作品研究6
『第二期ウルトラのドラマ的実験』
第2期ウルトラは、人間の個人の心の中にある悪意や歪みを描いたものや、人間社会の本音の部分を描いた人間ドラマが多い。第2期ウルトラには人間ドラマを重視するという制作方針があったが、第二期ウルトラにおける人間ドラマは単に人情ドラマを描いただけのものでは無く、人間の個人の心の中にある悪意や欲望、または人間関係の歪みを描いた人間批判のテーマの作品や、人間社会の既成の価値観を問いただすという、斜に構えた人間ドラマが多い。
『ウルトラマンA』の37話『友情の星よ永遠に』はメロドラマがらみの作品だが、だからといってだたの人情ドラマではない。北斗の友人の加島は超スピードの車を作ることに執念を燃やし、彼を想う真弓に冷たい態度をとり続ける。北斗は真弓に加島を諦めるように説得しようとする。加島はすでに超スピードの車を作って社会的な名声を得るという欲望と結婚しているのだと…。そして加島をそうさせるのは、社会的な名声を得て、幼い頃貧しかった彼を嘲笑した世間を見返そうという世間への怨念であった。この作品は、メロドラマがらみでありながら怨念という第二期ウルトラのドラマのキーワードがストーリーの重要な位置をしめ、だたの人情ドラマに終始していない。
第2期ウルトラは、人間の怨念や情念にこだわる制作姿勢があったが、『ウルトラマンA』においては、この第2期ウルトラのカラーを象徴するヤプールというキャラクターが登場する。ヤプールは地球侵略を狙う異次元人だが、彼等の侵略は人間の怨念や欲望に付けこんだものが多く、ここに人間の怨念や情念にこだわる第2期ウルトラのカラーが表われている。
『ウルトラマンA』で例にとると、本作の代表的な傑作編の4話『三億年超獣出現!』は、マンガ家の栗虫太郎が描いたマンガの通りに超獣が街で暴れ、その栗虫太郎は、かねてから好意をもっていた美川隊員を幽閉して結婚を迫るという作品である。この4話において、栗虫太郎に超獣を操る能力を与えたのはヤプールで、ヤプールはマンガ家になる前は劣等生だった栗の世間への怨念を利用したのだ。
17話の『怪談・ほたるヶ原の鬼女』では、ヤプールは母親を交通事故で失った少女の車への怨念を利用して少女に超獣を操らせ、
TACの新兵器開発を妨害する。ヤプールが人間以外の動物の怨念を利用したこともあり、15話の『黒い蟹の呪い』では、海洋汚染をする人間に怨念を抱くカブトガニを超獣に変えて暴れさせたり、16話『怪談・牛神男』では、人間に食肉にされた牛の怨念をヤプールが利用する。
また、ヤプールは人間社会の既成の概念に挑戦して侵略を仕掛けてくる場合もあり、3話『燃えろ!超獣地獄』においては、地球人が子供を信用しやすいということにつけ込み、超獣バキシムを子供の姿にかえて暗躍させる。この話でバキシムが正体を現わすときの「子供の心が純真だと思うのは人間だけだ」という台詞は、「子供の心は純真」という既成の社会の価値観の否定を暗示するもので、子供番組らしからぬ大変シビアなものだ。
ヤプールはシリーズ半ばで全滅するが、この際ヤプールの細胞に怨念が宿り、その細胞によって超獣が誕生し、Aや人間を襲うという展開となる。いままで人間の怨念につけ込んでいたヤプールが、自身も怨念を抱いてAや人間に復讐戦を挑むという展開となり、ここにも「怨念」という第2期ウルトラのキーワードが存在する。
ヤプール全滅後の超獣は怨念を抱く人間などにヤプールの細胞が取りつき超獣となり、その怨念のままに暴れるという展開も多い。43話『怪談!雪男の叫び』では、世間を恨む浮浪者に取りついて超獣化させたり、47話『山椒魚の呪い』では、環境汚染を恨む老人のペットの山椒魚を超獣化させ老人に操らせて、環境を汚染させた人間達に復讐させる。また、変わったところでは45話『大ピンチ!エースを救え!』における超獣ガスゲゴンは、劇中で断定はされていないものの、どうやら人間に使い古された人工衛星の人間に対する怨念が超獣化したものであるようだ(劇中今野隊員の台詞で語られている)。使い古した人工衛星は、実際宇宙のゴミとして宇宙開発の際の問題になっており、このガスゲゴンの設定はそういった科学文明に対する皮肉を暗示している。
ヤプール自身のAに対する怨念を最も高いテンションでストレートに描いたのが、48話『ベロクロンの復讐』である。この話でヤプールの怨念が如何なるものかが、もっとも明確に、ヤプール自身の口から語られている。「(勝負に)勝ったものは、負けたものの恨みと怨念を背負って生き続けているのだ! それが戦って生きていくもののさだめだ!」この時点において、ヤプールの怨念とは、もはやAが生き続ける限り冷めることのない執念へと昇華していること、この台詞は物語っている。
第2期ウルトラはドラマ面、設定面、映像面において、さまざまな実験が行なわれた実験作という印象が筆者にはある。この第2期の実験、とくに設定面の実験は、時に初期ウルトラファンから「試行錯誤だ」と否定的に評価されてしまう。しかし、第2期ウルトラが実験作であるという部分はある意味、第2期は野心作であることを証明しているともいえ、筆者にとっては魅力の一つである。
『ウルトラセブン』(67年)を中心に、初期ウルトラのドラマ編は文明批判が多い。しかし、古典SF映画においてすら、科学文明を批判するテーマの作品は多いことから、現在の社会において、実は文明の批判自体が社会の既成の価値観なのである。なので、それを作品のテーマにしたところで、別段既成の社会の価値観を否定したことにはならないのではないか。しかし、だからといって科学文明はやはり前面的には肯定できないものだ。これらのことから科学文明をテーマにした作品は、科学文明というテーマを選択した段階で、すでに社会の既成の価値観に準じた作品にしかならないのである。よって初期ウルトラのドラマ編のような文明批判テーマの作品は、既成の価値観に疑問符を打った作品とはいえない。事実筆者の回りのウルトラファンの間で、『ウルトラマンガイア』(98年)がエコロジーテーマの作品が多いことについて、陳腐なテーマだという意見がしばしば聴かれた。自分は科学文明を批判するドラマも否定はしないが、それは既成の社会の価値観に則ったテーマであり、別段斜に構えたドラマとはいえないのではないか。
