身後のウルトラマンたちが人間臭いリアクションをするシーンが増え、変身後のウルトラマンがより表情豊かに描かれるようになった。『A』以降のウルトラでのこういった描写は、ウルトラマンをただの狂言回しではなく、一つの人格を持った登場人物として描こうという意図によるものと思われ、第2期ウルトラの人間ドラマ重視の制作姿勢が表われている一例といえるだろう。
『帰ってきたウルトラマン』で坂田健を演じた俳優の岸田森氏は、『帰マン』で脚本を1本執筆したが、この当時インタビューで、「ウルトラマンをただのヒーローではなく、感情が子供にも伝わるようにしたい」とコメントしている(このインタビューは『不死蝶 岸田森』に収録)。
岸田氏は『ウルトラマンA』でナレーションを担当したが、『A』以降、変身後のウルトラマンが人間臭く描かれるようになったのは、この岸田氏のコメントがスタッフに影響を与えたためなのかもしれない。
一部の初期ウルトラファンは、初期ウルトラにおいてウルトラマン(含むセブン)は人間にとって神様のような存在だったとし、『ウルトラマンA』からのウルトラファミリーの設定やウルトラマンの感情表現は、ウルトラマンを擬人化してしまい神秘性を奪うと批判していた。
しかしマニア向けの研究書には、初代『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の企画書が何度か掲載されているが、それらにも、ウルトラマンやセブンが神であるというような記述は存在しない。なので初期ウルトラシリーズがウルトラマンを神として描くことに重点を置いていたとは思えないのだ。
初期ウルトラの劇中で、ウルトラマンが神であるという描写があるのは、筆者の記憶する限りただ一度しかない。それは『初代マン』の7話『バラージの青い石』(アントラーの回)である。この回では、砂漠の中にある文化の遅れた国『バラージ』に、大昔ウルトラマンが訪れたという出来事があり、バラージの人々はウルトラマンのことを「ノアの神」として石像を作って祭っているという描写がある。
この『バラージ』の街は、旧約聖書に書かれたノアの方舟が漂着したアララット山の近くにあるという設定である。なので、この事から「ノアの神」は、旧約聖書におけるノアを意識しているようである。
旧約聖書はユダヤ教の教典である。ユダヤ教では、神は擬人化されていて、神が人間を造ったことを後悔したり、大地を呪ったりするという描写があり、神も人間と同じく感情をもち、過ちを犯すものとされている。
『初代マン』の7話におけるノアの神の設定が 旧約聖書をヒントにしたものであり、ユダヤ教の神は擬人化された存在だったとなると、「ノアの神」はユダヤ教的な擬人化された神であると解釈できる。故に、この「ノアの神」が人間的な感情を持っていたとしても何らおかしくはない。この『初代マン』の7話の「ノアの神」を根拠にウルトラマンを神と解釈するのならば、ウルトラマンはユダヤ教の神に近い存在ということになるため、むしろ人間的な感情をもっていて当然とさえいえないか。
そして、ユダヤ教以外では、ギリシャ神話の神々も実に人間臭い神様だ。彼等は全く人間と同じように喜び、悲しみ、怒り、またあるときは人間のように邪心や欲望を抱き、神同志で憎しみあって戦争をしたりもする。このようにギリシャ神話の神々が実に人間臭い神様なのだから、ウルトラマンが人間臭く描かれるようになることによってウルトラマンから神秘性を奪ってしまうとは言えないだろう。奇しくも、第二期ウルトラには、先に述べたようにギリシャ神話を意識したような描写がいくつかあるが、この点が、第二期ウルトラにおけるウルトラマンの擬人化と見事にシンクロしているのは面白い。
ウルトラマンを神と解釈した場合、基本的に作品世界にウルトラマンが一人しかいない初期ウルトラは一神教的な世界。それに対して、ウルトラ兄弟の設定があり複数のウルトラマンが登場する第二期ウルトラは多神教的な世界だといえるだろう。
ウルトラマンは、劇中の設定では神ではなくM78星雲からきた宇宙人である(あまりに有名な設定)。宇宙人であるウルトラマンが地球をまもるために闘う、というのが昭和のウルトラシリーズ共通の設定であった。しかし、この設定を「他国の人間が自国を守る」ことと同じであるとし、ベトナム戦争のような「一種の内政干渉」だと批判する意見もある。
日本国内では、ベトナム戦争は「アメリカが海外に民主主義をおしつけた戦争」と誤解している人がおおいようにおもわれるのだが(一部の文化人たちのメディアでの発言によるものとおもわれる)、実情はかなりちがうようである。
『マーティン・A・ヘリー、ブルース・シュレイン共著『アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命』(第三書館)、カウンターカルチャーの運動家たちがさまざまなベトナム戦争反対運動をおこしたことが詳しくかかれているのですが、342ページには以下のような記述がある。
「多くの活動家たちが、ヴェトナム戦争とは、決してアメリカ外交政策の失敗や勇み足の結果などではなく、それは多くの国で見られるあの帝国主義的介入のいちばんあたらしいかたちなのだ、という思いをいだきはじめていた。」