第2期ウルトラには、既成の価値観を問いただしたテーマ的な実験がいくつかみられる。『ウルトラマンエース』(72年)の最終回における、やさしさの意義を問いただした展開が最も有名だが、これ以外で筆者が気に入っているものを筆頭に、第2期ウルトラで、第2期ウルトラのファンの間ですら評価の固まっていない実験的な作品に自分なりの考察を加えながら紹介しよう。
『ウルトラマンレオ』(74年)の18話『吸血鬼!こうもり少女』(脚本,阿井文瓶)は、人を疑う事は悪い事だ、という従来的な価値観への疑問符、あるいは完全な否定がテーマ。このテーマも大変シビアなものだ。物語序盤の「人を疑ってかかるのはいけないことよ。人は信じあい助けあわなくてはいけないのよ」という百子のトオルへ説教は、この作品のテーマのように見せかけて実はテーマではないのだ。
百子は、草むらで怪我をした女性を救い、自分の部屋で看病する。トオルは女性に不審な言動が多いことから、女性が、先にMACによって倒された宇宙吸血コウモリの大群と関係があるのではと疑うが、「人を疑うのはいけないことだ」と百子にたしなめられてしまう。しかし、女性はトオルの予想した通り、MACによって倒された宇宙吸血コウモリの生き残り、怪獣バットンの変身だった。やがて女性は本性を現わし、夜な夜な人間を襲って吸血鬼に変えてしまう。やがて百子とトオルもバットンの毒牙にかかってしまう。
ラストは、冒頭の百子が草むらで怪我をした女性を救うシーンと全く同じ場所で全く同じ展開になり(カメラ割りまで同じ)、今度は草むらで怪我をした小犬を拾い、あれだけひどい目に逢ったのにまだ懲りていない百子、という顛末で、洒落た趣向になっている。この作品は、百子とトオルの日常生活のなかでの事件を描いた作品なので、『レオ』の作品としてはマイルドでやや地味な印象の作品ではあるが、テーマ自体は、“人を疑う事は悪い事”という従来的な価値観を否定するシビアで現代的なものである。普通の子供番組なら、「人を疑ってかかるのはいけないことよ。人は信じあい助けあわなくてはいけないのよ」という百子の台詞が作品のテーマになるのだが、第2期ウルトラはもっとシビアに社会の本音の部分を描くシリーズなので、人を疑うことを肯定してしまうのだ。このテーマはとかく理想論ばかりを訴えがちな子供番組のテーマとしてはかなり異色である。このテーマの表現は、クライマックス近くで、今までさんざん人を疑うなと説教してきた百子ですら、一瞬女性を疑ってしまうというシーンで頂点に達する(この直後に吸血される)。
物語中盤に、バットンに襲われたと噂された人を市民がリンチするというシーンがある。このシーンは人を疑うことの負の側面を現わしている。この話のメインのテーマは、人を疑う事の肯定なのだが、こういう人を疑う事のネガティブな部分を同時に描写することで、一面的なテーマ展開にならないようにとの配慮が見られる。
この回は人間の猜疑心と信頼感がテーマの作品といえるが、『レオ』以前のウルトラでは同様のテーマを扱っている作品で『ウルトラセブン』の8話『狙われた街』(脚本,金城哲夫)が有名である。しかし、この『セブン』のメトロン星人の話のテーマは、やはり人間は信頼し合わなくてはいけないという従来的な価値観を訴えたものであり、これに比べれば、『レオ』のバットンの回のテーマは従来的な価値観を否定した、斜に構えたテーマなので、ストーリー的には、よりラディカルなドラマといえないか。筆者の個人的感慨としては、世の中、騙す人間がいるから他人を疑わざるを得ない、というのが現実と思う。あくまで悪いのは「騙す側」なのであって、「騙す側」より「疑う側」の方が悪い、という、この作品の根底にある倫理観には今一つ納得できないのだが…。『セブン』のメトロン星人編は本編の演出はラディカルだったが。
また、メトロン星人の行った作戦は、タバコに人間を凶暴化する毒を仕込むというものだが、この作戦だとタバコを吸った人しか凶暴化しないので、単に喫煙者が風評被害にあって肩身が狭くなるだけという気もする。なので、このタバコを使った作戦で人間社会全体に信頼関係が失われるとするのはやや無理があるのではないか。
また、このメトロン星人の話はラストにナレーションで作品のテーマを視聴者に説明してしまっている。ナレーションで直にテーマを語ってしまうという、このテーマの描き方は図式的で、テーマの表現方法としてはあまり上手なものとは思えない。『セブン』では他に35話『蒸発都市』も同様の方法でテーマを表現している。
『セブン』のメトロン星人の回の特撮は、セットの夕日の形もいびつで、また夕日の中心だけ明るく光っており、なぜかピンぼけのカットも多い。この手の失敗は第2期以降のウルトラの特撮にはまず見られない。
やや話は横道にそれるが、筆者が以前からどうも可笑しな作品という印象のある『ウルトラセブン』の作品に『地底GO!GO!GO!』がある。この話のラストで、ユートムが侵略者かどうかも分からないのに、ウルトラ警備隊が彼等の地底都市を爆破しているのはおかしい。ユートムは確かにダンを捕えたりするが、単に無断侵入者を捕えたに過ぎなかったのかも知れない。しかも、このユートムの話は、セブンが地球に留まる決心を固めるきっかけが語られるという『ウルトラセブン』の事実上の第1話とでもいえる極めて重要な話である。そんな重要な話にこういう作劇ミスがあるのは、『ウルトラセブン』という作品そのものの欠陥ではないか。
前述の『レオ』のバットンの回は、第2期ウルトラのファンの間でも、あまり今まで取り正されなかった作品である。なので、この論文を読んで『レオ』のバットンの回をこういう形で取り上げた事を驚いている読者もいらっしゃるかも知れない。第2期ウルトラには、実際第2期ウルトラのファンの間でも評価の固まっていない秀作が多数存在する。そういった評価の固まっていない感のある第2期ウルトラの秀作を、引き続き紹介していこう。
『ウルトラマンガイア』の最終回1話前の作品『地球の叫び』(脚本,小中千昭、長谷川圭一)で、ウルトラマンたちが怪獣に負けたことで市民が怪獣ではなくウルトラマンたちの方を非難し始めるという展開があるが、『レオ』第6話『男だ!燃えろ』(脚本、田口成光)は、これを先取りした作品だ。
ゲンはMACの同僚、白土隊員の恋人を車で送る最中、カーリー星人の襲撃をうける。白土隊員の恋人は星人に惨殺され(巨大化した星人に踏み潰される!!)、ゲンはレオに変身するも星人に敗退してしまう。これを知った白土隊員は激怒してゲンを殴り、恋人を守りきれなかったゲンを非難すると共に、星人に敗退したレオをも非難する。
「(レオは)星人に手も足も出なかったというじゃないか! 宇宙一の勇者が聞いて呆れるよ! あいつに会うことが出来たら殴ってやりたい!!」
そしてレオが星人を倒せなかった事をダンも批判し始め、その際ダンは「白土隊員の悲しみを知れ! そして自分のことを良く考えるんだ」と忠告する。この言葉を受けてゲンは「俺は星人を倒すために生きているんだ」と悟り星人を打倒する為の猛特訓を開始する。
現実の世の中において、犯罪が起こって犠牲者が出たとき、犠牲者を殺したのは犯人なのに、それを防げなかった警察の責任が問われて非難されてしまう事がある。なのでもし怪獣から地球を守るスーパーヒーローが現実に存在すると仮定した場合、怪獣によって犠牲者が出た場合でも、ヒーローの責任が追及されてヒーローが非難されてしまうという事は十分起こり得るだろう。こういったシビアな問題は普通のヒーロー物で描かれることがあまり無いが、それを描いて見せたこの『レオ』第6話や『ガイア』の『地球の叫び』は大変シビアなドラマだった。
この、ヒーローが敵に負けたことでヒーローが非難されるという話は、実は『エヴァンゲリオン』にもある。3話の『鳴らない電話』では、シンジの同級生のトウジが、使徒の襲撃に巻き込まれ妹が怪我をしたのは、エヴァの操縦が下手だったからだとしてシンジを殴るシーンがある。このシーンはこの『レオ』の6話に酷似したシーンだ(余談だがトウジを演じた声優の関智一氏は『レオ』のファンだそうだ)。
『ガイア』の場合は、ウルトラマンたちの方を非難する市民の感情を「歪んだ正義感」と形容して否定的に描いていた。確かにウルトラマンたちには悪気はなく、本当に悪いのは怪獣なのだから、本来は市民がウルトラマンたちを責めるのはお角違いではある。なので、「歪んだ正義感」という言葉は、これはこれでもっともな形容だ。しかし、ウルトラマンが怪獣に負けたことを市民が全く非難しなくなったら、怪獣に負けても許して貰えるという気の緩みがウルトラマンの心に生じ、怠慢になるということも有りうる。なので、時には『レオ』の場合のように厳しい批判を受けて然るべきでもある。ウルトラマンが怪獣に負けたことで市民がウルトラマンを非難する、という同じアイデアのストーリーでも、『ガイア』と『レオ』では、視点が事なるところが面白い。
また、同様の作品では前述の『A』のガスゲゴンの回がある。ガスゲゴンが潜んでいるガスタンクをTACが攻撃したためにガスゲゴンが暴れ出して街が破壊され、市民がTACを非難するというドラマがある。TACが市民を守るために超獣に行なった攻撃が裏目に出て、はからずもTACが市民にとって加害者になってしまうのだ。この回も勧善懲悪の図式にゆす振りをかけた斜に構えたドラマとなっている。
ある意味こういった作品は『シルバー仮面ジャイアント』(72年)の23話『東京を砂漠にしろ!』(脚本,市川森一)のバリエーション的な作品と言える。この『東京を砂漠にしろ!』もシルバー仮面が星人の侵略から町を守りきれなかったことから、シルバー仮面が市民に非難されてしまうというシビアな作品であった。
また、『レオ』6話のラストは、レオが星人を倒したことによって白土隊員のレオへの信用は回復するものの、ゲンがレオであることは秘密である為、白土隊員のゲンへの信用は回復されないまま終わってしまうという展開で、これもシビアな余韻を残している。
同種の作品で印象的なものをもう一つあげると、『タロウ』の38話『ウルトラのクリスマスツリー』は、ひょっとして『ガメラ3』の元ネタではないか、と思わせる異色の作品である。怪獣とタロウの戦いに巻き込まれて両親を失った少女はタロウを恨み、タロウに憧れる周囲の子供に対し「タロウよりもっと善い宇宙人はいる」という。少女のいう善い宇宙人とは、両親を失った直後に少女を励ましたミラクル星人だった。ミラクル星人は地球の資料を持っていたが、この資料を狙った侵略者テロリスト星人に殺害される。この作品は、ヒーローの戦いが、常に破壊を伴い、必ずしも人々に平和のみをもたらさないということを描いた斜にかまえたドラマだ。
(物語の後半で、ミラクル星人を殺したテロリスト星人を少女は激しく憎むのだが、これは少女にとってミラクル星人が「タロウよりもっと善い宇宙人」であったからに他ならないだろう。そういう意味では、この少女の憎しみは、怪獣とタロウの戦いに巻き込まれて両親を失ったという設定とつながっている。)