この文からもわかるように、当時のアメリカ国内のカウンターカルチャーの当事者たちは、ヴェトナム戦争を軍需産業を発展させるための侵略戦争だとかんがえていた。また、そうでなければ60年代から70年代にかけて起こったヒッピーや新左翼といったカウンターカルチャーが資本主義を批判した共産主義系の思想の延長にあるものばかりになるはずがない。
ベトナム戦争あたりから現在まで、アメリカの軍需産業は、CIAやマフィアも味方につけ、もやは政治家がコントロールできない状態にあったといわれる。この件について『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(ハヤカワ文庫)の巻末の上智短大助教授の土田宏による解説に記述がある。
このなかで、ケネディはベトナムへの軍事介入を拒んだためにCIAとマフィアによって暗殺されたとある。
ベトナム戦争への介入の動機は、当初CIAとマフィアはキューバへの侵攻を望んでいたが、ケネディは人道的な理由からキューバ侵攻を中止した。ケネディの後釜のジョンソン大統領もキューバ侵攻をみとめなかったが、それは人道的な理由よりもキューバへのソ連の介入が余りにも大きすぎたからだという理由だった。そしてジョンソンはキューバ侵攻で利益を得るはずだった軍産複合体やマフィアにごきげんをとらなくてはならなくなる。これがベトナム戦争へとつながっていった。
「ジョンソンとしてはキューバの代わりになるものを、キューバ侵攻で利益を得るはずの人たち(軍産複合体とよばれたもの)に与える必要があった。それがヴェトナムだった。ヴェトナムへの介入を強化することで軍の一部は満足する。そして、そこに麻薬を持ち込むことで、キューバのカジノから得た利益以上のものを得ることができ、マフィアたちも満足する、と考えることも可能だろう。」(483ページ)
また、『JFK ケネディ暗殺犯を追え』の本文には、著者のジム・ギャリソン本人によってベトナム戦争にアメリカがかかわる経緯がつづられており、「第二次大戦終結以来、アメリカの冷戦支持派の立場は、いかなる理由であれアメリカはヴェトナムとその貴重な天然資源を手放すことはできないというものだった。」(272ページ)という記述がある。
このように、アメリカがヴェトナムにこだわった理由はベトナムの天然資源による利益を見込んでいたもののようだ。これらの件については、他に落合信彦の『決定版 二〇三九年の真実』(集英社)にもいくつか記述がある(214、215、226〜229ページ)
ヒッピー文化に深くかかわったビート文学の代表的な詩人で、60年代のアメリカのカウンターカルチャー関係の本では必ずといっていいほどでてくるアレン・ギンズバーグの詩集『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』(思潮社)に収録されている『ペンタゴン悪魔払い』(196ページ〜197ページ)という詩には「軍需生産のために莫大な僕の精神を浪費しているのは誰だ?」とか「洗脳! 恐怖! 支配者の言葉! 産軍を混同した大統領の発言!」とか「銀行は戦争投資の高利貸しに電話をする」という言葉があります。
こういうことからも、はやりベトナム戦争は軍需産業を儲けさせるための戦争として当時のアメリカの左翼(ヒッピーや新左翼)たちは考えていたことがわかる。
『アシッド・ドリームズ』によると、ベトナム反戦運動をやった新左翼の運動家集団のマザーファッカーズは、「LSDによって武装せる意識」という声明文をだし、その中で同志たちに「世界にみなぎる不公正を正すために、今こそ銃をとりあげよ。」とアジっていた(259ページ)という。
また日本赤軍のメンバーは、パレスチナ解放闘争に参加し、レバノン国民には大人気で「イスラエルと戦ったアラブの英雄」といわれている。レバノンの人たちからすれば、日本赤軍のメンバーは「自国を守った他国の人たち」だ。しかしレバノン国民は彼らの活躍を賞賛した。これらのケースのように、60年代から70年代の新左翼の運動家たちは、市民レベルで他国への救援を指向したり、また実践もしていた。
「ウルトラ兄弟(ファミリー)」は、実はウルトラの星の政府と敵対している反体制組織だった、という解釈はどうだろうか? 『レオ』の38話(ババルウ星人の回)のウルトラの星のシーンで、ウルトラ兄弟が地下から出てくるのはそのためだったのかもしれない?! 第二期ウルトラにおいては、ウルトラ兄弟たちがウルトラの星でどのような扱いをうけていたのか、ほとんど描かれていないだけに、そういう解釈も可能ではないか。
そうなると、「ウルトラマンは反体制テロリストだ」という阿井文瓶氏が語った言葉と見事にリンクする。『タロウ』で「ウルトラの国」として画面にでてきた都市は小規模な都市だったが、これはウルトラファミリーたちが住むコミューンの一つだったからなのだろうか?!
蛇足だが、近年「自分の国は自分で守らなければ」と考え「有事法制は必要だ」というような意見をもつ日本人が多いらしい。有事法制を支持する人たちの「自分の国は自分で守らなければ」という考えは、『セブン』の最終回の「地球は地球人で守らなければ」というキリヤマ隊長のセリフを彷佛とさせる。有事法制の支持率の高さは『セブン』の影響なのだろうか…?