蛇足だが『ガイア』の『地球の叫び』は、ウルトラマンたちを非難する市民がウルトラマンの正体が人間だと知ってウルトラマンに不信感を募らせるという描写がある。この描写は、暗にウルトラマンを神様にしたがり、神様でなくてはウルトラマンに感情移入出来ないという初期ウルトラファンを批判したものである。この描写は平成ウルトラのスタッフが、初期『宇宙船』ライター達のイデオロギーから決別したことを意味している。そういう意味でも『ガイア』の『地球の叫び』という作品は、大変意義のある作品だった(庵野秀明氏がウルトラマンを神とする解釈を『GaZO』VOL.2(徳間書店)で批判したことを意識したのだろう)。
また、『レオ』第6話は、白土隊員が提案した星人の撃退作戦をゲンが批判すると、それに対してダンが「地球人が地球を守るために命を掛けているんだ。宇宙人のお前が何を言う!?」とゲンを叱咤するというシーンがある。このシーンは宇宙人が人間のやり方に口を出してはいけないという、第1話のテーマを再確認する展開であり、この展開は、ゲンの宇宙人と地球人の立場の違いの苦悩を描いた展開である。
倫理観は、民族、国家によっていろいろな差異がある場合もある。この差異を意識しないで、ある民族の倫理を、他の民族の人間が否定しようとすると、この行為自体が悪になってしまう。仮に長い目で見て否定した方が良い結果を生むと分かっていても、それをその民族に納得させることは難しいので、その民族の倫理を他の民族の人間が否定する行為は、偽善的な倫理の押し売りになってしまう。現実の社会においてベトナム戦争が、この問題に該当することは言うまでもないだろう。
『レオ』第6話でダンが“宇宙人が人間のやり方に口を出してはいけない”と言うシーンはこの問題を暗示した台詞であろう。この問題は『レオ』第1話ではメインのテーマになっている。
ある民族にとっての倫理を、他の民族の人間は否定できないという問題は、『レオ』の19話『よみがえる半魚人』(脚本,田口成光)でもテーマになっている。
ゲンは夏休みにトオルたちと北海道の漁村に旅行に行くが、その漁村にはお盆に漁をすると漁をしたものは海坊主に襲われ、海から魚が獲れなくなるという言い伝えがあった。この言い伝えによって、この漁村には盆には漁をしてはいけないという掟があった。海坊主の正体は100年前に地球に飛来し、この海岸に住み着いたボーズ星人だった。漁村の漁師の息子、和男は掟を無視して漁をした父が、海坊主に襲われると心配するが、案の定ボーズ星人は和男の父と母を惨殺。しかし漁村の人々は天涯孤独となってしまった和男に同情すらしなかった。この漁村の人々の冷たさに怒ったゲンはその怒りをダンにぶつけ、海坊主の言い伝えなど無くすべきだ、と主張するが、ダンは自分たちの仕事は星人を倒すことだけであり、和男が漁村の人々に冷たくされるのは村の掟だから仕方ない、とゲンに諭す。海坊主の言い伝えは100年もの長い時間を掛けて村人の心の中に入りこんだものであり、いきなり現われた我々MACの言い分を村人に信じこませることの方が難しいと…。やがてボーズ星人は漁をしていない人間まで襲い始めた為、ようやく村人は海坊主の言い伝えを否定し始める。
このように『レオ』のボーズ星人の回は、海坊主の言い伝えという漁村の人々にとっての倫理に、他の土地の人間は干渉できない、というドラマであり、このドラマは倫理には民族によっていろいろな差異がある場合もある、というテーマを含んでいる。伝説の怪獣とヒーローが戦うというストーリーは他のヒーロー作品にもよくあるネタだが、普通のヒーローものなら「海坊主の言い伝えなど無くすべきだ」という主人公の主張は正義である、という展開になるだろう。しかし、そこのところを、『レオ』はひとひねり加えてドラマに深みを与えている。
先の『レオ』のバットンの回に触れた部分で、人間社会 の本音の部分を描くのが第2期ウルトラの特徴であると延べたが、そういった第2期ウルトラのカラーを端的に表わす一つのモデルケースとして、『ウルトラマンタロウ』(73年)の42話『母の願い 真冬の桜吹雪!』(脚本,阿井文瓶)を紹介しよう。
この回に登場する怪獣ゴンゴロスは、子供が塀に書いた怪獣の落書きが実体化するというもので、アイデア自体は初代『ウルトラマン』(66年)の15話『恐怖の宇宙線』(脚本,佐々木守)の怪獣ガヴァドンと同じものである。しかし『初代マン』の15話では子供の落書きが怪獣になっても、ガヴァドンの落書きをした子供は大人たちから何も言われない。これに対し『タロウ』の42話では、ゴンゴロスが子供の落書きが実体化した怪獣だということを大人達が知ると、大人はゴンゴロスの落書きをした子供を見つけるやいなや、その子供(およびその親)に責任を追及し始めるという描写が描かれている。『タロウ』のこの描写は人間関係の歪みを描く事が多い第2期ウルトラらしいシーンだ。第2期ウルトラは人間関係の歪みや個人の心のダークな面を描くことが多く、子供番組でありながら人間の本音の部分を描くことにこだわったシリーズである。『タロウ』の42話は怪獣のアイデアが初代『ウルトラマン』のガヴァドンと同じものであるが故にガヴァドンの回と比較することで、人間関係の歪みや個人の心のダークな面をあまり描かなかった初期ウルトラと、その部分を描くことにことさらにこだわった第2期ウルトラのカラーの違いがはっきりと確認できる。本来はこの『タロウ』の42話は、不治の病に冒された母親に桜の花を見せたいと思う子供の奮闘がストーリーの中心であるが、この回をモデルケースとしてこの文章で扱ったのは、初代『ウルトラマン』のガヴァドンの回という比較の対象があるので、これと比較することで第2期ウルトラの作品カラーが浮き彫りにできる為である。また、この回は、クライマックスのゴンゴロスが倒されるシーンの光学合成が見事で、恐らくアナログの合成技術の最高峰ではなかろうか。子供の母親が助かったのか亡くなったのかを敢えて描かないまま終わるラストも余韻を残している。
人間社会の本音の部分を描くことにこだわった第2期ウルトラのドラマのスタンスは、なによりもヒーロー自身のキャラクター設定に顕著に表われている。ヒーローとて聖人君子ではない、というスタンスをとっているのが第2期ウルトラの特徴で、このやや欠陥人間のヒーローが成長するという第2期ウルトラのドラマは、第2期ウルトラのファンの間では、よく『新マン』の初期編ばかりが話題になる。が、あまり話題に登らないもので、ハイテンションな作品を一つ紹介しよう。
『レオ』第1話の後編にあたる第2話『大沈没!日本列島最後の日』(脚本,田口成光)がそれだ。この回は、嘗てレオの故郷を滅ぼした凶悪怪獣が地球に飛来して東京を襲撃。ゲンはレオに変身して東京を滅ぼそうとした凶悪怪獣に戦うが敗退し(ここまでが第1話)、さらに自分の恋人がその戦いに巻き込まれ重傷を負うという展開のストーリーである。第1話のクライマックス近くでゲンはことさらに自分が凶悪怪獣と戦うのは東京を救うためであるとダンに力説する。だが本当は、レオが凶悪怪獣と戦った動機は、東京を救うためというのは建て前で、故郷を滅ぼした凶悪怪獣に対する復讐心だけだったことが、この2話の冒頭のゲンとダンの会話によって判明する。怪獣に対する復讐心しかないのに、東京を救うためという建て前をかたったゲンの御為こがしの偽善によって行なわれた戦いで、ゲンは、自分の恋人が重傷を負うという重い代償を負わされてしまうのだ(『御為こがし』とは、人の為にするように見せかけて、実は自分の利益を計ることの意・三省堂新明解国語辞典より)。この第2話の展開は、偽善という行為への糾弾がテーマのドラマといえる。また、この『レオ』2話は、正義のヒーローであるはずのウルトラマンが偽善を働いてしまう、という、よく考えるとウルトラシリーズきっての問題作でもある。また、この回は、本編、特撮共に演出が暴走しまくっている点も魅力である。
『新マン』の36話『夜を蹴散らせ』もあまりファンの間で取り上げられない作品だ。いわゆる『11月の傑作群』(31話〜25話)とシリーズ最大のヤマといえる37話『ウルトラマン夕日に死す』に挟まれてしまった作品であり、たしかに前後の作品に比べるとややテンションは低いが、この回も、父親が自分の娘の死体を腐らないようにして保存しているという偏執的な親子愛を描いており、人間関係の歪みや個人の心のダークな部分を描く第2期ウルトラのカラーが出ている作品だ。また、この回に登場する侵略宇宙人ドラキュラスが郷秀樹に、「ウルトラマンは宇宙人なのになぜ人間の味方をし、宇宙人の我々(ドラキュラス)の味方をしないのか」と言い、「ウルトラマンは裏切り者だ」という台詞を言うシーンがあり、この台詞は『初代マン』のメフィラス星人の台詞を思わせる。余談だが『エヴァ』の5話で零号機の暴走を止めた十字架型の停止プラグは、この『新マン』36話でドラキュラスを倒した十字架型に変形させたウルトラブレスレット(ウルトラクロス)が元ネタなのでは?。
この回の脚本は石堂淑朗氏である。石堂氏はウルトラシリーズにおいて、このドラキュラスの回のような、やや偏執的な人間の心理を描いた作品をいくつか書いており、石堂氏は他に『新マン』の34話『許されざる命』でも、動物と植物の中間生物、怪獣レオゴンを造ることに取りつかれた青年科学者の歪んだ心理を克明に描写した。
石堂氏はウルトラシリーズに参加した脚本家では市川森一氏と並んで著名な作家である。石堂氏は昨年カンヌ映画祭でグランプリを獲得した今村昌平氏の作品の脚本を手がけることも多い。しかも石堂氏は第2期ウルトラからウルトラシリーズに参加し、執筆作品が多いということもあり、石堂氏が全面的に参加しているということは第2期ウルトラシリーズの一つの目玉である。石堂氏の作品は、全体的に他の脚本家の作品に比べて台詞が簡潔で、数も少ないのが特徴で、まるまる1シーン台詞が無いということもよくある。これが作品に独特の緊張感と情緒を与えてくれている。
石堂氏の作品ではやはり筆者個人としては『タロウ』の46話『白い兎は悪い奴!』と『レオ』の50話『レオの命よ!キングの奇蹟!』(ブニョの回)が白眉である(作品研究1の項で言及)。特に『レオ』の50話は、ウルトラマンがいるから怪獣が襲ってくるということを言い出す地球人が現われ、この言葉にレオが苦悩するというストーリーで、この作品は第2期ウルトラファンの間でも有名な斜に構えたヒーロードラマだ。この2本以外の石堂氏の作品で筆者の気に入っているものをいくつか紹介しよう。
『ウルトラマンエース』の49話『空飛ぶクラゲ』は操演によって表現された超獣ユニバーラゲスのデザインのユニークさもさる事ながら、ドラマのテーマも、まるでオウム真理教の事件を先取りしたかのような異色作である。
この回は超獣ユニバーラゲスを操る侵略宇宙人アクエリウスが、とある山村の住人たちに、超獣を神だと思いこませ村人たちを味方に付け、村人たちにTACを襲わせてしまうというストーリーだ。この作品は、宗教が人間の倫理感を時に逆転させてしまうこともある、という宗教のダークサイドな面を指摘している。この問題はオウム真理教の事件の時によくとり正された問題であり、このような現実の社会においても深刻な問題とされるシビアな題材を子供番組に持ち込んだ石堂淑朗氏のセンスには驚かされる。