また、第二期ウルトラでは、変身前の主人公の家庭での日常生活が描かれている。このホームドラマ性の導入の理由は、一つには本放送当時(70年代前半)のホームドラマのブームというものも意識したものかも知れないが、もう一つの理由は、主人公をMATの隊員ではなく人間として描くという制作者側の意向があったという。
このことについてプロデューサーの橋本洋二氏は、以下のようなコメントをしている。
「(主人公を)MATの隊員を隊員としてではなく、人間として描こうということも重視しましたね。それを受けて、岸田森さんたちの設定(坂田家の設定)をつくり、プライーベートな生活をも表現しました。みんな普通の人間であることを押し進めたわけですが、子供たちはちょっとがっかりしたかもしれませんね。」(『メーキング・オブ・円谷ヒーロー』(講談社)112ページ)。
この意向は、先のウルトラマンの感情表現同様、ウルトラシリーズに登場するキャラクター(ヒーロー、人物問わず)を人間臭くえがく、という点で共通している。
また、よく見ると第二期ウルトラの主人公はいづれも親もとを離れ単身上京しているという設定であり、作品の中で描かれるホームドラマとは、主人公の下宿先、居候先の家庭のドラマである。
『新マン』の郷秀樹が居候する坂田家、『タロウ』の東光太郎が下宿する白鳥家、『レオ』の最終クールにおけるゲンとトオルの居候する美山家、どれをとっても主人公の実家ではない。『A』の北斗はマンションで一人暮しをしていて、下宿すらしていない。また『タロウ』の東光太郎以外の第二期ウルトラの主人公たちは、その両親すら劇中でえがかれないのだ。
つまり主人公は親とは同居していないことから、第二期ウルトラのホームドラマは、親子の絆を描くためのホームドラマではないのである。こうなると、第二期ウルトラでの主人公の日常生活の描写は、ここでは便宜的にホームドラマと呼称しているが、一般的なホームドラマとはやや趣きを異にしている。
第二期ウルトラでは、非血縁型の家族のドラマも結構見られる。新マンの坂田家は坂田兄弟は血縁関係だが、そこへ下宿している郷は坂田家とは血縁はないものの家族同様の扱いである。また、新マンの4クール目では、兄と姉を一度に失った次郎の面倒を郷秀樹と隣人の村野ルミ子がみており、この次郎と郷、ルミ子の関係は非血縁型の家族といえる
『ウルトラマンレオ』にも、非血縁型家族の設定はみられる。レオに3話以降登場するトオルは3話で父親が殺されるのだが、5話からはゲンがトオルの父親に、百子が母親になるという約束をして、非血縁家族を形成します。バットンの回では、百子の家にトオルとカオルが同居しているようすが描かれます。この非血縁家族の関係は、ボーズ星人の回でも繰り返し強調されます。
また、円盤生物シリーズになると、百子とカオルが死んで、トオルは美山家に引き取られるんですが、この美山家のおばさんはトオルを家族の一員としてみており、ノーバの回では「わたしはトオルのお母さんよ!」というシーンもあります。この美山家も非血縁家族だといえるでしょう。このようにレオでは、一貫して非血縁家族のドラマが描かれていたといえます。
ヒッピーなどのカウンターカルチャーのコミューンは非血縁家族をつくって共同生活し、血縁性の核家族を重視するアメリカの家族制度へ反逆したのですが、非血縁家族がシリーズに一貫して描かれるレオのドラマは、そういうカウンターカルチャーの精神に通じるものがあるといえそうである。
寺山修司氏(劇作家・詩人)は、『家出のすすめ』というエッセイ(『世界の果てまで連れてって』(ハルキ文庫)に収録)で、自立と自我の形成の為に親元をはなれ家出することを薦めている。 しかし、このエッセイでの家出とは、親子の情を否定したものではなく、日本社会における伝統的な「家」という封建的な制度を否定するためのものとされている。
この『家出のすすめ』はこう締めくくられている。
「望郷の歌をうたうことができるのは、故郷をすてた者だけである。そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか?」
この一節は、寺山氏のいう家出が親子の情を否定するためのものではなく、親子の情を再確認するための家出であることを物語っている。
おもえば、寺山氏は『書を捨てよ、町へ出よう』(角川文庫)の『くたばれホームドラマ』という項で、「プロ野球とホームドラマは平凡な毎日の生活に甘んじる小市民たちの代弁者だ」と批判している。
しかし、ホームドラマというのは、小津安二郎、木下恵介などの名監督が確立した「松竹大船調」とも言われる一つのジャンルであり、特に小津安二郎の作品は、海外でも大変高い評価を受け、近年再評価されている。また、第二期ウルトラのプロデューサーの熊谷健氏は、小津安二郎の研究家で小津氏の助監督を務めた経験もあり、第二期ウルトラのホームドラマ性は、こういう熊谷氏の趣向も反映されたものなのかもしれない。
第二期ウルトラのホームドラマが主人公の下宿先のドラマなのは、放送当時ホームドラマのブームだったことと、先の寺山氏のホームドラマ否定論の間での、一種の折衷案であるとも考えられる。
寺山氏のホームドラマの否定は、氏の様々なエッセイを読むかぎり、決して親子の情の否定という意味ではなく、ありきたりな生活に甘んじる小市民を批判するという意味で行われている。その上で親元を離れることを推奨しているのは、親元を離れることで封建的な家族制度を否定し、それによって子供の親への情というものを、より純粋化しようという意図があったようである。
つまり第二期ウルトラのホームドラマは、主人公の実家ではなく下宿先のドラマとする事で、「家」という封建的な制度を否定したホームドラマとなっていたのだ。
寺山氏と親交のあった山田太一氏はホームドラマの脚本家として有名だが、氏のホームドラマは、大概は平凡な家庭生活に対して「これでいいのか」という疑問を投げかけるスタンスの作品で、この点には寺山氏のホームドラマ否定論の影響が見えかくれしているように思える。山田氏は、ホームドラマの中で平凡な家庭の崩壊を描くことにより、寺山氏のいうホームドラマ批判と折り合いを付けたようである。
山田氏の作品に『早春スケッチブック』という作品がある。
このドラマの舞台となる望月家は、大学受験を控えた息子、和彦と、 中学生の娘と、その両親との四人家族。 一見平和に見える家族だが、実は父も母も子連れ婚。
だからこそ普通以上に家族らしく暮らして来た望月家だったが、 ある日息子は実の父親に逢ってしまう。
ありきたりなものを嫌い、 自分一人で生きてきた実の父親に、和彦は大いにショックを受ける。 また実の父の存在は家族全体にも影響を及ぼしていく。
主人公の実の父親(山崎努演じる)は、以下のようなセリフをいう。
「人は変わるか?そういっちまえば、おしまいだが、昔のあんたは、自分をなんとかしようとしていた、自分をきたえようとしていた、どうせ人生こんなもの、なんて、訳知りになることを嫌ってた。」
『早春スケッチブック』を見た、亡くなる少し前の寺山氏が、この和彦の実の父親は自分自身だ、と言ったそうである。
そういう意味で言えば、第二期ウルトラの主人公は、肉体的、精神的な自己鍛練によって、常に自己自身を変革しようという主人公であり、決して惰性的に平凡な日常を送っている人物ではなかった。つまり
第二期ウルトラのホームドラマ的な展開は、一連の寺山氏のホームドラマ批判や「家」批判には該当しないホームドラマだったといえるだろう。
寺山氏のホームドラマ批判の根底には、虚無的な人生観、則ち虚無主義を否定する、という意味があったようにおもえる。惰性的に「人生こんなもんだ」という諦めの上で生きている人たちに、自分自身で生き甲斐を見い出すことを説こうとしていたように思える。
思えば、一部のサブカル系ライター達は、この虚無主義への否定が則ちオウム的なものであり、虚無主義こそ安全な思想である、という図式を作りたがっているようにおもえる。これを論拠に、理想主義的なテーマを唱えた作品や、70年代のウルトラシリーズなどの熱血スポコンドラマをオウム的と批判し、虚無主義、ペシミズム的な作品を安全な作品としてもてはやしている。しかし、ニヒリズムの否定をオウム的とする意見は、サブカル系ライターの間ではよく言われるが、そういった枠からはみ出ると、むしろ逆に「ニヒリズムこそオウム的である」という意見もある。
『善悪の彼岸へ』(宮内勝典著、集英社)という本では、オウムの教義は、一種の「ニヒリズム」であるとしている。社会への反抗心が、アメリカの人民寺院のような集団自殺へ向かわず、オウムは集団他殺へ向かってしまった。が、著者に言わせると、これこそ「日本型のニヒリズム」(P,260)なのだという。近代西洋の先進国が生み出したニヒリズムがアメリカ大陸へわたり、西海岸へ達して多くのカルトを生み出した。そのニヒリズムは海を渡り、仏教
的な無常観(ニヒリズム)を抱えた、生まれながらにしての無神論者・日本人を浸食している。「オウムの種子は、仏教そのものに内在されていた」(P,249)のだという。
つまり、なにをしてオウム的とするか、という「基準」が、そもそも人によって意見の異なる曖昧なものなのだ。一部のサブカル系ライター達は、自身の虚無主義を読者に押し付けるためにオウムの教義を虚無主義と相反するものと位置付けたのなのではないかと思えてならない。
虚無主義とは、言ってしまえば思考停止の思想であるといえ、つまりは思想的には底が浅いと言えるものではないだろうか。「この世に生きていたっていいことない、なので何をしても無駄」というのは一番何も考えなくてすむので知的な思想とは言いがたいのではないだろうか。
幸福な人生をおくりたいという欲求は、だれもが本来的に持っている願望だろう。こういった願望は自己保存、自己防衛という本能に直結するとおもわれる。「〜なにをしても無駄」というニヒリズムは、それらの本能に反するだろう。なので、ニヒリズムこそ「本能の抑圧」であり「押し付け」ではなかろうか。
オウムから脱会した元信者の手記をみると、大友克洋の『アキラ』や宮崎駿の『風の谷のナウシカ』といった超能力や人類の破局を扱った漫画に影響されて入信した人が多いそうである。
『風の谷のナウシカ』には「王虫(オウム)」という巨大な虫が登場する。「王虫」の名称は「worm(ウォーム=虫)」、「aum(オウム=仏教の教えの一つ)」等に因むそうである。
「aum(オウム)」は『広辞苑』第4版によると「インドで、祈祷・讃歌・呪文などの最初に用いる神聖な音。aumはa,u,mの三字に分解され、さまざまな神秘的解釈がなされる。密教で、多くの真言の最初に用いる」とある。第2版では「古代インドの哲学書ウパニシャッドの秘密語。帰依。密教ではこの一語を念誦すれば無上の功徳が得られるという」という。
そうなると、オウム事件に関係があるのは第二期ウルトラより、むしろ『ナウシカ』や『アキラ』の方なのであるが、なぜか一部のサブカルライターは『ナウシカ』や『アキラ』を批判せずに、オウム真理教とは直接関係ない第二期ウルトラをオウム的などと批判したのだった。それは彼等が『ナウシカ』や『アキラ』のファンだったので、贔屓(ひいき)していたために他ならない。