宗教がらみの作品としては他に『A』の38話『復活!ウルトラの父』がある。この回は、秋田のナマハゲがそのままウルトラマンの敵として登場するというハチャメチャな趣向が面白い作品。ナマハゲは、クリスマスの日に、日本古来の八百万の神をあがめず、異国の神であるキリスト教の神を崇めている日本人に怒り、超獣スノーギランを使って日本人を無差別に襲い始める。超獣を使って日本人に日本古来の神への信仰を強制するという、この話のナマハゲの行為は、保守的な民族主義を象徴したものだろう。八百万の神は天皇制に通じるものであり、この回は暗に天皇制への批判ともいえる(近年石堂氏は転向してしまい逆のことをいっているらしいが…。)。
他に宗教絡みと言えるかどうか分からないが『A』の41話『怪談!獅子太鼓』もユニークな作品だ。堺左千夫演ずる獅子舞の名人は、酔漢に獅子舞を揶揄されて暴行され、足を怪我し、以来、獅子舞に乱暴する世間の人間を恨んでいた。彼は、どこからか拾ってきた邪神カイマに祈って、そういう人間たちに呪いをかけ続けていた。邪神カイマはじつは超獣カイマンダーであり、この獅子舞の名人の怨念のままに、超獣シシゴランを暴れさせるのだ。この話は、獅子舞などの伝統文化を嘲笑する現代の日本人への批判だろうか。
この回はシシゴランが物語の前半から登場するので、特撮シーンも多く、しかも特撮監督が平成ゴジラシリーズで大活躍した川北紘一氏で大変迫力があるのも見どころ。『ウルトラセブン』の7話『狙われた街』の特撮セットも、下町の雑然とした景観を再現したものだが、ほとんど逆光で黒く潰れていて、下町の景観がどれだけミニチュアで精巧に作られているか分からない。しかし、『A』のシシゴランの回の特撮セットは、下町の雑然とした景観がミニチュアで精巧に再現されていることが画面上ではっきり確認でき、スタジオ自体も『セブン』より広いので迫力十分である。
石堂氏の作品では、『A』50話『東京大混乱!狂った信号』も興味深い。この回は、信号機が狂うことによって社会が壊れてしまう、という交通戦争時代の現代社会の弱点を指摘した作品だろう。
他にコミカルに人間社会を風刺した石堂作品を1つ紹介しよう。『ウルトラマンA』の16話『怪談・牛神男』はコミカルに人間社会を風刺したアンチテーゼ編。食用に殺された牛が人間に復讐する、という人間の社会への皮肉を、コミカルに描く。TACの吉村隊員は休暇をとり岡山の実家に帰るが、その際、高井といういかにも70年代したヒッピー(笑)風の男と知り合う(演じるは蟹江敬三)。吉村隊員の実家の近くには鼻ぐり塚という食用に殺された牛を供養する場所があった。高井は牛は人間に喰われるための生き物だから供養する必要はないといって鼻ぐり塚の鼻ぐりを盗んで腕に付けて遊んでいたが、やがて高井は牛の怨念とヤプールの力によって超獣カウラになってしまう。超獣カウラは町に出現し、人間を家畜の様に食べ始める。家畜は人間に喰われるための生き物だと思っている人間の価値観に、カウラは、逆に人間を家畜の様に食べることで挑戦する。
先に石堂氏は偏執的な人間の心理を描いた作品を多く手がけていると書いたが、『タロウ』の20話『びっくり!怪獣が降ってきた』は、そんな作品の一本だ。この作品はコミカルなサブタイトルとは裏腹に、精神に異常をきたした人間の心理を描いた異色の人間ドラマである。
信州に旅行にいった光太郎たちは、そこでお杉という女性に出会う。お杉は過去に自分の息子を病気でなくしてから心が荒廃してしまい、以来果てしなく千羽鶴を折り続ける日々を送っていた。そこへ渡り鳥怪獣フライングライドロンの子供が親からはぐれてお杉たちのいる村に落下する。お杉はフライングライドロンの子供に死んだ息子をダブらせ、光太郎に怪獣と戦わないように懇願する。
ゲストキャラのお杉は、劇中の描写を見る限り明らかに発狂しているが、劇中の台詞では「記憶喪失」ということになっている。これは、恐らく放送上の規制か何かによって、お杉を発狂した人物という設定に出来ず、建て前的に記憶喪失ということにせざるをえなかったのだろう。こういった放送コードすれすれの題材を扱うことすらあったというのは、第2期ウルトラシリーズおよび橋本洋二プロデュース作品の野心的な制作姿勢を象徴している。
この話では、虚ろな表情で家の中を徘徊しているお杉を見て健一が「気持ち悪いや!」というシーンがある。この台詞が『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編(『Air/まごころを君に』97年)のアスカの「気持ち悪い!」という台詞の原点だというのは考え過ぎだろうか。『タロウ』20話では健一が「気持ち悪いや!」というやいなや、姉が健一を叱るが、『エヴァ』完結編にもこういった配慮がほしかった。)。
この作品は、先に取り上げた『新マン』の『夜を蹴散らせ』や『許されざる命』という作品と同様、精神に異常をきたした人間の心理を描いている。『新マン』の『夜を蹴散らせ』や『許されざる命』が異常をきたした人間の心理のネガティブな面を描いていたのに対し、この『タロウ』の『びっくり!怪獣が降ってきた』は精神に異常をきたした人間を悲劇のヒロインとして描き、多分に同情的にえがいている。
とかく日本人は精神病の人間をそれだけで危険人物として捉えがちである。数年前の某テレビドラマによって起こった“冬彦さんブーム”などはそういった日本人の価値観を端的に表わしている。精神病の人間を全て危険として捉える日本人の根底にはそういった患者への蔑視感情があり、精神病の人間に同情する意見をただのアマノジャクの言い分であるかのように否定してしまう。確かに精神病の人間が悲惨な事件を引き起こすこともあが、精神病の人間への偏見は、神経症やうつ病の患者といった直接犯罪に結びつかないような患者にまでおよんでおり、こういう日本人の性質とは、精神病を病気として認知できない日本人の保守的、右傾的なスタンスを物語っているだろう。