AUMのAは宇宙の創造(誕生)、Uは持続(生存)、Mは破壊(死)を意味するという。このAUMのMに込められた意味「破壊」や「死」が、オウム真理教を無差別テロに駆り立てたのだろう。前述の宮内勝典の『善悪の彼岸へ』(集英社)は、オウム事件についても触れているが、この本によると、麻原教祖が「全ては変化する。絶対に固定されるものはない。」と、教本のなかで述べていたそうである(205ページ)。「全ては変化する」とは「無常」の意味そのものである。
オウムのいう「絶対の真理」とは、「この世のすべては時代によってかわる」という「無常」だった。オウムの麻原教祖はシヴァ神を名乗り、オウムという名前自体にも「破壊と創造」という意味がある。教団施設のシヴァ神像の裏に、サリン(テロに使用された毒ガス)の精製プラントがあったことも有名である。オウムの無差別テロは「破壊と創造」という東洋思想によって行われたテロなのではないか。
実際オウムは、「aum」という言葉の「破壊と創造」という意味を「諸行無常」と結び付ける解釈をおこなっていた。オウム教団のホームページ『オウム真理教ネット』には、以下のように「オウム」という言葉を解説している。
「オウム真理教の『オウム』とは、サンスクリット語で宇宙の「創造・維持・還元(破壊)」をそれぞれ表す最も聖なるマントラ(真言)であり、これはわたしたちが「生まれ、老い、死ぬ」ということに通じ、すべては『無常』であるというこの宇宙の絶対的真理を意味します」
(『オウム真理教ネット』インフォメーションでのオウムの公式見解)
オウムを生んだもう一つの要因として、90年代の「ニューアカデミズム」ブームがある。浅田彰の『構造と力』とともに、90年代の「ニューアカデミズム」ブームの起爆剤となった本である中沢新一の『チベットのモーツァルト』(講談社学術文庫)がある。これはチベット密教とフランス現代思想(主にクリステヴァ)とを結び付けて分析した本だ。チベット密教といえばオウム真理教のルーツにあたる宗教である。
実は『チベットのモーツァルト』の影響で、オウム真理教に入信した人間もおおかったそうである。『チベットのモーツァルト』は巻頭で早速「ポワ」という言葉についての記述がある(21ページ)。この「ポワ」は、オウム真理教が殺人を行う際に用いたことは有名である。またチベット密教の「オーム・マニパドメ・フーム」というマントラについて触れている箇所もあり(123ページ)。この「オーム」はオウム真理教の名前の「オウム」と同じ「aum」だとおもわれる。
この『チベットのモーツァルト』は1983年に初版がでたが(初版時はせりか書房より刊行)この翌年の1984年にオウム真理教の母体となった「オウムの会」が渋谷区に発足している。こういうことから考えても、オウム真理教は『チベットのモーツァルト』に影響をうけて生まれた教団であるといえるだろう。
つまり80年代のマスコミが仕掛けた「ニューアカ」ブームがオウム真理教を生んだといえるのである。オウム真理教が事件を起こしたとき、国内マスコミはオウム真理教をバッシングしたが、実はオウム真理教は国内マスコミの「ニューアカデミズム」ブームが作り出したといえないか。
話を第二期ウルトラシリーズに戻すと、第2期ウルトラのでウルトラ兄弟の客演する作品は、それなりのテーマ的裏付けが存在するドラマ性のあるものが多い。特に『タロウ』においては、ウルトラファミリーは、いわばポジティブな家族愛の象徴として描かれ、人間の親子の人物と対比させ、人間ドラマに深みを与える役目を果たしている。
家族の情は、しばし封建主義や全体主義を正当化する際に利用されるので、家族愛そのものを封建的であるとして否定する、という世論も一部にあるようだ。
しかし、生物が子供を生む、というのは自然の営みである。また、親が子育てをする、というのも哺乳動物である人間にとっては自然の営みである。親子の人間関係の否定の意見は、これら自然の営みを否定するかのような考えである。
最近、30代以降の若い夫婦が自分の子供をこれといった理由も無しに虐待し、ついには死に至らしめてしまうという事件が続出しており、この問題を専門に扱う相談所まで開設されている。
以前『週間SPA!』(1999年3/17号)の『ブレイクワイフ』(P,61)というコーナーで、子供を毎日無視し、虐待し続ける母親というのがのっていた。その母親は「夫と子供とどちらかを取れと言われたら、夫を取りますね」と言っていた。こういうことがあることからも、近年の幼児虐待の原因は「家族の情は封建的である」という昨今の価値観に原因があるという感がある。
この問題は親子の情を全面否定することをあたかも封建主義や全体主義の否定であるかのように錯覚し、先進的な思想だという勘違いをした思想の行き着いた先であり、まさに、社会の『脳化』そのものの状況であるといえないか。
第二期ウルトラは家族のドラマだけでなく、初期ウルトラより、恋愛を正面きって描いたという特徴もある。この部分は、いままで意外にも言及されなかった部分だ。登場人物の恋愛ドラマをより丹念に描いたのは、ウルトラでは第二期ウルトラからだったのである。
『セブン』の最終回『地上最大の侵略・後編』におけるダンとアンヌの恋愛は、ウルトラシリーズを代表するもの、と一部のファンに言われる時がある。しかし、実際はどうだろうか。『セブン』の最終回を良く見てみると、ダンはあくまでアンヌに自分の正体を明かしたに過ぎず、「好きだ」とは一言も言っていない。『ウルトラマン大鑑』(朝日ソノラマ)に収録されている『セブン』本放送当時にマスコミ用にTBSが製作、配付した番組紹介冊子には、「アンヌとダンの関係は淡い慕情か強い友情の域である」としている。こういったことから、ダンとアンヌの関係は明確に恋愛として描かれていたとは言いがたい。
それに比べると、『新マン』では郷とアキの恋愛が、番組当初から、正面きって描かれる。『セブン』のアンヌは、シリーズの終盤でやや、とってつけたように恋人のように描かれていた感があるが、郷とアキは当初から明確に恋人として描かれているのだ。アキが殺されてしまう37話『ウルトラマン夕陽に死す』において、南隊員と郷の会話に、郷とアキとの結婚をほのめかす会話があったりする(「いいカミさんになるぞ」という台詞)など、ヒロインが明確に恋人として描かれたのはウルトラでは郷とアキからである。また、4クール目のレギュラー、村野ルミ子も郷に片思いをしてるという設定で、最終回『ウルトラ5つの誓い』では、物語の冒頭で郷と結婚する夢を見ている、というシーンがある。
『新マン』37話『ウルトラマン夕陽に死す』と38話『ウルトラの星光る時』の前後編は、坂田アキが殺されるショッキングな作品だ。これは筆者としては、『セブン』の最終回よりも、もっとハードな恋人との別離のドラマだったとおもえる。『セブン』の最終回の場合は別離といっても、死に別れるわけではないので、ひよっとしたらまた再会できるかもしれない、という部分がある。しかし、『新マン』37話は永遠の別離なのである。『セブン』の最終回が辛口のドラマなら、この新マンの37話は激辛のドラマといえるだろう。さらにおどろくべきは、これだけハードでありながらこの回は高視聴率を獲得したということである。
辰巳出版の『帰ってきた帰ってきたウルトラマン』によれば、この37、38話は、当初の予定では、単なる『セブン』の39,40話『セブン暗殺計画(前後編)』のリメイクになる予定だったらしい。それがアキの降板が決まったため脚本を書き直して、こういう内容になったという。もし、37、38話が当初の予定通り『セブン暗殺計画』のリメイクとして製作していたら、これほどハードなドラマにはならなかったはずだ。そうなると、これはアキ降板によってもたらされた怪我の巧妙という感じだろう。
こういう降板劇は、刑事ドラマ『太陽にほえろ』(72年)でもある。マカロニ刑事やジーパン刑事の降板がそれであり、この場合、マカロニを演じた萩原健一やジーパン刑事を演じた松田優作が降板を申し出たため、劇中で殉職させたところ、高い視聴率をだし、かれらの殉職シーンはテレビ史に残る名シーンとなっている。
『セブン』の最終回は、ヒロインと主人公の別離と、ヒーローの帰還を、一度にやっていたのだが、新マンはヒロインと主人公の別離を37、38話で描き、ヒーローの帰還を最終回で、と別々に描いたと言えるかもしれない。
また前述のように『新マン』最終回は、一応ルミ子との別離(片思いではあったが)を描いているので、恋愛ドラマの要素もある作品である。ルミ子の郷への感情は、最終回の冒頭でルミ子が郷との結婚式の夢を見ていることからも、『セブン』におけるアンヌのダンへの想いより明確に恋愛感情として描かれていた。この点で比較すれば、恋愛ドラマが全く描かれなかった『初代マン』の最終回や、恋愛かどうか曖昧なまま終わった『セブン』の最終回のアンヌとダンのドラマに比べ、ルミ子の郷への想いが明確に恋愛感情として描かれている分、『新マン』最終回は『初代マン』『セブン』より人間ドラマとして一歩も二歩も前進していた最終回だったと言えるだろう。
アキに思い入れのある視聴者には、このアキの降板は残念な結果かもしれないが、アクシデントを逆手にとって傑作に仕上げたスタッフの力量には唸らされる。
アキの降板のあとも、「主人公の日常生活を描く」「隊員同士の対立」という『新マン』当初のコンセプトはそのまま引き継がれたので、「新マンらしさ」は最後まで維持されたと筆者はおもう。新マンはアキ降板後の4クール目が一番視聴率が高く、そういう意味でもこれはこれでよかった、と筆者は思える。
ダンとアンヌの関係が明確に恋愛として描かれたのは、『セブン』本編中ではなく、むしろ、『セブン』最終回の後日談として製作された『レオ』の29話『運命の再会!ダンとアンヌ』の方だった。『運命の再会!ダンとアンヌ』は、ファンの人気が高い作品だが、この作品は、中年にさしかかったダンが若き日のアンヌへの慕情を回想するという、ほろ苦い大人の恋愛の物語であり、そういった子供番組らしからぬストーリーが、多くのファンに強いインパクトを与えたのではないだろうか。
余談だが、ダンとアンヌの関係を考えると『セブン』の16話『地底GO!GO!GO!』は、色々と問題のある作品だろう。まず、この話は、ユートムの基地が侵略者の基地かどうかも解らないのにU警備隊が爆破しているという問題点があるが、さらに、地底基地におそらくダンが捕われているだろう、といいながらアンヌを含むU警備隊の隊員たちは、ダンを放っといて地底都市を時限爆弾で爆破しようとしているというもう一つの重大な破綻がある。ダンを慕っているはずのアンヌがダンを平気で爆殺しようとするとは恐ろしい。こういった揚げ足取りは少々意地が悪いのだが。
ウルトラシリーズではないが、同じ円谷作品ということでは、『ミラーマン』(71年)の鏡京太郎と御手洗朝子も、最初から明確に京太郎の恋人として描かれている。その上で最終回で主人公との感動的な別れのシーンを演じたという意味において、アンヌを超えていたかも?と思うのは筆者だけか。しかも、『セブン』の最終回は無論キスシーンはなかったが、『ミラーマン』の最終回『さよならミラーマン』ではキスシーンがある(!・おでこにだけど)という点でも、『ミラーマン』最終回が『セブン』最終回をある意味超えた部分である。また、この最終回は、朝子との別れのシーンを、作品のラストに持っていく構成もよい。『セブン』の最終回は怪獣との戦いの前にアンヌとの別れの場面があるが、作品のラストシーンに別れのシーンがある『ミラーマン』の最終回の構成の方がより感動的ではなかろうか(ちゃちな銀紙も出ないし…さすが東條昭平! 矢島信男氏の重厚な特撮演出も冴えている)。