石堂淑朗氏の描くところの病的な人間心理を描くドラマは、人間の異常な心理のネガティブな面を描いた作品であっても、病的な心理を抱く人間に対して常に同情的な視点も盛り込んでいる為、安易に精神病の人間を危険人物として捉えた作品にはなっていない。第二期ウルトラでの石堂作品は異常な心理を持つ人間をも、悲しい運命をたどった一人の弱い人間として描いている(近年石堂氏は逆のことをいっているらしいが…そうなると第二期ウルトラでのこういう部分は他のスタッフの意向なのだろうか??)。
『新マン』のレオゴン編のクライマックスの、PYGの『花・太陽・雨』が流れるシーンは怪獣レオゴンを造った科学者に対する同情的な視点が端的に現われたシーンだ。
石堂氏のウルトラの作品で、最後に筆者が割と気に入っている作品を一つ紹介しよう。
『新マン』の43話『魔神・月に吠える』は、MATの伊吹隊長が休暇をとった時に事件に巻き込まれるというストーリーで、普段の作品とは異なる状況でのドラマを描いている。主人公以外の、休暇中の防衛チームのメンバーが描かれるのはウルトラでは珍しく、本作以外では『ウルトラマンティガ』の実相寺昭雄監督作品『夢』などがある。この『新マン』の『魔神月に吠える』という作品では、MATの任務と家族との愛情との間で葛藤する隊長とその一家のドラマが描かれる。
MATの仕事で忙しい伊吹隊長は殆ど家に帰らない仕事人間だったが、ある日、回りの隊員たちの薦めで休暇をとり、家族と実家へ帰ることとなった。しかし侵略者グロテス星人は、隊長の妻子を人質にとり、MATの降伏を要求する。また、グロテス星人はMATが降伏しなければ怪獣コダイゴンを使って村に無差別攻撃をするともいう。伊吹隊長は妻子のことを諦め、グロテス星人と戦う様にMATに命令を下す。
この話で、伊吹隊長はMATの任務のことを“商売”という言葉で呼ぶことから、この話においてMATの任務は、地球防衛という大義名分ではなく、伊吹隊長の職業であることが強調されている。よってこの話は父親が家庭を顧みずに仕事を続けるという、日本の一般家庭の内情を皮肉った作品である。この話には伊吹隊長の娘が父と田舎に来たことが嬉しくてしょうがないのに、伊吹は娘と遊ばずに寝てしまう、というシーンがあり、このシーンのような光景は一般的な日本の家庭のどこにでもあるものではないか。この回は、仕事人間の日本人への皮肉がこめられた作品なのだろう。また、この回はグロテス星人がMATの降伏と引き替えに村を攻撃すると脅迫したため、本当に悪いのは星人なのに、村に遊びに来た隊長を村人が非難し始めるというシーンもある。このシーンは後の『レオ』のブニョの回のドラマの原形といえる。
この回に登場した怪獣コダイゴンは、筆者が子供のころは結構筆者の周囲では人気のある怪獣だった。コダイゴンは大映の大魔神をウルトラ怪獣の星人風にアレンジしたという感じのデザインである。大魔神が人間そのもののプロポーションだったのに対し、コダイゴンはやや人型のシルエットを崩して怪獣的になっている所がデザイン的により独創性を感じる。
第2期ウルトラは映像面でもさまざまな実験が行なわれたが、山際永三氏の全面参加やTBSヌーベルバーグと呼ばれた異色の演出家、真船禎氏の起用などは、そういった実験の一翼を担った。初期ウルトラは、実験的なアヴァンギャルドな演出をする監督は実相寺昭雄氏ぐらいしかおらず、実相寺氏も一本のシリーズにつき数本しか撮らないが、第2期ウルトラは山際永三氏がローテーションに入っていて沢山撮っていることや、山際氏、真船氏以外にも、特に助監督から昇格した監督に実験的な演出をする監督が多く(東条昭平氏、岡村精氏、菊地昭康氏など)、トータル的には初期ウルトラより実験的な本編演出が多く見られる。
ウルトラにおける真船禎氏の作品は、筆者としては『新マン』の11月の傑作群の1本『悪魔と天使の間に…』や『タロウ』のテンペラー星人前後編(33〜34話、脚本,佐々木守)、それに『レオ』の1話〜2話などがお気に入りだが、やはり白眉は真船禎氏が自ら脚本まで手がけた『エース』の23話『逆転!ゾフィ只今参上』(脚本、監督,真船禎)だろう。この回はサブタイでゾフィの登場を謳っていても、肝心のゾフィは一瞬しか登場しないという子供にして見ればサギ同然の内容。作品の内容は、修行僧のような老人に化けたヤプールが、環境汚染による自然破壊を暗示する様な台詞をいい、植木等の歌の変え歌を歌いながら子供をハーメルンの笛吹きのようにさらっていくという完全な不条理劇だった。「昔エルサレムではイエスキリストが生まれ、インドでは釈迦が生まれた。そして日本には親鸞聖人あり! 末世はまさに近づいておるぞ〜!!」とか「花は咲いたか?そうだ、花は死んでいる!花はとっくに死んでいるのだ!」とか、このヤプールの化けた老人の台詞はどれをとっても意味不明で実に不条理だ。
以前『宝島』(宝島社)でウルトラシリーズの特集があり(『泉麻人のウルトラ倶楽部』がやっていた時期)、この特集は初期ウルトラしか取り上げないという自分にとっては不満の残るものだった。この特集の記事で『初代マン』のダダの回(28話『人間標本5.6』)について『ストーリーも完全にダダイズムのストーリーだった』などと書かれていたが、真船氏によるこの『エース』の23話の方がよっぽどダダ的であり、これに比べたら『初代マン』のダダの回などはあまりダダ的ではなく正統派の侵略ものに過ぎない。