『レオ』では、ゲンと百子が恋人同士という設定がある。百子は、時に主人公を辛辣に批判したりするヒロインで、献身的に男に尽す坂田アキと比べるとより現実的な存在だ。坂田アキは、百子と比べると、やや男にとって都合にいい女に描かれていたきらいがある(そこがいい!という人の気持ちも分からないでもないが・笑)。
『レオ』では、36話『飛べ!レオ兄弟 宇宙基地を救え!』で百子が「私を愛しているのなら悪い宇宙人でも平気よ」とゲンにいうシーンがある。こういう台詞から、この回はある意味『セブン』の12話『遊星から愛を込めて』(欠番作品)を超えているのではないだろうか?と思える。
『セブン』の12話は、星人が侵略者だと判明した時点で宇宙人と地球人との愛情は壊れてしまう。だが、この『レオ』の36話は、宇宙人が侵略者であっても、宇宙人と地球人との愛情は存続する可能性があるとしているのである。つまりこの回は宇宙人と人間との愛情が成立するというだけでなく、必ずしもそれが地球に平和のみをもたらさず、時にエゴイスティックで背徳的な側面をも持っているという面にまで肉迫している。現実の社会でも、男女の愛情がらみの犯罪がいかに多いことか…。
そういう恋愛の負の側面を考える意味で、参考に、寺山修司(劇作家・詩人)氏による『自由だ、たすけてくれ』という短編を紹介しよう(『世界の果てまでつれてって』(ハルキ文庫)P,92)。
この短編は、我慢することに飽きた主人公「ぼく」が「自由」の名のもとに、何もかも思い通りにしてみようと、気に入らない人間を衝動的に殺害し、デパートの売り物を勝手に私物化したりしながら、「ほんとうに人は生きるために自由だけを求めているのだろうか(P,100)」
という問いかけを行っている作品である。
殺人や窃盗をくり返す「ぼく」のもとに、恋人の女子大生Yがやってくる。Yは、主人公の部屋に来る途中、怪我人を見捨てて来たという。彼女は怪我人を助けるか助けないかを選ぶのも「自由」だといい切り、「ぼく」が怪我をした時は助けるという。
彼女はいう。「これが愛っていうものなんだわ(P,104)」
主人公は、この女子大生と情事のあと「寝顔があまりにも安堵感にあふれているのが気に食わない」として殺害してしまう。
最後に主人公は、地上は人々の「自由」争奪の闘いのため見えない血であふれている、といい 「こんなときに、反時代的に自分の自由を作り上げることにはいったいどんな意味があるのか、僕には、はっきりと知ることができません(P,105)」
「自由というのは、もはや不自由の反対語ではないのです(P,105)」 と、主人公は締めくくる。
この短編は、自由という概念を履き違えた現代社会を告発した作品であるが、同時に女子大生Yのくだりで、恋愛、ひいては愛情そのもののエゴイスティックな側面を告発している。
ボブ・ディランの歌で『悲しきベイブ』という歌があるが、この歌詞は「あんたが正しくても間違っていても/保護して守ってくれて/どこのドアも開けてくれる/そんな男じゃないんだ おれは/ノー、ノー、ノー、おれじゃない/あんたが探しているのはおれじゃない」というもので、この詞は背徳的な恋愛を否定している意味にとれる。
前述の第二期ウルトラにおける背徳的な恋愛を批判するドラマは、このボブ・ディランの歌の歌詞に通じるものといえまいか。
『ウルトラマンティガ』では主人公が「守りたい人を守る」という信念で戦っている。だが、この「守りたい人を守る」という信念も絶対の真理ではない。このことを、この寺山修司のエッセイは鋭く指摘しているといえる。
怪我人を見捨ててきた女子大生Yは、「ぼく」という実に具象的な「守りたいひと」がいる。女子大生Yが守りたい人とは抽象的な「人類」でも「人」でもなく、自分の恋人という実に具体的な存在である。だが、それが「恋人以外の人間は見殺しにしていい」というエゴイズムになり、怪我人を見捨てるという彼女の行動の動機になっているのだ。
つまり「抽象化は危険、具象化は安全」という粗雑な考えは真理ではない。
余談だが、『セブン』12話は、子供の血液をねらうというスペル星人の作戦が意外にセコいのが面白い。『セブン』がアダルトな作品だっていうのも実は幻想なのかも?? 第一、後半の傑作41話『ノンマルトの使者』もメインのゲストが子供(しかも少女ではなく男の子)であり最終回にも子供が出る。44話『円盤が来た!』も星人が子供に化けていて童話「狼少年」が下敷きになっていたりするのだ。
『タロウ』においては恋愛ドラマの要素は前面にはでないものの、ヒロイン白鳥さおりが光太郎に片思いをしている、という設定があり、しばしばドラマの中で活かされた。大概は、さおりが光太郎に好意をもつものの、光太郎がさおりの気持ちに気が付かない、というシーンで軽い笑いをとる、という位のラブコメ調の展開が多く、ある意味『タロウ』のあっけらかんとしたカラーを象徴している。
『タロウ』において、白鳥さおりと光太郎の関係を前面に出した代表的な作品は6話『宝石は怪獣の餌だ!』だろう。光太郎をかばうばかりに嘘をついてしまうさおりだが、さおりが嘘をつき続けると怪獣ジレンマに街がはかいされてしまう、という、まさにジレンマのドラマである(!)。38話『ウルトラのクリスマスツリー』でさおりは光太郎と結婚する夢をみているというシーンがある。この時光太郎はウルトラの母の夢をみているが…マザコンか??