真船氏のラディカルな感性は、正統派の娯楽作品を演出した時にも表われる。真船氏の撮った『A』の5話『大蟻超獣対ウルトラ兄弟』は、正統派の娯楽編だが、この回において、超獣アリブンタの吐いた毒液で人間が溶解するシーンでは、本物の人骨を使用している。この時期の他の作品、特に東映の『仮面ライダー』『キカイダー』などの人骨が出てくるシーンは、どう見てもコントの小道具にした見えないいいかげんなカポック製の人骨が使われていた。しかし『エース』の5話は、本物の人骨が、しかもどアップで撮られている。この部分は、子供番組はおろか、大人向けの作品においてもあまり見られない挑発的な演出で、昨今なら恐らく放送コードすれすれではなかろうか。このシーンはリアリティーがある上に、なにかそれ以上の実験的精神を感じる。第2期ウルトラは、第1期、3期、平成ウルトラなど、他のどの時期のウルトラより残酷描写が多いが、この部分はいかにも70年代的な過激さがある。残酷描写が多い点は、ウルトラをただの子供番組では終わらせまいとする当時のスタッフのバイタリティーの表われであり、これも第2期ウルトラが実験的野心作であることを証明している。
再三、自分の文章で取り上げるが、『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)の監督、庵野秀明氏がこの時期のウルトラのファンであることは有名だが、思えば『エヴァンゲリオン』自体も、第二期ウルトラ的な人間関係の歪みをテーマに扱った作品であった。
『新世紀エヴァンゲリオン』では、辛い現実から逃避してはいけない、というテーマが作品中に多く見受けられた。また、庵野氏の最新作『式日』でも、この現実逃避との決別というテーマが、特にクライマックス近くの「監督」と「彼女」とのやりとりにおいて、かなり明確に描かれている。「彼女」は母親を嫌っており、「監督」に母親に会うことを勧められた「彼女」は、「監督」に「いなくなっちゃえ!」と言い放ち走り去って行く。だが、それを「監督」は「現実からにげるな!」「なんでも人のせいにして、自分が悪いんじゃないか!」と呼び止めるのだ。
そして、こういった現実逃避をテーマとして扱った作品は第二期ウルトラにもある。意外と思われる作品をこれから例にだすが、『タロウ』の43話『怪獣を塩漬にしろ!』がそれである。
この回は、野菜を食べるモットクレロンのキャラクターの強烈さばかりが取りただされるが、本来はゲストの少年が母を亡くし、その少年がそういう辛い現実から逃避したくて、「母親は星になっている」という幻想にのめり込んでしまうというストーリーだ。モットクレロンを偶然ひろった少年は、モットクレロンを育てる。モットクレロンは宇宙怪獣である。なので育てて大きくすれば、自分を宇宙につれていってくれて、星になった母のもとに行けると彼は信じこみはじめるのだ。モットクレロンは成長し暴れはじめる。
少年の現実逃避願望が、怪獣を育ててしまう、というこの作品は、まさに『エヴァ』と共通する現実逃避を否定するテーマの作品なのだ。この話で面白いのは、この少年がモットクレロンを拾う前は、「母親は星になっている」という事をさおりに言われると、それを「非科学的だ」と否定している点だ。この部分は少年の「現代っ子」らしさを表している。しかし母親が星になっていることを否定しているはずの少年は、モットクレロンという超現実的な存在に出会うことで、死んだ人間が星になるということが非科学的であると分かっていながら、それを信じずにはいられなくなってしまう。ここには少年の悲しみの重さが表現されている(『エヴァ』とモットクレロンが接点を持つなんて、夢にも思いませんでしたか?)。
このように、様々な魅力をもつ第二期ウルトラだが、第二期ウルトラは、マニア出身の一部の評論家たちが、20年前、『宇宙戦艦ヤマト』がヒットした時のアニメブームの時期に商業誌で批判し、この批判意見は多くのひとに読まれてしまった。この時期はマニア以外の人も特撮やアニメに感心を持っていた時期なので、彼ら評論家の片寄った意見が、マニア以外の人にも浸透してしまったようで、今だに一部に根強く定着しているようで残念である。
こういう意見を述べると「既製の出版物の意見に、反発、反論するのはみっともないのでよくない」という意見のお持ちの方に批判される場合もある。しかし我々市民が、こういったマスコミから供給される情報を疑うことは、実は大事なことなのだ。
市民がメディアを選択、批評する能力を「メディアリテラシー」という。この能力に欠ける人は、マスコミが情報操作を行った場合、そういうものに簡単に扇動されるようになってしまう危険があるだろう。『ディレクターズマガジン』(クリーク・アンド・リバー社)2000年4月号での、テレ東のアニメ番組のプロデューサー岩田圭介氏のインタビューでは、自身が担当した番組には、放送後に、視聴者から台詞一言についても即座にクレームが付き、このことを岩田氏は、「日本にメディアリテラシーが定着した」と評価している。このインタビューにおける「岩田氏の担当番組」を「第二期ウルトラを批判した既製の出版物」と置き換え、「視聴者からのクレーム」を「自分の反論」に置き換えて考えてみて欲しい。
なので、「既製の出版物の意見に反発、反論するのはよくない」とする意見は、この「メディアリテラシー」という概念への認識にやや欠けているのではないだろうか。
私達は、マスコミから供給される情報をうのみにしてはならず、第二期ウルトラについて批判ばかりのる傾向がある商業誌における記述についても、つねに批評的に対決するという姿勢を忘れてはいけないだろう。批判と肯定の意見が常に均等に露出していれば、まだいいのだが…。〈了〉