恋愛をあつかったものとしては、先に挙げた『新マン』テロチルス前後編もいい。松本三郎とアキコは幼馴染みで結婚の約束をしていたが、アキコは三郎を捨てて御曹司横川と婚約。三郎はアキコを殺害しようとしたが、偶然通りかかったテロチルスによって殺害に失敗する。三郎は拘置所を脱走してアキコを誘拐、テロチルスの作った巣にろう城する。この回は、欲にまみれた三角関係のドロドロの恋愛が描かれ、子供番組の枠をこえたかのような印象的な作品だ。
他に『新マン』では44話『星空に愛をこめて』が印象的。茜と岸田隊員は恋仲になるが、茜は実は地球征服の先兵のケンタウルス星人だった。茜は怪獣グラナダスとともに岸田の開発したレーダーを破壊するはずだったが、岸田を愛した茜は地球征服の意志をすて、異形としての本来の姿を岸田に晒し、グラナダスと共に爆死する。この話は4クール目を代表するドラマ編で、本放送時も高視聴率を記録した。
この回は「宇宙にすんでいる人たち全部が、みんなお友達になれる日がくる」というラストのルミ子の台詞がポイント。この話の真のテーマは、宇宙人と人間の友好関係、平和共存だったと言えるだろう。『アシッド・ドリームズ』(第三書館)によれば、60年代のアメリカのヒッピーたちのモットーは「全宇宙的な人類愛」だったのだそうだ(177ページ) 。この「宇宙にすんでいる人たち全部が、みんなお友達になれる日がくる」というルミ子の台詞は、ヒッピーたちのモットーである「全宇宙的な人類愛」に通じるといえるだろう。
宇宙人と人間との恋愛という展開は、『セブン』のスペル星人の回と似ているが、向こうが片思いのまま終わってしまうのに対して、こちらは宇宙人と人間が相思相愛になってしまうという点において、一歩前進しているのではないだろうか。また、物語の前半の上野隊員と郷の対立は、シリーズ初期を思わせる。
ケンタウルス星人は…モコモコした動物ヌイグルミ系のルックスで、個人的にはカワイイとおもいます(笑・牛というより馬っぽいなあ)。『ウルトラQ』のラゴンも女性という設定だったが、ケンタウルス星人のデザインは、このラゴンほど無気味ではない点は評価できるだろう。また、あの怪獣的な姿はケンタウルス星人の実体ではなく、『ミラーマン』の怪獣のような、戦闘用の怪獣形態と解釈できなくもない。
恋愛感情や親子の情、または友情、あるいは赤の他人への利他的な人情を描いた人間ドラマというのは、観客に同情を誘い感動させる効果がある。なので映画を盛り上げるための仕掛けとしても機能する。そのうえで同時にこういう人情ものの人間ドラマは「道徳的なテーマ」としても機能するために一石二鳥の映画的な効果がある(筆者以外の第二期ウルトラ評論は、おもにこの「人間ドラマの盛り上がり」についてふれているものが多い)。これに対し、初期ウルトラのような文明批判テーマは、感動を誘う類いのテーマではないため、それだけでは映画を盛り上げる仕掛けとしては機能しにくいだろう。
人間ドラマは、作品世界の雰囲気の演出としての効果もある。『新マン』最終回での、村野ルミが郷への淡い想いを描くくだりは、青春ドラマ的な作品世界のムード(清清しく、少し大人なムード)を作り出したという点で評価できる。
第二期ウルトラは、家族の情や恋愛といった人間のさまざまな心の営みを、意欲的にドラマに盛り込んだ。そして「怪獣ものでありながら人間のドラマでもある」という異色のシリーズに仕上がったのだ。<了>
(後日追記 2021年12月19日)
また、ヒトラーが書いた『わが闘争』を読むと、実は 自身の闘争の目的を「自由のため」とよんでいる箇所がおおい。『わが闘争(角川文庫版)』上巻(『1 民族主義的世界観』)の『第八章 わが政治活動のはじめ』の『唯一の信条、すなわち民族と祖国』という項では、以下のような記述がある。
「われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、民族の子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、またわが民族が万物の創造主から依託された使命を達成するまえ、生育することができることを目的としている。(278ページ)」
さらに下巻(『2 国家社会主義運動』)の『第一章 世界観と党』の『世界観対世界観』には、
「(前略)われわれは攻撃の形をとって新しい世界観をうちたて、(中略)いつかわが民族が自由の殿堂にふたたびのぼりうるための階段をきずくのだ(16ページ)」
また、下巻の『第十三章 戦後のドイツ同盟政策』の『無能な原因』では、
「ただわが国の崩壊の原因を除去し、同時にその崩壊から不当に利益をえたものを絶滅することだけが、国外に対する自由のための闘争の前提を作り出すことができるのだ。(298ページ)」
このように、自由ということばはヒトラーも使っていたのだ。この『わが闘争』という本はナチズム運動のバイブルとして、あとのナチスドイツに多大な影響を与えたものである。前述のように、寺山修司のエッセイで地上は人々の「自由」争奪の闘いのため見えない血であふれている、という文言があるが、ヒトラーも自身の闘争の理由を「自由のための闘争」と書いていたのと一致するのは興味深い。
アメリカでは「This area is smoke free」という文章は「ここは禁煙エリアです」という意味になる。なにも知らずに「Smoke free area」で喫煙をしてしまうと、罰金対象となってしまう恐れもあるので注意が必要である。 タバコフリー(スモークフリー)は、本来は人間がタバコから自由になる、という意味で禁煙を意味する英語で、自由にタバコが吸えるという意味ではない。アルコールフリーやシュガーフリーといった言葉も同様で、アルコールを入れない、砂糖をいれていないものという意味である。本来なら何かを抑制するようなことの意味でフリー(自由)という言葉は使われることがあり、このことも、ルターの「キリスト者の自由」のような「欲を抑える」意味で使われる自由という言葉であろう。90年代以後の日本の大手マスコミは、この誤訳レベルの間違いで、リバタリアニズムの権原(権利の平等のみを人間に認めるとする個人主義の考え方。永井均『倫理とは何か』(産業図書)P182など参照)を、リベラリズムの人権と間違えた上で、遠大な文化を作ってしまって現在に至るのかもしれない。 *引用元 HP『オリコン満足度ランキング「イングリッシュスタイル』の記事 『「smoke free」は喫煙? 禁煙? 間違いやすい「実用英語」を紹介』(2016.4.15)
https://juken.oricon.co.jp/rank_english/news/2070036/amp/ (記事/kotanglish(日本ワーキング・ホリデー協会))